三章「鬼」
ミヤコの右京、平民の居住区域に言ノ葉遣いの二人は屋敷を貸し与えられ、二日間を休息と準備期間として過ごした。
あまりミヤコの民と関わらないようにと言われていたため、茶屋へ行ったり、商業地区の広場で大道芸を見物したりしただけである。内裏には近づくのも禁じられ、塀に囲まれた彼の地は、はるか遠くに望んだだけだ。
やまとは慣れないミヤコの暮らしで思った。やはりここも、人の暮らすところだと。彼が見たのはミヤコの住民のなかでも貧しい者の暮らしであり、飢饉によって飢える者も多い。
だが、そんな中でも子供たちの笑顔は明るく、日々を懸命に生きる人の姿は活力に満ちていた。ここで自分も田畑を耕したり、あるいは本当に拝み屋にでもなって暮らすのも良いか、などと考えてしまう。
だが、今はまだそういう訳にはいかない。自分にはやるべき事、使命があるのだ。
秋が深まり、冬が近づくにつれて朝夕の冷え込みが厳しくなってきている。
「今夜、ですね」
やまとが言う。昼下がり、屋敷の広間にて。
「ああ。そりゃあいいんだがよ……」
おろちは、畳の上に広げられた着物を見て、ため息をついた。
「……なんでだ?」
自分の前に姿勢よく座る、水無藻刀兼に問う。
「なんで、俺たちが女装しなきゃなんねえ?」
畳の上に広げられた、女ものの着物と化粧道具。
「尼寺という所は、男性が入ってはいけないのだ」
諭すように刀兼は言う。
「知ってるよ、そんな事ぁ! ……そうじゃなくて、なんで俺たちが尼寺に侵入しなけりゃならねえのか、っつう話だよ!」
「兄様はともかく」
ゆうが一本指を立てて言う。
「おろちの女装は、ぞっとしません」
「俺だってしねえよ! 言われるまでもなくよ! ……なあ刀兼、なんとかその姫さんに出てきてもらう事ぁ、できねえのか? その、山寺からちょこっとだけ降りてきてもらってだな……」
検非違使庁長官、水無藻刀身から依頼されたのは、尼寺に居る女性の呪いを祓うことであった。
「尼僧、なのですか? その方は」
やまとは問うた。
「……正確には、違う。姫様本人は出家を望まれたが、内裏側がそれをお許しにならなかったのだ。寺は身柄を引き取り、庵を立ててお住みいただいているが出家を受け入れてはいない。半俗の状態、というのか……。要は宙ぶらりなのだ」
刀身は言う。
「なぜ、内裏は出家をお許しにならないのです?」
やまとの質問に、
「姫……咲良の前様は、次期ミカド候補のお一人なのだ」
最初のミカド、このクニをつくった天帝は神であるが、その子孫は神の血を引くものの、代を重ねてその血は薄まり、今やほとんど人間だ。寿命もあれば病いにもなる。
そして、呪いをかけられてしまう事も。
「十名以上いらっしゃるうちのお一人であるし、家柄から言ってミカドに即位される可能性は高くないのだが」
それでも姫を擁立し、見事即位した暁には甘い汁を吸おうと目論んでいる者が、やはり居るわけか。自分の手駒をなくすものかと寺に圧力をかけ、出家を差し止めているという状況なのだろう。
それであれば、ミヤコに仇なす大怨霊に呪われているなどという不祥事は、たとえ噂であれ避けたいはずだ。
「刀兼、お前はこれより一時的に隊長の任を離れて二人と行動を共にせよ。姫の身辺警護が任務だ。極秘を要する為、単独での任務とする。何か質問は」
刀身は検非違使庁の長官として、刀兼に命じた。
「いえ、ありません。拝命致します」
「おろちは二の次で構いませぬが」
ゆうが刀兼のすぐ横に浮かんで言う。
「兄様は命に代えても、お護りなさい。それがあなたの勤め」
思わず横を向き、正面からゆうと向き合う。刀兼にとって、初めて見るゆうの顔だ。
「……お主が、ゆうか。もっと年配かと思っていたが」
失礼な、とゆうは腕を組んで不満を表わす。
「ゆうは、兄様の可愛い妹! よって、このようにいたいけな娘なのです!」
「……何を言っているのか、よくわからぬが……。お主も一応、この任務の一員ということになるな」
