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一章「やまと」

「こら、ゆう! よしなさい」

 やまとは、妹のゆうを注意した。

「よしません! ゆうは、お腹がすきました!」

 そこらを飛び回り、兄から逃れる。その手には、干し飯……保存食が。

「良いか、ゆう。今は旅の途中だ。食料は節約し、計画的に食べなければならない。それをただ空腹だからと食べてしまっては、後で困ることになるのだぞ?」

「……兄様」

 空中でぴたっと止まり、やまとを正面から見て、

「ゆうは、今が良ければ良いのです。一寸先は闇。後のことなど、わかりません」

 実に堂々と、言い切った。

「……まあ、その言葉にも一理はあるが……だから食べてはいかんと言っておろうに!」

 干し飯を口いっぱいに頬張り、くちゃくちゃしながらやまとの手の届かない高さへ。

「……まあ、仕方あんめえ。俺たちがもうちっと、我慢すりゃいいだけのこった」

 やまとの後ろを歩いていた、おろちが言う。既にあきらめの境地といった風である。

この二人と東国から旅を続けてきて、はや六ヶ月あまり。ゆうの自由気ままな行動には、慣れきってしまった。

「おろち、そんな甘いことを言っては困ります。僕は兄として妹のしつけを」

 やまとは振り向いて言った。

 彼はゆうに対して、純粋にしつけをしなければならない、という思いから注意しているだけだ。怒ってなどいない。怒りという感情はあの晩、目の前の男によって封じられ、彼の心にはないのだから。

「しつけ、ねぇ……」

 空高く飛んでいき途中で見えなくなった、やまとの『妹』。もちろん、人間ではない。白い浴衣のような着物に赤い帯を巻き、肩にかからないくらいの長さで切りそろえた童女の髪型、いわゆるおかっぱ頭。見た目や背丈は四~五歳くらいの幼児だ。そのくせ言うことは妙に大人じみている。

 死に顔しか見ていないおろちには確信が持てないが、少年の妹だった結とは、まるで似ていない顔立ちのように思える。

「まあ、あと三日もすりゃあ宿のある町へ出るはずだ。そこまで節約だな。 ……なあに、山の中にゃ、いくらでも喰いもんはあらぁ」

 開き直るように言って、おろちは自分の背負った荷物の重さを確かめるように肩に担ぎ直すと、再び歩きだす。

 このクニの西部にある山脈、その尾根に沿った細い道。しばらく緩やかな登り道が続いている。

 山の中を突っ切って続くその道は綺麗に整備されたものではないし、高低差がかなりあるので、歩きやすいわけでもない。とはいえ、それをたどっていく限り、必ず人の住む場所に着き、やがてこのクニの中心地、ミヤコへと到着するのだ。

 地図や磁石などのない……いや、あるにはあるのだが庶民が目にする事はもちろん、存在自体知らないようなこの時代に、目的地に確実に着くみちしるべ、としてこういった道は貴重だ。

 笠をかぶり、荷をかついだ旅装束の二人。東国からミヤコまでの長距離を徒歩のみで旅する者など滅多にいない。普通これほどの距離となれば東回りか西回りの船で移動する。ミヤコへの荷物はそうやって届けられ、港からは牛車か馬車で運ぶのだ。

 周囲を海で囲まれた、細長い島であるこのクニは、山川が多いこともあり水上の移動手段が充実している。

 海でなくとも、川を連絡船に乗って移動すれば、かなりの日数短縮になり、肉体的疲労も軽減されるのだが……

「おろちが、水をこわがるから」

 軽いため息とともに言う。そう、おろちは泳げない。いわゆるカナヅチである。子供の時に川で溺れかけて以来、水に入るのが怖いのだ。特に、川や海などの『動いている水』は、見るだけで鳥肌が立つ。

「うっせえな! 仕方ねえだろ。心に傷を負ってんだよ、こちとらよぉ!」

「大人のくせに、情けないです」

 いつの間にかやまとの隣に浮かんでいたゆうが、笑いをかみ殺しながら言う。

「ゆう、そんな事を言ってはかわいそうだ。おろちにも大人として、男としての面子があるのだから。そういう事は、思っていても口に出してはいけない」

 やまとは真面目そのものの表情で言う。

「てめえら! 町に着いても、うめえもん食わせてやらねえからな! ひえときゅうりで一日しのげよ!」

 他愛のない口喧嘩をしながら、木に囲まれた変化に乏しい山道を歩く。今夜は山中で野宿となる。季節は秋になり、夜は冷え込むようになってきた。だがもうすぐ、旅の目的地であるミヤコに着く。もう少し、あともう少しだ。

 やまとは、思った。

 このクニの中心であるミヤコとは、どのような所なのか。話に聞く、貴人の住まう屋敷があり、このクニで一番偉い、ミカドが居る場所……。

 そこで、自分は何をするのだろう。同行者のおろちも、しかとはわからないという。

 彼は、十代半ばの年齢にしては幼く見える表情をほんの少し、曇らせた。自分の屋敷に暮らしていた時と比べて、陽に焼けて少し逞しくなったが、明らかに庶民とは違う、育ちの良さが表れている外見はそのままだった。


