黒龍の騎士団長 1
「やっぱり、おかしいわ……よね?」
王宮侍女シルディーヌは、翡翠色の瞳を不安げに瞬かせた。
持っていた水桶を床に置き、モップの柄に体を預けて首を傾げる。
王宮に勤め始めて一週間目。規則や基本的な仕事の仕方を教えられ、今日が本格的な初仕事だ。
任せられた仕事は掃除と洗濯で、今日は西宮殿のモップがけをするよう侍女長から命じられている。
西宮殿とは、このナダール王国の政務の中枢であり、貴族院の方々が会議をしたり執務をする部屋があるところ。
国王が住むきらびやかな本宮殿と比べれば外観はシンプルな造りだけれど、凝った寄せ木細工の床があったり大きな絵画が飾られていて、それなりに美しい内装だと聞いている。
高級な壺が宮殿内のそこかしこに飾られているし、各執務室には大事な書類などもある。
だから、掃除をするときには「触らず、落とさず、慎重に!」と侍女長から何度も注意を受けていた。
確かに宮殿の玄関ホールの真ん中には、三色の木で作られた菱形の幾何学模様の床が埋め込まれていた。
大理石の床に映えてとても美しく、さすがの豪華さだと感心しつつもせっせとモップがけをしていたのだが、ふと、あることに気づいたのだった。
宮殿内に、人がいない。
政務の中枢である西宮殿ならば、毎日すごく賑わっているはずなのだ。
けれども、廊下の掃除をし始めてからずっと誰にも会っていないし、西宮殿の担当であるほかの使用人たちにも会えていない。
『貴族院の方にお会いできるわね!』
『もしかしたら、貴公子さまに見初められるかも! うらやましいわ~』
『がんばって!』
などなど仲間の新米侍女たちにきゃあきゃあと騒がれ、初日からそんなことはあるはずないと思いつつも、心の片隅で麗しい貴公子に会えることを期待していた。
執務室の床もモップがけをするのだから、お仕事をしている姿を拝見できるかもしれないと、それなりにドキドキしていたのだ。
そして今、宮殿の最上階である二階の廊下までモップ掛けを終えて、手近にあった部屋に入ったところで考え込んでいる。
「うーん、たまたま政務がお休みなのかも?」
首を傾げつつも、壁に並ぶ大きな書棚と立派な執務机を眺めた。
執務机には、滑らかな曲線を描く文様が全体的に彫られていて、とても凝った作り。
相応の位の人が使うものだとシルディーヌにも分かる高級さ。
そして、その後ろに無造作に壁に立てかけてある黒っぽい旗に目を留める。
「え、あれって、まさか。……もしかして!」
心臓がどくんと脈打つ。
頭をよぎるのは、真っ黒い龍の印。
王宮に来て二日目に見た、青地に黒い龍が描かれた旗だ。
国防と治安の要『黒龍騎士団』が掲げるものである。
シルディーヌは旗のはしっこを掴み、そろそろと広げて見てぎょっとし、慌てて手を離した。
「ここ、西宮殿じゃないじゃない!!」
シルディーヌはわなわなと震える体をなんとか動かして、そろそろと後ずさりをする。
背中に冷汗がたら~りと流れる。
ここは立ち入り禁止と言われている黒龍騎士団本部がある南宮殿。別名『黒龍殿』だ。
規則を破ったのは勿論いけないことだが、それはさておき、せめてこの部屋の主に見つかる前に廊下に出なければいけない。
ここはきっと、一番偉い人、騎士団長の部屋に違いないのだ。
見つかるのが部屋の中か廊下かで、印象がだいぶ違うはず。
「と、とにかく、出なくちゃ!」
黒龍騎士団とはこの国きっての荒くれ者が揃っていて、それをまとめる団長は敵を完膚なきまでに叩きのめすという鬼神のごとく恐ろしい人。
そして、シルディーヌにとってはこの世で一番会いたくない人でもある。
もっと早く気づけばいいのに!と自らを叱りながら、急いでモップのある位置まで戻る。
幸いなことに荒くれ騎士団員は皆留守のよう。
きっと出動しているのだろう。このままこっそり抜け出せば、きっと大丈夫だ。
急に戻ってこないことを神に祈りながら、モップを持った、そのときだった。
「ほう……留守中、この俺の部屋に忍びこむとはいい度胸だ」
「きゃっ」
背後から、地の底から響くような低い声がし、シルディーヌの体が縮みあがった。
あまりに恐ろしくて、振り向くこともできない。
「ここは立ち入り禁止であり、軍の機密が詰まった騎士団長の部屋でもある。なにをしていた。相応の覚悟はできているのか」
そう言いながらすらりと剣を抜くような音がした。
「女だから容赦するほど、俺は甘くない」
「ま、ま、ま、待って、くださいっ!」
やっぱり血も涙もない恐ろしさ。
このまま黙っていれば、背中をバッサリ斬られてしまう!
