序章「少年」
その少年は、荘園主の長男として生まれた。
ミヤコから遠く離れた東国の、片田舎の荘園主の跡取りとして。
荘園、とはこのクニを治めるミヤコから私的な管理、収穫を許された田畑のことで、その主は他の人間に農作業をさせ、収穫の一部を作業の対価として与える。
実際に作業をする人間を小作人という。農業を生業にする人、というと小作人を指すのが通常だ。
少年の家は、あまり広い田畑を持っているわけではなく、両親も一緒に働く小規模荘園主だ。とはいえ、その暮らしは地域で一番に贅沢なものであったし、強い発言権を持っていた。
彼は生まれた時から、小作人が一生かかっても住めないような屋敷に住み、身の回りの世話をしてくれる使用人が自分を次期当主として扱ってもらえる、恵まれた環境を当たり前のものとして受け入れていた。
生まれた時から、そうだったから。
それ以外の人生を知らないから。
この家の子供は、少年と妹のふたり。だが今、母親のお腹には赤子がいて秋には新しい家族が増える予定だ。もうそろそろ、家の雑事や農作業の手伝いなどから解放されて、ゆっくりとしてもらわなくては、と父が言っていた。
だから自分は、なるべく母の負担にならないよう良い子にして、家の手伝いや妹の面倒を見てあげなくては……そう、少年は思っていた。
少年は環境のせいか、あるいは生まれながらの性格なのか、おっとりとして他人にも、自分にも優しい、害のない子供だった。
だから、なのかも知れない。
他人の悪意というものに対して疎かった。理解がなかった。
少年にはわからなかった。
なぜ、自分たちが恨まれるのか。妬まれるのか。
……どうして自分の家が、家族が壊されなければならなかったのか。
「結! またこぼしているぞ。もっとお茶碗を口もとに近づけて。 ……ほら、左手がお留守になっている。 ……え? 左はお箸を持つ方の反対だ……」
昼食時に少年は自分の妹、結に口うるさく注意をしていた。
両親や使用人はそれを微笑ましく見守っている。
大きな部屋。畳二十畳以上もある、大広間だ。外からは春の爽やかな風が吹き込んでくる。明るい日ざしに包まれた、なごやかなお昼どき。
結は食事の作法だけでなく色々と、直さなければならない点が多い。
少年は思う。自分は長男であるから、父の荘園を受け継ぎこの家を盛り立てていくという将来が決まっているが、妹はいずれ、どこかの家へ嫁いでいかなければならない。
その時になって礼儀や節度をわきまえていない、となれば良い家へ嫁ぐこともできないし、たとえ出来たとしてもいずれ三行半を渡される事になる。
父も母も鷹揚な性格で、子供のしつけにあまり熱心でない。
だから自分がしっかりせねば、と、最近特に口うるさく注意をしているのである。だが言われた本人は不服そうに口をとがらせた。
「だって兄様。こうした方が食べやすいのです」
「それでは行儀が悪い。他の家で笑われてしまうぞ」
「結は、他のおうちでごはんなど、食べません」
「そんなことはない。いずれ結は、どこか他の家のおよめさんになるのだからな。そこで行儀が悪い、となったら、だんな様に嫌われてしまうぞ?」
「結は」
ぷいっと、頬を膨らませてよそを向く。
「兄様のおよめになるので、良いのです」
「だから……、言ったではないか。きょうだいはめおとにはなれないのだ。そんな事をするのはミヤコの貴人様だけだ」
「なぜキジンサマは良くて、結と兄様はいけないのです? ずるいです」
「貴人様は天帝様の血をひいた、特別な方々だからだ。だから良いのだ」
「ずるいです……。結も、キジンサマなら良かったのに」
ぐずぐずと言う結をどう説得するか、と頭を悩ませる少年。
片田舎の少年がミヤコの貴人……貴族、天上人に対して勘違いをしているのは仕方のないことである。
天帝……はるかな昔に天より降りてこのクニを築いた神は、多くの女性との間に子孫をもうけた。しかし、うまれた子供はみな、女ばかりであった。