それは、と刀身が目を見開いた。
「何じゃ、物の怪か? 刀兼、お前……」
「父上。この者はゆうといい、やまとの妹なのだそうです」
「妹……? どういうことだ」
「拙者にもよく、わかりませぬが……。ずっと二人と一緒にいるようです」
返事に困った刀兼が、おろちを見る。
おろちは肩をすくめ、自分にもよくわからん、という身振りをする。
「長官様にも見えるのですね、ゆうが……。 では我らは皆、仲間です」
やまとが晴れ晴れとした表情で言う。
「……ま、そういう事なんで。あれが見えるのは仲間の印、とでも思ってもらえりゃ……。一度見えちまうと、うるさくて仕様がないですがね」
おろち、失礼です! などとゆうが室内を飛び回り抗議する。それを見て、一同は思わず笑顔になってしまった。
おろちのそれは、苦笑であったが。
……このような陽気な物の怪もいるのか。刀兼は思った。
幼少より、彼はこの世のものでないモノが視えていた。
道端ですすり泣く子供を気にかけて近づいてみたら、大きな口しかない顔をあげて頭から喰われそうになったり、自宅の廊下にじっとこちらを睨んでいる見知らぬ女性が佇んでいたり、川で魚釣りをしていた時、いきなり水の中から水かきのある腕が伸びてきて引きずり込まれそうになったり……と、嫌な思い出ばかりである。それが他の人には見えもしないというのだから、不公平と感じたものだった。
父は刀兼のそうした体質を知り、特に厳しく剣術を教えて鍛えた。
剣の技術の上達よりも、鍛錬を通して精神的に強くなって欲しいと思ったのだ。そうでなければ、息子はあやかしに殺されるかも知れない。
もし、自分が検非違使庁の人間でなければ影光寮に預けたいくらいだが、そうもいかない。水無藻家は代々、検非違使庁の上級役人を勤めてきた家柄なのだ。
「良いか、刀兼。剣術は拙者が教えてやる。現世の悪は、その剣で正すのだ。そしてお前は、この世の外のモノが視える。それは、選ばれた人間にしかできない事だ。
誇りに思うが良い。鍛えた剣で現世の、鍛えた心で人外の悪を討つ。そんな剣士に、検非違使になったら……」
と、幼い刀兼の肩に手を置き、刀身は慈愛に満ちた目で息子に告げた。
「お前は、ほんとうに強くなれる。この父よりも遥かに」
父の言葉に刀兼は目を輝かせ、初めて自分の『体質』を誇ることができた。
「……だからよぉ、寺の中じゃなけりゃいいんだろ? ちょっと出てきてもらえよ」
何とか女装を避けようとおろちは言う。
「無理だな。姫様は一歩も庵からお出でにならぬ」
「……なんでだ? それも呪いか」
「いいや。姫様本人が決して出ようとしない。人にも会いたがらないし、それに」
刀兼は言葉を切った。言って良いものかどうか、迷っているらしい。
「……これは、身の回りの世話をしている女どもの言葉だが、姫はこのまま死んでしまいたい、と日々もらしているそうだ」
おろちは少しだけ興味を惹かれた。貴人という連中に良い感情はないが……死にたがっている姫様は、一体何が辛くて、苦しくて、命を捨てようとしているのか。それに、そもそも出家した理由はなんなのか。
「今夜か。まあ、仕方ねえか」
覚悟を決めたおろちの顔を見て、ゆうが口から何かを吐き出すふりをした。
その日の夜。
わずかな月明かりを頼りに、暗い山道を行く三人。
おろち、やまと、刀兼である。隠密行動なので他の者はいない。おろちとやまとは女性物の着物を着て女性のように髪を整え、化粧もしている。なれない衣装で動きづらいため、盗賊や獣などの万一の危険を考慮して、刀兼が護衛として従っている。
森の中の細道。周囲からは野生動物のたてる物音や、鳥の鳴き声が時折聞こえるくらいで、あとは三人の足音だけが響くのみ。真夜中の登山である。
「……なあ。ひょっとしたら、なんだが」
おろちが口を開く。
「なるべく、しゃべるな。声で男だとわかってしまう」
刀兼が声を潜めて注意する。
