(2)
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十二時半、木村のおじさんのところに行った。シルバーの乗用車の後部座席にキャリーバッグひとつと小さなキャンバスバッグひとつのゆりこの荷物を積み込んで、あたしは助手席に乗った。
「悪いね、行きしか送っていけなくて」
走っている最中、おじさんが何度も申し訳なさそうに眉尻を下げるので、そのたびに慌てて「いえいえ」と否定した。
「行きだけでもありがたいです」
木村のおじさんは仕事があるから、駅まで荷物を送り届けたら、ゆりこが到着する前には出発しないといけないらしい。ゆりこに会えないことをひどく悔やんでいた。
「じゃあ、頼むね、夏那ちゃん」
「わかりました。まかせてください!」
待ち合わせは、駅の椋鳥像の前。荷物を持って待っていたら、遠くから電車の音が聞こえてくる。ぴったり一時だった。
内心うずうずしながら、でもそんな様子を見せるのは恥ずかしいのでそっぽを向いて待っていると、駅の改札口から出てくる人影がある。上品なカーキのレースワンピースが、洋服が次第に秋物にシフトし始めていることを感じさせる。
今しがた気づいたみたいに顔をあげたら、ゆりこと目があって、ヤツは久しぶりのゆりこスマイルを浮かべた。
「夏那!」
高いヒールで器用にとたとたと駆け寄ってきたゆりこは、あたしの手前で突然止まって両手を広げた。おいで、って言っているみたいな仕草だ。
「は? 暑苦しいんだけど」
あたしは即座に却下して、荷物をゆりこに受け渡す。キャリーバッグひとつと、小さなキャンバスバッグひとつ。
しかし、キャンバスバッグのほうは突き返された。
「あ、それはいい。夏那にあげる」
「あっそう。じゃあもらうけど。ありがとう」
中身は少ないが、そのわりには少し重たい気がする。いったい何が入っているのだろう。
不思議に思ったが、あとで確認しようと思って見なかった。
「あのね、わたし、決めたことがある」
「なに?」
「電車をなるべく使わないようにする」
「は? どうして?」
ゆりこがハードボイルドの刑事みたいにニヤッと笑った。
「電車に乗れないくらいビッグな女優になりたいから」
「……で、木村ゆりこは見つかったの?」
少し寂しいのを直視したくなくてそう尋ねたら、ゆりこは清々しいまでに勢いよく首を横に振って否定した。「ううん!」
「見つからない! まったくわからない!」
「なにそれ」
「でもそれでもいいってわかった」
ゆりこは眩しいくらいに白い歯を見せた。吹っ切れたような満面の笑みだった。それは、今までに見たどのゆりこスマイルとも違っていた。
「夏那が覚えててくれるでしょ? だから、いいの」
その一言にすべてが集約されていて、あたしは本気笑いと苦笑いの中間の笑みを浮かべた。
ゆりこはもしかしたら、今日を最後に、完全なる「花園ゆりこ」になるのかもしれない。母を振り捨て、父から離れ、木村ゆりこを諦め、過去を忘れ、前だけ向いて芸能界で生きていくのかもしれない。
「いや、わかんないよそんなの」
あたしは苦し紛れに否定した。
「三歩歩いて気が変わったらあんたの連絡先消すかもしんない」
「いいよ、その二歩の間だけでも」
「……わかった。約束ね」
あたしたちは、小さな子供たちみたいに指きりげんまんをした。
指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った!
