(6)
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あのお散歩の翌日、あたしとゆりこはどちらからともなく「会おう」と電話をした。ゆりこが芸能人であることを考えて、住宅街の外れの、イマチを見つけたあの売地に集合になった。
ここが登校班の集合場所だったので、なんだか小学生に戻ったみたいだ。
そう思っていたら、やってきたゆりこはまるで小学生みたいなかっこうをしていた。Tシャツハーフパンツ姿にマイナーな球団のロゴが入った野球帽をかぶっている。まあ、あたしも似たようなもんだけど。
それから、遊具のほとんどない児童公園だったり、営業しているのかしていないのかわからない寂れた駄菓子屋だったり、いろいろな人気のないところをまわった。暑いからってお互いの家に行こうと言い出さないのは、暗黙の了解である。
二人で一緒にいて特別に何かするというわけではない。でも何もしないというわけでもない。ゆりこがブランコで台本を読んでいる脇でそのまわりの柵に座ってあたしが英単語帳見ていたり、無人神社では、境内の小さな土俵で手押し相撲もした。
数Aわけわかんないよねとか、秋葉原に行ってカレー食べたいとか、三秒後には忘れているようなどうでもいい話をたくさんした。
でも、あたしは、それが特別に楽しいとはとうてい思えなかった。小学校の頃はあんなに憧れていて、中学校に入ってからもどこか気にしていたゆりこなのに、どうしてだろうね。
まあ、どうでもいいんだけど。
さらにその翌日も、ゆりこと会った。森の中を二人で歩いていると、向こうから歩いてくる背中の曲がった人影があった。
赤ちくじーさんだ。
じーさんは右手に何かを握りしめていて、あたしたちを見ると、それを持っているほうとは逆の手を振ってきた。
「おーいおいおい。ちょうどよかった。今夏那坊の家にいんべと思ってた」
赤ちくじーさんが持っていたその“何か”を「ほれ」と投げてくる。
思わず二、三歩たたらを踏んで受け取ると、意外とずっしりした重みが両手に乗る。それは小さな瓶で、中に入っているのは薄い黄色のものだ。
どうやら、柑橘系のジャムのようである。ラベルはシンプルなデザインで、白地に水彩絵具タッチなグレープフルーツやレモンの絵が描かれている。「じゃむ」とあえて平仮名にしているところにこだわりを感じた。
でも、スーパーで見かけたことがないデザインである。おまけにメーカーの名前が書いていなければ、バーコードもついていない。このラベルの気合の入り様からして、間違いなく市販品ではあるのだろうけれど。
「散歩のお礼、バイト代とは別で、これ、二人で分けて食ってな」
「なんですか、これ」
その質問を待ってましたと言うように、赤ちくじーさんがニヤリと笑う。ダークヒーローもののドラマを思い出してしまった。
「一万円」
「え?」
「一万円の、ジャム」
嘘だろ、とあたしは即座に心の中でそれを否定した。
だって、赤ちくじーさんが言うことのうち、八十パーセントは嘘だからだ。ゆりこは完璧なまでの笑顔でお礼を言ったが、正直、あたしの顔は引きつっていたと思う。
赤ちくじーさんと別れて、あたしたちは馬鹿みたいに片手にジャムを持ったまま森を抜けた。森の入り口、道路の脇に有志の人が設置した、いかにも手作り感満載な木製のベンチに座る。
「これ、どうする?」
赤ちくじーさんからもらうものなんて、ゲテモノである。
あたしが問うと、
「食べるしかないでしょ!」
ゆりこが明るい声色で返してきた。興味津々といった様子だ。
あたしとゆりこはじゃんけんをして、コンビニまでパシられるほうを決めた。この前ゆりこが来た日にキャリーケースを運んだときのじゃんけん勝負では十連敗以上を喫したあたしだったが、今回は運がよかったらしい。五回戦して先に三回負けたほうが買いに行くって決めたんだけど、あっさりあたしが三連勝した。
「この前は弱かったのにー。夏那、絶対ズルしたでしょー」
ゆりこはぶうぶう文句を言ったけれど、勝ったのはあたしなのでガン無視キメた。
コンビニはここからダッシュで十分ほどのところにある。音楽を聴きながらしばらく待っていると、遠くからゆりこがトタトタ駆けてきた。車のほとんど通らない道なのに、ご丁寧に右左を確認してから道路を渡ってくる。
ゆりこはコンビニのビニール袋をずいと突き出してくると、開口一番に「無理!」と声をあげた。
「あたし、たぶん、二度とあのコンビニ行けない」
もしかしてあの花園ゆりこであることがバレてしまったのだろうか。と、思いきや、ゆりこは両手で真っ赤になった顔を覆った。
「人生八十年って言うでしょ?」
「う、うん?」
「でもまさか、その八十年のうちに、食パン買ったのに『スプーンつけてもらえますか』って言う日がくると思わなかった……!」
あたしは心の中でズッこけた。
なんじゃそりゃ。
ビニール袋の中身をのぞくと、コンビニブランドの六枚切りの食パンが一斤入っている。ヨーグルトやプリンを買ったわけではないのに透明なプラスチックのスプーンがふたつ入っているのが、なんだか場違いだった。