天帝が『お隠れ』になるまでに百人あまりの子をもうけたとされているが、その全てが女だったという。もちろん、全員が健やかに育ったわけではなく、そのうち、子を産める年齢まで生きたのは半分以下であるといわれ、その女性たちは、普通の人間の男性との間に子供をもうけた。
神の血を引くのは非常に特殊なことであり、天帝から何十代も経たいまに至っても、相変わらず生まれる子供は女ばかりである。
はるかな昔から、天帝の血を引く女性たちの結婚相手として選ばれるのは、藤野森という家の男性と定められている。
藤野森の家も長い年月を経て天正、久安など多くの分家が生まれ、その中からクニの政治を担う、『内裏』へあがる者も居るが、重職は本家に近い者ばかりで占められる。
内裏の頂点である『ミカド』は、天帝の血を引く女性の内から選ばれる。つまり、その父は藤野森家の男であり、特にミカドが幼くして即位した場合には、摂政、関白として、このクニを実質的に支配する立場となるのである。
少年の言った貴人とは、藤野森家の男たちと天帝の血を受け継ぐ女性たちの事である。子供が女しか生まれず、男性は常に藤野森家の人間なので、近親婚ではあるが、兄妹間での婚姻、というのは普通ありえない。
……ただし、親子間では珍しくないが。
結局、妹に食事の礼儀を守らせることは失敗した。食後は勉学の時間となる。父親の方針で、荘園主の跡取りである彼は、農作業よりも知識や教養を身につけることを求められた。もちろん、こんな地方の荘園主がいくら教養を身につけたところでどうなるものでもないのだが、より中央、ミヤコに近いところへ繋ぎをもち、自分の荘園を拡大、地盤を強固なものに、という父親の希望があったためだ。
少年は幸い、身体を動かすよりも書を読んだり、それを書き写したり、といった勉学の方が性に合った。
座敷に正座し、文机に向かう。
その背後に小さな影が忍び寄る。
「そろーっ、と」
「……口に出ているぞ、結」
もう少しで後ろから兄の目を覆って、「だーれだ」とやろうとしていたのを止められてしまった。
「もう。兄様は面白みに欠けます」
「悪かったな。まだ、勉学の時間だ。あとで相手をしてやるから、結は表で遊んできなさい」
兄のあしらいに妹は頬を膨らませる。
「もう! また、子供扱いをして。結も、書を学ぼうと思ったのです」
妹の言葉に少年は目を見開き、少しの間ののち、笑った。
「ははは、結にはまだ、難しいと思うぞ?」
「そんな事はありません! 貸してください……うむむ、これは……わかりません! 兄様、これはなんと読むのです?」
仕方がないな、と少年は優しい笑みを浮かべ、
「いいかい結、これは長教という宗教の経典だ。経典というのは、そうだな……偉い人の教えを書いてある書物だ。最初のこれは、まず自分の欲を捨てなさい、という意味で……」
妹にもわかるように言葉を選びながら、海の向こうの大国から渡ってきた宗教である、『長教』の経典について、解説しながらそこに使われている字についても教えていく。
「さあ、次だ。これは、長教の始教さま、『摩達瑠 那阿賀』という方が木陰で休んでいる時の故事で…… 結?」
見ると結は彼の肩に頭を預け、寝息を立てていた。
「まったく……。だから言っただろうに」
使用人を呼び、妹を寝所に運ばせ、再び書にとりかかる。
その後、兄は勉学を、妹は睡眠を。
兄妹にとって最後の、平和な時間が過ぎた。
その日の夜。
夜中に少年は目を覚ました。
何かの物音……というより気配、と言ったほうが良いのか。胸騒ぎのようなものを感じたのである。
「なんだ……?」
板戸を少し開け、外を窺う。月の光があり明るいが、まだ夜中である。
いくら何でも起きるにはまだ早い。
それでも、家の中で人が動き回っているような、かすかな音がした。
使用人も、まだ仕事を始めるような時間ではないはずだ。
「兄様……?」
となりの布団で寝ていた結が目を覚ました。昼寝をしてしまったので眠りが浅かったのだろう。
「なんでしょう……。なにやら物音が……?」
寝ぼけまなこで起きだそうとする妹を手で制する。
「様子を見てくる。結はここにいなさい」
少年は言い残し、部屋を出ていく。
