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※開封後はひと夏のうちにお召し上がりください  作者: 村崎千尋
第2章「ウェイニング・ギボス・ムーン」
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(3)



***




『斉藤竹臣:たいへん!』

 そんなMINEのメッセージが来たのは、翌日の昼間のことだった。あたしは居間のソファでごろごろして母に文句を言われていた。

『どうしたの?』

 返事をすると、一瞬で既読マークがつく。

『斉藤竹臣:イマチが脱走した!』




 あたしはすぐに赤ちくじーさんの家に行った。オミは軽トラックを取りに一度家に帰ってからまた来るそうだ。

 赤ちくじーさんは落ち着かないみたいで、普段の腰が曲がった様子からは想像もできないほどしゃきっとして大股で庭をうろついている。見れば、いつもイマチがつながれている、長くてじゃらじゃら音をたてる鎖の先には空っぽの首輪だけが残っている。イマチだけが忽然と消えてしまったようだった。

 さらに驚くべきは、ゆりこがいたことだ。縁側に座ってゆりこが肩を震わせて泣いている。

 いったい何があったというのだろう。


「夏那坊!」

 赤ちくじーさんはあたしの姿を見ると駆け寄ってきて、つばを飛ばしながら勢いよく話し始めた。

「イマチが……!」

 赤ちくじーさんの話はあっちこっちに飛んだが、要約すると、オミがあたしに連絡して来た通りイマチが脱走してしまったのだ。


 昨晩、散歩から戻ってきたあたしとオミはイマチを鎖につないだ。それは、あたしたちふたりも確認している。さらに、今朝朝ごはんをあげたときにイマチはいたらしい。

 これは赤ちくじーさんの予想とゆりこの証言によるもののようだが、ゆりこはお昼前に、イマチをかまいに来た。その時すでに首輪は緩んでいたようだ。でもまさかすっぽ抜けるとは思っていなくて、ゆりこはそのまま放置した。どうやらその後、緩んでいた首輪から頭がすっぽ抜けてしまって、イマチはどこかに行ってしまったようなのだ。

 赤ちくじーさんはうろたえていたし、ゆりこは自分を責めてひどく泣いていた。

 でも、イマチは数年前まではよく脱走していた気がする。その時じーさんはこどもたちに「テキトーに探しといてくれ。そのうち戻るから」と笑っていたはずなんだけど……。


 赤ちくじーさんの説明が終わる頃、オミがちょうどやって来た。

 オミは急いで来たみたいで、額から頬にかけて滝のように汗が流れて、顎筋にまで伝っていた。でもあがる息とは対照的に、すごく冷静だった。

「首輪がすっぽ抜けちゃってるってことは、イマチは傍から見て野良犬同然だっていうことだ。雑種だからすごく特徴があるわけじゃないし……見つけた人がじーさんとこのイマチだって分かればいいけど、そうじゃなかったら保健所に通報されかねない」

「なんでよ。保健所の人に捕まえられちゃっても、すぐに殺されちゃうわけじゃないじゃん。一応保健所に連絡してみたら?」


「捕まえるとき、『おい犬や、おとなしく捕まってくれ』なんて言わんだろう!」

 あたしの言葉に赤ちくじーさんが顔を真っ赤にして怒鳴る。でもすぐにしゅんと背中を丸めて、小さな声で話し始めた。

「……イマチは、体のあちこちが悪いんだよ。小康状態だけども、いつぽっくりいってもおかしかぁないって獣医も言っとる。美人と慣れた男じゃないと警戒心も強い。捕まえられたときにもし手荒に扱われたら――」

 赤ちくじーさんはその先を言わなかった。でも、言わなくてもなんとなくわかった。

 あたしの記憶の中ではあんなに元気だったイマチは、昨日、あたしたちを引っ張らなかった。優等生みたいに前をてくてく歩いていて、途中、少し休憩したりもした。少し変だなとは感じていたんだ。まさか、体が悪いとは思っていなかったけど。


 あたしは、強く、しっかり頷いた。

「わかった。みんなで探そう。あたしも手伝うから」

「……ありがとうな」

 赤ちくじーさんが珍しく静かなトーンでお礼を言う。

「ごめんなさいっ……わたしのせい……っ」

 ゆりこが手で顔を覆う。震えるその小さな背中を、オミがそっと撫でた。

 それから、比較的落ち着いているあたしとオミでフォーメーションを組んだ。オミとゆりこは一緒に軽トラックでここらへんの近所から駅に向かって行き、あたしは森を抜けて住宅街の方面を探索し、赤ちくじーさんは万が一イマチが戻ってきたときのために自宅待機、ということになった。


 イマチを見つけたら電話し合おうと約束し、あたしたちはさっそくそれぞれの持ち場に繰り出した。

「イマチ! イマチー!」

 呼んだからといってイマチが「はーい」って返事をするわけではないけれど、なんとなく声をあげて呼ばずにはいられない。

 森にはいなかった。

 森を抜けて住宅街の坂をのぼっていると、車がたまに通る程度の人気のない道路の向こうから、自転車が駆け下りてきた。歩道を少し脇によけると、その自転車はあたしの前で止まる。古びたブレーキが、悲鳴みたいな甲高い音をたてた。

 見覚えのある顔に、お互い思わず指をさし合う。


「優ちゃん?」

「あっれぇ、夏那じゃーん」

 いつも集まっている中学の仲良しグループの一人、数学が苦手な優ちゃんだ。

 おっとりしていてマイペースな優ちゃんは、喋り方もなんとなく遅い。今日はそれどころじゃないのでその喋り方に少しイライラしつつも、でも角が立たないように「どこか行くの?」と問いかけた。

