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※開封後はひと夏のうちにお召し上がりください  作者: 村崎千尋
第3章「オンリー・スリーデイズ・オブ・サマー」
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(2)



 翌日の一時、駅の椋鳥像の前で待っていると、ゆりこが木村のおじさんの車に送られてやってきた。

 ゆりこはよそゆきのかっこうをしていた。さっぱりした白いシャツにネイビーの膝丈スカート。シャツの袖口に見覚えのある独特の花の刺繍が施されていて、ああ、シークレット・ラビリンスの服だと気づく。

 いつものあのダッサい赤ブチメガネをかけておらず(コンタクトなのかな)、いつも外出するときみたいにマスクはつけているものの、まつ毛がやたらと太くて上向きなので化粧をしているのだろう。大人っぽくて、同じ十六歳とは思えない。

 ゆりこは少しヒールのある靴でとたとたと駆けてきて、「行こ?」と首を傾けた。


 のぼりの電車は東京に近づくにつれて次第に混んでいく。お盆の真ん中の日で、多くの人の仕事が休みということもあるだろう。人がぎゅうぎゅう詰められた東京行きの特別快速の電車は、あざ笑うようにところどころの駅をスルーした。

「どこ行くの?」

 あたしの問いかけに、ゆりこは答えなかった。しつこく問いただすこともできたけれど、それは大人っぽいゆりこに駄々をこねるみたいであたしのプライドが許さなかった。代わりに、ゆりこが「次で降りるから」と行った時、うんともすんとも返事しなかった。

 ゆりこに引きずられるままに、日暮里で降りてウグイス色の電車に乗り換える。内回りとか外回りとかよくわかんないけど、とにかく、山手線だ。


 東京の電車は間隔が短くて、発車したり止まったり、人が出て行ったり入ってきたり、ひどく忙しない。内側の人が出ていこうとする際に押し出されてしまわないように踏ん張るので精一杯だった。ゆりこは平然としていたが、あたしは超高層ビルの八十階の床がガラス張り、みたいな、すごく心もとない気持ちになっていた。

「次で降りるから」

 ゆりこが少しかがんであたしの耳元で囁いた。いつもは十センチくらいの身長差が、今日はゆりこの靴のヒールのせいでさらに開いている。

 上のほうにあった案内表示を見たら、次は渋谷だった。


 あたし、渋谷に来るの、初めてかも。

 ちょっと浮かれていた気持ちは、渋谷駅で電車が止まるなり、ゆりこがあたしの右手首をむんずと掴んで歩き出したので消滅した。あたしは転びそうになりながら、必死でゆりこの後についていく。最初は「子供じゃないんだから」ってちょっとムッとしたけど、渋谷駅の人ごみの凄まじさを目の当たりにしてからはちょっとちっちゃくなった。これは迷子になるわ。

 渋谷駅をハチ公口から出る。「ハチ公見たい」と言ったらゆりこはしぶしぶハチ公像前に連れて行ってくれたけど、あたしがスマートフォンで撮影したらまたすぐに手首を掴んできた。


 スクランブル交差点を、日体大の集団行動みたいに、みんなぶつからないようにすり抜けていく。ゆりこも、あたしも、だ。空に飛行機が飛んでいるので、乗客が今真下を見下ろしたらたいそう滑稽だろうなと思った。

 喧騒の中にいる時が一番音や人を身近に感じているはずなのに、けれども、一番世界を遠くに感じるのはどうしてだろう。パノラマ写真みたいに世界は広く、けれども現実味がない。スクランブル交差点をテレビの中でしか見たことがないせいかもしれない。


 長い長い横断歩道を渡り終えて、しばらく路地のような道を歩いていくと、ゆりこは突然とあるビルの中に入った。あたしの手首がふいに解放される。握られていたところがすうっと冷たく感じて、ゆりこの手が今まで汗ばんでいたことを知った。

 受付のお姉さんといくつか言葉を交わして、ゆりこは振り返ってあたしに向かって手招きする。奥のエレベーターに向かって歩き出す。

 馬鹿みたいに狭いエレベーターに乗ると、ようやくあたしたちの間に再び沈黙が訪れた。


「ねえ、ゆりこ」

 スクランブル交差点を渡っているあたりからなんとなく、ゆりこに騙されていることをうすうす感じていた。でも、怒る気になれなかったのは、ゆりこがいつものゆりこスマイルを浮かべていないせいだった。

