二章「ミヤコ」
はるかな昔。神は天より降り、地上に住む人間に文化や技術を伝え、その発展を爆発的に推し進めた。それまで獣に近い生活をしていた人々は、外敵から身を守り種を繁栄させる様々な知恵を与えられ、その数を増やしていった。
獣を狩り、その肉で命を永らえさせ、骨や皮を加工して自分たちの生活を豊かにする道具とした。
木を切り、石を積み、様々な建造物が生み出された。
神は、人間の中から『預言者』を選び、その者を通して自分の言葉を伝え、その姿を公に晒すことはなかった。
神の言葉を伝え聞くことで、人間の言葉も加速度的に発達した。
それまで、単純な意思疎通のための素朴なものだった言葉は、様々なモノやコトを表すようになった。文字が生まれ、近くにいない相手にも時間を隔てても、言葉を伝え、残していけるようになった。
文化、技術の進歩は言葉の発明、発展によるところが大きい。
例えば、神の業績を後の世に残す『神話』も、言葉がなければそれを表現することはできず、文字がなければそれを伝えていく事はできなかった。
このクニ……後に『ヒーズル』と名乗るこの島国も、神によって文明をもたらされた。その神の物語、神話はいくつも、いまに伝わっている。
神の与えた言葉によって。
神の与えた文字によって。
神は龍に乗り、『その地』を離れた。
もはや、そこに自分の居場所はなかったからだ。他の神によって奪われたその地は、あとはなるようにしかならない。
致し方のないことだ。
神は、新たな地を目指した。
未だ神の存在を知らぬ、未開の地を。
巨大な大陸を横切り、海を越えた東の果てにその島国はあった。
天より見下ろすと、いくつかの島で成る列島は弓なりに反った形をしていた。
ここにしよう、と神は思った。
ここで、一からやり直そう。
……いいや、零から、か。
神は、つぶやいた。神の知恵を授けられていない人間など、文化や文明といった見地からすれば、まったくの無、零だ。
こうした概念も、名付ける、という事がなければ生まれないものだ。
名前を得て、はじめて自己を得るのである。
名前がなければ、そのものは自分が何なのか、わからなくなる。そして自分の立脚点を見失ったら最後、全ては虚ろなものへと堕ちてゆく。それは人であれ物であれ、あるいは現象、概念の類であれ一緒だ。
ともあれ、神は願った。
ここが、安住の地であれと。
ここまで旅を共にしてきた龍は、いくつもの争いと長旅で休息を必要としていた。これ以上、無理を強いるわけにはいかない。
もう、休ませてやらなくては……。
龍は、ひときわ大きな鳴き声をあげて大地へ降りた。場所は、弓なりに湾曲した島の、中心よりやや西側、島の形を龍の姿に例えるなら、ちょうど後ろ足の付け根の部分だ。
なぜ、この場所なのかはわからない。龍がその本能に従って土地を選ぶからだ。
そしてそれは、完全に正しい選択なのである。
龍はゆっくりとその地に降り、その身を長々と横たえた。
そして、そのまま眠りにつく。
それは、永い眠り。
人間にとっては、永遠とも思える程の。
だが、龍や神にとっては束の間の休息だ。
やがて龍は再び目覚め、大空を翔るだろう。
それまでの、眠り。
横たわるその身をやがて土が覆い、大地と同化した。
それは、ひとつの山となった。
その山は守護山、と名付けられた。
「守護山……というのですか。ミヤコの背後にある山は」
やまとが言う。狐憑き騒動のあった町を出て、その翌日。ミヤコまではあと一歩に迫っている。おろちは、自分が知る限りのミヤコについての情報を伝えることにした。
ここまでの旅で、やまとが充分に言ノ葉遣いとしての経験を積めたのか、それはわからない。
おろちは不安であったが、逆にもう、なるようにしかならないという割り切りの気持ちも湧いてきた。あとはやまと自身に賭けるしかない。そもそも、ミヤコで何が起きるのか、何をするべきなのかもわからないのだ。
それならせめて、情報だけでも与えておこうと思った。
情報は言葉で表現され、伝えられるものである。つまりそこには言ノ葉の持つ言霊が宿っているのだ。
やまとへ言霊を贈ろうと思ったのである。
「ああ。ミヤコはその山を背にするように出来上がってる。んで、山に接するように内裏があるんだ。 ……ああ、内裏には奥内裏と内裏があってな、一番奥、つまり山にくっつくように建ってるのが奥内裏だ。ここには天帝が眠ってるんだとよ。ミカドと、神事を行なうミコしか入れねえ。要は、天帝様とその関係者以外立ち入り禁止の空間……神の間、って訳だな」
守護山があって、そこに隣接して奥内裏、その前に内裏がある。やまとは頭の中で思い浮かべた。
「その、奥でない内裏は何なのです?」
「おう。無印の内裏は政治をするところよ。政治、ってわかるか? このクニをどうしていくか考えて、俺たちから税を集めて、クニのためにどう使うか決めていくところだな。決めるのが天上人。いわゆる貴人様だ」
「ああ。貴人様……」
何故か、やまとはその言葉に引っかかるものを感じたが、気のせいと決めて先を促した。
