(5)
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その日の夜が、お散歩の最終日だった。
あたしとゆりこはほぼ同じタイミングで家を出て、測ったように夜七時半きっかりに赤ちくじーさんの家に集まった。約束していないのにオミも来た。吹っ飛ばしそうな勢いで尾っぽをぶんぶん降っているイマチの鎖を散歩紐に付け替えて、夜の田んぼ道に繰り出す。
田んぼ道はあまり広くないので、縦三列になった。一番前がイマチ、その次が紐と懐中電灯を持っているオミ、最後尾にあたしとゆりこが横並びに歩いている。
「イマチのお散歩、もう最終日! 雨とか降らなくて、よかったね」
ゆりこが微笑むと、オミが歩きながら軽く振り返る。
「そうだね。……あ、空、見て」
オミの言葉通り空を見上げると、雲がほとんどない高くて広い夜空が広がっていた。田舎なので、星もけっこうくっきり見えるのに、その名前がひとつもわからないのであんまり意味がない。
オミが、南の空を指差す。
「あの赤い星、アンタレス。さそり座の一等星」
オミの人差し指の先、空の低いところに、赤い星がぽっちり光っているのが見えた。まるで空にできたニキビのようだ。
「そもそも一等星ってなんですか?」
ゆりこがきょとんとするので、あたしはその二の腕を軽く叩いた。
「やだゆりこ。小学校のとき理科でやったじゃん。恒星の中で明るいやつだよ。乙女座でいえば、スピカとか」
「あっ聞いたことある! 夏那、頭いいね」
「さすが三高」
オミもノッてくるが、ぶっちゃけ、オミの出身高校のほうが偏差値が高いから馬鹿にされている気がする。
「ちなみに」
オミが空を指していた人差し指を顔の前に持ってきた。綺麗に整えられた四角い爪の先に、あたしとゆりこの視線が集まる。
「さそり座にはギリシャ神話があって……」
オミの話は教科書の朗読みたいに無駄がなくて、声のトーンは落ち着いていて、聞いていてちょっと眠たくなった。あ、もちろん、いい意味で。
――むかーしむかしあるところに、オリオンって男がいたんだって。
そいつはすっごく腕のたつ狩人だったんだけど、ぽろっと本音を言っちゃってツブヤイターが炎上する国会議員みたいに、「俺ほどすごい狩人はいない」って自慢してしまったらしい。それを聞いた神様はオリオンの傲慢さに怒って、さそりにオリオンを殺すように命令した。
さそりは、オリオンを殺した。そんで、その功績をたたえられて星座になった。
ただ、いろいろあってオリオンも星座になったんだよね。だから今でも、さそり座が東の地平線からのぼってくるとオリオンは逃げるように西の空に沈んでいくんだって。
「だから、何気ない一言に気をつけましょう」
オミは話の締めに急に大人ぶった。まあ、実際大人なんだけど。
ゆりこがメモでも取りそうな勢いでふんふん頷いている。
「それから、空つながりの話なんだけど」
オミは今度はイマチの頭を撫でた。
なんでイマチ?
「イマチの名前の由来は、今日の夜空から来ています。さてどこでしょう」
「えーっわかんないよそんなの!」
「わたしも、星とか詳しくないので」
あたしとゆりこの猛抗議にあって、オミがからからとおかしそうに笑った。でも答えは教えてくれなかった。
観念して夜空を見上げる。
うーん、イマチが夏の夜に生まれたから、とかそういうノット外見的なものなのだろうか。いやでも、空を見ろっていう以上、何かあるはずだ。あたしが知らないだけで、イマチ座っていう星座があるんだろうか……?
わかんないや。
「あたし、ギブ」
「えー、夏那早くない? わたしはもうちょっと粘りますからね、竹臣さん」
ゆりこがイマチと夜空を見上げてうんうん唸る。
しばらくずっとそうしていた。けれど、折り返し地点のコンビニまで到達して駐車場の隅っこでイマチが休憩を始めたとき、オミが「時間切れー」と声をあげた。
「ええー」
「正解は、イマチの目と、月」
イマチの目を見る。ちょっと瞼が重くて、綺麗なまん丸じゃないからとろんとして見える。
続いて、月を見る。一瞬満月かと思ったが、よく見たら端っこが欠けて楕円形になっていた。半月と満月のちょうど中間である。でも、これから満月になるんじゃなくて、たぶん、満月の状態はすでに過ぎてこれから欠けていく月だ。
確かに、イマチの目と今日の月は似ている。でもそれがどうしてイマチの名前の由来になるのだろう。
オミが優しくイマチの体をひと撫でする。
「ああいう月を、実は、居待月っていいます」
理科の先生みたいな口調でオミが言うので、あたしたちは従順な生徒になって「はい」と答えた。
「イマチが生まれた夜、じーさんたちがふと空を見上げたら、その夜の月は居待月でした。おまけに、イマチの目の形はその月にそっくりでした。だからイマチです」
「へー」
「すごい。由来があるんですね」
「ただ……」
言いかけたオミが、こらえきれないといったようにお腹を抱えて笑いだした。
「赤ちくじーさんいわく、なので、真偽はわからない!」
「……え?」