暗い廊下。ひやりとした感触がはだしの足の裏に。その感触は、彼を不安に駆り立てた。ひたひたと、自分の家なのに足音を殺して歩く。
……おい、早くしろ。時間がない
……たしか、このあたりだ……ああ、あったぞ
ひそめた声で交わされた会話が聞こえてきた。
部屋から忍び足で出てきたふたりの男。どちらも顔を布で隠している。
明らかに怪しい。盗人か。
少年は迷った後、両親のもとへ知らせに行くよりもまず、覆面のふたりが何をしようとしているのかを確かめようと決めた。息を潜め、盗人らしきふたりの後について足音を忍ばせる。
やがて建物の外へ出た。覆面ふたりはどうやら蔵へ行こうとしているようだ。蔵には米や麦などの穀物、金銀や絹、紙などの貴重な品が納められている。
やはり盗賊か。少年はそう結論づけた。父へ知らせに行こうとしたが、事態は更に悪い方へ進んだ。
蔵の前には、あと八人の覆面姿がいたのである。先ほどのふたりが蔵の扉の鍵を持ってきたらしい。開いた重い扉の中へ盗賊たちは忍び込んでいく。
賊は全部で十人。少年の家の使用人は六人である。相手は武器を持っていることも考えられ、人数を考えると取り押さえるのは難しい。
どうするか……?
少年は迷った挙句、両親の寝所へ向かった。自分では判断ができないと思ったのだ。
「父上、母上。起きてください。不逞の輩が……」
寝所の前で声を潜めた少年の言葉は、乱暴に開かれた戸によって遮られた。
中から出てきたのは見知らぬ男。身なりは貧しく不潔そうであったが、上背があり、全体に筋肉質な体つきをしていた。明らかに少年の腕力が及ぶような相手ではない。
「…………」
男は無言のまま少年の寝間着の首を掴むと、そのまま引きずるように力任せに室内へ投げ入れた。両親の寝所は雨戸が立てられており、灯りもついていないため暗い。先ほど男が開けた戸から射し込む月明かりが唯一の光源だ。
暗い床に尻餅をつく。身体を起こそうと出した手に、何やらぬるっとしたものが触れた。
直感で、それが不吉なものだとわかった。
やがて目が慣れ、室内の様子がわかってきた。
「父上……?」
父は、まだ布団の中で寝ていた。
まさか、そんな呑気な?
勿論、そんなわけはない。
父は就寝中に布団の上から刺されたようだ。鉈のような刃物でひと突き。そのまま息絶えたようで、他に大きな傷はなさそうだ。
母は逃れようともがいたのか、布団からはい出て、うつ伏せの体勢で息絶えていた。背中に大きく斬られた傷があり、乱暴に頭を割られていた。
少年は自分の両親が殺された……恐らくはあの乱暴な大男によって、という事実は理解したものの、これからどうしたら良いのか、この事実をどう受け止めたら良いのかわからず、頭の中が空白になってしまった。
「ちちうえ、ははうえ……」
力なく口にしたものの、血まみれの二人に近寄ることすらできずに床に座り込んでしまう。
「根性のねえガキだ。心配すんな。すぐに一緒にしてやらあ」
大男が少年を見下ろして言う。
いくつか欠けた歯が見える。アカで汚れた肌、フケの浮かんだ髪……明らかに自分よりも貧しい、身分の低い者として捉えていた種類の人間だ。その人間に今、生殺与奪権を握られている。自分を生かすも殺すも、この男の一存しだい。この場で両親と同じように殺されてしまうのか……
自分はなんの力もない、ただの子供なのだ。何もできない、虫けらだ。
「おい、女のガキは見つけたがな、男のほうが……」
戸の外から声が近づいてきた。
もう一人、賊がやって来たのだ。
ひょい、と顔を突っ込むように入ってきた二人目の大男。その肩には寝間着姿の子供が担がれていた。
「結!」
少年の声に、妹はうなだれていた顔をあげる。
「兄様!」
ぱっと笑顔になったが、その顔には何度か殴られたような跡があった。口の端が切れて鼻血も出ている。
きっと騒ぐ結をおとなしくさせるためにしたのだ。
この男が。
この男たちが両親を、そして母のお腹の中の新しいきょうだいも殺した。
結を殴り、そして自分たち二人を殺そうとしている。