 やがて陽は中天を過ぎ、西へと傾いた。

「……腹減ったな。誰かが食っちまったせいで、昼飯抜きだったからな。 ……しゃあねえ。なんか、狩ってくらぁ」

 おろちは言い、兄妹二人にはここで待っているように告げて茂みをかき分け、山奥へと入っていった。うまく獲物を見つけられれば良いが……。

 こうした旅には慣れているおろちのことだ、獣や山鳥を狩れなくとも、木の実や果実など、何らかの食料を見つけるだろうと、やまとは楽観した。

 周囲を探り、今夜の野宿に適した場所を定める。風を防げる寝場所をつくり、夜に向けて火をおこす準備もしておく。

「……兄様」

 ゆうが、ふいに言った。

「……ああ。どうやら僕らにお客のようだ」

 やまとが応じ、言ノ葉を宿らせた札で探る。足音を殺して茂みをかき分ける数人の接近が感じ取られた。

 五人……いや、六人か。このあたりを縄張りにする山賊であろう。

「どうします、兄様? 戦いを避けて逃げるのも今ならできそうですが」

「……いや」

 やまとは首を振った。

「どうせ逃げてもまた追ってくるだろう。山の中の一本道、追跡は容易い。陽のあるうちにカタをつけておく方が良い」

「なるほど。兄様、流石です。ゆうも微力ながら助太刀いたします!」

「……いや、ゆうに頼ることはないと思うが」

 今やはっきりと、ガサガサと木々をかき分ける音、数人の男たちの足音も聞こえてきた。

 どうやら向こうは子供しか居ないと見て、油断したようだ。

 茂みの中から、一人目の山賊が顔を出した。

 いわゆる山賊、というのを思い浮かべればその外観に関して説明は必要ないだろう。

 汚れた粗末な服、髪も髭も伸び放題の品のない顔。手には大きく太い、切れ味よりも重さで叩き切るための刀。

 続いて現れた仲間たちも似たようなもので、手に持つ武器が多少違ったりする程度だ。弓矢を持った者もいれば、おおきな金槌を持った者もいる。

「おう坊主、おとなしく金目のモンをすべて寄越せや。そうしたら命は助けてやる。俺たちはな、無駄な殺生はしたかぁねぇんだよ」

 山賊の長らしき男が言う。

 相手がまだ子供、それも一人しかおらず持っている荷物にも高価なものはなさそう、と見ての言葉だ。はっきり言って、はずれを引いてしまったと思っているのだろう。それでも少なかろうが何だろうが盗れる物はとる、というのである。

「残念ですが」

 やまとは落ちついた口調で相手の目を見据えて言う。

「僕には、あなた方に施しをしてあげる程の余裕がないのです。あしからず」

 完全に相手を見下した物言いであった。

「……おい、なんの冗談だ? 小僧、手前俺たちに勝てるとでも」

 山賊の言葉に耳を貸さず、やまとは腰に差していた木刀を構える。

 山賊の中に一人、剣の心得のある者がいた。その男から見て、やまとの構えはまるきりの素人、剣を扱える人間のそれではなかった。

 つまり、六人の山賊に対して自分の敵ではない、と余裕の言葉をもらした子供は、使えもしない木刀を構えただけの、ただのガキという事だ。

 山賊たちの表情が険しくなる。こんな子供に、完全に馬鹿にされたのだ。

「生意気な口をきいた罰だ。死ねや!」

 長の言葉に従い、ふたりの男が大きく重そうな剣を頭上に振りかざし、やまとを襲った。

 やまとはその刀に向かって、木刀を振るう。

 ぶん、と空を切った。

 ふたりの山賊の体はおろか、刀にすら当たっていない空振り。

 だが、

 山賊の刀が見えざる力によって、弾き飛ばされた。

「な……」

 山賊は、何が起こったのか理解できなかった。

 見ると、やまとを襲った二人だけでなく、後ろに居た四人の武器も、その手を離れて地面に転がっている。

「なんだ、小僧! てめえ……物の怪か?」

 やまとは相手を威嚇するように、手にした木刀を突きつけた。

「そのようなモノです。悪いことは言わないので、僕らに構わないでください」

 木刀の刀身部分に淡い光がまとわりついている。

 その光には、


 『弾』


 という字がぼんやりと浮かんでいた。

 対象がなんであれ、すべてを弾き飛ばす、あるいは弾き返す力を持つ言ノ葉を、木刀に宿らせてあるのだ。

「くっ…… 行くぞ、野郎ども!」

 逃げ出そうとする山賊をやまとは呼び止める。

「あ、ちょっと。忘れ物ですよ。物騒なものはお持ち帰りください」

 地面に転がった、山賊たちの武器。

 屈辱に顔を真っ赤にした山賊は武器を拾い、茂みの中へと消えた。

「覚えてろよ!」

 と、実にありふれた捨て台詞を残して。

「ふう。物わかりの良い人たちで助かった」

 木刀を再び腰に下げ、野宿の準備に戻る。

 かっこよかったです、兄様! と、ゆうがあたりをとびまわってはしゃぐ。

 山賊がすぐに退散してくれて助かったのは、長い争いになると、木刀に宿らせた言ノ葉の力が弱まってしまうからだ。


 この木刀は、天狗が用意してくれたものである。

「これはな、そんじょそこらの木刀とは違う、逸品じゃ」 

 天狗、と名乗る僧形の老人は誇らしげに言った。

「かの太陽神様が祀られた神社の境内の、齢数百年と言われる神木の枝から削り出したモンじゃ。しかも、作ったのは当代きっての長像職人よ。いわば、神様と長様の力を併せた奇跡の剣じゃ。お前にやろう」

 鼻高々といった表情で、天狗はやまとに木刀を渡す。

 言われると確かに、厳かな雰囲気を感じるような気もする。

「そのような貴重なものを……。ありがとうございます、じじ様」

 やまとは天狗の事をそう呼んだ。おろちがジジイと呼ぶのに対して、彼なりの脚色を加えた呼び方であるらしかった。

 初めてそう呼ばれた時、天狗は目を丸くし、やがて相好を崩した。

「じじ様……良い響きじゃ。やまと、お前は良い子じゃな」

 まるで初孫の相手をする好々爺のような表情であった。

 木刀を授けた時も、やはり天狗はやまとの言葉に満足そうに頷き、

「なあに。この剣が、お前の身を護ってくれるなら、安いものよ」

 その言葉に、うんうんと頷いているのは宙にぷかぷかと浮かんでいる、ゆうである。

「そうです! 兄様の身の安全のためなら、その程度は当然なのです。 ……いや、むしろ不足なのでは! じじ様、もっと良いものはなかったのですか? それで本当に兄様は安全なのですか!」