「……いや、誰にだ。誰がこの姿を見るんだよ。鳥と獣くらいしか居ねえぞこんな山道!」
おろちの声が大きくなる。
「馬鹿者、大声を出すな!」
「馬鹿はどっちだ! 明らかに意味ねえじゃねえか、こんな格好!」
ばさばさ、とどこかで鳥の羽音が聞こえた。
「念には念を入れよとの長官からのお達しだ。事は非常に重要なのだ」
暗くてよく見えないが、いつものクソ真面目な顔で言ってるんだろう、とおろちはため息をついた。まったく、融通が利かないにも程がある……。
「あれでしょうか」
山道の先に小さな建物が見えた。暗闇の中で息を潜めるように、ひっそりと佇んでいる。
「みてえだな。さあ、呪いのお姫様とご対面だ」
おろちが、紅のひかれた唇をゆがめて笑う。
「おろち、不謹慎な物の言い方は慎め」
刀兼が言う。
「うるせえ、お前も女装して夜の山道歩いてみろ。不謹慎なことくれえ言いたくならあ」
「……そういうものか」
それは、ミヤコの姫が住むにはあまりにも質素な、もっと言ってしまえば粗末な小屋であった。ここで出家を望みながらも叶えられず、中途半端な立場に置かれている貴族女性が二人の従者と共に暮らしているのだ。
山寺はこの山のもっと上にあり、正式に出家したらそちらで寝起きするのだが、このような場所を与えられているのが、今の彼女の立場を表している。
「検非違使庁より参りました」
小屋の前で告げると、すうっと扉が開いた。
三人は目線を交わし、無言で中へ入る。
やっぱり女装必要ねえじゃねえか、刀兼も入るのかよ、とおろちは思ったが口には出さなかった。その場の雰囲気というものを考えたのである。
「扉を、お閉めください」
暗がりからの女性の声に従い、一番後ろにいたやまとが小屋の入口を閉めた。
火打石が火花を発し、明かりがつけられた。あまり質の良くないあぶらを使っているらしい。すこし、いやな臭いがした。
ほとんど装飾のない、粗末な室内。六人が入るには明らかに狭すぎる。三人は土間に敷かれたゴザに座る。
二人の女性が板間に控えていた。その奥に几帳が立てられている。その影に、咲良の前という姫が居るらしい。
「検非違使庁治安部隊三番隊隊長、水無藻刀兼と申します。言ノ葉遣いの二人を連れて参りました」
平伏して言う。二人もそれに倣う。
「……お帰りください」
几帳の向こうから女性の声がした。落ち着いているがまだ若い。
「わたしは、このままここで生涯を終えたいのです。呪いがそれを早めてくれるのなら、むしろその方が良いのです」
わたし、などという一人称は貴人が使うものではない。きっと、自分は出家して貴族ではないという意思表明なのであろう。
「姫様……またそのような」
従者のひとりがつぶやくように言う。おろちは頭をあげて不満丸出しの顔をした。
「これだから、貴人様ってやつは……」
従者の二人が無礼な、と眉をあげる。
「何のためにこんな」
と、手を広げて女物の着物を誇示する。
「みっともねえ格好してこんな山の中まで来たと思ってるんで? ……まあ、女装に関してはこいつと親父さんの頭の硬さのせいだが」
よっこいせ、と立ち上がる。
「貴様、よさぬか! 姫様の御前で」
刀兼が止めようとするが、そのままおろちは板間にあがる。
「もう出家したんなら、姫じゃねえだろ。拝み屋が拝みに来たんだから呪われてる奴ぁ、おとなしく拝まれりゃいいんだよ」
「無礼な! 控えなさい!」
従者ふたりの静止もきかず、おろちは几帳を取り払う。
「…………!」
驚きに目を見張る少女の姿。修行僧の質素な着物、頭に尼僧の頭巾をかぶっている。年の頃は、やまと達より少し上くらいか。暗闇に長く居た瞳を少し眩しそうに細めている。
肌が抜けるように白い。貴人としての気品と美しさを感じさせる容貌に、尼僧の格好がまるで似合っていない。
「おろち! 不敬であるぞ」
「うるせえよ。俺たちゃそのために来たんだろうが。