「まあ、あいつらがどの程度クニの事を思ってるのかは知らねえけどよ。少なくとも俺ら民草のことは家畜か、作物を育てる道具くらいにしか思ってねえだろうがな」
鼻から息をはき、おろちは続ける。
「で、その内裏からどでかい大通りが一本、ミヤコを半分に分けるように貫いてる。……ええと、『宙治得広小路』て言うんだったな。妙な名前だよな」
「ちゅうちえ? 確かに、このクニの言葉ではないような響きですね。神の言葉でしょうか」
「知らねえ。まあ、そんな謎めいた感じを出してえのかも知んねえな」
おろちは、皮肉まじりにそう言った。
「どうやら、おろちはミカドや貴人様に対して反感をもっているようですね」
やまとの言葉に、おろちは驚いた。
「いや、普通そうじゃねえか? あいつらは生まれついての貴族でよ、何にもしなくても贅沢に暮らしていけんだぞ? 俺らは毎日、どうやって命をつないでいくか必死なのによ」
おろちの考えは、ごく一般的な民衆のそれであった。
「でも、貴人様にも色々と、苦労があるのだと思いますよ。ひょっとしたら、僕ら民草の暮らしを自由で羨ましいと思っているのかも」
やまとは、なんとも素直な目をして言った。
「そうかねえ……」
納得はしかねるが……あいつらはミヤコで働きもせずに、雅だ風流だと言ってるだけなんじゃねえのか、と思っているが……、やまとにそう言われると途端に貴人たちが自分と同じ人間である、という気がしてくるから不思議だ。
「そんでだ。その妙な名前の大通りで区切られて、ミヤコは右京と左京に分かれてる。左京は貴人の中でも身分の高えヤツが住居を構えてる。特に奥、つまり内裏に近いほど身分、官位が高いってのが基本だな。で、右京は逆に天上人はあまり住みたがらねえ。庶民の住処はこっちよ。ただ、右京も奥の内裏に近ぇ方には貴族もちったあ、住んでるみてえだな」
やまとは再び、脳裏に見取り図を描く。真ん中に大通り、左京と右京に分かれて奥に行くほど位が高い。右京は民衆の領域。
「……ああ。右京と左京は、内裏から見ての右左だ」
なるほど。やまとは頭の中の右、左を逆転させる。
「んで、ミヤコに入る入口は宙治得門、ていうんだ。なんか意味はあるんだろうな。こんな大事なところにもついてる名前なんだからな」
「そうですね。ちゅうちえ……なんとも、とらえどころのない響きです」
「その門が唯一のミヤコの出入り口でな、あとはぐるりと周りを高ぇ塀で囲まれてる。ご丁寧にもその周りには堀があってな、ミヤコに入るにゃ、ちゅーちえ門をくぐるしかねえって寸法よ。外敵を警戒してのこったろうな」
やまとは先ほどの見取り図を塀でかこみ、その周りに水色の太線を加えた。そして内裏からまっすぐ伸びた大通りの端に門を書き入れる。
ちゅうちえ、という通りと門。外部からはそこを通って一直線に内裏があり、その後ろに守護山がそびえる。なるほど、背後を山に守られているからあとは三隅をかこんでしまえば良いわけだ。
ミヤコは、建設時から外敵に対する防備を考えてつくられているのだとわかる。
……だが、中に入ってしまえば一緒ではないか? それに、町を焼き討ちされたりしたら今度は逃げるのに困る。
むしろ、物の怪や怪異の類の侵入を防ぐ目的か?
ならば、一番重要な内裏まで一直線に通りが続いている構造が気になるが……。
それで、と続きを聞こうとしたやまとをさえぎる者が。
「二人とも、いい加減になさいまし! 今、何時であるとお考えです? もう陽は傾き始めておりますよ!」
言うまでもなく、ゆうである。
そして言うまでもなく、彼女の主張は。
「お昼どきには、お昼の食事をせねばなりませぬ! これは人の世の理! それに背くのはすなわち、人の道から外れるのと同義です!」
相変わらず無茶な論理を大上段に振りかざす、座敷わらしもどき。
「わーかった、わかったよ。町で食料はたんまり仕入れたからな。好きなだけ食えや」
「おろち! あなた……やっとわかってきたのですね! よろしい。すきなだけ食べましょう!」
ゆうは荷を開け、食料を全て取り出し両手に持って食べだした。
がつがつ、がつがつ。
「え……おい、ちょっと待て」
「……なんですか」
「お前、まさか全部食う気じゃ?」
あなたは、とゆうはおろちの目を見据えて言う。
「好きなだけ、食べろと言いました。ゆうはその言葉に従うだけです」
「いや、それにしたって」
「ゆう! 行儀がなっていないぞ。手で食べるにしても、それなりの礼儀というものはあるのだ」
「いや待て、そういう問題じゃねえ!」
神は、山の中で『預言者』に告げた。
『神の在る場所をつくれ。そこで、お前たちに知恵をさずけよう。文化を、文明を与えよう』
預言者・フシノモリは地にひれ伏し、神の言葉を受けた。
『お前たちはそれを、知恵をもって進め、和をもって守り、意思をもって変えていくが良い。そして、自分たちのものとせよ。自分たちのクニを築くが良い』
神の言葉に従い、預言者は神の在る場所……神宮を建てた。
広い地をならし、土台から建物を組み上げる。材料、工法……、全ては神の指示した通りに、多くの人を集めて壮大な神宮をつくった。それは、神からの施しであった。多くの知識、技術、その他もろもろが、その建設を通して伝えられたのだ。
