(5)
こどもウサギを逃がして、あたしたちがキョーハンになってから、だいたい八ヶ月が経ったときのことだ。あたしたちは五年生になった。
梅雨に入り、雨の日が続いていた。片頭痛持ちの子がちょこちょこ学校を休むその季節に、残っていた、あたしたちが一年生のときからいる白いウサギが体調を崩すようになった。
ご飯をあまり食べなくなり、ウンチも出たり出なかったり。活発に跳ね回るタイプだったのに、いつもウサギ小屋の隅っこでうたたねしているようになる。ゴリラの先生が動物病院に連れて行ったけれど、目立った病気はなく、「ストレスですかね」と獣医は結論づけたそうだ。
ウサギは少しずつ、でも確実に体調を悪化させていく。
臭いのきつい目やにが出るようになり、うんちもかなり柔らかくなってほぼ下痢状になっていた。
臭いからとか汚いからといって、一般の生徒はほとんどウサギ小屋に寄り付かなくなり、生き物委員もウサギ当番を押し付けあうようになってしまった。あたしもほとんどやらなかった。もともとあまりウサギ当番に対して熱心じゃなかったし、サボる理由ができてちょうどいいとさえ思っていた。
ちゃんとやっていたのは、長内くらいだったな。あいつは「塾が」「塾が」って言ってすぐ帰ろうともしたけれど、頼まれると断れない気弱な性格と、なんだかんだいって真面目な気質が相まって、どうしてもサボることができなかったらしい。
そういうわけで、ウサギ当番は、だいたい長内一人でやっていた。あたしとゆりこも含めほかの生徒は当たり前みたいにサボるようになっていた。ゆりこのほうは芝居のお稽古が本当に忙しいみたいで、せかせか帰っていたけれど。
先生たちもまわりの生徒の怠惰を黙認していた。
白いウサギはどんどん弱って死に近づいていく。
先生たちも生徒たちも長内づてにウサギの様子を聞いて、決まって「かわいそうにね」と言った。すごく遠くのところから、すごく上のところから、下界で苦しむ人間を見下ろす神様みたいに。
あたしはなんだかそれにずっと違和感を抱いていた。当番をちゃんとやっていないあたしが言うのもアレなんだけど、「それ、ちょっと違うよね」って、何度も言ってやりたい衝動に駆られた。
あるときあたしは、珍しくゆりこと一緒にウサギ当番をやっていた。「塾の大事なテストがあるから代わってほしい」と、長内があたしとゆりこに頼み込んだからだ。そしてたまたまゆりこも、芝居の先生の都合でお稽古が休みだったようだ。
その頃になると、ウサギ小屋には陰鬱な空気となんだかよくわからないひどい臭いがたちこめるようになっていた。
あたしもゆりこも顔をしかめながら掃除を始めた。と、いっても、もうほとんどうんちもしないのか、毎日熱心に長内が掃除しているのか、汚れは少ない。
ウサギは小屋の奥で丸まって動かない。寝ているのだろうか。
「ねえ、ウサギ、生きてるかな」
あたしはウサギの隣にしゃがみこんでうつむきがちなその顔を覗き込んだ。でも、触りたくはないので手は伸ばさない。
「さあね」
ゆりこが大げさに肩をすくめた。
「ゆりこ、最近ずいぶんと急いで帰るみたいだけど、芝居のお稽古が忙しいってほんと?」
話を変えると、ゆりこは振り返らずに答える。「ほんと」
「最近撫子さんのコネで撫子さんの事務所に入れてもらって、再現ドラマのエキストラとか、イベントの寸劇の端役とか、ちょっとずつお仕事もらってるの」
「へえ、すごい」
「今度、月九のオーディション受けるんだ。主人公のこどもの頃の役。それで、泣く演技練習してるから」
「えー、今、泣いてみてよ」
「やだよ。まだ完璧じゃないもん。先生には、実践あるのみだって言われてる」
「実践って?」
「実際に泣くような出来事をいっぱい経験して、いっぱい泣きなさいってこと」
そういうもんなのか、ってあたしは思った。前にバラエティ番組で、芸人からの無茶ぶりにこたえて子役が泣いてみせたから、てっきりあんなの練習しなくても天性の才能でできるんだと思っていた。
ふうん、へえ。
あたしはそれっきりウサギをかまうこともなく、ゆりこと一緒にテキトーに掃除をして帰った。
――翌日の朝、白いウサギは死んだ。あと数日で梅雨が明けようかという暑い暑い朝のことだった。朝の当番にやってきた長内がそれを発見して、ゴリラの先生のもとに駆け込んだらしい。
放課後、生き物委員全員がウサギ小屋のもとに緊急招集された。白いウサギが死んだから、みんなで埋めてお別れ会をしようというのだ。
ウサギのお墓は、校舎裏の誰も立ち入らない静かな場所にしようということになった。先生たちの間でそう決められたらしく、すでに草が刈り取られていた。六年生の男子とゴリラの先生がシャベルを持ってきて、えっせえっせと穴を掘り始める。あたしたち女子はそれを取り囲んで、黙って眺めていた。
