黒龍殿の紅一点2
やっぱり、アルフレッドに騙された気がする。
黒龍殿のお昼時、シルディーヌは、使用人休憩室でパンをかじりながらふと思った。
紳士じゃない人もいるとはいえ、国防の要である黒龍騎士団の誇り高き騎士が、か弱い侍女を襲うのだろうか。
弱き者と法を守るのが、使命じゃないのか!
「そうよ。ありえないわ!」
テーブルをバシッと叩くと、向かい側に座っているアクトラスのつぶらな目が一瞬大きくなった。
だがすぐに持っていた骨付き肉に豪快にかぶりつき、咀嚼しながらシルディーヌに尋ねる。
「どうしたんですか? いきなり叫んで」
「アルフのことよ」
「ケンカですか? 団長相手に口論できるとは、さすがですねえ」
「ケンカじゃないわ。言いくるめられたというか、力ずくというか……とにかく、アルフの思い通りにされたのよ!」
シルディーヌは、ブドウのジュースをグイッと飲み干し、カップをコンっとテーブルの上に置いた。
あの時は抱きしめられて苦しくなって、つい否定しなくていいと言ってしまったが、よくよく考えてみればおかしいではないか。
ペペロネの話を信じるならば、騎士団員は見目麗しい令嬢侍女たちにモテモテなのだ。
引く手あまたなのに、シルディーヌを襲うなど考えにくい。
それにそんなことをすれば、即刻牢屋行きだろうと思う。
しかし騙されたとすれば、どうして否定するのを拒んだのかが謎になる。
首をひねってしまうが、イジワルアルフのことだ。シルディーヌが婿探しに困る姿を見て、楽しむつもりに違いない。
なんてドSな男なんだろうか……。
「シルディーヌさんを思い通りにっすか……想像するに、団長は激しそうですね。いや、違うな。シルディーヌさんには優しいんだろうなあ」
なにを想像しているのか分からないが、アクトラスは赤い顔をして天井の方を見、ごくんと唾をのんでいる。
「なにを言っているの? アルフは優しくなんかないわ。すごくイジワルなんだもの」
「そうですかねえ。俺には、シルディーヌさんにデレデレのメロメロに思えます」
そう言いながら、アクトラスは額の赤いアザを撫でている。
腫れてたんこぶみたいになっているそれは、昨夜アルフレッドに呼び出されてデコピンされたものだと言っていた。
どうしてデコピンされたのか詳細を尋ねたら、無実のシルディーヌを犯罪者扱いし、問答無用で担いだ罰だということだった。
その時のアルフレッドの雰囲気と言葉が口では言い表せないほどに恐ろしく、されたのはデコピン一回でも心理的には大変なダメージを受けたらしい。
なにを言われたのか尋ねても口を固く閉ざしていたが、クマみたいに大きな体がぶるっと震えたのを見、シルディーヌはとても気の毒に思ったのだった。
そして今日一日黒龍殿での謹慎を命じられたのだそう。
シルディーヌが黒龍殿に来るなり『今日はシルディーヌさんの手伝いをします!』と宣言し、朝から行動を共にしている。
今いる使用人休憩室は長年使っていなかったために汚れていたが、午前中いっぱいをかけてアクトラスと一緒に清掃をし、快適空間に生まれ変わったのだった。
「メロメロだなんて、そんなことないわ。今朝のアルフの態度、アクトラスさんも見たでしょう?」
アルフレッドに義務付けられた朝の挨拶をするシルディーヌに『まあ、泣かないように、せいぜい頑張るんだな』と、皮肉たっぷりにのたまったのだ。
あれのどこが、デレデレメロメロなのか。
「ああそりゃあもう。ほかの女とは接し方が違いましたねえ」
アクトラスは何度も首を縦に振る。
そう言われてもピンとこなくて、シルディーヌは首を傾げる。
もしもそうならば、幼馴染みの気安さが出ているだけだと思う。
それに、シルディーヌのことを“団長の大事なお方”だと思い込んでいるアクトラスには、妙なフィルターがかかって見えているのかもしれない。
「それはそうと、シルディーヌさん、もう昼休みの時間が終わりますよ。団員たちも食事が終わっている頃だ」
アクトラスが壁の時計を差すので見れば、もう一時を回ろうとしていた。
「あ、本当! 大変だわ。そろそろ午後の仕事をしなくちゃ!」