大勢の者に様々な事柄を伝えるために、人々の言葉も飛躍的な進歩を遂げた。いや、それは『進化』というべき変貌ぶりであった。神宮の完成とともに、このクニの言葉は、文明は、それ以前とは比べ物にならない領域へと進化した。
『神は常にここに在り、お前たちに様々なものを与えよう。お前たちはそして、獣の仲間からヒトへと進化するのだ』
お前たちは、神の言葉を疑ってはならない。
お前たちは、神の姿を見てはならない。
お前たちは、神の姿を偶像にしてはならない。
お前たちは、神の名をみだりに唱えてはならない。
お前たちは、自分の親を敬わなければならない。
お前たちは、理由なく人を殺してはならない。
お前たちは、他の人のものを盗んではならない。
お前たちは、嘘をついてはならない。
神は、そう告げた。九つの戒めである。
『そしてお前は、これより永遠に神の守り人となれ。フシノモリ……不死の守りよ』
神は預言者に告げた。これが藤野森家の始まりである。
「兄様! お急ぎください、ここから見えます! あれがミヤコでしょう!」
いよいよ目的地が近い、という頃合であった。この山を越えたらもう一息という時。ゆうがいち早く見つけ、やまとを手招きした。
やまとも急ぎ足になる。山道を駆け、高所から遠くに見下ろす。
「あれが……ミヤコ」
まだ、距離はある。やまと達の足でも数日はかかるだろう。だが、その威容ははっきりと見て取れた。
あまり高くない山が見える。あれが守護山だろう。その山に寄り添うようにして巨大な四角形があった。
周りを塀と堀に囲まれた、その内側に数え切れない程の家屋が見える。その全てが整然と配置されている。あれは……きっと、道を縦横に等間隔でつくり、土地を分けているのではないか。いわゆる碁盤の目のようなつくりだ。やまとは碁盤というものの実物を見たことはないが、言い回しだけは知っていた。
遠目にも、内裏とおぼしき辺りには朱塗りの一際立派な建物がいくつも見えた。他の家屋とは明らかに一線を画した、大きな建物だ。
宙治得という妙な名前の大通りも見える。この距離からこれだけ大きく見えるというのは……一体、どれほどの太さの道なのだ。道という概念から外れるほどの規模ではないだろうか。
「どうだ、やまと。あそこが目的地だ」
どこか自慢げに、おろちが言う。
「ええ……、なんと言うか。信じられません。あんなに大きなものだとは……。あれを、人がつくったのですね」
「……まあ、神の加護をえて、っつうことになってるがな」
「それにしても……」
やまとは、しばし見とれていた。あの場所に、何かがある。自分のなすべき事がある。それは理屈でなく、今はっきりと感じられた確信を伴う予感のようなものだ。
「とが、ね…… さくら…… 」
やまとは、小さくつぶやいた。
「ん? いくらミヤコでも、こんな時期に桜は咲きゃあしねえぞ?」
聞きとがめたおろちの言葉に、やまとは何ですか、と聞き返す。
「いや……今お前、桜、ってよ」
「僕がですか? さあ……なぜ、そんな事を」
「二人とも、いくら見つめていてもミヤコには到着しませんよ? さあ、参りましょう!」
ぷかぷかと浮かんで、ゆうは張り切る。
「おめえが仕切るんじゃねえよ」
三人は、ミヤコへの道を再び進み始めた。
神は、社殿から出てくることはなかった。その言葉、意志はすべて『預言者』が聞き、伝えた。社殿には他には『ミコ』しか入れない。
ミコは神……天から来た帝、『天帝』と呼ばれるようになっていた……の子孫の女性から選ばれる、特別な存在である。
天帝は多くの女性との間に子孫をもうけたが、生まれてきたのは全て、女の赤子だけであった。その中からミコが選ばれ、社殿へとあがることが許される。
ミコに選ばれなかった者は、藤野森の家の男と婚姻関係を結び、新たな子孫を残す。
しかし、そうして生まれてくるのも女ばかりなのである。
その女性たちから次の世代のミコが選ばれ、選ばれなかった者は藤野森の男と婚姻を結び……といったことが何代にもわたって続けられた。
人は文明を得、様々な物事を生み出していった。
巨大な、天帝の治める町、ミヤコもそのひとつである。
そして元々平等だったはずの人間に、生まれながらの差ができた。
すなわち、天帝の子孫と藤野森家の男達という神に選ばれた特権階級。尊ばれ、貴ばれるべき人間『貴人』と、それ以外の人間である。血によって分けられた貴賎の違い。
神による裁定に異を唱える者などあろうはずもなく、人々はそれを、当然の事として受け入れ、後世にも継承していった。
そうして、神と人間との蜜月期が過ぎ、やがて、終わりが訪れた。
このクニに文明をもたらした天帝に、あとから天下ってきた別の神が、『クニ譲り』を求めたのである。
あとから来た『神』は天帝に対し、このクニの全てを譲り渡すように要求した。
天帝は、了承も拒否もしなかった。
全ては、流れるままに。なすがままに物事は進むものであると、傍観したのである。
しかし神は、そんな返答を許さなかった。天帝とミヤコに対し実力行使に出る。