……姫さま、あんたの呪いを解くのが俺たちの仕事だ。悪ぃが、あんたがなんと言おうと最後までやらせてもらうぜ」
上から見下ろし、断定的に言う。
「……わたしの呪い、ですか。解けるものなのでしょうか」
顔を背け、言う。
「俺たちじゃあ、力不足だと?」
おろちの言葉に、姫はうつむく。
「……いいえ。そうではなく、わたしは生まれながらに呪われているのです。父は誰なのか知れませぬ。母は子を産んだことを隠して他家へ嫁ぎました。わたしは祖父の子ということにされましたが、ほとんど会おうともせずに従者任せ。
わたしは、生まれてからずっと一人でした。 ……知り合った方は皆、わたしの正体を知ると逃げていくのです」
咲良の前は自分のことをまるで化物のように言うが、いくら父親が知れないとはいえ、目の前の彼女は尼僧の衣装であるが気品ある、美しい女性にしか見えなかった。
「姫様……」
従者の一人が言う。
「ああ……あけぼの、貴女は例外ね。わたしが出家した時もついて来てくれた。でも、だからこそ心配なのです。貴女にも不幸が訪れないかと……」
いえ、わたくしの事など……と、あけぼのと呼ばれた従者はうつむく。
僭越ながらと、もう一人の従者が口を開く。
「姫様とかつて心を通わせた殿方が不審な最期を遂げられた事があり、それ以来人を近寄らせないようにしていらっしゃるそうです。ですが、それは姫様のせいでは……」
彼女の言葉をあけぼのが遮る。
「よしなさい夕顔! 姫様の過去を軽々しく」
もう一人の従者は夕顔というらしい。
「いえ、姫様がご自分では言いにくいのではないかと」
夕顔は悪びれもせずに言った。
「姫様がおっしゃらないのなら、わたくし達にそれを口にする権利はございません!」
あけぼのの口調が厳しくなる。二人とも従者とはいえ、その立ち位置にはかなりの隔たりがあるようだ。
「そうでございますか。わたくしは寺から派遣されており、姫様ご本人の事にはやや疎うございますゆえ」
「何を……!」
あけぼのが気色ばんだ。
「おいおい。そっちでばかり話を進めねえでくれ。俺たちゃ姫様の呪いを解きに来たんだ。正体とやらに興味もねえし、嫌なこと思い出させるつもりもねえよ」
おろちの言葉に、咲良の前は顔をあげた。
「……おろち、と言いましたね」
彼女は正面からおろちを見つめた。美しいが、どこか悲壮な色の瞳だ。
「その格好では落ち着かないでしょう。着替えたら、如何です」
いきなりの無礼を働いた得体の知れない者を相手に、気遣いの言葉をかけた。いやそれとも単に見苦しいだけかもしれないが。
「……刀兼、着替え持ってるか?」
「いや。そんな準備はない」
「そうか。 ……姫さま、すまねえ。気味が悪いかもしれんが勘弁してくれ」
ごしごしと、乱暴に自分の顔の化粧を拭う。
そちらの、と咲良の前はやまとに目をやる。
「貴女も、拝み屋なのですか」
まだ口を開かず、じっと座っていたやまとを女性と勘違いしたようだ。
「はい。やまと、と申します。僕も刀兼のせいでこんな格好をしていますが」
「まあ、殿方でしたの」
おろちの中で、目の前の姫の印象が変わってきた。いきなり几帳をどけられ、もっと慌てるか、怒るか泣き出すかと思っていたのだが、目の前の現実を受け入れ、きちんと対処をする、この少女は……ちゃんと自分を持って生きているのだと感じた。
それが、自分は生まれつき呪われていて、周りを不幸にすると、だから死んでしまいたいと本気で思っている。一体何があるというのだ。
よいしょ、と言いながら姫の真正面に堂々とあぐらをかく。
「姫さま、無礼なことをしてすまねえ。この通り、田舎者の粗忽者だ。だがな、あんたがどれだけ辛いものを背負ってるのか知らねえが、死んだら悲しむ人が、きっと居るはずだ。そばに居なくても母上とか、そっちのあけぼのさんとかよ。その人達のためにも、自分から死を選んじゃいけねえ。何より、人間は何があっても生きようとするべきだ。生きたくても生きられなかった、途中で命を奪われちまった人のためにもな」