「……同じ呼び方でも、お前さんに言われると何故か、あまり嬉しくないんじゃな……」

 天狗は、納得のいかない表情で顎をさすった。


 ……そうした来歴をもつ、特殊な木刀で六人の山賊を撃退したのである。

 言ノ葉はどんなものにでも宿らせることができるが、対象となる物の力が強ければそれだけ言ノ葉の力も強まり、長く力を宿らせておくことができる。この木刀は天狗が奇跡の剣と言うだけあり、言ノ葉を半永久的に宿らせる事ができる。

 ただし、その力は使えば減り、弱まっていく。

 猪を肩に担いで戻ったおろちはやまとの話を聞くと、わずかに眉根を寄せた。

「で、お前はそのまま賊を逃がしてやったのか」

 と、やや厳しい表情で聞く。おろちも当然、賊の接近には気づいていたが、ただの人間がやまとに敵うわけはないので捨て置いたのだ。

「ええ。僕のことを物の怪の類と思って、恐れていましたから」

「……やまと」

 おろちは諭すような口調で言う。

「いいか。相手はお前を殺して、金目のものを奪おうとして来たんだ。それをお前は返り討ちにした。そんなら、逆に相手から何か奪ってやるのは当然だと思わねえか?」

 やられたらやり返す。目には目を、歯には歯を。それはごく当然の考え方だと思うのだが。

「……そうでしょうか。そんな事をしたら、相手に僕を恨む気持ちが残ります。それは将来への禍根となり、この先の不安要素を増やしてしまいます」

 冷静そのものの表情で言うやまと。おろちは小さくため息をついた。相手を殺してあと腐れをなくす、という選択肢はなかったようだ。

「ま、そうだな。それがお前さんのやり方だもんな」

 まあいいさ、それは俺が感情の一部を封じたせいでもあるんだろうしな……。

 手際よく猪を切り分け、焼いていった。貴重な塩も使い、豪勢な夕餉になった。ゆうの世話を焼きながら、無邪気な表情で肉を口に運ぶ少年の顔を見ながら、おろちは思う。

 やまとは、優しすぎる。

 今日のような、ただあしらって追い払うだけで済む相手なら良いが、これからミヤコに近づくにつれて、色々な意味でもっと物騒になってくるはずだ。天狗が何をさせようとしているのかはわからないが、言ノ葉の力が必要というのはつまり、普通の手段では対処のできないものが相手ということなのだろう。

 その時やまとは相手に情けをかけたまま戦って、生き残ることができるのか?