シルディーヌは自らを奮い立たせるようにモップを握りしめ、思い切って振り返った。
するとシルディーヌを見た団長の目が一瞬大きく開かれ、そしてすぐに元の鋭い目に戻る。
「あ、あの……」
剣を構える騎士団長はあんまりな迫力で、言いたい言葉が喉に詰まる。
黒龍騎士団団長、アルフレッド・マクベリー。
プラチナブロンドの髪に青い瞳の精悍な顔立ち。
見上げるほどの体躯に黒い団服を身に着け、地獄の番人も逃げ出すような眼力で、剣先をぴたりとシルディーヌに向けている。
ギラリと鈍く光る剣は、アルフレッドがほんの少し腕を動かしただけで、シルディーヌの柔らかな肌などいとも簡単に斬り刻んでしまいそうだ。
「わ、私は、ここに来たばかりの新米で! 西宮殿と間違えて、掃除をしてて。決して忍び込んでいません! 掃除をしに来たんです。見てください!」
声を大にして言い、モップを前に差し出した。
「あ? 西宮殿だと? ここは、城門に近い南にあるだろうが。なんで、お前は、間違えるんだ」
アルフレッドの口調が少しだけ砕けたものになっている。
シルディーヌは少しホッとするも、剣先は変わらずに向けられたままで、眼力にも変化がない。
いざとなればモップで反撃するしかないと決め、気づかれないようにこっそり身構える。
敵いっこないが、びっしょり濡れた汚いモップを顔に投げつければ、いくら鬼神といえども少しは怯むだろう。
「た、確かに、聞いていたよりも遠いなーと思いましたけど! 王宮は広いので、こんなものかと思ったんです!」
「ちっ、お前は方向音痴で短慮な奴だな。常に周囲を確認する癖をつけろ。だいたい入り口に警備がいただろう。どうやって入った。壁を登ったのか?」
「そんなことできっこないでしょう! それに、警備なんていませんでしたから、玄関から堂々と入りました!」
「なんだと? ったく、あいつら、またサボったのか」
苦々し気に言うと、アルフレッドは剣を下した。
その鈍く光る切っ先の行方を見つめつつ、シルディーヌはゆっくり手桶を持ち上げ、そろりそろりと扉へ向かって移動する。
「……誤解は解けましたよね? じゃあ、私はこれで……西宮殿の掃除をしなければなりませんので。ごめんなさい。二度とここに近づきません」
というか、二度と顔も姿も見せません!!と心の中で叫びつつ、扉の取っ手を握った。
「ちょっと、待て」
アルフレッドの腕が素早く伸びてきて、開きかけた扉をバンッと閉めた。
「お前、俺から逃げられると思ってるのか?」
シルディーヌはアルフレッドの腕の檻に閉じ込められてしまい、ごくりと息をのむ。
目の前は閉められた扉、背中には鬼神のように逞しい体、どうやっても逃げられないと覚る。
「逃げるなんてとんでもないです……許してくれたと思っていました」
「甘いな。俺は、そんなことは言ってないだろ」
「どうするつもりですか?」
「規則は規則。破れば罰する。揺るぎないものだ」
頭の上から降ってくる声は低く平坦で、どんな表情をしているのか想像するだけでも恐ろしい。
言いたくない言葉だが、シルディーヌは最後の手段とばかりに口にすることを決めた。
「お、幼馴染みではないですか」
「確かにそうだな。だが、それとこれとは別だぞ。お前のスパイ容疑は翻らない」
「スパイだなんて……私は、そそっかしくてドジなんです。軍の機密を探れるような器用さは持ち合わせていません」
「そんなことは知っている」
「だったら……」
その先の言葉を飲み込み、シルディーヌはしょんぼりと肩を落とした。
おそらく何を言っても同じことの繰り返しだろう。
それに、ずっと扉とデカイ体の間に挟まれたまま。
緊張と物理的な狭さから、シルディーヌは息苦しくて頭がくらくらしてきた。
それを感じ取ったのか、もう逃げないと踏んだのか。
体を覆っていた黒い影がすっと離れた。
鬼神の檻から解放された安堵感から息を吐き出しているシルディーヌに、アルフレッドは部屋の片隅にある応接セットの椅子を顎で示した。
「座れ。尋問する」
言われるまま浅く腰掛けると、アルフレッドは向かい側にどかりと座って脚を組み、シルディーヌを見据えた。
「まず、なんでお前が王宮にいるんだ? サンクスレッドで野山を駆けているはずだろう」