 ゆりこはびっくりするほどの無表情であたしを見る。

「駅で、スタバは?」

 別にスタバに行きたいわけじゃなかったのに、そんな言葉が口をついて出た。ゆりこはそれに答えずにこんな狭いエレベーターなのに思いっきり頭を下げた。ゆりこの頭が激突しそうであたしはひょいと飛び退いた。


「ごめん夏那。嘘、ついて、ごめん」

「どこに向かってるのよ」

「事務所。撫子さんが待ってるの。話し合いの場を設けたいって」

「あたしにどうしろって言うの!」

「そばにいてほしい」

「そんなこと、許されるわけないじゃん」

「交渉はわたしがどうにかするから」

 ゆりこは頭を下げたまま言葉を続ける。エレベーターはゆっくりと上昇を続けていた。エレベーター特有の変な浮遊感に、頭がくらくらして気持ち悪い。


「あたし、怖い」

 ゆりこがぽつりと呟いた。

「何が」

「撫子さんのこと、もちろん心配だけど、わたしは、わたしの芸能活動が一番大事で、そんな自分が怖い。自分が何を言っちゃうか、何をしちゃうかわからないのが怖い。だから、夏那にストッパーになってほしいの。ヤバくなったら止めて」

「そんなのあたしが知ったことじゃ――」

 一階のボタンを押そうとするあたしの指先を、ゆりこが乱暴に掴んで止めた。ゆりこの爪があたしの手にひっかかる。見上げれば、切実な色をたたえたふたつの目がそこにあった。

 ゆりこは二回、まばたきをした。

「“キョーハン”、でしょ……?」

 カッと燃えるような何かがあたしの中に点った。指先が熱い。あたしの熱なのか、ゆりこの熱なのかわからないけれど。


 汚いと思った。

 ゆりこは汚い。


 他人のことを気遣っているようなポーズをとってみせる。そのくせ、自分のことが一番大事だ。でもそれはいい。誰だってそうだ。あたしが許せないのはそんなことじゃない。

 ゆりこが「キョーハン」のことを持ち出したのは、あたしが断れないというのを、あたしがゆりこに抱いている憧れや羨望なんかを、わかっているためだろう。そうやって、みんなの前では明るくて人気者なくせに、あたしの前でだけずるくて汚いまんまでいる。その理由すら明かさずに。

 強い怒りがあった。だからこそあたしは帰れずにゆりこの手を振り払う。


 エレベーターが間抜けな音をたてて開いた。

 たぶん後ろについてきているあたしについてだろう。受付の人とゆりこはしばし揉め、けれどもゆりこが「撫子さんと交渉しますから!」と宣言して廊下を歩いていってしまう。あたしは受付の人に会釈して、その背中を追った。

 奥の部屋に入ると、そこは応接間みたいになっていた。真ん中に縦長のローテーブルが置かれていて、その両サイドに革張りのソファが置かれている。


 左側のソファに、花園撫子と、彼女よりだいぶ年上の男の人が座っていた。その顔には見覚えがある。確か、五年前くらいにブレイクしたけど今は落ち目な俳優の、幸田典彦……イニシャル、N.K.。花園撫子の浮気相手だ。いや、ダブル不倫だから、花園撫子自身も浮気相手である。

 花園撫子は、もう四十を過ぎているというのに、相変わらず綺麗な人だった。すっと通った鼻筋とか、薄い唇とか、二重なのに涼しげな瞳とか、ところどころゆりことダブるけど、総合的にはゆりことは少し系統の違う美人だ。

「ゆりこ、またあなたマネージャーを丸め込んで、家出なんかして……」

 何か言いかけた花園撫子はあたしを見ると、器用に片眉を上げる。

「あらええと、知ってるわよ、あなた」

「吉井夏那です。木村さん家の斜向かいに住んでる」

「ああ、吉井さんね。ゆりこの付き添いでついてきてくれたのかしら。でも」


「夏那も同席させて」

 ゆりこが花園撫子の言葉を遮った。

 ゆりこ、と花園撫子がたしなめるようにゆりこの名前を呼ぶ。けれども「あのねえ」と何か言いかけた花園撫子の言葉を再び遮って、ゆりこは一歩も引かずに答えた。

「これはママとあたしの間の個人的な話し合いだし、夏那がいても問題ない。夏那がいないならわたしは今すぐに帰るから。もう二度と撫子さんとは会わない。あの家も出る。撫子さんのヤバい情報をマスコミに匿名でリークする」