しかし守護山を背にしたミヤコは神に対して完全な護りを為し、その攻撃を受け付けなかった。
業を煮やした神は、兵たちにミヤコの外の集落を無差別に襲わせ、多くの民の命を奪った。田畑を荒らし、家畜を殺した。
これ以上捨て置くわけにいかなくなり、天帝は神との話し合いにのぞんだ。
だが、話し合いとは名ばかりで、神はただ、自分の力を背景に、クニを丸ごとよこせと言うばかり。
天帝は、もはや避けられぬものとして神と戦うことを決断する。
神同士の壮絶な戦いは、このクニに訪れる四つの季節を一回りして、ようやく終わった。
天帝はその戦いで力を失い、龍の眠る山へ『お隠れ』になった。
しかし神も大きな手傷を負い、ミヤコから遠く離れた島へ隠れた。
死海に浮かぶ小さな島である。
そこで神は牛鬼となった。
「牛鬼?」
初耳だったやまとがおろちに問う。
「ああ。そのまんま、頭が牛の鬼なんだとよ。見た目からすりゃあ、神というより物の怪だな。まあ、鬼っつってるくれえだからな。神の座からは貶されてるんだろうな」
「そして天帝も亡くなった、と」
やまとが端的に言うと、
「いや。天帝様は死なねえのさ。何せ不死だからな。『お隠れになった』だけよ。今もあの」
と言い、ミヤコへと続く道の先を見やる。道は平坦であり、目的地はまだ見えない。
「守護山で、自分のあとを継いだミカドや、ミヤコの貴族様たちをお守りになってるんだろうさ」
やまとは昨日見たミヤコの巨大な姿、そして背後にそびえる守護山を思い出していた。
じき、日が暮れる。すでにミヤコは目前まで迫っており、今歩いている道もそれまでの山道とは違い綺麗に整備されている。
駕籠や牛車、人がひく荷車などの姿も時折見かける。このクニの中心へ着々と近づいているのだという実感が、すでに日暮れ時なのに三人の足を早めていた。
「どうします? このまま夜通し歩けば朝にはミヤコに着く、という事でしたが」
やまとが言う。どうやら、そうしたいような口ぶりだ。
「俺はこのまま歩いてもいいけどよ……。一番うるせえ奴の意見はどうだ?」
「……ゆう?」
一番うるさい、座敷わらしもどきの姿が、いつの間にか見えなくなっていた。
「なんです、兄様」
ゆうは、やまとの背負っていた荷の中から出てきた。
「……まあ、こいつがおとなしい時はいつもこうだからな」
おろちは完全に達観した表情で、口いっぱいに食料をほおばっているゆうを見やった。
「ゆう。ちゃんと食べる前にはいただきますと……」
「なあ、やまとよ。俺は、むしろお前に対して突っ込むべきなのか、と最近思うようになってきたぜ」
そのまま三人は夜を徹してミヤコへの道を急いだ。
いや、一人は食後には姿を消していたが。
そして、夜明け。
東の空が明るみ始めてきた頃、やまと達の歩く道の先に巨大な門と塀が見えてきた。
「おろち、あれですね?」
「ああ。ちゅうちえ門だな。ミヤコの入口だぜ」
おろちも、長かった旅の目的地を目にして、笑みを浮かべた。
さらに近づくと、門の巨大さに驚くというより呆れるような気持ちになった。
「一体、これほど巨大な門が何故、必要なのでしょう?」
幅は人が二十人横並びでもくぐれるほどあり、高さは人の背丈の十倍はある。古色を帯びた木目も美しい、あまりにも馬鹿げた大きさの門だ。
「さあなあ。『でえだらぼっち』でも入れるように、じゃねえのか」
おろちが軽口をたたく。各地の伝承に残る巨人は、山や湖をつくったと伝えられることが多い。要は、原初のクニ作りの功労者なのだ。
「おろちの冗談は、いつ聞いても面白くありません!」
「おう、起きたか」
「ゆうは、眠ってなどいませんでした! いつでも兄様と共に歩みを進めていましたとも」
ああそうかい、とあしらって歩を進める。門の両脇に衛兵らしき姿が見える。
以前は兵などいなかった。ミヤコも物騒になったということか。それとも天狗が言っていた、ミヤコの状況が云々という話に関係があるのか。
まあ出たとこ勝負さ、とおろちは歩みを進め、そして案の定、門前で止められた。
「待て。他所よりミヤコに入るには許可証が必要だ。なければ、このまま引き返せ」
兵と言っても、鎧は上半身と腰のあたりと両腕を守る程度のもので、頭に兜すらかぶっていない略式の軍備である。やまとの腰に目を止めるが、木刀とわかると興味を失ったようだ。
「許可証ですかい? もちろん、ありますとも。ちっと待ってくだせえ」
おろちは、へりくだっているんだか馬鹿にしているのだかわからない口調で言い、荷を開けて中をまさぐる。
もちろん、許可証など持っていない。
……ジジイめ、珍しく用意が悪ぃじゃねえか。
「これでさ」
一枚の札を取りだし、兵に渡す。何も書かれていないそれを手に、兵は怪訝な表情を浮かべる。
「なんだ、これは」
おろちは、札に向かって指先を宙に走らせる。
『許』
文字は赤く光り、札に吸い込まれる。
「おお、確かに許可証だ。入ってよし」
「あんがとよ」
意気揚々と、門をくぐる三人。
その目の前には、黒く、きらきらと朝日を受けて輝く巨大な道があった。