おろちが誰のことを言っているのか、やまとにはわからなかったが何故か、その通りだと思った。
「……これを見ても、そう思いますか」
咲良の前は静かに、頭巾を脱いだ。
艶のある黒髪が現れた。出家の意思表示なのだろう、短く切られ、ゆうのような童女の髪型になっている。その前頭部に、小ぶりな一本の角が生えていた。
「鬼子なのです。わたしは」
従者は目を背け、辛そうな表情を浮かべた。
しん、と真夜中の小屋に沈黙が流れた。
「……いや、あれは出家された女性の髪型なのだ。ゆうと同じであるが、あの方は子供ではない」
やまとの独り言、と女性三人には聞こえる言葉に、咲良の前は、え? と声を漏らす。
「ああ、すまねえ姫さま。実はここにはもう一人、いるんだ。俺たちにしか見えねぇんだが、とびきりうるせえのがね」
「それは……ゆうれい、というものですか?」
自分の角のことが、まるきり無視された格好になった咲良の前が問う。
「いや、なんつうか……。うるせえ、ってんだ。ちょっと黙ってろ。わかってるよ、自分が気色悪いのはよ! ……ああ、すみませんね。まあ、ざしきわらしみてえなもんです」
おろちの言葉にやまとと刀兼は苦笑を浮かべる。
「座敷わらしではありません! ゆうは兄様の可愛い妹です! それ以上でも以下でも以外でもないのです!」
ゆうは、三人にしか聞こえない大声で主張した。
わかったわかった、とおろちは打ち切る。
「さて……じゃあ、拝み屋に、仕事をさせてもらえるかい? 姫さま」
立ち上がるおろち。一番上の着物を脱ぎ、無地の下衣だけのだらしない格好だが、女装姿よりはましになった。髪もいつもどおり、いい加減にくくった。
自分の角を見てもまるで何でもないように接してくる相手に、咲良の前は拍子抜けしたような格好になってしまい、それを受け入れた。
「ええ……。こんなわたしでも、生きるべきだと言うのなら」
「当然だ」
それでは、看てくださいと彼女は自分の着物に手をかけた。慌てて従者が駆け寄り、後ろを向いた着物の背中を少し、ずらす。
白く、細い肩が現れ、肩甲骨のあたりまで肌を晒した時、着物の影から、更に深い闇が溢れ出してきた。
「な……、これは?」
真っ黒い影は背中から二つに分かれて飛び出してきて、翼を広げるように大きく伸びた。それはまるで、彼女の背中から黒い蝙蝠のような羽が生えたように見えた。
「これが、呪いですか」
やまとが目を見張る。
これは生まれつきではないのですか、という、ゆうの言葉は本人には聞こえない。
「日に日に、大きくなっています。そのうちに、この影がわたしを呑み込んでしまうのではないかと」
咲良の前は暗い目で言う。
「姫様……」
従者が着物を直そうとするのを、やまとが止めた。
「待ってください。まず、その影が何なのか調べてみます」
懐から札を取り出す。そこには『明』の言ノ葉が込められている。
「やまと、危険かも知れぬ。これを」
刀兼が木刀を手渡す。
「ありがとう。 ……おろち、いいでしょうか?」
「ああ。お前を信じるぜ。いざという時には、何とかしてやらぁ」
うなずき、札を手に姫の背中へ近づく。
『言ノ葉など必要ない。我は鬼。この者の心の闇から生まれし鬼よ』
突然、声が響いた。頭の中に直接届くような声。周りを窺うと、その場の全員が……ゆうも含めて、その声を聴いているようだった。
「おいおい、随分と親切だな。だがあいにく俺ぁ疑い深くてな、鬼だと言われて、はいそうですかと信じるほど素直じゃねえんだよ。おめえが鬼だってんなら姿あらわしやがれ! 獣みてえに毛むくじゃらのおっかねえ姿をよ!」
おろちが相手を挑発する。
『よかろう』
声は応え、姫の背中の影が見る間に大きくなっていく。
それは屋根を打ち破り、山の木々よりも大きな鬼の姿となった。小屋は簡単に崩壊し、木片の集まりと化した。
鬼が完全に少女の体から離れた。これは僥倖だと、おろちはほくそ笑む。