ある程度の深さになると、ゴリラの先生が白いビニールに包まれた“何か”を持ってきた。それを見るなり、長内がワッと泣き出す。その様子で、ああ、あれがあの白いウサギなのかとあたしは知った。包みはずいぶんと小さく見えた。
ゴリラの先生があたしたちの前で、威厳をもってビニールの包みを開いた。白くて丸い塊が横たわっている。玄関とか庭先に置いてある置物みたいになんだか嘘くさい。
長内につられたのか、実際に死体を見たからなのか、六年生の女子も鼻をすすり出した。あたしの隣にいた、同じ五年生の生き物委員の女子も目をうるませている。そうやって泣きの連鎖がつながっていき、ついにはみんな泣いていた。ゴリラの先生も目を真っ赤にしていた。
「シロはなぁ、死んじゃったけど、きっと幸せだったと先生は思うぞ。天国でみんなのことを見守ってくれてるからな。シロがちゃんと成仏できるように、みんな、泣いてあげような」
いや違うだろ。
それ違うだろ。
ゴリラの先生が何か発言するたびに、みんながすすり泣く声をあげるたびに、何かあたしの心を毛羽立たせるものが溜まっていく。
この中で泣いていいのは長内だけだと、あたしは思う。
臭くて汚い小屋を毎日毎日掃除し続けた、面倒くさいだなんて投げなかった長内だけが、今ウサギの死を悲しんで泣く権利があるんだ、と。
あたしは泣かない。絶対に泣かない。死んでも泣かない。だってあたし、何もしなかったんだもん。
あんたらもそうだよ。なんにもしてないじゃん。ウサギが死んでいくのをかわいそうだねって遠巻きに眺めてただけじゃん。それなのに、ウサギが死んだら急にまわりに寄ってきて天国で幸せになってねって善人面するの、ずるくない? それってなんか違うよね?
なんでだか知らないけど、ゴリラの先生が校歌を歌いだして、みんな涙で歪んだ声で校歌を歌った。一番が終わったら、二番。たぶん、きっかり三番まで歌うのだろう。
ふと隣のゆりこを見たら、ゆりこは地面の一点を見つめて肩を震わせていた。でも、涙は浮かんでいない。
ああ、ゆりこも、あたしと同じことを思っているのかな?
ホッとした。
――その瞬間だった。
ゆりこが顔全体にグッと力を入れたように見えた。すると、目にふっくらと涙が浮かび上がり、少し経ってそれが目からこぼれた。ぼろぼろ、ぼろぼろ、絶え間なく涙が頬を転がる。
泣きやがった。
ほかの子たちには違和感しかなかったが、ゆりこが泣いたのは、なぜだかすごく許せなかった。それは失望だった。
ほかの子たちがウサギ当番をサボっていたくせに泣いているのはずるいと思う。でもそれは確かにウサギへの同情でもあった。ゆりこのは違う。ずるいを通り越して気持ち悪いくらい。
だってゆりこは……たぶん、この出来事を演技の肥やしにしようとしている。芝居のお稽古の先生が言った、「実践あるのみ」の「実践」の一部にしようとしている。
長内が歌うこともできずにワンワン泣いている。しゃっくりばかり繰り返していて、息をするのすら苦しそうだ。ゆりこが口を開いて歌いだそうとするのが見えた。
させるもんかよ、とあたしは思った。
校歌が三番に入るなり、あたしはゆりこに飛びついた。地面にもんどりうって倒れ、ゆりこの上に馬乗りになる。
その長い髪の毛を引っつかんで、頬を叩こうとした。ゴリラの先生に羽交い締めにされたので、かなわなかったけれど。
「どうした、どうした吉井。落ち着け!」
ゆりこは涙の跡をくっきり頬に残したまま、驚いたようにあたしを見上げていた。
「ずるいよゆりこ、泣くなよ! なんで泣くんだよ! ウサギはあんたのために死んだんじゃないぞ!」
あたしはゴリラの先生の腕の中で力いっぱい叫んだ。もがいた足が空中を蹴飛ばす。湿った土が飛び、ゆりこのワンピースを汚す。
「いや木村、泣いていいんだぞ。吉井、お前もだ」
「泣くなよ! 汚いよゆりこ! ゆりこぉ!」
あたしはそのまま職員室に連行された。養護教諭が「ウサギの死がショックなんですね。ケアが必要です」なんていうもっともらしい理由をつけてあたしを傷ついた生徒扱いして、その後あたしは二時間もカウンセリングされるはめになった。
ようやくゴリラの先生と養護教諭から解放されて学校を出ると、校門の外でゆりこが待っていた。
あたしはゆりこを無視してそのまま歩いて行ったが、足の長いゆりこにすぐに追いつかれてしまう。あたしの隣に並んだゆりこは、
「ごめん」
一言だけそう謝った。
「長内、過呼吸になっちゃったんだって。それ見て、なんか、夏那が怒った理由がわかった」
あたしは立ち止まって傍らのゆりこを見上げた。ゆりこはもう泣いてなんかいなかった。
「役者の卵である前に、わたしは人間なんだって、人間でいなきゃいけないんだって、そう思った」
