(1)
外にいるといつもどこか遠くから、祭囃子の笛の音が聞こえてくるようになった。
最初はつっかえつっかえだったその旋律は、ウグイスの鳴き声のように日を追うごとに上達していって、十九日の昼にはすっかり一人前になっていた。そうか明日は祭りだ。ゆりこと一緒にイオンのフードコートでポスターを見たことを思い出す。
十五日の朝にゆりこの家を後にしてから、あたしは一度もゆりこに会っていない。ゆりこに会おうと電話することもなかったし、電話がかかってくることもまたなかった。
もしかしたら、この先一生話さないままかもしれない。もともとゆりことあたしが会うしかない理由なんてひとつもなかったわけだし。ゆりこからなにか連絡があれば拒否はしないけれど、積極的に会いたいとは思えなかった。
別にいいかな、なんて。
あたしは、前みたいなゆりこへの執着に近い熱い気持ちを失っていた。
児童公園の脇をコンビニに向けて歩いていると、あたしの脇を通っていった軽トラックが少し先の路肩で停車した。助手席からひょいと手が飛び出してくる。その手がピースサインをしたのを見て、あ、オミだ、と気づいた。慌てて駆け寄った。
「よう、夏那」
助手席の窓を三分の二ほど開けて、オミがニカッと笑った。この夏でだいぶ日焼けした肌から、真っ白な歯が浮いている。健康的だなあ眩しいなあって思いながら挨拶を返すと、オミが当たり前みたいに助手席のドアを開けた。あたしも当たり前みたいに乗り込んだ。
申し訳程度の風しか送られてこないエアコンがまどろっこしくて窓を全開にする。吹き込む風に髪の毛が全部持っていかれるかと思った。オミが涼しいなあと独りごちた。
「財布とケータイ持ってるから、コンビニに行くんだろ。乗せてってやるよ」
「うわあ優しい。オミはどこかに行く途中?」
「うん、赤ちくじーさんとこ。いろいろ手違いがあって、町内会の祭りのハッピが届いたのが昨日でさ。じーさんとユカさん一家に届けに行くんだ」
「コンビニまでいくと、赤ちくじーさん家、通り過ぎちゃうじゃん。じーさんのとこまででいいよ」
でも、と何か言いかけるオミの言葉を遮る。
「いいって。夏休みの課題の気分転換に歩いてたっていうのもあるし」
「そうか。じゃあ、赤ちくじーさんのとこまでな」
真っ直ぐな道が続いていて、道路のずっと向こうが陽炎でゆらめいていた。暑いなあ、暑いねえ、なんてなんの生産性もない会話をする。赤ちくじーさんもイマチも年寄りだけど、この暑さで死んでいたりしないだろうか。
赤ちくじーさんの家に到着すると、縁側には、赤ちくじーさんと一緒になぜかゆりこがいた。イマチはゆりこの足元でだらしなく寝そべっている。
赤ちくじーさんとゆりこは二人並んでお漬物を食べていた。きゅうり、ナス、新玉ねぎ、キャベツ、セロリ……。鷹の爪がアクセントで入った、手作りっぽいお漬物がお皿いっぱいに盛られている。
まさかゆりこがいると思わなくて、あたしはちょっとだけ「ウッ」ってなる。別に、ゆりことケンカをしたわけでも彼女に対して後ろめたいことがあるわけでもないのだけれど、ただなんとなく、心の準備ができていなかったからだ。
でも、あたしとは対照的に、ゆりこはごく自然に手を振ってきた。あたしも手を振り返したけれど、一瞬反応が遅れたかもしれない。
そんなあたしたちの脇でオミが赤ちくじーさんにハッピの入った透明ビニールの袋を渡していた。
「じーさん、ごめんね、昨日届いたよハッピ」
「遅ぇなあ。気ぃつけろよな」
「今回は俺も緊急で駆り出されるくらい人手足りてなかったし、仕方ないって。次回への反省点として伝えとく」
「おう、頼むよ。それにしても祭り、いよいよ明日かぁ。……竹坊は来てからずーっと六弥さ、いんけど、祭りに行くようなコレいねぇのか」
赤ちくじーさんが小指を立てる。オミが一瞬表情を固まらせて、でもすぐに苦笑いを浮かべた。
「彼女なんか、二年以上いないし」
彼女がいない、というワードにゆりこの肩がぴくりと揺れる。
ゆりこが次に何を言うのかなんとなくわかってしまう。慌てて話題を変えようとしたが、ゆりこが口を開くほうが先だった。
「竹臣さん」
「なに、ゆりこちゃん」
「一緒にお祭り行きませんか!」
「えっ」
オミが珍しく答えに詰まっている。
「いや、でもさ、芸能人のゆりこがお祭りなんか行っちゃったら大騒ぎになっちゃうんじゃない? 事務所的にどーなのそれ?」