宙治得広小路、という大通りは、黒く輝く玉石を一面に敷き詰めてあった。人が二十人、いっぱいに手を広げても横並びで通れそうな広さの道が、黒く輝きながら延々と続いているのだ。はるか向こうに見えるのが内裏を囲む塀と、その門であろう。
一体、どれほどの数の石が使用されているのか……。既にミヤコの威容に気圧されつつあるやまと。歩を運んでみると、黒い玉石はほとんど音も立てず、歩きにくくもない。長い年月で石同士がかみ合い、強固な地面となっているのだ。
「すごい……」
他に言葉が出なかった。なかば呆然と大通りを歩いていく。早朝で看板を下ろしているが、商店らしき建物が多い。意外に空き地もあり、田畑もある。もっと奥、内裏に近づくと貴族の館なども、見えてくるのだろうが……。
「その方ども、止まれ」
背後から、厳しい口調で呼び止められた。まだ夜が明けたばかりで大通りにも人は少ない。やまと達に向けられた言葉であるのは、明らかだった。
振り返ると、先ほどの門兵とは違う意匠の鎧に身を包んだ少年が、おろち達をにらみつけていた。意志の強そうな瞳。まだ幼さが残る顔つきだが、悪く言えば頑固そうな唇は、一文字に結ばれている。
「えっと、俺たちのことですかい?」
おろちがわざと間の抜けた口調で言う。
「他に誰が居る。愚者を装っても無駄だ。貴様らが門兵を怪しげな術で騙したのも見ていた。明らかな不審者、一緒に来てもらおう」
抜刀こそしていないが、もし不審なよそ者が不穏な動きをしたらすぐに叩き斬る、という殺気がはっきりと伝わってくる。年の頃はやまとと同じくらいに見えるが、明らかに兵としての格は先ほどの門兵よりも上だ。
「ええと、あんたは? 俺たちゃ旅の拝み屋でしてね。さるお方から物の怪退治を頼まれてるんだが」
「ほう。その、さるお方とは?」
少年兵は、まるでおろちの言葉を信用していない目で問うた。
「そいつは言えませんねえ。位の高いお方から、隠密にとの頼みなんで」
ふん、と鼻で息をつき、今度はやまとに声をかける。
「お前は? 拝み屋の仲間か」
問われたやまとは、なぜか笑みを浮かべた。
「はい。貴方は、もののふですか?」
もののふ、武士とは、最近各地に現れてきた武装集団である。荘園主や領主を守るための私的な兵だ。
少年剣士は、その言葉に血相を変えた。
「あのような下賤のものと一緒にするな! 拙者は歴とした武官、検非違使庁治安部隊三番隊隊長、水無藻刀兼である!」
「みなも、とがね……」
「気安く名を呼ぶな!」
やまとに対し、刀兼は恫喝するように言う。
「いえ、だって……」
「だって、なんだ! ……妙に調子を狂わせるな」
「せっかく名前を教えて頂いたので、覚えようと思いまして」
やまとの言葉に、刀兼は呆れ顔になる。
「貴様、今の状況がわかっているのか? 拙者はお前らをこれより捕縛し、詮議にかけるのだぞ? 先ほどの妖しき術は、明らかにミヤコに不穏をもたらすもの。拙者はそう報告する。悪くすれば打ち首だぞ?」
刀兼の言葉にも、やまとは笑顔を崩さない。
「僕は、やまとと申します。検非違使とはミヤコの治安を守るひとでしょう? では、僕たちの事を調べねばなりませんね」
なんなんだお前は、と刀兼は縄で二人の手を後ろ手に縛り、そのまま歩くように指示した。
「兄様! よろしいのですか。このような野蛮な者に好き放題やらせて!」
当然、ゆうは黙っていない。
だが、やまとは口を開かなかった。おとなしく言われるままに歩を進める。
大通りに人が増えてきた。縄で繋がれ検非違使に連行されるよそ者に、好奇の目が向けられる。
やまとの、刀兼という少年に対する態度が不自然に友好的というか馴れ馴れしい。
やまとは理屈でなく感性で何かを感じ取る能力が強い。いつもの彼らしからぬ態度から何かあるのかと思い、おろちは様子見を決めた。
いざとなれば、牢屋だろうがなんだろうが抜け出すのは容易いだろう、というのもあっての、様子見である。
検非違使という武官も貴族である。が、その官位は低く、内裏の中でも最下層と言える。いわゆる貴人からは、人殺しが仕事の野蛮な猿と思われている程だ。
だが、平民からすれば地位の高い人間であり、ミヤコの中で事件が起こった際には出動して鎮圧を行なう、即物的な力を持った存在である。
衆人環視の中ふたりは無言のまま歩き、その周りをぶんぶんと飛び回るゆうが文句を垂れ流す。
「……うるさいな。貴様の使い魔か? 随分と口の悪い……」
刀兼が、そう言った。
「……あんた、ゆうのことが見えるのか?」
「ゆう? 人のような名をつけているのだな。姿はよく見えぬが、先刻よりうるさくて適わぬ。黙らせよ」
「やはり!」
やまとは満面の笑みを浮かべた。
「ゆう、静かにしなさい。この方は、僕らの味方だ」
やまとの言葉に、他の全員が耳を疑った。
「何を言っている! きさまらは咎人、罪人であるぞ! それを連行する武官を味方だなどと……。拙者を愚弄するつもりか!」
今にも刀に手をかけそうな勢いで怒る刀兼。検非違使庁へ連行し、正規の手続きを踏んで処罰を与えなければ、という義務感で何とかこらえる。規則を守り、組織の規律を守ること、それは彼が自身に課している義務だ。