「随分と素直だなおい! ……刀兼! 女たちを頼む!」
「心得た!」
刀兼は三人を鬼から遠ざけ、大きな木のうしろへと導いた。
「でかけりゃいい、ってもんじゃねえぜ!」
おろちは宙に指を走らせる。
『撃』
文字が次々と青白く輝き、鬼の足や腹に当たっていく。
「効かねえか!」
おろちは続いて、自分の足元に指を走らせる。
『跳』
ざあっ、と人間の限界を超えた高さまで飛び上がった。周りの木々も越え、鬼の顔が見える高さまで至る。
子供の背丈ほどもある巨大な顔が、まさに鬼の形相で睨みつけてくる。目は赤く光り、らんらんと燃えているようだ。
「喰らえ!」
『撃』
四つ続けて編み、まとめて鬼の顔へ投げつけるようにする。
大きな顔の真ん中、鼻柱にぶつかり、爆発のような衝撃を与えた。着地し、上を見上げる。
「どうだ?」
おろちへ、巨大な手が伸びる。ばきばき、と木の枝を折りながら鬼の顔が現れる。無傷のようだ。
「くそっ! ……どうだやまと、いけるか?」
おろちの先制攻撃は、相手の出方を見るのと、やまとが言ノ葉を編む時間を稼ぐためのものだ。手傷を負わせられればなお良いが、そうでなくとも構わない。
「はい!」
やまとは木刀を構えた。もともと、この剣には今夜のために『撃』の言ノ葉を宿らせてあった。そこに、もうひとつの言ノ葉を重ねたのだ。短時間なら、複数の言ノ葉はひとつのモノの上に存在し、より強力な効果を発揮することができる。
『斬』 『撃』
二つの文字が刀身で輝く。やまとは迷わず鬼に向かって剣を振るった。
青白い輝きが鬼の腹の辺りを切り裂いた。 ……と、思ったが。
「何!」
傷一つついていない。鬼の体は全くの無傷だ。
「言ノ葉が……効かないのか!」
信じがたいことだが、鬼はまったく手傷を負っていない。
「馬鹿な……」
二人の言ノ葉遣いに動揺が走る。
『言ったはずだぞ、我はその娘より生まれし鬼。本体を攻められなければ傷ひとつ、つかぬのだ!』
ははははは、と高笑いをする。巨大な鬼の笑い声が深夜の山中に響き渡る。
『それでは次は、こちらから行くぞ』
鬼が大木のような腕を振るい、二人を襲った。慌てて避けるが、風圧だけで体勢を崩しかける。あんな攻撃が当たったら、どうなることか……。
「やまと、とりあえず相手の手の届かないところまで後退だ!」
「は、はい!」
たまらず鬼から距離を取る。
「言ノ葉遣い!」
咲良の前が二人に駆け寄ってくる。あわてて刀兼と従者二人も追ってくる。
「わたしを……、殺しなさい! そうすればあの鬼は」
真剣そのものの表情。後ろの従者は控えめに反対の意を唱えるが、声に力がない。
姫の頭に生えた一本の角に、どうしても目が行ってしまう。
鬼子……。咲良の前は自分でそう言った。彼女が鬼であるなら、鬼を生み出す事も、あるのか?
やまとは、思わずそう考えてしまった。
「このままでは山を降り人里を襲うでしょう! そうなれば、罪のない人々が命を落とすことになります。それは、わたしが殺したのと同じこと!
……お願いです。わたしを人殺しにさせないで。そのために、あなた達に頼むのは筋違いかもしれませぬが……わたしは人ではない、鬼です。どうか気に病まずに」
真剣そのものの表情だった。彼女は今、心から思っているのだ。自分など居なくなれば良い、それが誰かの命を救う事になるのなら、むしろ幸いだと。
「おいおい、何言ってやがる。そんなに優しい鬼なら退治する必要なんてねえ。退治されるのは、ああいう凶暴なやつ、って相場は決まってんだ!」
おろちは叫ぶように言う。そして、なあ? と、やまとに同意を求める。
だが、やまとはうつむき、何も答えない。
『どうした? その娘を殺せば我も消える。それこそがその者の望みよ。そのために、我は生み出されたのだ』
再び巨大な鬼が頭に直接語りかけてくる。
……そうなのか? 確かに、姫は死にたがっている。そのために、誰かに殺してもらうために……?