「うん」
「だから、夏那、ごめん。あとでちゃんと長内にもごめんって言う」
「……わかったよ。帰ろう」
夕暮れの、影が長く伸びる道をあたしたちは真っ直ぐ帰っていく。ごめんって言われた長内はたぶん許さないとは言わないだろう。でも、調子よすぎって思うかもしれない。
ウサギが死んでしまった以上、あたしたちが今更どんなアクションをとろうとすべて後の祭りなのはわかっている。
ただ、何もしないよりはマシだとも思っている。
「あのとき夏那、泣かなかったでしょ。だから、今回もあたしのことを哀れまないと思ったの」
ゆりこの声は部屋の静けさに吸い込まれるようにしん……と響いた。
衣擦れの音がする。ふと目だけで隣を見たら、ゆりこは体ごとこちらに向けていた。腕を枕にして、夜の色をたたえた瞳であたしを見つめてくる。
「利用されてるみたいで、気分悪い?」
「別に」
クールぶってそう答えたが、ショックじゃないといえば嘘になる。
それは、哀れまない人なら別にあたしじゃなくてもいいっていうことだからだ。ゆりこがあえてあたしを選んで電話してきたことを不思議に思いながらも、心のどこかであたしは期待していた。ゆりこがあたしに特別な思いを抱いていてくれてたのだと、あたしはゆりこにとってみんなとは違う存在なのだと。
そんなあたしの思いなどつゆ知らず、ゆりこは言葉を続ける。
「この前マッキーや優ちゃんたちから逃げたのは、あの頃の友達と会ってたら意味がないって思ったから」
「意味がないってどういうこと?」
ゆりこはとある女優の名前をあげた。ゆりこよりも少し前にブレイクした二十代の女優だ。
確か、CMやドラマでよく見かけるようになった頃に地元の同級生から「いじめっこで、すごく性格が悪かった」「みんなから嫌われていた」とタレコミがあって、人気が急落したのである。
どうしてゆりこが彼女のことを突然言いだしたのかがわからなくて、ゆりこのほうに体を向けた。ゆりこは落ち着いていて、あたしも声を発しなくて、ゆりこの長いまつげがたてるまばたきの音さえ聞こえてくるようだった。
「あの女優さんが、地元の人達に過去を暴露されてるのを見て、真偽はともかく怖くなった。だから中学に入ってから普通の女の子を演じようと思った。出る杭にならず、尖りすぎず、けれどもいい子すぎない女の子。そうやって“花園ゆりこ”の枠を作っていったの」
「じゃあ、中学からのゆりこは……」
明るくて、笑顔がかわいくて、みんなの人気者だったあのゆりこは。
「演技だよ。あの頃も、それから今だって」
ゆりこはあっさりそう肯定して、自嘲気味に笑った。
「最初は演技だった。でも、“花園ゆりこ”が出来上がっていくにつれて、本当の自分が誰なのかわかんなくなっちゃった。お芝居の先生に『もっと素を出せ』って言われたとき、わたしの素はどれなんだろうって困ったの」
ゆりこの目の中にうつる色が一瞬揺らいで、真剣みを帯びる。
「だからわたしは六弥に戻ってきた」
――わたしは素のわたしを、本当のわたしを、つまりは“木村ゆりこ”を探しにきたんだ。
宣言するように力強くそう言って、ゆりこはふいに布団から手を伸ばしてきた。その手がこっちの布団の中に侵入してきて、あたしの右手を掴む。ステンレスとかガラスの窓みたいな、ひどく人工っぽい冷たさの手だった。
「……女子高生ごっこもその一環?」
うかがうように尋ねると、声が震えた。ゆりこがあたしの手をそっと引きながら頷く。
「花園ゆりこはシークレット・ラビリンスが好き。白いブラウスも、レーススカートも、高いヒールも。だから木村ゆりこはプチプラの青文字系なファッションが好きだと思いたかった。違ったみたいだけど」
ふたりの布団の真ん中まで手を引っ張っていくと、ゆりこは目を閉じた。ゆりこの手にしだいにあたしの手の温度が伝わって、冷たさがぬるんでいく。
「ねぇ、夏那。わたしはどこへ行っちゃったんだろう……」
正確には、ゆりこはどこかへ行ってしまったわけではないだろう。平成の公衆電話が、片付け忘れた晩秋の扇風機が、背高草にうもれた田舎のバス停が、決してなくなったわけではないのと同じように。
木村ゆりこはもう遠く昔の存在で、今みんなが求めているのは花園ゆりこ。ゆりこは、自分がキャラを演じていることはわかっているけれど、求められすぎて、もうもとの自分がわからないのだ。
それは、なんだかひどく物悲しいことのように思えた。
でも、あたしにできることはたったひとつしかない。
「泣かないし、同情しないであげる」
言いながらあたしも目を閉じた。まぶたの裏が闇と同じ濃いネイビーをしている。
「だから……」
あたしはその先を言わなかったし、ゆりこからの返事もなかった。
もしかしたらもう、眠ってしまったのかもしれない。




