(5)
どうしてよりによって児童公園をチョイスするのだろうか。神社のほうが人がいないし、ムードもあるのに。告白が成功したあとチュッてしやすい場所でもあるのに。
ゆりこの思慮のなさと自分の運の悪さにイライラしながら、でもあたしも鬼じゃないのでトイレの中で息を潜める。もちろん通知音が鳴らないようにスマートフォンをマナーモードにするのも忘れない。ブランコ側の壁の小窓が開け放されていて、ふたりの声が聞こえてきた。
「これから花火ですね」
「ここからだとちょっと遠くになっちゃうけどね」
どうやらまだ告白はしていないみたいで、二人は談笑している。
「今日は楽しかったです。夏那、コケるし」
「俺も。ははは、あいつ、ドジだからね」
笑い事じゃねえよ。
出て行ってツッこみたい衝動をこらえる。
「あのね、竹臣さん」
今まで軽やかな女の子らしい声をあげていたのに、それがいきなり真剣みを帯びた。
どこかで聞いたことがある声の調子だなと思ったら、先日放映された、ゆりこが主演の恋愛ドラマでのものだった。あの時のゆりこはちょっと落ち着いたトーンの低い声だったことを、マッキーや優ちゃんに見ろ見ろって言われて視聴したので覚えている。
なに、とオミはまったく見当がついていない様子で返事をした。
「あの、その、わたし」
そういえばゆりこ、夕方、イマチ相手に恋愛ドラマみたいな告白ゼリフを練習していたっけ。
あれはいまいちだからぜひやめてほしいんだけど。
「どうしたの」
「えっと、えと、その」
でも、あのセリフは出てこないみたいだ。
「ゆっくり話していいよ」
オミは何か相談事だと勘違いしているようだ。この鈍感男め!
祭りの音が遠い。人の歓声も遠い。夜の、オミとゆりこ、二人きりの世界。
言え、言っちゃえゆりこ!
「あの、わたし、竹臣さん、ええと」
「うん」
「竹臣さんのこと……好き、だったりします」
――言った!
沈黙があたりを支配する。オミは何も答えないし、ゆりこも余計な言葉を付け足したりしない。あっちからやってくる人はいないし、出店通りと花火大会の会場は歩行者天国になっているからここらへんは車も通らない。ただ、蝉の鳴き声だけが耳がわんわんするくらいに鳴り渡っている。
やがて、花火が始まったらしい。胸に迫るような重低音が聞こえてくる。花火の内容を解説するお姉さんのアナウンスが、その声の輪郭を滲ませてゆったりとこっちまで響いていた。
トイレの、アンモニアくさい壁にもたれて、あたしはオミの返答を待つ。
「俺は」
ようやくオミが言葉を発した。その声は落ち着いていた。
「俺は、二年前、前の彼女と別れるときに揉めて。当時俺もメンタルが弱ってたっていうのもあるけど、しつこくMINEで責められたりわたしが死ぬって脅されたり」
「はい」
「目の前でリストカットされそうになったりして、いろいろ参っちゃって。それで、けっこう、付き合うっていうこと自体がトラウマになってて」
「そんなことがあったんですね」
「うん、それで、二年間彼女を一度もつくってないんだ」
「だからダメ?」
「……そうなんだ、ごめん」
思わず叫び出しそうになった。
いつまでそんなことにとらわれているの! って。
オミがどれだけ傷ついたのかあたしには検討もつかないけれど、そんなの過去のことじゃん。今目の前にいる女の子のことを、オミのことが好きなゆりこを見てあげてよって、オミの胸ぐらを掴んで揺さぶって説得したくなった。
「わたしは、その元カノさんとは違います」
ゆりこが凛とした声で反論した。
「違う女の子です。花園ゆりこです」
「うん、でも」
「もういいです。どうしてそういう理由をつけるんですか? わたしだって馬鹿じゃないですよ、竹臣さん。わたし、知ってるんです」
「何を……」
「わたしがどうあがこうが、無駄なんですよね。だって竹臣さんは、夏那のことが好きだから」
フられたからって、ゆりこは何を言ってるんだろう。その足掻き方は醜いよ。ゆりこはゆりこの良さをアピールしていけばいいのに、こんなの逆効果だ。飛び出して仲裁に入ろうかと思ったくらい、もどかしくてたまらない。
ああ、ああ。
オミもさっさと否定すればいいのに、黙り込んだまま何も答えない。
ゆりこが少し声のトーンをあげた。けれども口調は淡々としていた。
「前からなんとなくそうかなって思ってたけど、さっき夏那のこと受け止めた竹臣さんが、夏那をすごく優しい目を見てるのを見て、ああそうなんだって確信しました。夏那のこと、好きなんですよね?」
花火の音が絶え間ない。けれども、オミの声は鮮明になる。
「……そうだよ。俺の好きな子は、夏那だよ」
絞り出すようなかすれた声で、オミが肯定した。
頭が真っ白になる。目の前がチカチカする。口の中が乾いて、唾液がまったく出てこない。胸の前でこぶしを握ると、心臓がすごくいやぁな感じにドキドキしていた。息の音さえ二人に聞こえてしまいそうで、あたしは、不規則に呼吸した。
オミが好き? あたしを? なんで? あんなに仲良くしてくれたのに。あんなに子供扱いしてきたくせに。オミが大学に行ってしまって、あたしたちはほとんど会うこともなくなったのに。オミには、好きな子がいるはずなのに。
……ううん、それが、あたし?