やまとの心の中に激しい迷いが生じた。
彼女を、殺すべきなのか? それがただしい事……?
言ノ葉が効かない以上、自分たちに鬼を止める術はない。このままでは山を降りてミヤコを襲うかもしれない……ああ、あんなに大きな門をつくるから。こんな巨体でも容易く入れてしまうではないか……。
思考が空回り、埒もない事を考え始めてしまったやまと。
「何やってんだ! 鬼の言うことなんざ真に受ける馬鹿がいるか!」
おろちが、呆然と立ちすくむやまとを怒鳴りつける。
「しっかりしろ! まだ言ノ葉が効かねえと決まったわけじゃねえし……もし効かなかったとしても、何か手はあるはずだ」
昔の記憶をなくしているやまとにとって、自分が言ノ葉遣いである、というのは唯一の拠り所である。その自信をなくした彼は、自分を見失いかけていた。
やはり、やまとは不安定だ。
感情の一部や、過去の記憶をなくした少年は、人間として不完全なのだ。おろちは、憐憫とも後悔ともつかぬ気持ちで、そう思った。
おおおおおお! という、ときの声が響いた。水無藻刀兼が抜刀し、鬼へ突貫していく。
鋭い気合とともに、左の腿あたりへ刀を振るう。鬼は巨大な腕を振り回し、刀兼を吹き飛ばした。大きな木の幹に背中からぶつかり、苦しげな声をあげる。
「刀兼! 大丈夫か!」
おろちの言葉に応え、刀を握った右腕をあげ、無事を伝える。その口元は、なぜか不敵な笑みを浮かべていた。
「ああ、見切ったぞ!」
刀兼は、先程から鬼に対して不自然なものを感じ取っていた。これまでにいくつもの怪異を視てきた彼にとって、目の前の巨大な鬼はどこか『視え方』がおかしかったのだ。
剣で現世の、心で人外の悪を断つ。それが水無藻刀兼という剣士の使命だ。
「……ゆう! どこに居る!」
刀兼が呼びかけると、
「何です、けびいし?」
座敷わらしもどきが姿を現す。刀兼は声を潜め、自分の見解を伝える。
「あの鬼は、おかしい。明らかに手応えがない……おそらくは幻術の類だ。どこかに幻をつくり出している本体がいるはずだ。それを探してくれ」
「本体は、その角付きの女ではないのですか?」
ゆうが、聞こえないと思ってひどい事を言う。
「ゆう、頼む! 刀兼の言うことをきいてくれ」
察したやまとも声をあげる。表情に生気が戻っていた。
「……わかりました。兄様のためなら」
すうっ、と舞い上がり、木々よりも鬼の頭よりも高くへ。その姿はやまと達三人以外には見えない。
「あんな所に……。おや、二匹いますね」
急降下したゆうは、咲良の前たち三人の周りをぶんぶんと飛び回る。調べを終え、素早く結果を伝える。やまと、おろち、刀兼の視線が一瞬交錯し、そして互いの役割を理解した。
「仕方なし。咲良の前様、お命頂戴する!」
刀兼が姫に刃を向ける。
「よせ、刀兼! 彼女を殺すな!」
おろちが駆け寄る。走りながら言ノ葉を素早く編む。
「はぁぁっ!」
気合とともに振り下ろした刀は、姫のすぐ後ろに居た従者の一人を深々と切り裂いた。
夕顔という、寺から派遣された従者だ。
「あらぁ?」
肩から胸の下あたりまで切り裂かれたのに、彼女は平気そうな表情を浮かべた。
「なんで、わかったの?」
夕顔の姿は、ぼうとした霧のように薄まり、ふうっと消えた。するとそこには手のひらに乗りそうなくらい小さな、羽の生えた娘が浮かんでいた。背中の羽を動かし、まるでとんぼのように宙に浮いている。見たこともない素材の、丈が短く光沢のある華やかな着物を着ていた。
おろちは言ノ葉を次々と小さな人影に向けて投げつける。
『攻』 『攻』 『攻』
「きゃあ、こわいこわい」