シルディーヌは急いでパンを食べきり、食器を片付けるべく席を立った。
とっくに食べ終わっていたアクトラスもシルディーヌの後に続く。
使用人休憩室は、団員たちの食堂の向かい側にある。
厨房は食堂の横にあるが使用されておらず、団員らの食事は毎回南の食堂から運ばれてくるらしい。
いちいち面倒なことだと思うが、侍女侍従の立ち入りを禁じてからずっとそうしているから、これが普通で誰も疑問を持たなくなったようだ。
厨房の中にある専用の台車に食器を置き、シルディーヌは食堂の方を見る。
散らかり方はあまり変わらないが、くつろいでいる団員たちが昨日よりも少ない。
使用人の休憩室の十倍はある広さで、今からここを掃除すると思えば途方もない気がする。
「昨日いた団員は数人だけですね」
アクトラスが顔ぶれを見て、ぼそりとつぶやく。
シルディーヌはモップとホウキとハタキと手桶を用意し、大きく深呼吸をして食堂へ足を踏み入れた。
「みなさん! 今からここを掃除します! 食べ終わってる食器は片付けて、捨てられたら困る物は手に持って外に出てください!」
素直に従う騎士もいれば、「あ? なんで侍女がここにいるんだ」と不機嫌そうに言う騎士もいる。
相変わらずここに侍女が来ることは周知されていないようだが、シルディーヌは構わずに窓をガラガラと開け放っていった。
「おらおら、お前ら。シルディーヌさんの命令を聞け。逆らうと団長に殺されるぞ。おら、掃除の邪魔だ。手伝わねえ奴はしゃきっと出て行け!」
アクトラスが声をかけると、みんな外へ出て行ってくれた。
アルフレッドの彼女だという設定は、仕事上では便利なようで、シルディーヌは複雑な気持ちになる。
気を取り直し、アクトラスに協力してもらって、片付けたテーブルの上に椅子をひっくり返して乗せる。
かなりの数があるため、シルディーヌの細腕ではこれだけでも重労働で、息が上がってしまった。
それからそこかしこに落ちている紙屑などのごみを拾っていき、最後に隅っこの方に固まっているごみの山に目を向ける。
体を拭く布のようなものや娯楽用の書物や紙屑などがあるよう。
勇気を振り絞って茶色く変色した布を拾ったその時、衝撃的なものがそこにあった。
ガサガサと動く黒いアイツがそこに潜んでいる。
シルディーヌは驚きのあまりに動くことができず、長い触角をゆらゆらと動かすソイツとしばらくにらみ合っていた。
だが、おもむろに動き出したそれが、あろうことかシルディーヌの方へ向かって来たから大パニックになる。
「きゃあぁぁぁっ! いやあぁぁぁ!」
手に持っていたものすべてを投げつけて逃げ出した。
アクトラスがなにか言っているようだったが、まったく耳に入らない。
とにかく逃げる。
それしか頭になく扉に向かって走っていくシルディーヌの体が、急に目の前に現れた人の体にぽすんとぶつかった。
「ぎゃっ」
しこたま鼻をぶつけてしまうがその痛みを紛らわす時間も、相手が誰か確認する間もなく、シルディーヌはすっぽりと腕の中に入れられてしまった。
ぽんぽんと子供をあやすように背中を叩かれ、大きな手のひらがそっと頭を撫でている。
「ほら、大丈夫だ。落ち着いて」
聞いたことのない声を耳にし、パニックを起こしていたシルディーヌの頭が冷静になる。
アルフレッドのように低い声でなく、張りのある高めのトーン。これは、誰だろうか。
「所用で立ち寄ったら、激しい物音と女性の叫び声を耳にして飛び込んで来たワケだが……アクトラス隊長、なにがあったか説明しろ」
「はっ! 清掃をしていましたところ、害虫が出てきたのでしょう。侍女のシルディーヌ嬢が驚き叫び、持っていた物をすべて投げつけ、走り出した次第であります!」
凛とした口調の腕の主に対し、アクトラスは直立不動で説明している様子。
シルディーヌの体を守るように包んでいる人物は、かなり位が高いと思える。
アルフレッドと同等か、それ以上の……。
シルディーヌの視界を埋めている服は、黒地に金糸の刺繍がほどこされている上等のものだ。
貴族院の貴公子かもしれない。
ひょっとして、これは運命の出会い!?