あたしとゆりこは顔を見合わせた。ゆりこは口を半開きにして今にもぽかんと音をたてそうな間抜けな表情をしている。あたしもたぶん似たようなものだけど。
一拍遅れて、たまらず二人でふきだした。赤ちくじーさんの嘘か本当かわからない話(しかも八割方嘘)なのに、すごく納得してしまった自分が馬鹿みたいだった。
おかしい。たまらなく、おかしい。
夜七時半をすっかりまわったコンビニの駐車場。コンビニの煌々とした光に集まってくる羽虫にたかられながら、目尻に涙が浮かぶくらいの大笑いをしているあたしたちは確かに馬鹿だ。大馬鹿だ。イマチが呆れたように鼻をならして、あたしたちの都合などおかまいなしに休憩を終えてしまう。
イマチの首が締まらないように慌ててオミがその後を追うので、あたしとゆりこも歩き出した。
さっきすごくおかしかったのはオミからのもらい笑いだったようで、一言も交わさずに元来た道を歩いていくと、笑いの波が静かに引いていく。
「忙しいなあ」
ふとオミが独りごちた。
「え、なんで?」
「ああ、忙しいのは明後日の話ね。迎え盆だからさ、親戚迎える準備したりするだろ? 精霊馬も作らないといけないし」
「精霊馬? ああ、きゅうりとかナスとか、足生えてるやつね。あれ、トマトとかじゃダメなの?」
「うーん、わからないけどでも、普通はトマトじゃ作らないよね。あれ一応意味があるんだよ」
「マジ?」
「キュウリの馬は、足の速い馬に乗ってあの世から早く家に帰って来られるように。ナスの牛は、足の遅い牛に乗ってゆっくりあの世に戻って行くように、この世から物をいっぱい積んで帰れるように。あの世の人のために、作るんだ」
言いながらオミが視線を落としたので、あたしはなんといったらいいのかわからなくなった。
オミが高校三年生の夏、いろいろあってすごくメンタル的にたいへんになっちゃう少し前に、ちょうどオミのおばあちゃんが亡くなってしまった。オミはおばあちゃんっ子だったので、すごく悲しんでいた。その悲しみは、たった二年で癒えるものではないのだろう。
まだお葬式に一度も行ったことないくらい吉井家親戚一同はピンピンしていて、だからあたしにとって死ぬことって果てしなく遠くにある。オミの気持ちを完全には理解してあげられない。
だから、なんにも言えなかった。
「まあ、そんな話はいいよ!」
オミが顔を上げて、不穏になりかけていた流れをぶった切る。
「今度、また、この三人で一緒に散歩しよう」
無理やり話題を変えられちゃったな。そうは思ったけれど、あのままどうにかなるとも思えなかったので正直助かった。
「そだね」
あたしは何も考えずにテキトーに頷く。
だって、知っているからだ。
オミは大人だから、こんなのただの話題転換で、ただの社交辞令であるということを。とりあえず「今度」って行っておけば場の雰囲気が盛り上がることを。
あたしの返事のあと、一瞬しんとする。ゆりこの返事が遅れたのだ。そういえばずっとあたしたちの会話にも加わっていなかった。
「わたし……」
いつの間にかあたしとオミより一歩下がったところにいたゆりこが、何か言いかける。
「その“今度”がくること、ない、と、思います」
ゆりこは俯いている。ちょうどイマチが休憩で立ち止まり、オミも足を止めた。「どうしたの」と、ゆりこの顔を覗き込むように、オミが腰を曲げて少しかがんだ。
ゆりことオミの目線の高さが同じになる。
途端に、トイレの電気のスイッチを入れたように一瞬でゆりこがへらっと笑った。
「なーんちゃって! 絶対にまた、お散歩しましょうね!」
オミが呆然として黙り込んだ。その様子に気づいて、ゆりこが焦って言葉を重ねていく。
「夜のお散歩って非日常みたいでワクワクするし、この三人でいるのもすっごく楽しいので、またぜひ行きましょう! ね? ね?」
重ねれば重ねるほど、ゆりこの言葉はなんだか嘘くさくなっていった。厚塗りしすぎたマニキュアがよれやすいのとなんだか似ていた。
実際、嘘だろう。
肯定の返事をしたあたしだって、またこうやってお散歩できるなんて思っていない。
だって、イマチは、いつ死ぬかわからないから。オミとゆりこがいつ東京に帰ってしまうかもわからないから。今度が今度である限りその輪郭は曖昧で、明日というものが絶対に手元に来ることはないように、掴もうとしてもふわっと手を逃れていってしまう。
でも、オミは、それをあっけなく覆した。
「わかった。じゃあ、八月二十六日。二週間後の土曜日ね」
約束って、日にちを提示するだけでグンと信ぴょう性が増すのはどうしてだろうか。ゆりこの顔が、雲間から突如光が差し込むように、ぱあーっと明るくなった。
「はい! 約束です!」
ゆりこが走り出す。途端にイマチも少し駆け足になって、オミもそれに続いて、あっという間に二人と一匹があたしを置いていってしまう。
「ちょ、ちょっとぉー……」
文句の声をあげながらその背中たちを追いかけて、あたしは、ちょっとだけ――ほんのちょっとだけだよ?――楽しいなって、そう思ってしまった。




