(3)
***
――夏那が中学の頃ハマってたアイドルグループのナントカっていう男の子、そうそう、背が高い人、あの人捕まったんですって。
えぇー! 夏那、知らなかったの? 絶対にショック受けてると思ってたんだけど、そのグループはもう飽きちゃったの? 一時期ライブライブって騒いでたじゃない。あ、でも今は新しいアイドルいっぱいいるものね。夏那ももう高校生だし、アイドルよりまず自分の将来のことで騒いでほしいわぁ。
そのアイドル、昨日交通事故を起こしたの。車を運転してたら、自転車の高校生を轢いて逃げちゃったみたい。あんたも気をつけなさいね。それで、幸い……って言っていいのかわからないけど、その高校生は命に別状はなかったんだけど、問題は逃げちゃったことよね。だってやましいことなければ逃げないじゃない。
そうそう、まだ明るい時間だったから事故には目撃者が何人かいたんだけど、車の様子がおかしかったって言うのよ。車通りのあんまりない道らしいんだけど、でも、逆走してたんですって。
ふらふらしていたら居眠り運転か飲酒運転かもしれないでしょう? でも、真っ直ぐ、まるで当たり前みたいに逆走してたってみんな口をそろえて言うの。
お母さんはね、絶対ぜぇーったい、大麻だと思ってる。ほら、今、なんていうの、脱法ナンタラとか若い子の間で流行ってるじゃない。ダメよ、夏那。まぁそんな子じゃないのは知ってるけど。
お母さんがそう思うのには理由があって、実は、瞬夏っていうユーチューバーいるでしょ、芸能人のスキャンダルとかいっぱい取り上げてる人らしいんだけど、あの人が今夜ビッグなニュースを発表するって声明を出したんだって。ニュースでやってた。絶対覚せい剤情報だと思ってる。お母さんは確信してる。
ねぇ夏那、真面目に聞いてるの?
「聞いてる聞いてる」
バターロールを牛乳で流し込みながら、あたしは答えた。
(聞いてはいるけど、聞き流してる)
今日の夜ご飯を抜きにされたくないから、余計なことは言わないけどさ。
テレビのチャンネルをつければ、どこの番組も国会のごたごた騒動と母が言うそのアイドルについての疑惑しか放送していない。
母に言われるまでもなく、その事件の概要(真実かどうか定かではないが)はあたしの耳にも入っている。好きなアイドルだからそれなりにショックだったし、マッキーや優ちゃんたちのMINEグループでも話題になった。
すっかり花園撫子の不倫報道は吹き飛んでしまっていた。
もともと報道があってからふたりともメディアへの露出を控えているので、なんとなく下火になりつつあった。それにくわえてこのアイドルの事件が、完全に世間が花園撫子の件を忘れるきっかけになったかたちである。
しばらくしたら、花園撫子は何事もなかったようにテレビに復帰するだろう。木村のおじさんは一般人だからおおっぴらに声をあげられないうえに泥沼離婚裁判を起こすような性格でもないため、世間も「まぁ浮気くらい」と言って花園撫子を受け入れる。
事務所も稼ぎ頭を失いたくないから、うやむやにしてしまうはずだ。
それでいつか、五年くらい経ったら芸人さんにいじられるネタにされるような「昔の出来事」になるのだろう。
でもまぁ、そんなもんだよね、スキャンダルって。
花園撫子への報道が鎮火し始めているから、しばらくしたらゆりこも東京に戻るのかもしれない。
バターロールを食べ終わり、あたしは話し続ける母を遮るように席をたった。
「あら、夏那、今日学校って言ってたけど、お弁当は?」
「いらない。課題出しに行くだけ」
「ええ、作っちゃった」
「あたしは学校が終わったらそのまま赤ちくじーさんの家で浴衣借りてお祭りに行くから遅くなるし、夜ご飯もいらないよ」
「じゃあお弁当はお母さんが食べるね」
「そうして」
母の次の話が始まらないうちにと、急いで家を出る。課題の半分は今日が提出日だから、学校へ向かうのだ。
芸術選択で美術をとっている人の課題の絵画や全員提出必須のいくつかの作文は、コンクールに送る作品を選別する都合上、夏休みのうちに集めておきたいらしい。今日はそれを提出しにいく。締切は午後三時までで各自自由な時間に行っていいのだが、今日は夕方からお祭りにいくので午前中のうちに出しに行くことにした。
正直、それだけのために制服を着るのが非常に面倒くさい。けれどサボるほどの度胸もない。
一時間に一本しかないバスに揺られて五十分。バスの乗客はあたしとおばあさんしかいなかった。電子マネー機器がいまだに導入されていない古いバスは床が板張りで座席のシートも固く、あたしはいつも、映画で見た外国の長距離列車を思い出す。
五十川第三高校前で降りると、ちょうど校門のところで自転車を押している友人に出くわした。
「おお、桜田じゃん」
「うわ、吉井もこの時間? 奇遇っすねー」
うちのクラスにはもう一人カナちゃんがいて、名前で呼ばれるとどっちも返事してしまうので、クラスメートはみんなあたしを苗字で呼ぶ。