ざわざわと、少年の腹の中に怒りが沸いてきた。
親の仇。そして、自分たちを殺そうとしている敵。
許せない。
だが、今はまず自分たち……いや、結を生き延びさせることが第一だ。もし自分が犠牲になって妹を救えるのなら……。
少年は怒りの感情に熱くなりながらも、どこか冷めている頭で考えた。
担いでいた結を放り出すと、男たちは相談を始めた。
「蔵の方は、どうだ?」
「ああ。予想よりも収穫があったらしい。銀を相当、貯め込んでいたみてえだな」
「ふん。どうせ、汚えことで儲けたんだろう」
言いつつ、少年たちの方を横目に見る。
「兄様、これは…… え? お父様、お母様? ……きゃあああ!」
室内の惨状に気づいた結が悲鳴をあげる。
「うるせえな。 ……じゃあ、人質もいらねえな。ガキは殺すぞ?」
「ああ」
男が床に置いてあった刃物を手に取る。山賊が使うような、無骨な片刃の剣だった。
そうか、あれで両親は殺されたのだ。少年は思う。
そして自分も、殺されるのだ。
なんとか結だけでも、と思ったが、たとえ自分が男達に組み付いたところで、片手であしらわれておしまいであろう。
……やはり自分はただの子供だ。何もできない。頼ってくれる妹の命すら救えない。
ならばせめて結と二人、あの世へ……長教によれば浄土へ行けるのだったな。それなら……家族全員ならば。
「……いや。気が変わった。女の方は売り物になるぜ」
あとから来た方の男が言った。
「こんなガキがか?」
「ああ。買い主に心当たりがある。幼子に目がねえ変態でな。北のほうの船主だ」
「……へえ。よかったじゃねえか、お前だけ助かるとよ。その変態のところで可愛がってもらえや」
ニヤニヤと笑いながら、結に近づく男。
「いやです、結は兄様と離れたくありません!」
少年の背後に隠れるようにする結。
「……結。今は嫌でも、お前は生きるのだ」
少年は妹の手を握り、言った。これは、最後の機会だ。せめて結だけでも……。
「嫌、いやです! なぜそのようなことを言うのです!」
結は目から涙をあふれさせ、すがりつく。
「どんなかたちであれ、生きていることには意味があるのだ。そう、長教は教えている」
「そんな意味など、いりません! 結は兄様といっしょでなければ、生きていたくありません……」
大男が業を煮やす。
「ごちゃごちゃとうるせえな。てめえらも兄妹同士で好きあった変態かよ、ったく……。金持ちってのは、ろくな奴がいねえ」
軽々と、嫌がる結を再び肩に担ぎ上げる。
「兄様! 助けて、助けてください!」
妹の叫びを聞いても、少年は床に座り込んだまま、じっと下を向いて唇を噛みしめていた。
ただじっと、床に広がった両親の血を見つめていた。
自分はここで、死ぬのだ。
でも、結だけは生き残る。
それくらいではないか? 最後に残った希望は。自分に許される希望は。
「こんなのでも、変態様にはいいんだろうよ。まあ、そこそこの家の子供だしな」
「離して! 離しなさい!」
肩の上でじたばたと暴れる結。
……ああ、よしなさい結。そんな態度では相手を怒らせてしまう。よその家に行くのだから、礼儀を守っておとなしくしていないと。
「うるせえってんだ。また殴られてえのか?」
顔に伸ばされてきた手に、結は思い切り噛み付いた。
「いてえ!」
男は結の髪を鷲掴みにして、力任せに投げつけた。
軽い身体は激しく寝所の壁にぶつかり、ずるりと頭から床に落ちる。
……ほら。おとなしく、相手に気に入られるようにしないから。
そのまま結は一言も発せずに倒れたまま、ぴくりとも動かなくなった。
「結……?」
おそるおそる、妹に近づく少年。腰が抜けてしまったようで、立ち上がることもできずに床を這って。
床に崩れ落ちた結の首は、ありえない角度に曲がっていた。見開かれた瞳は光を失い、生命の輝きは既になかった。
あんなにくるくるとよく動き、好奇心や自分の感情をいっぱいに表現していた、あの瞳がまるで濁った沼のようになっていた。
「結! ゆい!」
先刻まで、両親の死を前にしても出てこなかった涙が、一気に溢れ出る。
死んでしまった!