「失礼ね。野山なんて駆けません。これでももう花の十六歳、淑女なんですから」
「淑女はこそこそ忍び込んだりしないし、俺を相手にモップで闘おうとしないぞ」
「だって……それは、そうしないと、斬られてしまうでしょう。しかたなく、なの。身を守るためです」
モップ投げの企みがバレていたのかと焦りつつも、幼馴染みっぽい会話に安堵もする。
そして同時にムカッともする。
野山を駆けていたのはイジワルなアルフレッドに追いかけられていたからで、断じて好き好んで走っていたわけではない。
今でも鮮明に思い出す。
『いいものやる』と言って差し出してきたのが、シルディーヌがこの世で一番嫌いなうにょうにょの虫だったことを。
いらないと言ったのに、しつこく追いかけてきたから必死に逃げたのだった。
それから、『この板を踏んでみろ』と言われて素直に踏んだら、バサーッと、それはもうたくさんの葉っぱが落ちてきたこともある。
埋もれてしまって、抜け出すのにすごく苦労したのだ。
そんなふうに、アルフレッドにはイジワルばかりされていた。
五年前にアルフレッドが王都の騎士学校に通うことになって離れ、もう二度と会うことはないと思っていたのに……。
王宮侍女になっても、接点などないと考えていたのに、まさかこんな羽目になるとは……。
「だから、何度も言いますけど、スパイじゃありません。私が王宮にきたのは、婿探しのためなんですから」
「あ? 婿探し? 王宮でか」
急にトゲを含んだ声になり、アルフレッドの眉間にシワが寄った。
それはシルディーヌにとってはおなじみの表情。
昔を鮮明に思い出したこともあり、つい上下関係を無視した気安い口調になってしまう。
「あら、アルフは知らないの?」
「なにがだ?」
「多くの貴族令嬢は王宮の侍女になって、行儀見習いをしながらお婿さんを探すのよ。王族付きの若い侍女には貴族令嬢が多いわ」
「そんなことは知らないな。浮わついた理由で仕事をされたら迷惑だ。今すぐサンクスレッドに帰れ」
「嫌よ、迷惑かけてないもの。王宮侍女になるのは労働の厳しさを知るためでもあるし、真剣なんだから。みんなもちゃんと真面目に仕事してるの。でないと、素敵な貴公子に『嫁に欲しい』って思ってもらえないし、良い縁談も持ちかけられないじゃない」
「ふん、どっちにしろ、動機は不純だ」
アルフレッドは椅子の肘掛けを指でトントン叩き、たいそう不機嫌そうにしている。
普通の令嬢ならば萎縮して黙り込むところだが、シルディーヌは平気だ。
だってアルフレッドはいつもそんな感じで、これが素の状態といってもいいのだから。
笑った顔を見たのは、シルディーヌへのいたずらが成功した時くらい。
昔からちっとも変わっていない。
「私なんて、田舎の子爵令嬢だから、邸でじっとしていても縁談が降るように来るわけでもないでしょ。ぼやぼやしていたら、あっという間に年をとって行き遅れてしまうわ」
「そんなことないだろう。物好きがいる。密かに思ってる奴がいる」
「うそでしょ。それ、本当なの!? 誰のこと?」
シルディーヌは、サンクスレッドの面々を思い浮かべた。
若い男性は、だいたいみんな村一番の美人であるレベッカを好いている。
レベッカの周りにはいつも男性がいて、ちやほやしているのだ。
それに引き換え、シルディーヌに寄ってくる男性は、いたずらを仕掛けてきたアルフレッドくらい。
だから、そのアルフレッドがいなくなってからこの五年間は、誰も……。
「おい、探すな。例えばの話だ」
「……よね、分かってるわ……。だから、田舎じゃ出会いがないの。子爵の身分じゃ、王宮の舞踏会や晩餐会なんて呼ばれないもの」
「……無理やり男と出会う必要はないだろう」
「そうだけど。ここなら貴族院もあるし、貴公子さまとの出会いの宝庫でしょ。無理やりではないわ」
「ふうん……なるほど。それで、西宮殿なのか」
「それに、もしかしたら、王太子さまや、外国の大使さまに見初められるかもしれないでしょう?」
「なんだと?……それはかなり厄介だな」
アルフレッドは小さな声で言うと、なにかを企むような顔つきで顎をさすり始めた。
「アルフ? 厄介って、どういうこと?」
シルディーヌが怪訝そうな顔を向けると、アルフレッドは慌てた様子で元の姿勢に戻る。