「ゆりこ!」

「まあまあ」


 親子ゲンカに発展しそうな一触即発のふたりを止めたのは、幸田典彦だった。彼は人の好さそうな穏やかな笑みで花園撫子とゆりこの視線の間に割って入る。

「ゆりこちゃんって、あんまりワガママ言わない子なんだろう? たまには聞いてあげようよ、撫子さん。それに、隣の吉井さんには僕の顔をもう見られているわけだし、変に追い返して情報を流されても困るよ。ね?」

「……わかった。でも、吉井さんには情報を漏らさないって誓約書を書いてもらって」

 隣に控えていたマネージャー(たぶん、花園撫子の)がその場で大急ぎで作った誓約書らしきものにサインをすると(文面はよく読んでないけど、たぶんヤバいこと言ったら金払えみたいな内容だろう)、花園撫子は頭痛がするみたいに片手で頭をおさえた。女優みたいなオーバーな仕草だな、と思ってから、花園撫子が女優だと思い出した。

 ゆりこに話しかけているときは普通の口うるさいお母さんみたいだから、忘れてたけど。


 あたしとゆりこは二人と向かい合うように革張りのソファに座る。びっくりするくらいお尻が深く沈み込んだ。きっと高いソファーなのだろう。

 マネージャーはあたしたちに紅茶を、向かいの二人にコーヒーを出すと、花園撫子に短く指示され、「あとはナンタラカンタラ」と口の中でもごもご言い訳して退室した。


 古い冷房がたてるような機械音だけが響いている。窓にかかった暗幕のようなカーテンに防音加工でも施されているのか、外の音は一切聞こえてこない。

 口火を切ったのは、花園撫子だった。

「ねえゆりこ、あなたのマネージャーから聞いたんだけど、ホテルじゃなくてあの人の家に帰ってるって」

「そう。今は六弥に帰って、パパのところにいる」

 ゆりこの返答に、花園撫子が深い深いため息をついた。

「何がしたいの」

「それはこっちも一緒。撫子さんが何をしたいのか、わたしにはわからない」

「それは僕から話そうか」

 意外にも、幸田典彦が会話に加わってきた。

 ゆりこの目つきがにわかにきつくなる。


「ゆりこちゃん、僕は幸田典彦といいます。ゆりこちゃん……僕を、お父さんと呼んでくれたっていいんだよ」

 鳥肌が立つ。気持ち悪い言い方だと思った。だって、ゆりこにはゆりこのお父さんがいるのに。

 ゆりこも同じことを思ったらしく、

「いつも母がお世話になっております、幸田さん(・・・・)

 ゆりこスマイルは浮かべていたものの、最後の部分を強調した。

「今日はね、撫子さんにゆりこちゃんと会ってみたいって無理を言ってお願いしたんだ」

「どうしてですか」


「……娘だから」

「え?」

「愛する人の、娘だから」


 ゆりこが笑顔のまましばし黙り込む。

「――母と一緒になるつもりなんですか?」

 それがゆりこの故意の暴投なのだということは容易に察せられた。あえて急にそんなことを質問することで、幸田典彦の本音をぽろっと引き出そうとしているのだろう。

 けれど、彼は膝の上に置いていた両手を組みかえただけで、少しも動揺する素振りを見せずに淡々と答えた。

「そうしたいな。ただね、まだ十六歳のゆりこちゃんにはわからないかもしれないけど、“大人”には事情があるから」

 ゆりこの顔がカッと赤くなって、前傾姿勢になる。

 あ、ゆりこがあたしを呼んだのはこういう理由なんだって、ちょっとわかった。

 それから、あたしがしなきゃいけないことも。


「ゆりこ、帰ろう。……失礼します」

 来たときとは逆に、今度はあたしがゆりこの手を引いて、その部屋を出た。花園撫子と幸田典彦が制止の声をあげたが、あたしは無視したし、ゆりこだってあたしに抗おうとはしなかった。

 あたしたちは逃げたのだ。



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