「やまと、確かにこの武官様はゆうの声が聞こえるらしい。今まで会った能力者の誰も、声が聞こえる奴なんざいなかった。だから相当、そっち方面の力はあるんだろうさ。だがな……」
「やかましい! 物の怪も咎人も、黙って歩け!」
刀兼が一喝し、そのまま早朝の連行は続く。やがて検非違使庁に到着した。
やまとが意外に思ったのは、そこは内裏の中ではなかった。大通りの道半ば、奥に行くほど位が高い、というミヤコの法則に従えば、検非違使はかなり低い扱いを受けているようだ。それは建物にも現れているようで、周りを囲む塀は無愛想な木造りの、高さも大人の背丈程度のものだし、庁舎はそれなりの大きさではあったが、むき出しの木でつくられた質実剛健な建物で、長年の風雨にさらされて古色を浮かべている。
その建物の中の簡易な牢に二人は入れられた。ゆうは、先程から姿を消していた。
三畳ほどの空間に二人で膝を突き合わせて座る。
「ひとりひと部屋じゃねえのかよ」
おろちが文句を言うと、牢の番兵は意外に気さくな性格らしく、
「最近物騒でな、部屋が足りんのだ」
と、教えてくれた。
やはり、何かがミヤコで起きている……。おろちは改めて確信した。
「だがまあ、この状況じゃあな。とりあえず旅の疲れを癒すか」
腕を枕にして、狭いなかで身を横にする。やまとは部屋の隅で膝を抱えて座り込んだ。
「……あの武官のことが気になるみてえだな。ゆうの声が聞こえる、ってのは確かにすげえや。それにあの年で隊長って言ってたし。水無藻っつったら多分、検非違使庁の一番の偉いさん、水無藻刀身の息子じゃねえかな」
おろちは以前、ごく一時期だがミヤコに住んでいたことがある。天狗の命じた、言ノ葉遣いとしての働きをするためにだ。
「なあ、やまと。あの武官が、なんで味方なんだ? おめえ会ったばかりなのに、やけにあいつのこと信用してたよな」
おろちが先程からの疑問を口にする。
「ええ……なぜでしょう。僕にもよく、わかりません」
ぼんやりとした表情で、力なく答える。
「はあ? 大丈夫かお前。疲れてるんじゃねえのか? とりあえず横になれよ。俺が座るからよ」
と、身を起こしてやまとを寝かせようとする。
「僕なら大丈夫です。でも、なぜかはわかりませんが、彼は味方です。それだけははっきりとわかるのです」
「へえ……?」
曖昧に返事をしながら、おろちは思い出していた。以前、天狗はやまとの事を『世界を壊してしまうかも知れない』と、言っていたのだ。
「世界を壊すだと? いってえ、どういう意味だそりゃ」
実際にやまと……少年と会うよりも前。言ノ葉遣いを新たに見つけた、と天狗がおろちを呼び出した時のことだった。場所は、東国にいくつもある天狗の隠れ家……と言ってもごく普通の民家だ。この老人は自分の自由に使える家をクニ中にいくつも用意しているのである。
「……この世界には、いくつもの『理』がある。こうすればこうなる、こういう時にはこういう事が起こる、といった人間にはどうしようもない自然の摂理がな」
ずずっ、と茶碗酒をすすりながら言う。僧形であるが本物の坊主でない天狗に飲酒は御法度ではないのである。
「そりゃあ、あれか? 種を蒔いたら芽が出て花が咲いて、とか夏の次には秋が来る、とかそういうのか」
「まあ、そうじゃ。もっと小さなものも含めて、様々な理が重なって世界が動いとるんじゃ。その少年は、ひょっとするとその理を捻じ曲げてしまうかもしれん。それくらい力の強い言ノ葉を編むかもしれんのじゃ」
表情も口調も淡々としながら、天狗は信じがたいことを言う。
「それで、世界を壊す? そんなもん人間じゃねえ。神様じゃねえか」
思わずおろちが言うと、
「神に、そこまでの力はないわい」
と、恐ろしく不遜な事を言う。
「まあ、言ノ葉で世界に傷をつける、という程度のモンじゃろうな。大抵は放っておけば治るじゃろうが、傷が深かったり、いくつもつけられると……」
「……治らねえかもしれねえ、って事か?」
まさか、と思いつつおろちは口にした。
「左様。あくまでそうかも知れん、という話じゃがな」
相変わらず本心の見えない天狗がそう言い、茶碗に口をつける。
その時は話だけで終わり、いずれお前にも働いてもらうぞ、と告げて、老人は少年を監視し続けていたのだ。
そしてあの日、自分の家族が殺され、少年の言ノ葉遣いとしての能力は暴走した。
後から考えると、何とか怒りの感情を封印できたのは、やまと本人の力もあっての事だったのではないか、と思う。天狗が札に何を仕込んだのかはわからないが、おろちは自分の不得手な言ノ葉の遣い方で封印を行なっただけ。それだけであんな力を抑えられるとは、思えないのである。やまと……少年自身が自分の怒りを抑えたい、全て忘れてしまいたい、と心のどこかで願ったからこそ感情が封印されたのだと思う。
それはつまり、やまとの力を抑えているのはやまと自身だ、という意味でもある。
なにかのきっかけで怒りの感情に囚われたり、昔の記憶が蘇ったりした時。
こいつは……と、やまとの穏やかな横顔を見る。