 わからない。

「……ま、そもそもあのジジイが俺たちに何をさせようとしてんのか、ってのもわからねえんだからな。考えるだけ無駄ってもんか」

 満腹になったおろちは、ひとりごちて夜空を見上げた。星があまり見えない。雲が月にかかった暗い夜だ。

 ほう、ほう、と鳥の鳴き声。焚き火の煙が空へのぼり、夜風にたなびく。

「じじ様は」

 やまとも食事を終え、口を開く。

「僕たちにミヤコへ行けと命じられました。それからどうするかは、自ずとわかると。それはつまり……水先案内人がいるということでしょうか?」

 その言葉におろちは首をひねる。

「さあなあ……。あのジジイが、そんなに素直に事を進めてくれるとも思えねえんだが」

「そもそも!」

 横から口を挟んだのは、ゆうである。

「あの天狗というじじ様は何者なのです! 素性といい目的といい、まるではっきりしない。謎だらけではありませんか!」

「食べながらしゃべるな! 飛び散ってんだよ、肉の食いカスがよ!」

 おろちが抗議する。

「あんな、得体の知れない者を信用しても良いのですか? 兄様に万一の事があったら」

 いや、得体の知れねえ、って……。

「お前が言うか?」

「言いますとも。ゆうは兄様の妹ですから」

「ああ、うん……。そうかい」

 そう、妹なのだ。ゆうは、やまとの。


 翌日は、雨だった。

 雨の中の行程は足も遅くなるし、体力を消耗する。食料は前日の残りで良いとして、あまり遅くまでは歩かずに雨風を防げる場所を早めに確保し、翌日に備えるのが良い。

「こりゃあ、おあつらえ向きだな」

 手頃な洞穴を見つけ、おろちは喜色を浮かべた。

 大人が軽く腰をかがめて入れる程度の高さ、奥行は外から奥まで見通せる程度。野生動物が巣穴にしている様子もないし、ちょうど風の入らない方向に口を開けている。

「今夜の寝床は決まりましたね、兄様!」

 ゆうが張り切った声をあげる。そうだな、とやまとは応じるが、

「お前、雨の中では姿消して……。今になって急に出てくんなよ」

 おろちが呆れた声をあげる。

「ゆうは、この世界では弱い存在です。いたわっていただかないと、儚きこの身、消えてしまうかもしれません!」

 自分の胸に両手を当て、何もない洞穴の天井を見上げて言う。

「勝手に消えてろ。どうせ腹減ったら出てくんだろ」

 おろちの悪態に、ゆうは目を見開いた。

「そう。そうです! ゆうはお腹がすきました。何しろ今日は一日休んでおりましたゆえ、 暇だと余計に空腹になるという、あるあるです!」

「あー、うるせえな! 昨日の肉が残ってっから、勝手に食ってろ!」


 あの日。少年が家族を皆殺しにされ、家を焼き払われたあと。

 天狗とおろちは気を失った少年を連れて行く事にした。こうなってしまっては他にしようがない。もう少し先かと考えていたが、既に覚醒してしまったのだから。

「ジジイ、妹の死体はどうするよ。弔ってやんのか?」

「……ああ。そうじゃな」

 天狗は結の小さな身体を抱き上げ、燃え盛る屋敷へと歩を進めた。

「おい……ジジイ?」

 炎の強そうな場所を選び、死体を無造作に放り入れた。

「おい! てめえそれでも坊主か! なんて事しやがる!」

 おろちが血相を変える。

「これが、弔いというものよ。あの少女の魂は炎でその身を浄化し、煙となって天へと昇っていったのじゃ。両親と一緒にな……」

 うそぶいて、夜空にもうもうとあがっていく煙を見上げた。

「さあ、行くぞ。人に見られたくないからの」

 少年を抱えるようにおろちが自分の馬に乗せ、二人は走り去った。

 そして目が覚めた時、少年はすべてを忘れていた。

 その様子を見た天狗は、何やら満足そうな表情を浮かべた。それを見ておろちは老人が仕組んだことなのだと、わかった。

「目が覚めたか、やまとよ」

 天狗は、そう呼びかけた。

「や、ま、と……?」

 少年は、焦点の合わない目をぼんやりと漂わせながら言った。

 場所は、天狗の用意した家の一室。少年の暮らしていた村から山をひとつ越えたところにある集落の、長の家だ。この謎の老人はこうした『都合の良いもの』を、どこからともなく調達してくる。今までおろちはいくつも目にしてきたが、それはこのクニのどこであれ、可能であるようだった。

 一体どれだけの伝手があるのか……。出会ってからもう二十年近くになるが、おろちにとって天狗は未だに謎の人物である。

 上等な布団の上で目覚めた少年は、生まれたばかりの雛鳥のような目で僧形の老人を見つめている。

「ああ、そうじゃ。それがお前の名じゃ、やまと。大いなる和、という字を書くんじゃぞ」

「大いなる、和……。やまと……」

「そうじゃ。よく覚えておけ、やまと。お前はこの世のすべてを和をもって収めるのじゃ」

「すべてを、おさめる……」

 ぼうとしたまま、おうむ返しのように天狗の言葉を繰り返す。

 なんだか、少年を洗脳しているような……おろちは不安になった。

「お、おい、ジジイ」

「黙っとれ!」

 天狗は、一喝する。

「じじい……?」

「ああ、そんな汚い言葉は聞かんで良い。お前さんはこれから、注意深く言ノ葉を編んでいかねばならん。言ノ葉には言霊という力が宿っておるんじゃ。お前はその力を借りて、この世の悪しきものを倒し、平穏に導かねばならん……」


 ……胡散臭ぇ。


 おろちは、思った。初めて出会った頃から思っていたが、やはりこの老人は信用できない。子供の時、山寺から自分を救い出し言ノ葉遣いとして育ててくれた恩は確かにあるが、それは天狗が自分の目的のために必要だからしただけ、とはっきり言っている。

 そして、いずれ返してもらう時が来る、とも。

 だからおろちは遠慮なく老人のことを胡散臭い、と思うのである。

 ……大体なんだ。悪しきもの、って。

 天狗の側から見て悪い、ってだけでそう決め付けてるだけだろうが。善悪なんて、所詮は表裏一体のもんだ。

 すべてを失った少年を、自分の都合の良い手駒に仕立てようってだけじゃねえか。

 憤りを感じたものの、自分が天狗の思惑にのって少年を連れてきたのは事実だ。

 そして結局、この謎の老人の言うことを聞いて、少年と一緒に何かをやる事になる。

 ……俺も同じ穴の狢だな。

 おろちは、胡散臭い老人と純真な瞳の少年を残し、部屋を出て行った。


 そのまま数日間、おろちは少年と天狗の居る家に近寄らなかった。

 そして、次に見た時には少年はやまとになっており、その横には、ゆうが当然のような顔をして宙に浮かんでいた。

「ありゃあ、一体なんなんだ?」

 おろちは天狗に聞いたが、老人が何かしたわけではないという。

「あの子の、欲じゃろ。ほんの少しだけ残っとる、ささやかなわがままじゃ」

「わがまま……?」

 ちょろちょろと周りを飛び回る着物姿の童女を、やまとは何かと構ったり、たしなめたりしている。

「やまとの無意識が求めたもの、まあ……、物の怪じゃな。座敷わらしのようなものと思っておけば良いじゃろ。悪いものじゃあないわ」

「確かに、言われてみると座敷わらしっぽいな」

 妙に納得してしまったおろちだが、座敷わらしを実際に見たことがあるわけではない。

 そのまましばらく滞在し、天狗とおろちはやまとを言ノ葉遣いとして鍛えた。

 そして三人で、こうして旅をしてきた。

 行けばわかる、という天狗の言葉に従ってだ。

 こういう時の老人の言葉には、ちゃんとあとで納得できる理由がある、というのをおろちは知っていたので素直に従った。

 ただし、やまとには伝えていないが、もうひとつだけ言われていることがある。

 それは、やまとを少しでも多く戦わせよ、というものだ。相手は人であろうが人ならざるもの、妖怪変化の類であろうがなんでも良い、とにかくやまとをミヤコに着くまでに言ノ葉遣いとして成長させるように、と指示されているのだ。