「やば、超恥ずかしいじゃん」
あたしはゆりこをさんざん笑った。ジャムの瓶を弄んでいるうちに手の中でひっくり返してしまって、賞味期限が印字されている底が見える。
賞味期限は、八月三十一日になっていた。来年のではなく、今年のだ。
「賞味期限切れるまでにあと二十日もないじゃんか。一万円なんて嘘でしょ」
「でも、高そうなジャムだし! 食べてみよう!」
ゆりこがあたしの隣に座って食パンを取り出す。手洗ってないじゃんとか飲み物ないじゃんとか言いたいことはいっぱいあったけれど、でもあたしは黙って付き合ってあげることにした。
この猛暑日の真っ昼間に、ただ食パンを食べるという行為は苦行に近いだろう。特に今は喉が乾いていて、唾もほとんど出てこない。罰ゲームみたいな気分で、スプーンでジャムをすくって食パンに塗り、端っこをかじった。
瞬間、あたしとゆりこは思わず顔を見合わせた。
「おいしい!」
そう言ったのは、たぶん、同時だったと思う。
そのジャムは、甘さ控えめでさっぱりしていた。夏に食べるジャムっていう感じだ。でも甘さ控えめな分、ほのかな甘みを追いかけるようにレモンの酸っぱさとかグレープフルーツの苦味が感じられる。今まで食べたことのあるジャムはただの砂糖ペーストだった、と言い切れるくらいにおいしいジャムだ。
あっという間に食パン一枚分を平らげた。口の中がもそもそするからそれ以上は食べられなかったけれど、食パン一枚に塗る分でも満足できるくらいに果実の風味が濃厚だ。
「超おいしいんだけど」
「ほんとそれ」
「え? なに? 赤ちくじーさん最強説?」
「もしかして、おいしいから賞味期限短いのかな」
口々に感想を言い合って、あたしたちはちょっと笑った。
どうやらこれは赤ちくじーさんの貴重な二十パーセントかもしれないぞ、って。
「あー、でも、おいしいからこそ心配になっちゃうなあ」
ゆりこは細い両腕を上げてうーんと伸びをした。
「何が?」
「夏のうちに食べきれるかなあって。賞味期限切れたからって食べられないわけじゃないけどさ。でも、普通、ジャムとかドレッシングって開封して一ヵ月以内に使い切っちゃうでしょ? 衛生的に」
「えー、うち、いつのだかわかんないドレッシング出るよ」
「マジか」
ゆりこが絶句している。でもあたしはそれが原因でお腹を壊したことはないからいいのだ。
そもそも、賞味期限なんて目安である。普段冷蔵庫で保存しているものだし、おまけに一ヵ月でドレッシングを全部使い切るなんてできっこない。ていうかそんなに生野菜ばっかり食べない。使い切る前に味に飽きる。
「ていうかさぁ、めっちゃ話変わるけどいい?」
足元の小石をゆりこがスニーカーの先で土ごと抉るように蹴飛ばした。小石は土とともに舞い上がってころころ転がって、緑色のものが溜まった汚い側溝に落ちて消えていく。
「よくない」
「いいでしょ、夏那の意地悪」
「よくないもん」
ゆりこがまた小石を蹴飛ばす。二、三個分、それを繰り返してから、ゆりこはようやく口を開いた。
「わたし、竹臣さん、好きかも」
「好きってなんすか」
「なんかぁー」
ゆりこがその真っ白な頬を上気させてもじもじし始める。両手で顔を隠したゆりこは、指の隙間からあたしをうかがうように見てきた。
「恋、みたいな?」
「は……?」
「ほら、散歩の一日目、突然来てくれたし。それだけでもかなりキュンとしてたんだけど、一昨日、イマチがいなくなったとき泣いてたわたしをずっと慰めてくれてて、極めつけに散歩の約束してくれてたでしょ。これは落とされた」
ゆりこが恥ずかしさを誤魔化すように茶化して、アナウンサーの早口言葉の練習みたいに言う。
あたしは別に反対しているわけでもなんでもなかったけれど、言葉が出なかった。なんだかびっくりしてしまったのだ。
確かに、ゆりこは突然オミのことを「いい人」と言ったりして予兆はあったけれど、でも、何があってオミなの? って思ったのが正直な感想だ。
だって、芸能界にはアイドルとか俳優とかタレントとか、もっとかっこいい人がわんさかいる。ゆりこくらいの人気ぶりなら、そういう人たちとの共演も多いだろう。イケメンビュッフェ状態なのにあえて非・イケメンのオミを選ぶ理由が理解できない。
「ふーん」
あたしはびっくりの裏返しで、なんでもないことみたいにそう言った。
「うん」
ゆりこも世間話の延長線上みたいに相槌を打って、その話はそのまま終わってしまった。
なんだか、昨日のさそり座のギリシャ神話と居待月の話を思い出してしまった。穏やかな語り口と優しい笑顔も一緒に。
博識で、性格がいいオミ。かわいいゆりこ。ウン、確かに悪くないかも。
応援するよ、と言おうとしたら、
「あ、そういえばね」
ゆりこが唐突に話を変えてしまったので、あたしの言葉は宙ぶらりんになって蝉時雨にかき消されたのだった。
(第二章「ウェイニング・ギボス・ムーン」)