西宮殿から遠ざけられ、むさくるしい男の巣窟で働くあわれなシルディーヌに、神様がご褒美をくれたのかもしれない!
そう胸をときめかせていると、腕の主は声を立てて笑い始めた。
「なるほど、そうか。害虫に驚くとは、実に女性らしい愛らしさだな」
しかし今にも殺されそうな叫び声だったぞ?と言いながらシルディーヌの体を離したのは、ライトブラウンの髪色に青い瞳の見目麗しい青年だった。
爽やかな笑顔を見せているが、堂々として落ち着いた雰囲気はアルフレッドよりも少し年上に思える。
「あの、大変お見苦しい姿をお見せし、申し訳ございません。私は、シルディーヌ・メロウと申します」
「うむ。メロウといえば、サンクスレッドの子爵家の家名だな? かの地は、幼いころに訪れたことがある。山脈に囲まれ、美しい湖があるところだ」
「はい。その通りでございます。我が家名と領地をご存知とは、大変光栄でございます」
「しかし害虫はどこにでもいるものだが、しっかり退治しなければならないな。でないとまた出現し、君が悲鳴を上げる」
青年の後ろには三人の従者が控えている。
若いが静かな威圧感があり、いずれも身なりが立派だ。
青年がスッと手をあげると、その三人が無言のままサッと動いて食堂の中を探り始めた。
アクトラスもテーブルの下を覗いたりして、一緒に探っている。
その様子を眺めている青年のことを、シルディーヌは見覚えがある気がしていた。
内面から品が滲み出ている高貴な風貌と凛とした口調は、いったいどこで……。
シルディーヌが記憶をたどっていると、アルフレッドが飛び込むように食堂の中に入って来た。
その焦った様子は、シルディーヌが今までに見たことがないものだ。
「フューリ殿下! お呼びいただけば、なにをおいても即刻参上いたしました」
アルフレッドがシルディーヌの隣に立ち、フューリ殿下に敬意を示して礼をとる。
「なにをおいてもかい? 果たしてそうかな?」
殿下はチラリと意味ありげな眼差しをシルディーヌに向け、アルフレッドは「殿下、勘弁してください」と気まずそうな、唸るような声で申し上げている。
ふたりが言葉を交わす様子は、殿下と騎士団長という関係だけでない親しさを感じた。
「え? ええ!? 本当に、殿下!?……で、ございますか」
シルディーヌは遅ればせながらも驚きの声を上げ、すぐにハッとして口を押える。
王宮に来た初日に、本宮殿の回廊を臣下と共に歩いていたのを、遠くから拝見したことを思い出した。
でもまさか、王太子殿下の胸に鼻をぶつけた上に、腕の中に入れてもらえるとは、天からぶどうジュースが降ってくるように有り得ない出来事だ。
シルディーヌの身分では謁見すらも許されないお方なのに、後にも先にも、これっきりの最上のこと。
しかも言葉を交わしたとは、生涯忘れないようしっかり記憶にとどめておくべきだ。
それにしても、なんて素敵なお方だろうか。
優しく広い心を持ち、とても快活な人柄のよう。
ナダール王国にいる全ての女性が恋してしまいそうに思える。
そんな夢見心地で殿下に見惚れているシルディーヌのところに、従者のひとりが静かに寄って来た。
「発見いたしました。シルディーヌ殿、害虫とは、コイツで間違いありませんか。大変申し訳ありませんが、念のため確認をお願いいたします。心してご覧ください」
「……はい?」