 それが、『護る術』であると。

「……強くなってねえと、ミヤコで命を落とすかも知んねえ、ってことだよな」

 本来、少年を言ノ葉遣いとして育てるのはもう少し先のはずだったのだ。それが不測の事態で早まってしまい、旅が始まった。旅に出るのはもう少し言ノ葉の扱いを学んでから、というのがおろちの意見だったが、天狗はミヤコの状況がそれを許さなくなった、とだけ告げ、出発を命じたのだ。

 おろちは胃の奥に重いものを感じた。自分がどこまでやまとを守ってやれるのか、そもそも自分達に何とかできるような相手なのか。不安材料が多すぎた。


 そうして、次の町へ着いた。

 山道を抜け、木々が途切れて急にぽっかりと開けたような場所。明らかに山を切り崩してつくった集落だ。あまり古い町ではないように見える。家屋も多く、東国なら領主の治める町くらいの規模だ。

「へえ。意外と賑やかだな。これなら、しばらく逗留していっても……」

 おろちが嬉しそうに言う。

「おろちは、休むことばかり考えますね。ミヤコへ行くのは、じじ様の命令なのですから」

 やまとは言いつつ、それでも久しぶりの町に表情を明るくしている。

 大きな通りには様々な店が並び、人通りも多い。東国から旅をしてきてミヤコに近づくに従って人々が裕福になっているのが実感できる。

 ただし、それと比例するように貧しい人々が増えているのも事実だ。大通りなど町が見せる表向きの顔の裏で、日々の糧もままならぬ者が身を寄せ合っているのをいくつも目にしてきた。

 この町も、きっとあぶれ者の吹き溜まりのような場所があるに違いなく、そこには諸国から流れ着いてきた、得体の知れない連中が集まっているに違いないのだ。

「とりあえず宿を探すか。飯はそれからだな」

 まずは大通りを歩き始める。馬や車はあまり通らないらしい。地面に残っているのはほとんどが人の足跡ばかりだ。

「おろち! それで良いのですか? 衣食住、というように住よりも食と衣が優先なのではありませぬか!」

 ぶんぶんと飛び回るゆうが抗議の声をあげる。

「うっせえな、お前は食だけ足りりゃあそれでいいんだろうがよ! ……ああ、あんまり話しかけんじゃねえ。変な目で見られるだろうが」

 おろちは声をひそめた。

 通りすがりの町人が驚いた目でおろちを見、そしてすぐに逸らした。

 大声で独り言を言いながら歩く旅装束の男。奇異な視線を向けられるのは当然である。

 ゆうは、やまとが認めた相手にしか、見えないのだ。

 やまとが心を許した、というべきか。そういう相手しかゆうは見えないし、声も聞こえないのである。物の怪のようなものと思えば納得もできるが、こんなにもうるさい小娘が他の人には存在すらわからない、というのは妙な気分になる。

 ただし、霊やあやかしを感知する能力の高い者には、そこに何かが居るという事はわかってしまう。

「ゆう。おとなしくしなさい。おろちはこう見えて、意外に恥ずかしがりなのだ」

 やまとが妹をたしなめる。

「お前も、一言多いんだよ……ったく」

 最初に見つけた宿に入り、聞いてみると空いている部屋はある、という。

 東国では見かけない造りの、立派な建物だ。

「しっかし、こんな山の中に何でこんなに人が居るんだ? 結構店も多いし」

 おろちが宿の女将に聞いてみる。

「へえ。近くに銀の出る山があるんですわ」

 温厚そうな笑みを浮かべて女将が言う。

「云うても、人夫さんは飯場を建ててそっちで寝泊まりしますけどなぁ。ミヤコから来はる現場を監督するお人やら、なんやようわからん偉いお人やらは、こちらでお泊りいただくこともありますわ。あとは荷運び、商人さん、旅の芸人さんなんていう方もたまに見えますなぁ」

「ほう、銀が」

 銀山に近いため、この町には人や物が集まってきているというわけだ。そして人が集まる場所には、厄介事のひとつやふたつ、あるものだ。

「ところで女将。このあたりで、怪異や物の怪の噂なんてぇもんは、聞かねえか?」

 おろちは、切り出してみた。

「へえ。怪異に、もののけ……ですか。あるにはありますが……。そないな事、聞いてどないしはりますの?」

「俺たちゃ、旅の拝み屋でな。呪いや憑き物、あやかしから物の怪まで何でもござれで解決すんのが生業なんだ。そんで、ここにも俺らの飯の種はねえもんかと、そういう訳さ」

 拝み屋、と言ったのは、いわゆる呪術師の事だ。呪術という、不可思議な術はミヤコの『影光師えいこうし』が扱う術であるが、そうした『正式なもの』でなく、平民の中にも人を呪ったり、あるいは逆に祓ったり、式神や使い魔などを使役したり、という人ならざる力を扱う者がいるのである。 ……ただし、大半はインチキであり、そうでなくとも胡散臭い人間であるのは間違いない。

 そんなものに頼らざるを得ない、という程の厄介事であれば、逆にそれは本物の怪異である可能性が高い。だからあえて、おろちはいかにもインチキ臭い言い方で自分たちの事を説明したのである。

