(6)
町を駆け、あたしは下駄をからからいわせながらあちこちを走り回った。お祭りのほうには行かないだろう。田んぼ道を見たけれど人影はなく、赤ちくじーさんの家にも森の中にもいなくて、迷ったすえにゆりこの家に行った。
「え、ゆりこなら、まだ帰ってないけど、はぐれちゃった?」
木村のおじさんはきょとんとしてそう言った。嘘ではないみたいだった。
「あはは。もう一回電話してみますね」
家にもいないようだ。ゆりこに何度も電話をかけながら住宅街を駆けずり回っていると、遠くでアイフォンの初期設定の着信音が聞こえた。
あの売地からだ。
走っていくと、売地の真ん中で、ゆりこがしゃがみこんで膝に顔をうずめていた。浴衣はすっかり気崩れて、襟の後ろのところがよれている。髪の毛もボサボサだ。
「ゆりこ!」
電話を切って直接呼びかけると、ゆりこは顔をあげる。
道の脇の街路灯に照らされたゆりこは、泣いていた。その綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして。マスカラとアイラインが落ちて目の周りが黒くにじんでいる。口紅だけが落ちていなくて、その青みピンクだけが夜の闇にぼうっと浮いていた。お化けみたいだった。
「ゆりこ……」
「近寄らないで」
はっきりとそう拒絶される。
あたしはそれ以上近づくことなく、素直に足を止めた。ゆりこが立ち上がる。
「なんで追いかけてきたの?」
責めるようなその響きにあたしは一瞬ひるんだが、でも黙り込むことはしない。
「あたし、オミのことひっぱたいてきた! あいつさいてー野郎だよ!」
「なにそれ、フられたわたしに同情してるんでしょ」
「そんなことするわけないじゃんか」
「……だよね」
責めてきたのはゆりこなのに、彼女はあっさりと引き下がる。「だよね」もう一度肯定した口調は、なんだか、ひどく落ち込んでいる。
拍子抜けした。
「夏那が、無責任に同情したりしないの、わかってる。夏那はそんな子じゃないもんね。わたし、ちょっと気が動転しただけ」
ゆりこが早口にそう言い切ると、こっちに歩いてくる。なんだその変貌。なんだその情緒不安定ぶり。
ゆりこは笑ってさえいた。目元がパンダでもとびっきりかわいい、完璧なまでのゆりこスマイル。
――ああ、演技だ。
確信のようなものが胸をよぎった。
『演技だよ。あの頃も、それから今だって』
『“花園ゆりこ”が出来上がっていくにつれて本当の自分が誰なのかわかんなくなっちゃった』
『わたしは素のわたしを、本当のわたしを、つまりは“木村ゆりこ”を探しにきたんだ』
お盆の真ん中の日、お泊りの夜、ゆりこがあたしに言ったことが脳内でリフレインする。木村ゆりこを探しにきたはずのゆりこなのに、結局、何も変わってないじゃないか。結局、花園ゆりこのまんまじゃないか。
オミに抱いた怒りは、形は変えずに矛先だけがそっくりそのままゆりこへ向く。今のあたしはとても沸点が低い。
あたしは体当たりするように両手でゆりこの浴衣の襟を掴んだ。着崩れなんか気にするもんか。ゆりこのほうが幾分か背が高いので、見上げるかたちになる。
「なんでそうなの、ゆりこは。綺麗な人でいようとするの? あんたの好きな人はあたしのこと好きなんだよ。それなのに、なんで、『夏那は同情しないよね』なんて言えるわけ?」
ゆりこが驚いたような顔をしている。でも、かまわずあたしは続けた。
「小一のときゴリラに言い返したのも、小四のときキョーハンになったのも、小六のときいざとなったら母親を売るって言ったりミオカちゃんのところに行けってあたしのこと完全ハブにしたのもすっごくかっこよくて、あたしはゆりこに憧れてたのに」
けれども、その憧れの先にいたのは木村ゆりこだ。決して花園ゆりこではない。
今更ながら気づいた。あたしはゆりこが大嫌いだ。
一息にそう言い切ったら、ゆりこの顔が歪むのが見えた。泣こうとしているのではないことはすぐにわかった。ゆりこがあたしの肩を両手で掴んで揺さぶる。ぐらぐら揺らされて、さっきお祭りで食べたものが全部逆流しそうになる。
「わたしだって探してるの。でも見つかんないの。仕方ないじゃん」
「何が仕方ないのよ」
「だってわたしは夏那じゃないんだもん。夏那とは違う。どんどん友達づきあいが器用になってって、物事をちょっと斜に構えて見るようになっても、夏那の根本的なところは変わらないでしょ。いっつも素なの。夏那には、わたしの気持ちなんかわからないよ!」
今日の昼間、職員室の十五分番組でゆりこが練習していたのとまったく同じセリフなのに、どうしてだろう。なんだか全然違った風に聞こえた。
「いっつも素ってなに? あたしだってキャラ作ってマッキーたちの前では頑張ってるんですけど。話だって合わせてるし、精一杯きゃぴきゃぴしてるんですけど」
「でもそうやってちょっと頑張れば夏那はあたしにないもの全部手に入れられる。竹臣さんのことも、いっぱいの友達も学力も両親も自分の居場所も」
「なにそれ。だから自分かわいそうみたいな感じ? でもさ、ゆりこが中学の頃キャラ作ってたのも不安定な芸能界入ったのも全部自分の意思じゃん。あたしにずるいって言われても困る!」
こんなところでこんな時間に大声を出しているのは近所迷惑だっていうのは頭の片隅でわかっていた。でも、一度吐き出した言葉を止めることはできなかった。理性のストッパーが完全に壊れてしまっている。