また、あの時のようになってしまうんだろうか。
初めて会った、あの地獄での少年を思い出す。
あれは……人ではなかった。神でもない。魔物、というだけでは物足りない恐ろしさをもった、絶対的な力ですべてを破壊しかねない、禍々しい存在。
闇の世界の神のような……
「なあ、やまとよぉ」
ふと、聞いてみたくなった。
「なんですか」
「その……、思い出したくねえのか? 昔のこととか」
その言葉に、やまとは表情を曇らせた。
「おろちやじじ様も、僕の昔のことはご存知ないのでしょう?」
「まあ、な。ほとんど知らねえ。事故で家族が全員死んじまったってことくらいだ。それと……妹が居た」
思い切って、言ってみた。少年の妹である結のことは、ひょっとするとやまとの封印を解いてしまうかもしれないと、今まで言わずにいたのだ。
「妹?」
やまとは意外にも、あまり興味のなさそうな顔をした。
「……気に、ならねえのか?」
「妹なら、今もいますし……。そうか、昔の僕には別の妹がいたのか……。じゃあ、今とあまり変わらないのですね」
笑顔になってやまとは言った。
「何がだ? 全然違うじゃねえか」
そうですか? と、笑顔を崩さずに、
「だって妹がいて、おろちとじじ様という家族がいる。家はないけど……あ。じじ様はたくさんの家を持っているから、やっぱり変わりません。むしろ増えていますね」
「…………」
特に無理をしているようには見えなかった。本当に忘れているからなのだろうか。今はこれが、一番良い状態なのかもしれない、とおろちは思うことにした。
「そうか。悪かったな、変なこと聞いちまってよ……ところで家族って、ジジイはジジイでいいにしても、俺はお前のなんだ? まさか父親だなんて言うなよ? そこまで年離れてねえぞ」
「そうですね。まあ、近所のお兄さんで良いのではないですか」
「そりゃ家族じゃねえぞ」
ふたりで和やかな笑い声をあげていると、牢の前に誰かがやってきた。
「囚われの身で、のんきなものだな」
刀兼だ。納得のいかない表情を浮かべ、鍵を開けている。
「出ろ。長官がお会いするそうだ」
「長官? って、あんたの親父さんか?」
おろちの言葉に刀兼は目を剥く。
「くだらん事を聞くな! さっさと出ろ!」
ふうん、とおろちは皮肉な笑みを浮かべる。
「こんな胡散くせえよそ者を、長官さまがわざわざ取り調べるわきゃ、ねえわな。拝み屋に用があるんじゃねえのか? こんなのにでも縋りたくなるくらい、悪ぃ状況なんじゃねえのか?」
おろちは探りを入れるように聞く。
刀兼は顔を背けた。
「……長官から、直接お聞きしろ」
出る杭は打たれる、ということわざがこのクニにはある。
他の人よりも優れている人間、頭一つ抜けている人間は、その出っ張ったところを打ちのめされるのだ。それは凡人の嫉妬か、他人を貶めることによって相対的に自分を優れたものと思いたい願望によるものであるのか。
ともあれ、ミヤコの中心である内裏においてそれは、官位や職位の奪い合いという政治闘争の中に現れてくる。
真管道新という文官が居た。元は大蔵省の下級官で、真管というのは藤野森の傍系の傍系、かろうじて貴族の仲間に入れてもらっているような家だ。その人間が下級とはいえ内裏に籍を置いていること自体が異例だったのだが、道新は非常に聡明であり、数々の実績をあげて出世していった。やがて右弁官にまで手が届こうという頃合(普通ではありえない出世である)に、ある女性との密通の噂が流れた。
内裏に務める貴人たるもの、複数の女性と関係を持つことなど珍しくもないし、むしろその人数は内裏での力を表すものとも考えられていた。
だが、相手が悪かった。
道新は、時の大納言の妻と関係を持ったというのだ。
そうした事例もなくはないが、とにかく相手が悪い。簡単に言えば自分の直属上司の、更にその上司の妻に手を出したのだ。
しかも、そのひとは天帝の血をひく……つまり、もしも子を産んだなら、その娘はミコとして奥内裏に入ったり、次の世代のミカドになる可能性すらある女性だったのだ。この時代では大変な不祥事である。
結局、その噂が真実であったのかは、分からない。だが、結果として道心がそのすぐ後に島流しにあったのは、事実だ。
いくつかの島で成り立つこのクニの、南にある大きな島。ミヤコからはるかに遠い、この時代の感覚からすれば、地の果ての閑職へと追いやられたのである。
真管道新は、そこで最期を迎えた。死因は病死だが、島流しにあって以来、地方の官庁舎で鬱屈とした日々を送り、やがて自室から一歩も出なくなった。食事もほとんど採らず、一日中経をよんでいたという。
実質的には、内裏を恨んでの憤死であると言えよう。
その死が、六か月前。
以来、このクニに数々の災難が起こっている。
飢饉、疫病、異常気象による落雷など、とにかく不穏なことが続いているのだ。
民衆は生活に苦しみ、幼いもの、老いたもの、弱いものから死んでいく。
そうした事態に対して何もできない内裏を恨み、呪うものも出てくる。
そして内裏では半ば公然と道新が怨霊となって祟りをなしている、と噂されている。