 何しろ、怪異というのは『よくわからないもの』であるため、見間違いや勘違いを物の怪と思い込んだり、病を呪いや憑き物と混同したり、という事がよくあるのだ。

「言っとくがな、腕は確かだぜ? 俺たちゃこのクニのあちこちで魑魅魍魎、妖怪変化を退治しまくってきてんだ。どんなのが相手でも、負けやしねえ」

 自信に溢れる口調で、言った。こうした通常の会話でも、言ノ葉の力は僅かに働く。

「へえ」

 女将は、しばらく口を閉ざし、何かを考えている顔だった。

「それやったら直接聞いたってもらえます?」

 そう言って女将がおろち達を連れて行ったのは、町の賑やかなあたりから外れた一角にある、一軒の家屋だった。

 小屋、と言った方が実情に近い、粗末な家である。

「ここの嬢ちゃんが、狐憑きになってるんですわ」

 言いながら女将は、入るよ、と言いながら引き戸を開ける。

 入ってすぐの土間に、母親らしき女性がぽつねんと座り込んでいた。髪にも肌にも艶がなく、ひどく老けて見える。心労が全身に及んでいるのがわかった。

「あなた方は……?」

 目の前に現れた見知らぬ二人の男たちに対しても、さして興味がないように見える。

 疲れきって、現実がどうでも良くなっているようだ。女将が要領よく説明する。

 ゆるゆると首を縦に振った母親は、奥の部屋に娘は篭っている、という。

 半々といったところだな、とおろちは内心思う。

 狐憑きになる、狐に憑かれる、とはよく聞く話で、まれに狐憑きの家系である、といわれる家もある。狐憑きがある程度の確率で現れる血筋、ということだ。

 それだけ巷間に広まっているため、他の呪術や、あるいは単なる気狂いでおかしくなっていても、狐憑きと一緒くたにされる事もあるし、また、本人の『騙り』である場合もある。

 何らかの理由で自分がおかしくなった、と周囲に思わせたい場合だ。そうした時にすぐ思いつくくらいに、知られた怪異であるのだ。

「そんじゃあ、子ギツネこんこんと、ご対面といくか」

 軽口を叩き、遠慮なしに扉を開ける。

 その部屋の中は、暗く、湿って、すえた臭いのする空間だった。

「うっ……。これは、不潔です!」

 ゆうが着物の袖で鼻を覆う。おろちは、そこまで気にする程のものじゃねえ、と思いながら、無造作に室内へ入る。

 窓には板が打ち付けられ、明かりが入らないようになっている。床板は、あちこち傷み、歩くと穴があきそうだ。

 ほとんど家具もない狭い部屋の中、膨らんだ布団が嫌でも目につく。

「おろち、あれが……」

 やまとが指さす。

「わかってる。お前は、とりあえず下がってろ」

 庇うように自分の後ろにやる。ゆうは、そうです兄様が妙な病になったら大変です、などとうるさいが、そうではない。本当に狐憑きだった場合、咄嗟の対処が間に合わなくなるかもしれないからだ。

「おーい、狐さんよぉ。拝み屋があんたを退治しに来たぜ?」

 がばっと、掛布団をはぐ。

 するとそこには、胎児のような格好で丸くなった娘が眠っていた。すやすやと熟睡しているようだ。

「あー、えっと……。これが、狐憑き?」

 おろちは反応に困った。しゃがみこみ、よく眠っている娘の様子を見る。

 年の頃は十代半ば、やまとと同じくらいだろうか。着たきりであろう寝間着も汚れているし、髪も長らく洗っていないのが分かる。だが、特に禍々しいものは感じない。

「ええ。訳のわからん事ぎょうさんしよった挙句、冬眠してしまいましてん」

 母親は気の抜けた声で言う。

 いやいや季節はまだ秋だぞ。

 おろちは、そう言うべきかどうか迷ったが、やめておいた。

 聞けば、もうひと月近く眠り続けているらしい。当然その間飲まず食わず、なのだが娘の顔色も悪くないし、衰弱しているようにも見えない。

 どうやら、これは。

「狐憑きじゃねえ。こりゃあ……なんかの呪いだろうな」

「呪い、ですか? でも、こんな娘に誰が」

 やまとの言葉はもっともである。こんな貧しい家の娘を眠り続けさせて、いったい誰が得をするというのか。

 ともあれ。誰が、何故、という疑問を棚に上げてしまうなら、言ノ葉で現状を正すことは容易だ。すぐにでにも、この娘を起こしてやることはできるだろう。

 だが。

「娘さんは、誰かに眠らされてるはずだ。心当たりはねえか? この子本人やあんた、あとは父親が恨みを買っているとか」

 おろちは娘の母親に問う。

「恨み……さあ。そんな心当たりは……。父親は、とうに居りませんさかい」

「居ねえ? 死んだのか」

 おろちの言葉に母親は、ええと首肯する。

「山で銀を堀っている時に、事故で……まだこの子が小さいうちでした」

「そうか。そいつは気の毒にな」

 おろちは、さして気の毒でもなさそうに言った。

「どうする、この娘の目を覚ましてやるのは簡単だ。だがな、誰がやったのかわからねえままだと、後でまた眠らされるかも知れねえし、次は命を取られるかも知んねえ。本当に、なんかねえのか? 逆恨みみてえなモンでもよ」