結が。自分の妹、たった一人の妹が!
「おい、そろそろずらかるぞ。蔵の中の物も積み終わったはずだ」
「ああ。このガキはどうする?」
床にうずくまり、妹の死骸を抱いて泣き続ける少年をさけずむように見て、言う。
「放っておけ、そんな腰抜け。この家と一緒に焼け死んじまえ」
その言葉に呼応するかのように、ものの焼ける匂いと、煙が漂ってきた。
盗賊が、家に火をつけたのだ。
「グズグズしていると俺たちも焼けちまう」
立ち去ろうとした二人の背後で、少年が呟いた。
「……鬼め」
それまでの弱々しい彼とは明らかに違う声音に、思わず二人は振り返った。
「なんだ。腰抜け、何か文句があんのか」
一人が言うのを、もうひとりがよせ、時間の無駄だととめる。
「きさまらは、鬼だ。人間ではない」
ふらりと、少年は立ち上がった。
「だったら何だ。鬼退治でもしようってのか?」
「よせ、もう構うな。となり村の領主は私兵を抱えてるからな。そっちが出張ってきたらごっそり横取りされちまうぞ。早く逃げねえと……」
そうするうちに、煙はどんどん増えてきて、はっきりと火事の熱が感じられるようになってきた。
「おい、何やってんだ。早くしろ!」
三人目の盗賊が顔を出した。
既に覆面を外していたその顔に、少年は見覚えがあった。
いや、それどころではない。
その男は、少年が生まれるよりも前からこの家に勤めている使用人だったのだ。
「お……お前は」
少年の目が驚きに見開かれる。
「おや。まだ生きていらしたんですか、若様」
使用人は、少年をからかうように言った。
「そうか……。お前らも仲間だったのか。この者どもと一緒に我が家を」
「ええ。俺は生まれた時から使用人、あんたはこの家の次期当主だ。身分の違いってのは、どうしようもねえ。変えるにゃあこうして、すべて燃やしちまうしか」
「……外道め! それが人の所業か! 貴様は、業火に焼かれて死ぬがいい」
「は。ガキが偉そうに言うなよ、この家がなくなりゃ、お前はただのガキだ。そうなりゃ」
言いかけた男の身体が、一瞬にして炎に包まれた。
「…………!」
声にならない叫び。
男はごろごろと転がって廊下へ。そしてそのまま庭へ落ち、火だるまになった。肉や髪の焦げていく、嫌なにおいが漂う。
「なんだ、いきなり火が付いたぞ? 火付け用のあぶらでも持ってやがったのか」
明らかに、不自然な火のつき方だった。まるで、少年の言葉に従ったかのような……。
「貴様らは鬼だ。人ではない」
尋常ではない目つきの少年の言葉に、ぞっとするものを感じた二人。
思わず後ずさり、逃げ腰になる。
少年の不気味さもそうだが、早く逃げないと自分たちも焼け死ぬ。
「お、おいお前。それ……」
ひとりがもうひとりの頭に発見したもの。それは、角であった。頭頂部に、毛髪をかき分けるように生えた、二本の角。
もちろん、そんなものは今までなかった。
「お前こそ、それ……」
もうひとりも頭に角が生えていた。そしていつの間にか歯が鋭く伸びて牙のように、目の色、肌の色が明らかに人間のものではなくなっていた。
これは……
「鬼に、なっているぞ」
「お前も。鬼だ、青鬼」
向き合ったふたりの盗賊は今や、誰が見ても人間ではなく、二匹の鬼になっていた。
「まさか……お前か? お前がやったのか」
おそるおそる、少年に問いただす。
その外見に変化はなく、ただの寝間着姿の少年だ。