「いや、万が一にも、お前が妃になったら、下に付く者が厄介ってことだ。決して深い意味はないぞ」
「とにかく」と言葉を継ぎ、アルフレッドは咳払いをしてシルディーヌに向き直った。
「とりあえず、お前が王宮に来た理由は分かった」
「良かった! やっとスパイじゃないって分かってくれたのね? じゃあそういうことだから。私は西宮殿に行くわ」
ずいぶんタイムロスしてしまったと、いそいそと立ち上がってモップを手にするシルディーヌに、再び待ったがかかった。
「行かないほうがいいぞ」
「どうして? 仕事なのよ? 急がなくちゃ」
「まあ聞け。今さら西宮殿に行っても、『遅い、何をやっていた』と侍従に叱られるぞ。目立って『仕事のできない侍女』もしくは『サボっていた侍女』だと貴族院の連中に印象付く。そうなりゃ、婿探しは難航だな」
「え!? そんなこと……訳を話せば、なんとか……なるわ」
「甘いな。政務に忙しい貴族院の奴等は、好きでもない女の言い訳まで気にしないぞ。万が一耳に入っても『そそっかしい』『嫁には不向き』と思われるのがオチだ。どっちにしろ、不利だな」
「そんな……そう、よね……」
アルフレッドの言うことは一理あり、がっくりと肩を落とす。
シルディーヌは目がくりっと大きくて愛嬌のある顔立ちだが、とびきりの美人ではない。
ほっそりしているが背は低く、スタイル的にはごく一般的だ。
自慢できるところは母親譲りのピンクブロンドの髪と翡翠色の瞳だけ。
一度ついた悪評を簡単に吹き飛ばせるほどの器量は持ち合わせていない。
「何においても、第一印象は大事だ。覆すのは時間がかかるな」
アルフレッドは肩をすくめて見せる。
「困るわ……成果がなかったら、お父さまの勧める人と結婚しなくちゃならなくなる。そんなの嫌だわ」
「なに? 決まってるのか! どんな奴だ」
「決まってるわけじゃないけど、たぶん……太っちょカーネル……かも」
「アイツか! 情けない奴じゃないか。やめておけ、断るべきだ」
「だから、決められた人より好きな人と結婚したいって言ったら、一年だけ試してこいって言われたの。好きな人を見つけられなかったら、問答無用で婚約させられるかも」
太っちょカーネルはサンクスレッドの隣町の侯爵の息子で、脂ぎった顔でいつもニシシシシと笑っている人だ。
いつも「ママがそう言うから~」とか「ママに聞いてくるよ」などと言っていて、酒癖が悪いとの噂もある。
シルディーヌには、生理的に受け付けられない。
そんなカーネルと結婚になったら……と想像し、涙がじわりと出る。
幸せになる気がしない。
高望みしないから、せめてもう少し性格のいい人と結婚したい。
シルディーヌのことを大切にしてくれる人なら、始まりは無理やりでも、次第に好きになれるかもしれないのに。
くすんと鼻を鳴らすシルディーヌの頭に、ぽんと、アルフレッドの手がのった。
その手が意外にも優しくて、シルディーヌは不思議な思いで見上げる。
アルフレッドの澄んだ夏空のように青い瞳には、子供の頃と変わらないいたずらっこい光が宿っている。
けれど、ほんの少し優しく見えるのは、アルフレッドが大人になったからだろうか。
思えばシルディーヌより三歳年上で、もうすぐ二十歳になるはずだ。
王都で暮らすうちに、紳士っぽくふるまうことも覚えたのかもしれない。
「仕方がない。お前が俺の言うことを聞くなら、なんとかしてやらんこともないぞ」
「なんとかするって、なにを? 婿探しを手伝ってくれるの?」
「違う。それは自力でやれ。俺が言ってるのは、別のことだ」
「別って、西宮殿のこと?」
「そうだ。さらに、黒龍殿に侵入した件についても、見逃してやらんこともないな」
「……信じてもいいの?」
琥珀色の瞳を涙で潤ませて見つめるシルディーヌに、アルフレッドは「まあ、俺に任せろ」と、自信たっぷりな様子を見せる。
イジワルなアルフレッドにすがるのは、とっても危険な気がする。
だが、この王宮内で頼ることができる唯一の人である。
「さあ、どうする?」
「よ、よろしくお願いします」
「よし、契約成立だな」
そう言ったアルフレッドの真っ黒い微笑みを見てしまい、シルディーヌはさっそく後悔したのだった。