それに、高校生にもなるとなんとなく、新しい友達を名前で呼び捨てするのが恥ずかしくなってくるのだ。苗字呼び捨てのほうが雑な感じが緩くていいし、変に敬称をつけるよりずっと距離を近くに感じるっていう理由も少なからずある。
桜田が駐輪場に自転車を止めるのを待ってから、二人でアスファルトの広場を突っ切っていく。このまま職員室の外の出入り口に直行するつもりだ。桜田が上履きを忘れたと言ったからだった。ろくに掃除もされていない廊下を紺色のソックスで歩くのはだいぶ勇気がいる。
「このあと部活なんだけど、ダルい。しんどいのは部員だけど、忙しさは絶対マネのが上なんだよね」
桜田は男子バスケ部のマネージャーである。
「桜田もたいへんだなー。でもまあ、部員たちの目の保養になってるから行ってきなよ」
「え、桜田さんかわいいって?」
「難聴かよ。おっぱい要員だっつーの」
「黙れ貧乳」
軽快なやりとりに、あたしはげらげら笑う。ここのところゆりことばかりいたから、こういう、会話が噛み合う感覚は久しぶりだ。
「おう、桜田と吉井!」
職員室から顔を出す人がいた。国語科のトミーだ。
トミーはすごく気さくな先生で、ほかの先生なら昇降口から入ってきなさいって言うはずなのに、快く外の出入り口を開けてくれた。あたしたちはローファーを脱ぎ捨てて冷房がガンガン効いた職員室に転がり込む。夏休みだからか、あるいはそれぞれの教科の職員室に閉じこもっているのか、こっちの総合職員室にはトミーしかいない。
リュックから課題を引っ張り出してトミーに渡すと、トミーはよそ見をしながらそれを受け取った。
トミーの視線の先をたどると、テレビがついていた。
「あ、花園ゆりこだ。超かわいーい」
桜田がそこらへんのテキトーな椅子に座る。
その番組は夢を追う十代の若者を特集する十五分番組だった。有名ニュース番組の直前にやるので、ニュースが始まる前にチャンネルを変えてなんとなく見ている人も多い。
テレビの中のゆりこは正面の壁が鏡になったダンススタジオのようなところにいた。まだ髪の毛が長い頃に撮ったものらしく、肩甲骨くらいまであるポニーテールを揺らしている。Tシャツにテカテカしたロイヤルブルーのバスパンという動きやすいかっこうで、片手に本のようなものを丸めて握り締めているので、お芝居の練習中だろうか。
ゆりこがよく通る低めの声で「リナにはあたしの気持ちなんかわからないよ!」と叫ぶと、脇に控えていたロン毛のおじさんがすぐさま鋭く叱責した。
「違う! そんな薄っぺらいキャラじゃないだろう!」
「リナにはあたしの気持ちなんかわからないよ!」
「もっと素を出せ!」
ゆりこがお芝居の先生に指摘されたというのは、これか。
「リナにはあたしの気持ちなんかっ」
「もっと!」
「リナには」
「もういいゆりこ、十分休んでクールダウンしなさい」
「……はい」
ロン毛のおじさんが部屋を出て行く。扉の閉まる音がやたらと大きく聞こえた。
休憩時間、立ってお水を飲むゆりこに、テロップが出る。
『けっこうきつく怒られるんですね』
ゆりこはひとつ頷いて、苦笑いした。
「そうですね。でも、あれが先生なりの愛情なんです。怒られるたびに、先生が嫌いになっちゃうのではなく、その期待に応えたい、頑張りたいという気持ちが高まるんです」
『お芝居は好きですか?』
「小さい頃からずっと女優としての母を見てきましたし、お芝居自体も小学校にあがる頃から習ってきたので、もはや好きとか嫌いっていう次元じゃなくて、生活の一部ですね。もちろん大好きなんですけどね」
『将来はどうなりたいですか?』
「二世じゃなくて一人の女優として見てもらえるように、母を――花園撫子を、超えたいです」
それからお稽古は再開され、お決まりのように一発で先生からのオーケーが出る。ありとあらゆる角度からゆりこを撮したエンディングが流れたのち、番組ロゴが右下に表示されて番組は終わる。
トミーと桜田は途中からおしゃべりに興じていたが、あたしは、最後までその番組から目を離すことができなかった。
なんていう茶番劇。なんていう予定調和。
これも含めてすべて、ゆりこの演技なのだろう。
「吉井、花園ゆりこのファンなの?」
ふいに桜田が尋ねてくるので、「えっ?」と聞き返した声が裏返った。
「なんで?」
「だって、熱心に見てるみたいだったから」
「別にファンではないよ。ふつーにかわいいとは思うけど」
でもあの芋臭いおかっぱとサブカル女みたいな赤ブチメガネは似合わないな。思ったけど、その言葉は飲み込んだ。
「あー、ウチも花園ゆりこみたいな顔だったら人生楽勝だったろうなあ」
桜田の言葉に「ほんそれ」と同意しながら、あたしはゆりこのことを思い出していた。
『ねぇ、夏那。わたしはどこへ行っちゃったんだろう……』
あの日の、ゆりこの蚊の鳴くような声を。
ほんとにね、とあたしは思った。ゆりこ、あんた、ほんとにどこ行っちゃったんだろうね。