だが、全身から発する雰囲気が、ほんの少し前とは明らかに異質なものへと変化していた。
人であって、人でないもの。人を超えてしまったもの。
「に、逃げ」
逃げだそうとする二匹の鬼に対し、少年は怒りに燃えた目を向け、言った。
「死ね」
次の瞬間、二匹の身体は内側から破裂した。
周囲に大量の血液や内蔵を飛び散らせて。
少年は……いや。かつて少年であったものは結の抜け殻を抱きかかえ、ゆらりと足を踏み出した。そのまま両親の寝所を出ていく。足元は誰のものだかも判然としない血液やら臓物やらでいっぱいだ。
廊下をゆっくりと、しかし決然たる足取りで歩く。周囲は炎に包まれ、煙がもうもうと立ち込めている。
煙をかきわけるように少年は歩く。
後には、血塗られた彼の足跡。
ひた、ひた、と裸足の足音。
炎と煙の中を、超然たる存在と化した少年が、遺体を腕に歩いていく。
……許せない。死ぬべき者がまだ居る。
外に出て、蔵へ。
まだ居たのか。車輪のついた荷車に盗品を満載して、逃げようとしていた盗賊たち。そのうちの二人は、この家の使用人だった。
まるで幽鬼のごとき少年の姿をみて、ぎょっとした表情になる。
血だらけの寝間着姿で裸足の少年。妹の死骸を抱え、自分の家族を皆殺しにした賊を怒りのこもった目で見つめている。
「……貴様らは、畜生だ。人ではない。死してもなお、苦しみ続ける地獄へ堕ちろ」
その言葉で盗賊たちは牛、狼、犬、馬などの動物になった。それぞれが四本の脚を地に着けるやいなや、そのままくずれ落ち、息絶えた。
「……苦しみが、足りない。まだ死ぬな。全身の毛穴から血を吐き、悶え苦しめ」
畜生どもは息を吹き返し、身体中から出血し、苦しみの声をあげた。
既に屋敷は全体に火が回り、ごうごうと炎を夜空へ吹き上げている。
炎に照らされ、延々と苦しみ続ける、かつて盗賊であった、けものたち。
地獄とは、このようなところを言うのだろう。
その地獄をつくり出した、少年であったものは未だに自分の体の中を駆け巡り、収まることを知らない怒りに身を任せていた。
次は、誰だ。
誰を、殺せば良い?
このクニの民を皆殺しにでもすれば、おさまるのか。この怒りは
その時、地獄と化した少年の屋敷に向け、馬に乗って駆けてくるふたりの男たちがいた。
「おい! ジジイもう手遅れじゃねえか! とんでもねえ状況になってやがんぞ」
馬上で叫ぶ、まっすぐな黒髪をいい加減にくくった髪型、薄墨で染めたような鼠色の着流し姿の男。
手に持った札に、ぼんやりと少年の屋敷の惨状が映し出されている。
やがて、肉眼でもはっきりと、屋敷の燃える様が遠くに見えてきた。
「仕方がなかろう! 不測の事態というやつじゃ。まさかこの家でこんな」
ジジイ、と呼ばれた老人も怒鳴るように応える。禿頭の僧形である。
「その不測の事態を起こらねえようにすんのが、てめえの仕事だろうがよ! まったくどうすんだこんなんなっちまって! どう収拾つけたらいいんだよ?」
二人は言葉の応酬を続けながら、燃え上がる屋敷に向かって馬を走らせる。この地方で、 こうして人を乗せて速く走れる馬は、非常に珍しい。たいていは農作業か荷物を運ぶための、体が小さく脚が短い種類ばかりだ。
着流しと僧形が乗る馬は、明らかにそれらと違う、駿馬であった。
やがて二人は屋敷の門前にたどり着く。
炎をあげて崩れ落ちる屋敷。その敷地で転がり、血まみれで苦しみの鳴き声をあげる獣。
それをじっと見つめている、少女の死骸を抱いた少年。