「大丈夫だよ夏那。お面、買って、するから」
ゆりこは引き下がらない。
いかん。これはいかん。
“夏”“祭り”“彼女”という三つのワードはオミの地雷ど真ん中百五十キロストレートなのだ。どうやって助け舟を出してあげようかな、と言葉を探していると、オミがふとゆりこの膝の上に視線を落とした。
ちょっとゆるめのラフなボーイフレンドデニムの膝の上で、ゆりこのこぶしが握り締められている。その両手は震えていた。その誘いはなんとなくの思いつきじゃなくて、かなりの葛藤と勇気があって言ったのだと、そのこぶしが主張していた。
そんなの見ちゃったら、オミが断れるはずなんてない。
「いいよ、行こう」
オミが柔らかく笑って頷いた。きつく握り締めて真っ白になっていたゆりこの指先に赤が灯る。
「夏那も来るよね?」
「えっ?」
不意打ちでオミにそう尋ねられて、思わず声が裏返る。いやいや、友達が勇気出して好きな人誘ったのに、その中にノコノコついていけるほど神経図太くないし……。
「え、あたしは、別に」
「あら、みんなでお祭り来るの?」
家の奥から、エプロン姿のユカさんがお漬物の追加とあたしたちの分の取り皿を持って出てきた。ユカさんの娘さんがその足元に絡みつくようによたよた歩いている。
「ゆりこちゃんも夏那ちゃんも、浴衣、着るの?」
「えー、着ないかも。ていうか持ってないし」
「わたしも。浴衣は東京に置いてきちゃったので」
「ほんと? もしよかったら私の貸すよ! ちょうど二枚あるし」
ユカさんが名案だというように手を叩く。
「そんな、悪いですよぉ」
「いいのいいの気にしないで。今更私が浴衣着たところで喜ぶ人誰もいないし、今はこの子もいるからタンスの肥やし状態なの」
「えーっ、いいんですか? じゃあ、着たいです」
「着付けは私がしてあげるから任せて。明日の夕方、うちにおいで」
「ありがとうございます!」
ゆりことユカさんの間で、トントン拍子に話が進んでいく。
……ていうか、なんであたしも一緒に行くことになってるの?
ゆりこはもう少しイマチと遊んでから帰るらしい。
赤ちくじーさんのところで用事を済ませてから、あたしはオミにバイバイしようとした。けれどオミもコンビニに用事を思い出したというので(絶対に嘘だ。このお人好しめ)、結局二人でまた軽トラックに乗り込んだ。
舗装されていない砂利の田んぼ道を、あっちにガタガタこっちにガタガタ揺れながら走っていく。ここらの稲はナントカっていう品種だから収穫が早い。田んぼはもうほとんど完成形に近づいている。一面の稲穂の波の遠く向こうに、入道雲がそびえ立っていた。
八月も、下旬に入る。もうすぐ収穫が始まるだろうから、こんな景色もそのうち見られなくなってしまうだろう。
――あ、また、笛の音。
「祭り、無理やり誘ってごめん」
オミが前を見たまま言った。「ごめん」もう一度繰り返すされる、その言葉。
「いや、いいけど、オミは大丈夫なの? 祭り行くことになっちゃって」
横を見たら、ちょうどあたしの目線の高さにオミの喉仏がある。出っ張ったそれがゆっくりと上下して、そののち、オミが答えた。
「大丈夫になりたいから行く。いつまでもこうしてるわけにもいかないし、それに、好きな女の子といつかちゃんと祭りに行きたいし」
「え、なに、好きな女の子いるんだ」
ニヤニヤしながら迫ってみたら、オミがうろたえてハンドル操作を軽く誤った。軽トラックが一際大きく揺れる。
「いや、今のは、たとえ。いつか好きな女の子ができたときに祭りに行けないと困るって話」
「そんなむきにならなくてもいいじゃん」
「なってません。大人をからかわないの」
「四歳差なんてたいしたことないってこの前言ってたのはオミのくせに。つまんなーい」
唇を尖らせてみたら、オミが軽やかな笑い声をあげた。
オミが大人ぶるのも子供扱いしてくるのもちょっとムカつくけど、同時に、安心したりもする。だってずっと小さい頃からそうなんだもん。あたしが小学二年生のとき、オミは登校班の班長さん。あたしが登校班の班長さんになったとき、オミは高校一年生。
あたしは逆立ちして三回まわってワンって吠えたって神様にお願いしたってオミより年上にはなれなくて、その不変的な年の差が、すごくどっしりしていて好きなんだ。
あたしはひとりっこだから、優しくて穏やかなオミみたいなお兄ちゃんが欲しかったのかもね。