 優ちゃんは無意味に自転車のベルを鳴らしながら、

「木村センセん家、行ってきたとこ。今から、帰るの」

 そう答えてほっこり笑った。


「ああ、優ちゃんは木村さんとこの塾だもんね」

「うん、木村センセに直接教わってるから」

 ゆりこのお父さん――木村のおじさんは、隣町の塾で数学の講師をしている。T大とかW大を目指すようなレベルの高い子たち向けじゃなくて、勉強が嫌いな、あるいは苦手な子たちを教える個人経営の小さな塾だ。数学が苦手な優ちゃんはそこに通っている。同級生の父親ということもあって、そこそこ仲がいいらしいというのは前から話に聞いていた。


 あたしはテキトーに話を切り上げようと「それじゃあ」と言った。否、正確には言いかけた。

 それよりも一瞬先に優ちゃんが口を開いた。

「木村センセ、なんか最近落ち込んでるから、塾のみんなでカンパし合って、差し入れ買って持ってってあげたんだ。……ほら」

 どっちかっていうと人より大きいほうの優ちゃんの声が、忍者みたいにひそめられる。

「奥さんとのこと、いろいろあるでしょ」

 あたしは、ははは、と笑った。笑い声が湿度ゼロパーセント、降水確率十パーセント、超乾いてた。


 あたし、正直に言って、優ちゃんのこういうところがあまり好きじゃない。人の心の、ぽっかり傷口があいているところに、親切心という名目で突っ込んでくるところ。

 野次馬根性って言うの?

 たとえば火事が起きたとしたら、その場に行って写真に撮るというよりは、後日火事にあった人に「災難でしたね」って話しかけに行くようなタイプ。


「夏那は?」

「あたし……」

 犬を探しているの。

 言おうか迷って、飲み込んだ。

 犬の話をしたら、きっと優ちゃんは赤ちくじーさんのところに行って、「わたしも探します」と買って出るだろう。でも、そしたら、ゆりこのことが優ちゃんにバレる。優ちゃんにバレたら、きっと広まるのは一瞬だ。

 ゆりこはそれを、喜ぶだろうか。


 いまいち確信が持てなくて、慎重派のあたしは曖昧に笑ってみせた。

「ちょっと散歩。課題、疲れたし」

「暇? だったら、うち、来る?」

 あたしは首を横に振った。

「いい。課題終わんなくてさ」

「ふうん。進学校はタイヘンだね」


 優ちゃんは信じたみたい。木村のおじさんのことを話して満足したのか、自転車のペダルに右足をかけて片手を上げた。

「じゃ」

「うん、バイバイ」

 優ちゃんがベルをちりんちりんいわせながら走り去っていく。その真っ直ぐな後ろ姿を見て、あたしの心臓は肋骨の中で地面に落としたスーパーボールみたいに跳ね回っていた。


 ――嘘を、ついてしまった。

 あんまり好きじゃないところもあるけれど、好きなところもケッコーあって、いっぱい遊んだりプリ撮ったりした仲良しの優ちゃんに。中学時代ほとんど話さなかったゆりこのために。

 なんでかっていうと、正直あたしもなんでだかよくわからない。ゆりこに特別な友情を感じているわけでもないしね。

 それから、いつ連絡が来てもいいようにスマートフォンを手に持って住宅街を一周した。


 そしたら見つけた。イマチのこと。


 住宅街の端の、売地になっている草原がある。小学校の頃に登校班の集合場所にもなっていた、もう何年も買い手が見つからなくて半ば空き地化している場所だ。そこに、鎖に繋がれていない中型犬がいたのだ。もしかしてイマチかなと思って少し近づいてみたら、その犬は警戒することも近寄ってくることもなく、こちらを一瞥してプイッとそっぽを向いた。

 その姿を見てピンときたよね。こいつイマチだ、って。

 あたしはイマチから目を離さないようにしてゆりこに電話をかけた(オミにかけなかったのは、運転中かもしれないと思ったからだ)。

 ゆりこも電話を待機していたのか、ワンコールでつながる。


「イマチっぽい犬がいる」

 いの一番に言えば、ゆりこが素っ頓狂な声をあげた。

『えっどこ?』

「住宅街の、ほら、空き地あるでしょ。登校班の集合場所」

『ずっと売られてるとこ?』

「そう」

 電話越しに、ゆりこがオミに状況を説明している声が遠く聞こえる。少し経ってから、またゆりこの声が耳元に響いた。


『今から行くね。十分もしたらつくから』

 電話が切られたあと、あたしはあの手この手でイマチが逃げないように気を引いた。手を叩いてみたり、呼びかけてみたり、二、三歩近づいてみたり。

「イマチ、イマチー……」

 どれもこれもガン無視である。頑なにこちらを見ようとしない。

 仕方がないので、ゆりことオミを待った。


 きっかり十分で、空き地の脇に軽トラックが止まった。振り返ると、助手席からゆりこが飛び出してきた。

「イマチ!」

 途端に、今まで塩対応だったイマチが立ち上がり、リズミカルな足取りでこっちに向かって歩いてきて……ゆりこに擦り寄った。

 なんだかちょっぴり複雑な気持ちだけれど、まあ、結果オーライ?


 赤ちくじーさんの家に戻ると、じーさんはイマチに抱きついて喜んだ。イマチは鬱陶しそうに首を振って、それを拒否する。じーさんは落ち着かないくらい心配だったくせに、「このごじゃっぺが!」って怒り出す。でもイマチはじーさんが首輪をはめようとしても反抗しなかったから、なんだかんだあってもじーさんのところから本気で逃げたいわけじゃないらしい。


 そんな一人と一匹の絆(と、呼べるのかわからないけど)を見て、あたしたちは自然と目を合わせた。イマチが無事な状態で見つかって本当によかったね、って笑い合いながら。




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