「うわあ……最悪じゃねえか。下手すりゃこの世のでけえ理がひっくり返んぞ」
屋敷の敷地に入ってきた二人に、少年は気がついた。
「……なんだ貴様らは。盗賊の仲間か?」
「違う!」
少年の言葉が終わるよりも前に、着流しの男は急いで否定する。
「断じて違うぞ! 俺たちはお前を助けようと思って」
「遅い」
少年はひとことで否定した。ぞっとする程に冷たい声音だった。
「あ……ああ。すまん。本当にすまん。こんな事になっちまって」
着流しの男は頭を下げた。
この少年に、何か決定的な事を言われてしまっては危険だ。なんとか、この怒りを鎮めないと、どうなるのか予想すらできない。
「なあ。本当に残念だし、こいつらは本当にひでえ奴らだが、人間すべてがそうって訳じゃあないだろ? それは、わかるよな。今は冷静になんてなれねえかも知んねえけど……」
言葉をつなぎながら、少しだけ少年に歩み寄る男。あまり近づくのは危険だ。相手を刺激しない方がいい。
その背後に隠れた僧形の老人は、懐から取り出した札に何か経のような、呪文のような言葉を小声で唱え始めた。
「それ、妹さんだろ? すまねえな。俺たちがもう少し早く気づいてやっていれば……。でもな、妹さんだって、おめえのこんな姿、見たくねえんじゃねえのか?」
妹、という言葉に少年の肩が小さく震えた。
「なあ、妹さんを弔ってやらねえか? ……ああ、弔い、って知ってるか? 長教では死んだ人が浄土っていう、いい所へ行けるように祈ってやんだよ。このジジイは長教の坊主でよ」
男の声に応えるように、僧形の老人がぶつぶつと何かつぶやきながら、少年のもとへ歩み寄る。手には先ほどの札と、数珠。
「その御霊が浄土へと導かれますよう……」
言いながら、老人は札を少年の胸にかざし、再び呪文めいた言葉を唱えた。
「…………!」
少年の動きが止まる。動きたくても動けない、口を開くことすらできないようだ。
「今じゃ! おろち、やれ!」
おろちと呼ばれた着流しの男は、わかってら! と叫びながら少年に駆け寄る。
そして宙に指を走らせた。
指の動きの跡が、光となって残像をのこす。
赤く光るそれは、
『封』
という文字だった。
「大いなる蛇の名のもとに命ずる。この者の怒りを封じよ!」
宙に浮かぶ文字が強く輝き、少年の胸に貼り付いた札に、すうっと吸い込まれていった。
すると、少年は糸が切れたように力を失い、腕に抱いた妹ごと倒れた。慌てて受け止めるおろち。
「どうじゃ……やった、か?」
様子をうかがう老人。
「さあな。俺ぁ元々、こういう言ノ葉の遣い方は苦手なんだよ。ジジイの呪術との合わせ技でとりあえずは封じられたとは思うが……いつまで保つか、正直わからねえ」
受け止めた少年を見る。目を閉じ、安らかな表情で、どうやら眠ってしまったようだ。
「こんなガキがな……可哀想に」
寝顔を見るだけでは、まだ幼さを残した少年だ。
「ただのガキではないぞ。そいつは明らかに言ノ葉遣いじゃ。それも、世の理を捻じ曲げてしまう程の強力な」
「わあってらぁ。だが、こいつの力が必要なんだろ? ジジイ」
少年と、その妹を見比べながらおろちは言う。
「ああ。その力をもって、このクニを護らねばならん。それに、お前の力も必要なんじゃぞ? おろちよ」
「うっせえよ。何度も聞いたぜ、クソジジイ」
悪態をつくおろちの背後で、屋敷の柱が燃え尽き、屋根が崩れ落ちた。
ぱちぱちと、火花が夜空に舞った。