「俺は、好きな子がいるのにほかの子と付き合ったりはできない。だから、ごめんなさい。俺はゆりこちゃんとは付き合えません」
「そうですよね、竹臣さんが真面目な人で安心しました!」
ゆりこが明るい口調で弾むように言うが、その声はわずかに震えていた。
「あ、トイレの電気ついてるみたいだけど、中から誰も出てきませんね。わたし、電気消してきます」
え? ちょっと待って。
個室に逃げ込まなきゃいけないと思った。でも、動いたら下駄の音が鳴ってしまう。足が固まって動けない。
ゆりこが来てしまう。
電気のスイッチはあたしの目の前だ。心臓が肋骨から飛び出そうとしているみたいに跳ね回っている。吸った息をうまく吐けない。あたしは、あたしは。
トイレの入口のドアが、ゆっくりと開かれて――。
「か、な……?」
入ってきたゆりこと目が合った。
ゆりこは最初驚いたようだったが、すぐにその表情が、丸めたアルミホイルみたいにぐしゃりと歪む。ゆりこはトイレのドアをほっぽり出すと、逃げるように駆け出していった。
「ゆりこちゃん!」
「ゆりこ!」
あたしは思わずトイレを飛び出して、大声でゆりこを呼び止めた。
「なんで、夏那が?」
オミがあたしに気づいて、馬鹿みたいに突っ立っていた。
「ゆりこの告白に協力して席を外したの。ゆりこたちはてっきり神社のほうにいくと思ってトイレにいたら、二人ともこっちきたから出られなくて」
嘘がつけなくてあたしは正直に答える。オミが口をぱくぱくさせた。
「全部、聞いてたんだ」
「うん、そう。盗み聞きしてごめん」
「……この際だから、言っていいかな」
あたしが「いい」とも「ダメ」とも言う前に、オミが近寄ってきた。あたしとの間はきっかり八十センチ。後ずさろうとすると手首を掴まれる。絶妙な間をあけて、オミが、頭を下げた。
「元カノのこと、俺、ほんとは気にしてない。夏那のおかげですぐに吹っ切れた。彼女をつくらなかったのは、夏那が好きだったからなんだ」
あたしの表情筋が引きつる。
「二年前、夏那がヒーローみたいに助けてくれて、それから大学に進学しても夏那が忘れられなくて、好きだって気づいた。夏那のちょっとひねくれたところとか、よく笑うところとか、全部好きなんだ」
オミが顔をあげる。
いつも穏やかな表情のオミが、眉尻を下げて、情けない顔をしている。
びっくりしたけれど、思えば、片鱗は今までにいくつも転がっていた。
八月の頭、ゆりこがやってきたときにあたしに「またおいでよ」と言ったこと。駅の駐車場で会った時に「四歳差なんてあってないようなもの」と主張したこと。イマチとの散歩で「俺が東京に帰っても連絡を取ればいい」とMINEを交換したこと。いつも軽トラに乗っているときにあたしを見つけると、送っていってくれること。
ずっと、オミがお兄ちゃんだからだと思ってた。
オミにとっては違ったんだ。
ふつふつと湧いてきたのは、オミが好きとか嫌いとかいう気持ちじゃない。
それは、“怒り”だった。
「オミ、さいてー!」
返事とかもろもろすっ飛ばしていきなりそんなことを言ってしまったが、オミは心当たりがあるみたいで顔にグッと力を入れた。
あたしはなおもオミに詰め寄った。
なんで元カノうんぬんってゆりこに嘘をついたの? ゆりこは真っ直ぐにオミに気持ちを伝えているのに、なんでオミは誤魔化すの? そういうのサイテーだと思わないの? それに、なんでこのタイミングであたしに告白するの? なんでゆりこを追いかけないの?
オミは一度も反論せずに聞いていて、あたしが息を切らして言葉を途切れさせると、静かに口を開いた。
「好きな子がいるからって言ったら、その子への恋が終われば自分にもチャンスがあるって勘違いされるから」
オミは少し視線をそらし、
「元カノの件を出したほうが角が立たずに断れると思った。大人として、そうすべきだと思った」
てのひらをぎゅっと握り締めて、
「でも聞かれた以上、今なかったことにしたら、きっと一生夏那に言えないから」
最後にあたしを見た。
「俺と付き合ってください」
「……っ、ふざけんな!」
あたしはオミに掴まれた手首を振り払う。そしてその勢いのまま手を振りおろし、オミの頬を思いっきりてのひらでひっぱたいた。
パァン。
花火の音に重なる。
何が大人だ。人の気持ちの重さを踏みにじるのが大人だっていうなら、大人なんかくそくらえ。あたしは一生十六歳のままでいい。
オミが何か言おうとする。聞きたくなくて、あたしは駆け出した。
あたしの中のオミががらがら壊れていく音が聞こえる。それがたまらなく悲しい。あたしの幼馴染、あたしのお兄ちゃん。どうして変わってしまったんだろう。オミがもう一度散歩しようと提案したあの日、あたしたちはきっとずっと仲良くいられると思ってたのに。
スマートフォンを取り出して、ゆりこにかけた。コール音が無機質に耳の中で反響する。
出て、ゆりこ。出て。
走りながら、あがる息の合間に祈った。




