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八月二十三日は、あたしの十六回目の誕生日だ。
いつもはお金がかからないところで集まるあたしたち中学の女子バスケ部のメンツだけれど、今日ばかりは少し奮発して五十川の駅前のファミレスまでやってきた。
おのおのパフェやらドリアやらピザやらを好き勝手に頼む。もちろんドリンクバーも忘れない。それでもファミレスは安い。合計、三千円ちょっとなり。
「いっちょやりますか!」
マッキーが半袖を肩のあたりまでまくりあげる。あたしたちも口々に「っしゃあ」とか「スイッチ入れてこー」とか、中学時代の部活の試合前みたいに気合いを入れる。
ちなみにこの集まりは祝う側であろうと祝われる側であろうと容赦しない。百マス計算早解き勝負をして、百問目を解き終わるのが一番遅かった人がおごりというルールである。明らかに数字全般苦手な優ちゃんが不利で、いつもこの勝負になるとだいたい優ちゃんのおごりだ。
事前にマッキーが印刷してきた百マス計算用紙を全員分に配り、シャーペンを目の前に置いてスタンバイ。お互いに不正がないことを確認しあう。
「よーい」
空気が張り詰めた。
ドン、とマッキーが声をあげるなり、あたしたち五人は一斉に解き始めた。
百マス計算とは、縦十段横十列の数字をかけ合わせて答えを百マス分埋めていくというものだ。小学校低学年の頃にさんざんやらされたアレである。やっていることは単純な九九でしかない。それゆえ、あたしは一度もみんなにファミレスでおごったことがない。
シャーペンと机がぶつかる音が、雨みたいに響き渡る。
さんくにじゅうしち、ろくにじゅうに、しちいちがしち……。
すっかり自分の中に馴染んだ九九を呪文のように口の中で唱えながら、だいたい六十問ほど解き終わった頃だろうか、ふいにマッキーが「てかさぁ」と声をあげた。
どうやら、話しかけて戸惑わせる作戦らしい。
「えぇ、マッキー、やめてよぉ。頭ん中で数字、ばらばらになっちゃう」
優ちゃんが情けない声をあげると、みんなくすくす肩を震わせた。こうやって手元を狂わせるところまでマッキーの作戦のようである。とんだ策士だ。あたしは気にせず解き進める。
「最近六弥で、目撃情報あったらしいね」
「あー、聞いたそれ」
「え、なんの?」
「優ちゃん知らないの? 花園ゆりこのだよ」
あたしは口に含んだカルピスソーダを吹き出しそうになった。なんでもないみたいにそのまま走らせたシャーペンの芯の先がぐにゃりと歪んで、「7」が「ワ」になる。
「えー、そうなの? 会いたかったなぁ」
「ゆりこ、今たいへんそうだよね」
「元気かな」
口々にみんなが言う。シャーペンの音がやむことはない。
その言葉を聞くたびに、苛立ちがつのってあたしの中の九九が一段ズレた。
しちしち、しじゅうご? 違うよね? はっく、ごじゅうに? 違うよね? 消しゴムでどんどん用紙が汚くなっていく。それと同時に、心の中も。
ゆりこをインスタントな時間つぶしのネタにされたくない。
あんたたちが会いたいのは、“木村ゆりこ”じゃないじゃん。ゲイノウジンの“花園ゆりこ”じゃん。明るくて可愛くてみんなのアイドルだった、嘘っぱちのゆりこじゃん。
結局、誕生日なのにあたしのおごりだった。
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ワイドショーの内容は日を追うごとにどんどん過激になっていく。事務所はもう何も答えない。同じ事務所に所属する芸人さんがやたらとそのネタでいじられるようになった。あれからテレビでゆりこを見ない。花園撫子も、幸田典彦も。SNSもブログも一切更新されない。どうやらあのアイドルは覚せい剤をやっていたらしい。母の興味の話題もそっちにうつった。そのニュースをきっかけに、一連の不倫報道も少しずつおさまっていく。
あたしのまわりだけで、日常が戻りかけている。
ゆりこはどうだろう。
もう一度電話をかけたが、やっぱり通じなかった。
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「竹臣くん、八月いっぱいで東京に帰るんだってね」
母の言葉に、あたしはふうんとだけ返事した。
あれ以来、オミとはまったく会っていない。あたしはオミに会いに行こうとしなかったし、オミだって来なかった。ひっぱたいたことは悪かったと思っているけれど、オミがしたことのサイテーさを思うと許せない気持ちがあるのも確かだ。
夏の暑さがラストスパートをかけてきてバテ気味なので、今はしんどくなるようなことをしたくない。オミとも向き合いたくない。臭いものには蓋、見て見ぬふり、なかったことにすること。イージー人生の平穏のために。
でも、ちょっとだけ思う。
オミがどう思っているのか、何もしなくたってわかる方法があればいいのに。って。
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『マッキー:ねーねー』
『なに』
『マッキー:今からゆりこん家いかない? ゆりこいるかもよ?』
『えー』
『マッキー:優ちゃんとかもくるし、そんで、ゆりこがいたらゆりこも交えてさ、コンビニで涼もう。優ちゃんのおごり(笑)』
『ごめん、あたしパス。課題終わんないんだよね』
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――じゃあ、八月二十六日。二週間後の土曜日ね。
あの日オミが言った言葉を思い出して、二十四日、イマチの散歩の約束を取り付けようとじーさんの家に向かったら、じーさんもイマチも不在だった。
ユカさんが、じーさんはイマチを連れて動物病院に行っていると教えてくれた。
「イマチ、ちょっと風邪ひいたとか、そのくらいですよね」
あたしの言葉に、ユカさんが曖昧に笑う。
「あたし、二十六日の夕方に散歩に来るから、じーさんとイマチにそう言っておいてください」