次は自分が呪い殺されるかと恐れる者も多い。
中には怨霊を恐れるあまりに官位を捨て、出家してしまう者までいた。
出家とは長教の僧になり、俗世を捨てることである。髪を落として寺へ入り、今後政治の世界からは手を引くという表明。それで怨霊が許してくれるのかどうかなど、誰にもわからないが。
「真管道新……。そいつが、怨霊になってミヤコを呪ってると?」
検非違使庁の長官室。
内裏の組織の長の執務室としては簡素で、さして大きくもない部屋だった。
不審なよそ者として捕らえられたやまと達が今、その部屋に通されて長官である水無藻刀身と向き合っている。
武装した数人の従者を従えてはいるが、長官自ら同じ部屋の畳に座っているのだ。完全に客人としての扱いである。
「ああ。怨霊は検非違使庁でなく、影光寮の管轄なのだが……」
刀兼の父、刀身は背はあまり高くないものの、鍛えあげられた体つきと意志の強さを物語る眼光の鋭い男だった。語り口は穏やかで、おろち達のような平民にも分け隔てのない口を利いた。
「影光師か……。俺たちの商売敵だ」
『影光寮』は、主に怪異や物の怪、怨霊に対処するための専門機関である。所属する『影光師』たちは身分は貴族であるが、地方の官僚だった者や、中には元平民も居るという。身分に関わらず、いわゆる呪力という異能の力の強い者が集められた、特殊な組織なのだ。
対して検非違使は、貴族の家の人間から選ばれ、訓練を受けてミヤコの警備を行なう。どちらもミヤコと貴人を守るための組織だが、成り立ちからして全くの別物なのである。
おろちはいつも通り、自分たちを『拝み屋』として話を通すつもりだった。
「うむ。しかし彼らは貴人。内裏の人間なのだ」
刀身は言う。おろちがその言葉の意味を測りかねると、
「……そうだな。腹を割って話そう」
従者どもに下がるよう命じ、人払いをした。
「長官、拙者は」
刀兼は、自分も去るべきかどうか問うた。
「残りなさい。お前にも関係のある話になる」
「はい……」
従者が去り、四人だけになった。
「さて。おろち殿、と申したな」
少し口調が打ち解けたようになった。
「いやいや、殿なんて、もったいねえ」
流石に恐縮するが、刀身は構わずに言葉を続けた。
「言ノ葉で、この部屋を封じてほしい。外へ声が漏れないように」
自称『拝み屋』の二人は驚いた。
「な、なんでその事を」
「拙者も、天狗殿の協力者なのだ」
更に驚いた。検非違使庁の長官が仲間、ということはミヤコの武力が全て味方に付くようなものだ。
「……なるほどな。やるじゃねえかジジイ。じゃあ、封印しちまうか……。いや、やまと。お前がやってくれ。その方が確実だ」
そして、もうひとつ納得できることがあった。やまとはきっと、やまととして生まれ変わってからの数日間のうちに、天狗にいくつかの刷り込みを行われているのではないか。
だから、ミヤコに自分の仲間が居る、ということを知っていた。つまり自分でも気づかないうちに、ミヤコでの水先案内人にされていたのだ。
「はい。分かりました」
やまとは立ち上がり、宙に指を走らせていく。ゆっくりと、青白く輝く文字で長官室を外界から隔離し、結界にしていく。
その様子を興味深そうに見守る刀身。
「あいつの方が、仕事は丁寧なんでね」
などとおろちが言っていると、
「父上! どういうことですか。天狗? この者どもと何が」
「刀兼。やまと殿の封印が終わるまで待ちなさい」
やがて、やまとは結界を完成させた。
「さて。それではまず用件を申し上げよう。お二人に、あるお方にかけられた呪いを解いていただきたい」
刀身は言う。息子の刀兼は黙って聞いている。
「あるお方……。まあ、貴人なんだろうな。影光師たちに任せられねえってのはどういう理由で? さっきの話からすると、内裏に内密にしなきゃならねえって事みてえだが」
おろちの言葉に刀身は満足そうにうなずいた。
「話が早い。まさにその通りだ。その方は明らかに呪われており、その呪いは解かなければならない……このクニのために」
ひゅう、とかわいた口笛がおろちの口から漏れた。相手との身分差を考えれば、とんでもなく不遜な態度である。
「また大きく出たな。影光師には解けないような呪いって事ですかい?」
普通なら、クニの未来を左右するくらいの重要人物の祈祷は影光寮が行なうはずだ。何しろ、そのための機関なのだから。
「拙者には呪いや物の怪のことは、さっぱりわからぬ。だが、その方が呪われているという事自体が問題なのだ。特に、今はまずい」
「……どういうこって?」
「今、ミヤコにいくつもの怪異を起こしている怨霊だ」
島流し先で内裏を恨んで死んでいった、真管道新……そうか。
「つまり、その『あるお方』が道新に呪われているってえ噂をされちゃ、まずいわけか」
「そういうことだ」
今、貴人が呪われているとなれば内裏の人間なら皆、すぐに道新という大怨霊と結びつけて考えてしまう。しかも……
「しかも?」
おろちは話の先を促す。
「これも内裏では公然の秘密、という程度の内密の話だが……そのお方は道新との不義の噂をされた方の、ご息女なのだ」