「言わせてもらうけどね、あたしだってゆりこのことずるいって思ってる。みんなから……犬からもちやほやされて、それ以上何を望むの? ずるいよそういうの」
言いながら、涙が出てきて止まらなかった。
どうしてあたしはこんなにひどいことを言っているのだろう。ゆりこが傷つくってわかっているのに。こんなの、オミに告白されて自分がイライラしているのを、ゆりこに八つ当たりしているだけだけじゃないか。あたしのほうがよっぽどずるいよ。
ゆりこがうわっと発作みたいに泣き出した。
「知ってるよ、知ってるよそんなことぉ……」
知ってる、わかってる、気づいてる。ゆりこは幼子みたいにそう繰り返した。
泣きながら、ゆりこが掴んでいたあたしの肩を離して、そのままあたしの両手を取った。ゆりこの涙が頬から顎に伝って、重力に従って顔を離れ、あたしの手にぼろぼろ落ちる。あたしの涙もそこに落ちる。
ふたりの涙が、ふたりの手の上で混ざり合う。
あたしたちは、きっと泣いている理由も怒っている理由も全然違うのに、涙だけは平等だった。
ふたりでわんわん泣いた。泣きながら、しゃっくりみたいな引きつれた呼吸の合間にお互いを責めた。でもあたしはゆりこの言葉にひとつも傷つかなかった。ゆりこだってきっと同じだ。もう、その言葉には悪意なんか込められていない。
なんだかそれは、ある種の儀式みたいに思えた。
どれくらい泣いていただろう。泣き出したときと同じくらい突然にゆりこが泣き止んだので、あたしも半分くらい鼻から落ちていた鼻水をすすって、言いかけていた言葉をシャットダウンした。
「ゆりこ!」
誰かがゆりこを呼んだ。男の人の声だ。でも、オミじゃない。
振り返ると、売地の入口に木村のおじさんが立っていた。ひどく焦っている様子でこちらに走ってくる。木村のおじさんは「今すぐに家に戻ってテレビを見なさい」と怒鳴るように言って、ゆりこの手を引いた。なすがままに引っ張られていくゆりこの後を、あたしも追う。
木村家にあがりこむと、大音量で居間のテレビがついていた。
急遽入れられたようなどこもかしこも雑な作りの特番。ニュース番組の中のひとコーナー。「瞬夏」という文字が踊っている。そういえば母が、今晩、瞬夏っていうユーチューバーがビッグなニュースを発表するって言っていた。母はアイドルの覚せい剤の件だって予想していた。でも。
その「瞬夏」っていう人が先ほどアップロードしたばかりの動画がそのまんま流れる。そこに映っていたのは、すべての元凶になった花園撫子と幸田典彦の路チュー写真。幸田典彦の目線に入っていた黒いものは取っ払われて名前が報道されていた。
おそらくその瞬夏さんが、動画の中で意味深な顔で頷いている。
「妻子がいるN.K.さんっていえば、やっぱりこの俳優でしょうねぇ。ネットでもそう予測が立っていましたしねぇ」
「今頃、2・5ちゃんねるでは大騒ぎじゃないですかねぇ」
「ま、ここまではテレビでも報道されてるカンジです」
瞬夏さんがひとりで言葉を続ける。動画はそこでは終わらない。
速報、という体で、その“ビッグなニュース”は進められていく。
動画のサポートをしているらしい人から、瞬夏さんに紙が手渡された。
「ななななんと! これはこれは!」
のけぞる瞬夏さんに、「なんだなんだ?」とテロップが入る。
「花園撫子さんの娘である、女優の花園ゆりこちゃんがいるでしょ?」
隣で、ゆりこの顔が強張る。ゆりこは目を見開いたまま首を横に振って、「わたし、何もした覚えない。心当たりない」と繰り返し否定した。
ゆりこに心当たりがなくても、きっと、良くないニュースだ。
「ボクら瞬夏っていうグループなんですけどね、メンバーのひとりがね、この一連の報道に対してある仮説を立ててるんですよ。それがね、花園ゆりこちゃんが元旦那との子供ではなく、この幸田典彦さんとの子供だってことです!」
動画は一旦ここで止められ、ニュースのスタジオで解説が始まる。
アシスタントのお姉さんによって移動式ボードが運ばれてきて、その“証拠”とやらが説明されていく。フリップがひとつめくられていくたびに、ざわつくスタジオ。
「えぇー!」
「でっちあげでしょ」
最初は懐疑的だったその場にいる人たちが、しだいに大げさなアクションをとるようになる。
隣のゆりこが、あたしにしがみついてきた。ぶるぶる、ぶるぶる、痙攣みたいに震えている。その顔は真っ青で、目元が黒いから今にも死んでしまいそうに見えた。
「この件について花園母娘と幸田典彦さんの所属事務所に問い合わせをしてみましたが、一度本人に事実確認をしなければいけないからとノーコメントの姿勢をとっているようです」
「事実無根なら『名誉毀損で訴える』など強気に出てもいいところなんですけどね。これはなにかやましいことがあるんでしょう」
ゆりこのケータイがなりだした。まともに使い物にならない手で、ゆりこが電話に出る。
「もしもし、高木さん? テレビ、見てるよ。わたし一度事務所に戻ったほうがいいよね? うん、うんわかった。迎えに来るの、待ってるから」
電話は短く終わり、マネージャーが東京から迎えに来る、とゆりこは小さく言った。
お葬式みたいに静まり返った木村家で、テレビの音だけが、空気を読めない人みたいにわーわーと騒ぎ立てている。そのコーナーが終わるまで、ゆりこは責め立てられているみたいに俯いて床を見つめていた。
(第四章「クライ・ガール・クライ」)