 お客さん、と宿の女将が声をあげる。

「実は私たち、姉妹でして」

 娘の母親を示して言う。

「そう言われれば、似てる気もするな。 ……で?」

「へえ。云うても義理ですけど。妹は、旦那を亡くしてから女手一つでつつましく娘を育ててきました。他人様に恨まれるようなことは、決して」

 あらしまへん、と首を振る。

「私らも、援助はしておりましたが、ほんまに苦労して……、そうしてようやっと嫁入りが決まった矢先に……」

 娘は婚礼前だったのだ。この時代に、この年齢なら早すぎるということはない。

「狐の嫁入りになっちまったって訳かい」

 おろちが言う。

「上手くない! 駄洒落同然です!」

 ゆうが批評する。

「うるせえ!」

 思わず出てしまった大声に、ゆうが見えない姉妹は驚く。

「失礼しました。おろちは、既にこの世のものでない存在を感じているのです」

 やまとが言い繕うと、女性ふたりは、ああ、と納得した顔になる。

「……じゃあ、どうする? この娘、起こしちまっても良いのか」

 おろちの言葉に、姉妹は顔を見合わせ、逡巡する。判断など、つくはずもない。

「おろち。呪い返しをやってみませんか」

 二人の様子を見て、やまとが言う。

「おい、そりゃあ」

 やまとは簡単に言ったが、呪い返し、呪詛返しというのは非常に危険な術だ。

 俗に、人を呪わば穴ふたつ、という。こちらも死を覚悟して行なう必要があるのだ。

「でも、僕らの力で行なうのですから」

 おろちとやまとは本物の拝み屋……呪術師ではない。言ノ葉なら、誰かのかけた呪いの向いている方向、それ自体を捻じ曲げてしまう事ができるはずだ。

 そうなれば、いわゆる呪い返し、呪いを呪いで返すのとは違う、呪い自体を呪術師本人に丸ごと突き返す事が出来るはずだ、とやまとは主張する。

「しかし、そううまくいくか?」

 おろちは懐疑的であった。確かにやまとは桁外れに強い力を持っているが、どんな人間がどんな呪いをかけているのかも分からないのに、それをそっくりそのまま返す、というのはあまりに……

「危険、でしょうか? やはり」

「大丈夫です、兄様ならやれます!」

 逡巡するやまとの背を、ゆうが押した。

「そう思うか、ゆう」

「ええ。兄様が出来ると言うならできるのです! 万一危険なことがあったら、おろちが盾になれば良いのです!」

「お前なぁ」

 自分たちには見えない存在も交えて相談を始めた二人の『拝み屋』を、姉妹は不安そうに見つめる。

 しかし、おろちは今の言葉で確信した。やまとは、呪い返しができる、と信じている。つまり、やまとの心中で既に、その言ノ葉が編まれているのだ。

「わかった。お前を信じるぞ、やまと。いざって時は、俺が盾になってやらあ」

「そうですおろち! それで良いのです。それでこそ捨て駒」

 ゆうには構わず、おろちは立ち上がった。

「じゃあ、娘さんに悪さしてる奴、とっちめてやるからよ。暫く出ててくれるか? この部屋を封印するから、扉は開かなくなるが心配すんな」

「ええ、あの……大丈夫なんで?」

 母親が不安そうな表情で聞く。

 困り果てて、素性もわからない怪しげな連中に頼ってしまったものの、いざとなると娘の身が案じられるのだ。

「任せとけ。あのガキはな、ああ見えてすげえ拝み屋なんだぜ?」

 やまとは、懐から取り出した紙に何かを書き込みはじめた。その筆使いは慎重で、一つひとつの画、はね、止めに全霊を込めるように手を動かしている。

「さ、出てってくれ。暫くしたら娘さんの元気な顔、見せてやっから」

おろちは二人を追い出す。

「ほな……お願いします」

 扉が閉じられた。小さな部屋の闇が密度を増し、つん、と鼻を突く異臭が強まった気がした。

 おろちは部屋の四隅、扉、板の打ち付けられた窓を封じていく。やまとと違い、ほとんど殴り書きに近い乱暴さで書かれた『封』の文字が宙に現れ、小さな部屋を封印していく。どこかに隙がないかと念入りに確認する。

 呪いの正体がはっきりしない以上、何が起こるかわからない。この部屋の中を外とは異なる世界として封じ、万一の被害を広げないようにしなければならない。そしてそれは、どこかでこの娘に呪いをかけている相手からの攻撃を防ぐためのものでもある。この程度の結界など、力のある呪術師なら容易く破ってくるだろうが、少なくとも時間稼ぎ、不意打ちを防ぐくらいの効果はあるはずだ。

「できました」

 やまとが筆を置く。相当、精神をすり減らしたのだろう、額に汗を浮かべている。

 彼の前には数枚の札が。全てやまとが言ノ葉の力を与えるために筆を運んだものだ。

「よし。じゃあ、やるか!」

「はい!」

 やまとは眠り続ける少女に向け、口を開いた。

「大いなる和のもとに命ずる。この者に降りかかりし禍いよ、その元なる者へ反れ!」

 宙にその指を運ぶ。ゆったりとしたその動きが輝く軌跡となり、一つの文字を浮かび上がらせる。


 『反』


 文字はおろちとは違い、青白い光を放つ。

 光の文字は娘の額に、すうっと吸い込まれるようにして、消えた。

 次の瞬間。娘はかっ、と目を見開き、人間の動きとしてはありえない動作で布団の上に立ち上がった。髪を振り乱し、やまとに手を伸ばす。

「うわっ!」

 やまとは後ずさり、彼女から距離を取る。

「一体、これは……?」

「離れろ、やまと!」

 髪が乱れて表情は見えないが、娘は明らかに尋常ではない。

 呪いを術者に反すのは、失敗したのか?