ほわほわとした幸せな気分のまま従者の方に目を向ければ、例のアレが天に召された状態で紙屑の上に乗せられていた。
しかも二匹も。
「きゃああぁ」
涙目になったシルディーヌは気が遠くなるのを感じ、ふらりとよろけた。
すかさず伸びて来た腕に背中を支えられ、そのまま引き寄せられて、倒れるのを免れる。
ため息交じりに窘めてきたのは、毎度おなじみの低い声だった。
「お前は、仕方がないな。心して見ろと注意されたただろう」
「ご、ごめんなさい。でも、きっと、覚悟して見ても駄目だと思うわ」
おぞましさに身震いしつつも涙目のまま見上げると、アルフレッドは眉根を寄せた。
その怖い顔とは裏腹に、シルディーヌを包む腕はすこぶる優しい。
手のひらは華奢な背中をそっと撫でている。
「ふん、それなら仕事を辞めるか? アレは毎日出るかもしれんぞ」
「ううん、辞めないわ。頑張るって、決めたんだもの。きっと、アレにだって、そのうち慣れると思うわ」
殿下の従者が二匹も退治してくれたのだ。数は減っている。
それに毎日清潔にすれば、害虫だって住みづらくなって逃げ出していくかもしれない。
翡翠色の瞳を潤ませつつも頑張る決意を固めるシルディーヌと、それを無言で見つめているアルフレッド。
そのふたりの様子を見て、殿下は密かに笑みをこぼしていた。
「さて、黒龍の騎士団長殿、そろそろいいかな? あとはアクトラス隊長に任せればいいだろう?」
殿下に声をかけられてハッと姿勢を正したアルフレッドは、シルディーヌの体をそっと離した。
「殿下、お待たせして大変申し訳ありません。参りましょう」
アルフレッドと殿下が話をしながら食堂から出て行く。
扉が閉まった瞬間、殿下のものと思える笑い声とアルフレッドの声がかすかに聞こえて来た。
「また害虫が出るかもしれません。今日は俺が隅の方にあるゴミを拾いますんで、シルディーヌさんは違うことをしてください」
アクトラスの言葉に甘えることにし、シルディーヌはハタキを持って掃除を再開した。
そして隅々までモップがけをし、窓までピカピカになった食堂の中をアクトラスと一緒に眺める。
窓から差し込む夕日が、白くなった壁に映えている。
「ここ……こんなに綺麗だったんすねえ」
「そうよね。前よりも広くなったように感じるわ。アクトラスさん、今日はお手伝いしてくれてありがとう。とても助かったわ」
「いえ、そんな。俺は……えへへ」
アクトラスは照れるように笑って、頭をばりばりと掻いた。
そして「あーいや、これは、団長がデレる気持ちが分かるなあ」などとブツブツ言っている。
「……え? デレル?」
「いえ、気にしないでください。しかし、これを保たなくちゃ話にならないですねえ」
「そうね、でもこれから毎日お掃除するから、きっと大丈夫だわ」
ふたりがとんでもない達成感と満足感に酔いしれていると、団員たちが戻って来た。
みんな綺麗になった食堂を見まわして、呆気に取られているようで声も出さない。
「おい、お前ら。シルディーヌさんに感謝しろよ。手伝いをしたこの俺にも、だ。そして、この状態を保つように協力しろ。分かったな!?」
団員たちはアクトラスの言葉によって、「了解!」と言ってダン!と足を踏み鳴らし、シルディーヌに向かって敬礼をした。
そんな団員たちの様子を見ると、シルディーヌは、害虫などの問題はあれども清掃の仕事も悪くないと思ったのだった。