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――脱走、といえば。
小学校一年生のあの時以来、あたしはゆりこに対して憧れにも似た「ちょっといいかも」という気持ちを抱いていたわけだが、だからといって距離が縮まることは全然なかった。
わたしの出身小学校は全校生徒百人にも満たない小さな学校で、一学年一クラスしかなかったので、小学校六年間にわたって一度もクラス替えというものがない。比較的クラスメートたち全員と仲良くなりやすい状況だろう。
でも、休み時間にはゆりこはいつの間にかどこかに消えているし、登校班は一緒だったけれど横並びでお喋りしていると班長さんに怒られるからできなかったし、下校班は自由だからゆりこはスタスタ帰っていってしまうしで、関わりを持とうとしてもそのチャンスがなかったのである。
あたしとのゆりこの関係が「クラスメート」から「共犯」へと変わったあの日――あれは、忘れもしない、小学校四年生の秋のことだった。
でも、あのことについて話すには、その前に少し前置きをしないといけない。
うちの小学校では、四年生以上が全員「委員会」に所属することになっている。四年生の春に決まる委員会に三年間所属し続けるのだ。
あたしはいつも一緒にいるミオカちゃんと一緒に放送委員会に入りたかったのだが、放送委員会は志望者が多く、じゃんけんで負けてしまった。じゃんけんが終わる頃にあたしに残されていたのは体育委員会か生き物委員会の二つしかなかった。
体育委員会には男子しかいなかったので、あたしは生き物委員会を選んだ。即断だった。
メンバーには、ゆりこの名前があった。
教室の隅っこに生き物委員会の子が集まっている。いつも学級委員長みたいなことをやっている長内くんっていう真面目な男子、ゆりこ、それから女子がもう一人の、あたしも合わせると総勢四人。
ゆりこの隣に座ろうか、少し迷う。
「夏那、こっち来なよぉ」
女子のもう一人の子とはそれなりに仲良しだったので、結局あたしはゆりこの前を通り過ぎてその子のところにいった。ウサギ当番や校庭の花壇の水やりもその子とペアを組んだ(サボり防止で二人一組で行うのだ)。ゆりこは長内くんと組んだみたいだ。
あたしとゆりこは、そうしてまた、話す機会をひとつ失った。
そこからのあの日までの記憶はあまりない。大きなことは特に何もなかったと思う。週一回の当番のルーティーンをこなしているうちにあっという間に梅雨に入り、夏が過ぎ、運動会が終わり、その頃には初秋を一足飛びにして肌寒い日が続いていた記憶がある。
小雨が降るある日、校内に脚を怪我したウサギが迷い込んできたことからその一連の事件は始まる。
まだ子供であることもあってか、生き物委員会顧問のゴリラの先生はたいへんそのウサギに同情をおぼえたようで、脚が治るまではウサギ小屋で飼ってあげようと言い出したらしい。あたしたちが一年生の頃にいた茶色いほうのウサギは高齢だったようでいつの間にか死んでしまっていて、ウサギ小屋は今、白いほうの一人部屋になっている。
「シロもひとりじゃかわいそうだろう」
ゴリラの先生は言う。
(いや、むしろ、いきなり新入りが入ってきたらムカつくでしょ)
ってあたしは思ったけれど、その言葉は飲み込んだ。
そのこどもウサギを動物病院に連れて行った結果、怪我はただのかすり傷のようで、少し脚を引きずってはいるものの骨が折れたり捻挫したりしているわけではないみたいだった。ゴリラの先生はそのこどもウサギをいたく気に入って、「ちー坊」と名づけて、新聞委員会の生徒に記事を書かせた。
こどもウサギ(意地でも「ちー坊」とは呼ばない)の怪我は一週間で治り、脚を引きずらずに飛び跳ねるようになった。先住民のシロとも喧嘩せず、お互い我関せずといったように過ごしている。
そんなこどもウサギの様子を見て、ゴリラの先生は今度はこんなことを言い出した。
「このまま、ちー坊をうちの学校で飼ったらどうだろうか」
他の先生たちに異論はなく、また、生き物委員会の子たちの中にゴリラの先生に逆らえるほど勇気のある者は誰もいなかったので、こどもウサギの飼育は継続されることになる。
でも、あたしはなんとなく違和感を抱いていた。
だって、ペットショップに売っているウサギじゃない。野生のウサギだ。お母さんが今か今かと帰りを待っているかもしれないし、こどもウサギ自身、こんな狭い小屋に閉じ込められるのは嫌かもしれない。ウサギに「帰りたいですか?」って聞いて言葉が返ってくるわけではないのだけれど、でも、こうやって一方的に飼育を決めてしまうのはなんだか違う気がしたのだ。