「なぜだ? 言ノ葉は確かに効いているはず……」

 本来であれば、どこかにいる呪術師に呪いが反されて娘は目覚め、正気になっていなければならない。だが、彼女はまだ呪われたままだ。

「僕の、言ノ葉が不完全だったのか?」

「そんなはずはありません! 兄様はいつでも完璧です!」

「そういうのは後にしろ、あとに!」

 めちゃくちゃに暴れ始めた娘。

 壁と言わず床と言わず、あちこちを叩き、蹴り、跳ね回り走り回る。狭い部屋の中、三人は娘を避けるので精一杯である。

「があああァァァァァァ!」

 獣のような叫び声をあげる娘。

「くそっ!」

 おろちが『鎮』の文字を宙に書きなぐる。一瞬、娘の動きが穏やかになったが、すぐにまた暴れ始める。

 ……そうか。呪いじゃない。

 これは、やはり憑き物だったのだ。何かが娘に取り憑き、体の中から眠らせていたのだ。

 まさか、眠るために誰かに取り憑くなど考えもしなかった。

 やはり、もっと慎重に行動するべきだったと、やまとは後悔した。おろちはいつも、やりたいようにさせてくれる。それは彼が基本的に物事を深く考えるのが苦手、という事もあるのだが、やまとの気持ちを優先してくれるのだ。

 だからこそ、早計だったと思った。

「まずい……。相手を攻撃する言ノ葉しか、用意していない」

 呪詛返しをした相手が封印を破って、どこからかこちらを襲ってくる危険は予測していたが、相手は娘の中に居た。彼女を傷つけずに取り憑いたモノだけを攻撃するなど、不可能だ。

「兄様! やはり狐憑きです! このままではこちらが危のうございます。退治してくださいませ!」

「駄目だ! 僕らはこの娘を救うのが役目だ、それを忘れてはならない!」

 やまとは言ノ葉の力が強いが、文字にして表すのが遅い。ゆっくりと書き記さないといけないのだ。だから、木刀や札にあらかじめ言ノ葉を宿らせておくのである。

 おろちは書くのは早いが、あまり強力な言ノ葉を編むことができない。

 『収』という字をいくつも宙に書きなぐる。その字を娘に投げつけるようにして、彼女の暴動を少しでも収めようとするおろち。

「妙です!」

 ゆうが叫ぶ。

「何がだ!」

「こんこんと……鳴きません!」

「…………」

 誰かこいつに、場の空気を読む、という技術を与えてやってくれ。

「やまと! 俺が何とか時間稼ぐから、言ノ葉を!」

 おろちは気を取り直し、必死に次々と言ノ葉を書きなぐっていく。長い時間はもたないだろう。

「わかりました!」

 やまとは、暴れ狂う娘との間の空間に視点を定め、自らの心の中から浮かんでくる言ノ葉を編み始めた。


 彼女は、何に憑かれている?

 なぜ、彼女を眠らせていた?

 どうすれば彼女は……彼女に憑いたモノは、鎮まる?

 やまとはゆっくりとした動きで、指先を宙に走らせた。

 青白い光の軌跡が文字になる。


 『明』


「大いなる和のもとに命ずる! 娘に取り憑きしモノよ、その正体を明かせ!」

 娘は金縛りにでもあったかのように動きを止め、目を見開いた。

 その目の光がすうっ、と失われ、そのまま床に倒れた。体から黒い霧のようなものが浮かびあがる。

「これは……」

 ぼうっ、とした霧は人のような形をとった。倒れた娘の上に形作られた、人影。

「お前は……、何者だ?」

 やまとの問いに、人影は答えない。

 やまとは、懐から札を取り出す。

 『破』と記された札。慎重に構え、影との距離を詰める。

 視界の隅で、おろちが肩で息をしている。矢継ぎ早に言ノ葉を編み続けたせいで、もはや限界のはずだ。

「答えよ!」

 やまとは声を張り上げた。単なる直感でしかないが、影が単なる魔物や下級な物の怪のようには思えなかったのである。どこかに知性というか、理性のようなものを持った存在のように感じられたのだ。

「答えぬのであれば、お前は何ら由なく娘に害を為した物の怪として、ここで退治してくれるぞ! だが、そうでないのであれば……」

「兄様! あやかしにそのような理を解いたところで……」

「そうだ、やまと! 相手がおとなしくしているうちに、やっちまえ!」

 おろちとゆうの意見が珍しく一致した。が、やまとは得体の知れない影を見据えたまま、相手の回答を待った。


 時が流れた。

 長い時間ではなかった。

 だが、神経をすり減らす時間の流れは非常にゆっくりとして、三人の我慢は限界に近づいていた。その時。

「ワ  シハ……」

 影が、不明瞭な言葉を発した。

 やはり。やまとは思った。ただの怪異ではなかった。

「ワシハ・タダ……ムスメノ……」

「娘? おめえ、まさか……この娘の親父か!」

 おろちが叫ぶように問う。そうか、とやまとは得心した。そうではないか、と心のどこかで感じていたのだ。

 胎児のように眠る娘。

 きっと、幼い時しか知らない娘を、寝かしつけていたのではないか。毎日遅くに仕事から帰ってきて見る寝顔こそが、父親にとっての娘であったのだ。

「……娘さんはもう、あなたの知る、幼な子ではありません。もうすぐ他の家へ嫁入りするはずだったのですよ?」

「ワシノ…… ムスメ…… ヨメイリ……」

「そう、嫁入りです。あなたが娘さんに会いたいばかりに……娘さんの婚礼を、狐の嫁入りにしてしまったのです」

「キツネ…… ヲヲ……ヨメ…… ワシガ……」

「娘さんは、幸せになるのです。あなたはこのまま、黄泉の国へお還り下さい」

 やまとは一枚の札を手にした。そこには『慰』の文字が記されていた。

 こんな言ノ葉を札に記しておいた記憶は、やまとにはない。

 無意識でなのか、いつの間にか記されていた札。まるでこの状況が訪れるのが、あらかじめわかっていたかのような言ノ葉だ。

 穏やかな声音で、やまとは述べる。

「大いなる和のもとに命ずる。この者の御霊を慰め、安らかなる眠りに導け」

 瞬間、眩い輝きが人影を照らした。影は、男の顔を晒した。陽に焼けた、たくましい体つきで目元の優しい男だった。

 光に照らされた影は消え、そのあとには床でうつ伏せになって眠る娘が残された。


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