羽根付きの小さな娘はふざけた悲鳴をあげながら攻撃を避ける。紫がかった青色の、不思議な髪の色。小さいだけでなく、見た目も人のようで人でない。
やまとは、先ほど遣いかけていた札を取り出し、『もう一匹が隠れているあたり』とゆうが指差す方へかざした。
『明』
「大いなる和のもとに命ずる! 真の鬼よ、その正体を明かせ!」
すると大木の陰に朧げな人影が、ぼうと浮かんだ。
「…………」
人影らしきモノは、無言で逃げ去った。
「あらあ」
宙に浮かぶ小さな娘が楽しげな声をあげる。
「隠形鬼の姿を見るなんて、何百年ぶりかしら? 言ノ葉ってのは侮れないのねえ」
……いんぎょうき? 今の人影らしきものは、やはり鬼か。小さな娘は続ける。
「敬意を表するわぁ、言ノ葉遣い達。 ……それと、そこの剣術遣い。よくあたし達の事がわかったわねぇ。あたしは風鬼。ミヤコに大いなる災いをもたらすモノよ。よろしくねぇ」
器用にも、空中に浮かんだまま正座をし、三つ指をついて頭を下げた。
「なめやがって! この小人が!」
おろちが攻撃の言ノ葉を書きなぐる。風鬼は簡単にかわしてしまう。
「なめてんのはどっちよ。そんないい加減な言霊にやられる風鬼ちゃんじゃないっつーの。四鬼あなどらないで頂戴」
「しき……?」
あら、つい余計な情報与えちゃったあ、と口をおさえる風鬼。
「それじゃ、また会いましょうねえ」
さっ、と姿がかき消えた。まさしく、風のように。
「な……」
おろちが、木々の隙間から見える夜空を見上げて声をあげる。
「何だったんだ……?」
「姫様!」
あけぼのが叫ぶ。咲良の前は顔色を失い、その場に倒れていた。
「……大丈夫、気を失っているだけだ」
刀兼は彼女の様子を確かめ、何かを探すように辺りを見回した。
見ると、先ほど壊されたはずの小屋は無事に建っており、鬼がいくつもへし折ったはずの木々も無事だった。刀兼は小屋の中へ入っていく。
「本当に、幻術だったのですね」
やまとが、信じられないという顔で言う。初めて幻術遣いを相手にした。
「ああ。多分二人ひと組の合わせ技だ」
おろちが言う。彼にしても、ここまでのものを目にしたのは初めてだ。
隠形鬼が物陰に潜み、巨大な鬼の幻を作っていた。そして、従者に化けていた風鬼が、幻の鬼の動きに合わせて風を起こして、あたかも巨大な鬼が攻撃しているように見せかけていたのだろう。
「しかし一体、なんのためだ……? あんな事しなくても俺たちが来る前に姫を殺しちまうことなんざ、簡単だったろうに」
相変わらず不謹慎だな、と小屋から戻った刀兼が言う。手には頭巾が握られている。気を失い、従者に抱えられている彼女の頭に戻してやる。
「だが確かに……。我々に手を下させたかったのか? ……わからぬな」
「まあ、わからねえことはいくら考えてもわからねえ。とりあえず帰って飯でも喰おうぜ。この格好もどうにかしてぇしよ」
大いに賛成です! とゆうは飛び回る。
「では、二人は戻って長官に報告してくれ。拙者はこのまま姫の警護に就く」
「おお、そうか。そうだな、貴人の警護は検非違使の仕事だ。しっかりと務めなくちゃあ、ならねえよな」
何故か強調するようにおろちが言う。にんまり、とした笑みを浮かべながら。
「言ってたよなあ? 尼寺には男は入れねえって」
自分が着ていた女物の着物を差し出す。
「もうすぐ夜も明けるし、重大なお役目だ。万一のことがあっちゃあいけねえ。心配すんな、ちゃんと化粧道具も持ってきてるからよ」
そうして、検非違使庁の若き隊長は女の姿にさせられ、それから半日以上も過ごしたのだった。