そんなある日のことだった。
からりと晴れた日がずっと続いていて、すごく平和だった。
あたしは下校前に昇降口の下駄箱のところでゴリラの先生につかまってしまった。ゴリラの先生は、八百屋に勤める保護者から野菜の切れ端をもらったんだけど、ほかの先生から校内放送で呼び出しがかかってしまったという。まだウサギ当番が仕事をしているだろうからと言って、あたしに切れ端の入った段ボールを押し付けた。
それを置いて逃げたら絶対に怒られるだろうし、特別な用事もなかったので、あたしはウサギ小屋に向かった。
今日の当番は、ゆりこと長内くん、だったはず。
でもウサギ小屋にはゆりこしかいなかったんだ。ゆりこはちょうど小屋の掃除を終えたところで、あたしと野菜を見ると、すごく面倒くさそうな顔をした。
あたしがゴリラの先生に頼まれて来たことを伝えると、実際、
「げ、また仕事増えた」
と口にした。
「あたしも手伝うよ。……長内くんは?」
彼の名前をあげると、ゆりこはあたしに背を向けた。
「長内は、塾だから帰るって」
「ええ、そういうの、いけないでしょ」
「普段はムカついて、無理やり手伝わせるよ」
ゆりこは平然とそう言い放つ。
美人で、おまけに相手の立場とか性格に物怖じしないゆりこなので、男子たちはゆりこになんとなく逆らえないみたいである。
「でも長内くん、今日は帰ったんだよね?」
「今日はいいの。わたしが許したの」
「なんで?」
「……夏那も早く帰りなよ」
「なんでってば」
「ここで帰らなかったら夏那、キョーハンだから。ゴリラに超怒られることになるよ! 嫌でしょ! 帰りな!」
“キョーハン”が“共犯”に変換されるのに、三秒くらいかかった。その間をどうとったのか、ゆりこがあたしの背中を押してウサギ小屋から追い出す。ゆりこの力は本気で、背中がぎゅうぎゅう押されて痛い。
そしてゆりこは、ウサギ小屋のドアをウサギ一匹分の隙間をあけたまま、鍵もかけずに出て行ってしまう。
「ゆりこ、ドア」
「わたしはドアじゃない」
「ウサギ逃げちゃうよ」
「いいの、逃げちゃっても。選ぶのはウサギだし。……だってかわいそうじゃん、閉じ込めておくの」
ゆりこは一瞬、立ち止まって大きな声を出した。
「ゴリラにチクりたければ、チクれば!」
あたしの返事も聞かずにずんずん歩いて遠ざかっていくゆりこの背中を見ながら、なんだかその時、あたしはすっごく悔しくなったんだ。
ゆりこっていつもそうだ。飄々としていて、たまに何考えているのかわかんない。美人だから何やっても許されるようなところがあるし、あたしたちとは違う世界にいますよーってカンジ。そういうところが鼻につくけど、あたしはちょっぴり仲良くしたい気持ちがある。
だからあたしは走って、ゆりこのサロペットの紐をむんずと掴んだ。ゆりこが振り返る。あたしよりちょっと高い位置の目線から、見下ろしてくる。その目の湿度の高さに一瞬ウッとひるんだけれど、でもあたしは諦めなかった。
サロペットの紐を離して、宣言する。
「キョーハンでもいいよ!」
ゆりこが目を丸くした。もともと大きい目が、溢れんばかりに見開かれる。
「は?」
「あたし、キョーハンになる」
「チクらないの?」
「チクらない」
「ゴリラに怒られるけど」
「ウサギ小屋のドアの留め金が緩んでるから、うっかり鍵がかかんなかったことにすればいい」
「夏那、性格、わっる」
続けて「……でも」と言いかけて、ゆりこがふいに笑った。季節外れだけど、ひまわりが咲いたような笑みだった。
「超・超・サイコー」
あたしたちはランドセルを取って、その日、初めて一緒に帰った。下校中、特に話をしたわけではないけれど、なんとなくゆりこに仲間意識を感じていた。
次の日、朝のウサギ当番の五年生によってゴリラの先生にウサギがいなくなったことが伝わる。最後にウサギ当番をしていたあたしたちはすぐにゴリラの先生に呼び出されたが、あたしは留め金が緩んでいたことを主張して、ゆりこがおいおい泣いてみせて(さすが、芝居のお稽古に週五で通っているだけのことはある)、無罪放免となった。
職員室を出たあたしたちは、小さくこぶしをぶつけ合った。
その日、あたしたちは秘密を共有した。そして、ときどき一緒に帰る仲になった。
――だから、中学生になったゆりこが、小学校のときは一匹狼だったくせにいろんな人とつるむようになって、いつもニコニコして、みんなに囲まれているのを見たらちょっぴりモヤモヤすることがあった。
あの時こぶしをぶつけたキョーハンのゆりこと、廊下で笑い声をあげているゆりこが、どうしても同一人物に見えなかったんだ。