こんな約束をするということは、ゆりこはもう二度と六弥に帰ってはこないのだろう。あたしとも、二度と合わない。
「次の電車でもう行かなきゃ」
「うん、じゃあ」
歩き出そうとしてゆりこが背中を向ける。
ばいばい。
そう言おうとしたときだった。
向こうから白い軽トラックが走ってくるのが見えた。その運転席にいる人を見て、あたしは思わず大声でゆりこを引き止めた。
振り返ったゆりこが、あたしの視線の先を辿る。
軽トラックを乱暴に駐車させ、その運転席から、転がるようにオミが出てきた。運動が得意じゃないのに、それでも全速力で走ってくる。思いっきり部屋着なスウェット。あたしの手紙にさっき気づいて、そのまんま出てきたみたいな姿。
「ゆりこちゃん!」
あたしたちの前で急ブレーキをかけたように立ち止まったオミは、膝に手をついて肩で息をしながら、ゆりこに頭を下げた。
「ごめん、あの時、ごめん。君の気持ちを蔑ろにしてごめん。誤魔化したりしてごめん。本当に、ごめん」
そこに誤魔化しなんか一切ない。オミがいつも主張する「大人」とはとうてい思えない、純粋なまでの心からの謝罪だった。
遠くで、電車への乗車を促すアナウンスが聞こえる。
「竹臣さん、顔、あげてください」
オミがおそるおそるといったように顔をあげる。と、同時にゆりこはオミの顔も見ずに再びこちらに背を向けた。
「じゃあ!」
颯爽と遠ざかるその背中のかっこよさに、あたしたちは「またね」どころか、声をあげることさえできなかった。ゆりこの背筋は真っ直ぐ伸びていて、あたしは、小学校一年生のあの日、職員室を出たばかりのゆりこの背中を思い出した。
――ゆりこがすごいのは、ゆりこが一番よく知ってる。
自信に満ちた声を思い出す。
イマチが死んだ日、あたしたちはばらばらになったんだと思ってた。でもそれは違った。いや、確かにばらばらにはなったんだけど、たぶんそれは離散じゃない。もともとあたしたちの道はすべて違う。ゆりこは芸能人で、あたしは女子高生で、オミは東京の大学生だ。
それが、この夏の一瞬だけきらめくように交わった、ただそれだけなのだと思う。
残されたあたしとオミは、改めて向き直る。オミが目をそらしてそそくさと帰ろうとするので、あたしはそのスウェットの裾を思いっきり引っつかんで止めた。
「オミ、仲直りしよう!」
「無理だよ」
「無理かもしれないけど、でも」
しばらくあたしが食い下がっていると、ふいにオミが観念したようにこちらを向いた。その表情は複雑だった。いつも穏やかなオミには珍しい、年相応の、若い男の子の顔だ。あたしはなんだか笑いそうになってしまう。
オミだって、普通の男の子なんだな。
あたしのお兄ちゃん。あたしの幼馴染。でもそれはあたしの中だけにいるオミ。
「好きだって言ってくれて、ありがとう」
「うん」
「でもあたしはオミの気持ちに応えられません」
「知ってる」
「ひっぱたいてごめんね。あたしこそ、オミを軽く見てたし、蔑ろにしてた」
「痛かったよ」
それから、あたしたちは固く握手をした。
もちろんこれですべてリセットで元通りになるわけじゃない。オミにはオミの気持ちがあり、それがあたしの「ごめん」と「ありがとう」だけでなくなることなんてない。でもせめて、いつか気持ちの整理がついたときにまた幼馴染として笑い合えるように、仲直りのかたちだけはなぞっておきたかった。
あたしのエゴかもしれない。ていうかエゴだけど。
送ってく、とオミが言うので、遠慮なく荷台に乗り込んだ。
そういえばと思い出してゆりこからもらったキャンバスバッグの中身を覗くと、そこには、コンビニの使い捨てのプラスチックスプーンと、あの日赤ちくじーさんからもらったジャムが入っていた。ジャムはまだ半分くらい残っている。
でも、確か、賞味期限が今日までだ。
底をひっくり返してみると、確かに八月三十一日と書いてある。
あたしはそのスプーンの封を切って、ジャムの蓋をあけた。ジャムをスプーンの先っちょに乗せて口に運ぶ。ほのかな甘味と、酸味と、苦味。うん、何にもつけなくたって意外とイケる。
賞味期限なんて、あくまで目安だ。明日だって食べられなくはないだろう。それでも。
ぶっちゃけ三口目くらいから飽きたけれど、それでも意地で完食した。
八月の頭には想像もできなかった絶対的な事実がそこに横たわっている。
――もうすぐ、夏が終わるのだ。
八月三十一日と聞いたら、何を思い浮かべる?
夏休みの最終日だから課題が終わらなくて徹夜する人もいるでしょ。反対に、とっくにすべてを終わらせて遊ぶ人も一定数いるはずだ。あ、逆に最終日だからこそぐだぐだ過ごす人もいると思う。誕生日の人はたくさんお祝いされて嬉しいね。恋人たちの記念日ならデートするかな。
あたしはね、いつも、十六歳の八月三十一日のことを思い出すの。
あたしの人生はこれからもそれなりにイージーモードのはずで、オミは頭のいい大学で頭のいい彼女ができるんだろうし、ゆりこはきっとすんごい女優になってアカデミー賞とかとってレッドカーペットなんか歩いちゃうかもしれない。
つまるところ、一緒に六弥の町を歩くことはもう二度となくて。
だから、あの日あの夏、軽トラックの荷台で一人食べた、賞味期限が八月三十一日までのあのジャムの味だけは――。
たぶん何年経っても忘れることはない。忘れられることはないだろう。
(※開封後はひと夏のうちにお召し上がりください 完)
これにて完結です。お付き合いいただきありがとうございました。




