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「イマチは昼に死んだよ」
オミに言った二十六日の夕方、赤ちくじーさんの家に行くと、じーさんが縁側でスイカにかじりついていた。空っぽの犬小屋をちらりと一瞥し、じーさんはあたしが何か問う前に、先制するようにそう言ったのだった。しわの多い横顔が、西日に半分だけ照らされている。
ひぐらしの鳴く、少し涼しい夕暮れのことだった。
昨日、「もうできることは何もない」と獣医が言ったので、じーさんはイマチを家に連れ帰った。イマチは昼間に、眠るように息を引き取ったという。老衰だと信じたい、とじーさんは言った。イマチの遺体は昼間、オミとじーさんで一緒に山に埋めてきたのだそうだ。
イマチが脱走したときは死ぬかもしれないってあんなに取り乱していたのに、今の赤ちくじーさんは平然としていた。もしかしたらイマチが死んだのだということ自体が「赤ちく」みたいに。
鎖が、ついさっきまでイマチが走り回っていたみたいに庭にのびている。その先には赤い首輪がそのまんま残っていた。あの世ではなんのしばりもなく走り回れるようにと思って外したんだってじーさんが教えてくれた。
あたしもじーさんの隣に座って、スイカをかじる。じーさんの畑で育てているというそのスイカはやたらと種が多くて、何度も吐き出すはめになった。
「ゆりことオミと、約束してたんだけどな、また一緒に散歩するって。イマチとは約束し忘れちゃったよ」
じーさんがぷぺぺっと種を勢いよく吐き出した。
「……ゆりこちゃんのことなんだけどな」
「なに?」
「どうにかならんのか。“でーえぬえー鑑定”とか。何かしら、おっとさんと血がつながってる証明は、できんのか」
赤ちくじーさんにしては珍しく真面目な質問だった。
西日が眩しくて、あたしは目を細めながら答える。
「ゆりこはしないつもりっぽい。おじさんも消極的だし」
せっかくあたしがちゃんと答えたというのに、赤ちくじーさんがにししと笑い出す。
「わしもなぁ、若い頃遊んでたから、“でーえぬえー鑑定”すっぺかな。お急ぎ便だと五日かそこらでわかるらしいど」
「いや、じーさんが子供を産むわけじゃないんだから、じーさんがどんなに遊んでてもユカさんはじーさんの子供だよ」
「ははは」
しばらくスイカを食べて、あたりが暗くなりだす頃、あたしは赤ちくじーさんの家を後にした。オミはイマチが死んだことを教えに来てくれなかった。つまり、オミは……そういうこと、なんだろう。
けれどもあたしは家に帰らずに、田んぼのほうへ足を向けた。日は八月の頭に比べて短くなりつつあるが、まだかろうじて足元は見える。イマチのお散歩コースを辿るように進んでいく。
あのとき、一番前をイマチが歩いていて、その次がオミ、最後尾にあたしとゆりこがいた。
空を見上げる。今日も晴れている。
ああ、そういえば、南の空に赤い星があるんだっけね。名前は忘れたけど、確か、さそり座の一等星。星がうっすらと空に輝き始めている。でも、オミがいないから、どれがさそり座の一等星なのかまったくわからない。
その星をさすために伸ばした手が、空中で迷子になる。
さそり座のギリシャ神話。オリオンの傲慢が神の怒りを買って、オリオンはさそりによって殺された。今も、オリオンはさそりから逃げ続けている。そんなお話。
何気ない一言に気をつけましょう、って、大人ぶったオミ。オミは四つも年上だから、何かにつけて大人ぶる。
それから聞いた、イマチの名前の由来。イマチが生まれた夜、月は端っこがかけてこれから新月に向かっていく楕円形……居待月だった。目がそのときの月に似ているから、イマチはイマチって名前になったんだって。赤ちくじーさん情報だけど。
今日の月はちょうど、あたしたちが一緒にお散歩をした日の居待月と合わせたら満月になるような、そんな三日月だった。まだ完全に暗くなっていない空に浮かぶその三日月は、まるで空の傷口みたいだ。
それから何の話をしたんだっけ。
そうそう、オミがもうすぐお盆だねって言ったんだよね。
あと、精霊馬はトマトでは作らないっていう話。
そして、オミが言い出したんだ。
『今度、また、この三人で一緒に散歩しよう』
社交辞令なのにゆりこが本気にして、
『その“今度”がくること、ない、と、思います』
そう言って空気が白けたから、オミが新しい約束で塗り替えた。
『じゃあ、八月二十六日。二週間後の土曜日ね』
来るはずないと思われた“今度”は、やっぱり、来ることがなかった――。
道の真ん中に、何か黒いものが落ちている。目をこらすとそれは蝉だった。アブラゼミ? ヒグラシ? ミンミンゼミ? なんの種類の蝉なのかはわからないけれど、黒い蝉が一匹死んでいる。
いや、死んではいない? ……ううん、やっぱり死んでいる。
足が閉じているからだ。クイズ番組かバラエティ番組で、足が開いているセミはまだ生きていて、閉じていたら死んでいると見たことがあった。
それを見て、あたし、ちょっと悲しくなっちゃったよね。
オミは来ず、ゆりこは東京に帰り、イマチは死に、あたしだけがこうやってあのお散歩コースを歩いている。みんなもうばらばらだ。あのときあたしたちが聞いていた蝉時雨を構成していた蝉たちはすでに全滅し、今、泣きたくなるくらい鳴いているひぐらしたちも、いつかは死ぬ。
あたしはその蝉をまたいで通り越した。振り返ってみたけれど、やっぱり蝉は動かなかった。
二度と生き返らないんだね。
再び歩き出そうとしたとき、ポケットの中のスマートフォンが震えた。画面を見れば、ひどく懐かしくさえ思える名前がそこに表示されている。
<木村ゆりこ>
すがりつくように電話に出る。「もしもし!」
『……もしもし、夏那?』
「うん」
外だからか、うまく声が聞こえない。それでも、あたしは必死でゆりこの声に耳をすました。
『ずっと、電話に出なくてごめん』
「まったくだ」
『夏那、いっこ確認してもいい?』
「なによ」
『あのとき何を言おうとしてたの?』
「あのときって?」
『この前の電話で言ってたじゃん。そんなのゆりこじゃないって。あのとき、途中で電話が切れちゃったけど、なにを言おうとしてた?』
記憶が蘇る。
あたしは叫んだのだった。
でも、そんなのゆりこじゃないよ! あたしは知ってるよ! ゆりこが。
「ゆりこが、あの時のゆりこと本当は何も変わらないんだって。って、言おうと、した」
それを言葉にすれば、ずっと違和感があった今のゆりこの実像が、昔のゆりこの幻像にダブる。
ゆらゆら、ゆらゆら。
――ああ。
ゆりこは、ウサギに草をあげたときも、キョーハンになってこどもウサギを逃がしたときも、あたしのことを完全ハブにしたときも、いつだって自分の信念に真っ直ぐだった。
それは今だって変わらない。
自分のせいでイマチがいなくなったときに泣いたこと、三人でのお散歩はもう二度と来ることがないって悲しんだこと、お芝居のために本当の自分を探しにきたこと。その真面目さ、真っ直ぐさ、力強さ。
ゆりこが気づかなくたって、あたしは知っている。
斉藤家そしてオミがお盆が来るたびにトマトに砂糖をかけるように、ゆりこの目には見えなくたって、あたしは何度だって木村ゆりこを思い出す。
『ありがとう。それ聞いて、最後の決心がついた。……夏那』
ゆりこが短く、鋭く、あたしの名前を呼んだ。
『明日の午後二時。テレビ見て』
「え、なんで」
『いいから、絶対見て』
「だからなんで」
『それじゃあ!』
電話が切られる。ツー、ツーという音が虚しく響いている。
でも、前回切られたときのような冷たい何かは感じていない。
明日の午後二時、明日の午後二時、と心の中で唱えながら、あたしはずんずん歩いた。
ひぐらしの鳴き声なんか、もう、聞こえない。




