あの空の向こう側へ
「小林くん。おはよう」
「おはようございます。大家さん」
「今日もいい天気ね」
「……そうですね」
一瞬言葉に詰まりかけたけど、そこは僕の特技である笑顔で誤魔化しておいた。
大家さんも、僕の様子に特に違和感は覚えなかったようだ。
「それでは、僕はそろそろ行きますね」
「行ってらっしゃい。お勉強、頑張ってね」
大家さんに会釈して、僕は自宅アパートを後にした。
僕は現在20歳。大学二年生だ。
大学へは最寄り駅から三駅。アパートから最寄り駅までは徒歩で10分程かかるので、しばらくは歩きだ。
「そういえば、今夜だったっけ」
駅に向かう途中、掲示板に張られていた市内で行われる花火大会のポスターが目に留まった。
今年は昨年よりも打ち上げる花火の数を増やすそうで、例年以上の盛り上がりになると予想されている。
「……何が楽しいんだか」
正直言って、花火の魅力は、僕にはいまいち分からない。
娯楽としての祭は、この世界に本当に必要なのだろうか?
「小林。お前は今夜どうする?」
「何が?」
昼食時に、向かいに座る友人の新井がそう聞いてきた。
「花火大会だよ。何人か誘って観に行かないか?」
「悪いけど、今夜は用事がある。他を当たってくれ」
「そっか、用事なら仕方ないな」
用事があるというのは嘘だ。たぶん、新井もそのことには気づいている。
あっさり引いたのは、新井が僕が花火や祭の類を好まない人間だというのを理解しているからだろう。
僕の性格を理解したうえで、過度な干渉をしてこない。新井のそういうところは好きだ。
夕暮れ時。自宅に帰るべくレトロな印象の商店街を歩いていると、若者を中心に、浴衣姿の男女の姿を多く見かけるようになった。これから花火大会へ向かうのだろう。
浴衣を始めとした和服の着用率は、この数年で大幅に上昇した。
着付けの手間がいらなくなったことで、ファッションとして取り入れる若者が増えたことが理由だと言われている。
いや、着用率という表現はおかしいか。
本当に和服を着ているわけではないのだから。
僕は周りに怪しまれないようにさり気なく、視界上から特殊なアプリケーションを起動させ、視界を本来あるべき状態へと切り替えた。
視界に映し出されているのは、無個性な黒いボディスーツを着て町を行き交う男女の姿。
浴衣を着ていたカップルも、夏服を着ていた高校生の一団も、スーツ姿だったサラリーマンも、皆例外なく黒いボディスーツを着ている。
もちろん僕も例外ではない。
視界を切り替えた瞬間、ポロシャツにデニムだった僕の服装も、無個性な黒一色に変貌している。
変化が起こったのは服装だけではない。町並みもそうだ。
ノスタルジックな昭和レトロ風の商店街も、本来の姿である、無骨なコンクリート製の、ブロック型の建造物へと変わっている。
極め付けは夕暮れ時の空。
見上げる先にあるそれは、閉塞感の漂う金属製の天井だ。
高さは、せいぜい50メートルといったところだろうか。
お洒落な服も、趣きのある建物も、美しい空も、全てが偽物。
AR(拡張現実)技術を使い、地下空間に地上と似た光景を再現しているにすぎないのだ。
16年前に起こった大戦の影響で、地上は人の住めぬ環境へと変わってしまった。
生き残った人類は地下へと逃げ延び、新たな社会基盤を築きあげた。
限られた資源を有効利用するために重宝されたのが、ARの技術だった。
無個性な空間も、ARによって美しい空とノスタルジックな町並みの広がる和やかな物へと変わり、体表に表示する服装の映像を切り替えることで、好きなファッションだって楽しめる。
そんな生活が当たり前となり、だんだんと地上を知らない世代も増えて来た。
地上を知らない世代にとって、ARで表示された空こそが本物なのだ。
だけど、僕は本物の空を知っている。
大戦勃発前。当時3歳くらいだったけど、美しい青空の記憶を、僕は確かに持っている。
もう一度本物の空を見てみたい。
だからこそ僕は大学に進み、地上を再び人類の住める環境へと戻す方法を求め、日々勉学に励んでいる。
しかし、僕のように再び地上を目指そうと考えている者は、圧倒的に少数派だ。
多くの人は地上での暮らしをとうに諦め、国の予算配分も、地上の環境改善の研究より、AR技術の研究に重きを置かれている。
ARの重要性は理解できる。だけど本当にそれでいいのか?
もっと必死になって、地上を目指すべきじゃないのか?
「……花火の時間か」
自宅に戻った僕は、窓から花火大会の会場の方を眺めていた。
視覚はAR用に戻してある。
午後7時。
花火の打ち上げが始まった。
もちろん花火は本物ではなく、投影された偽物だ。
次々に花火が打ち上げれ、夜空を彩っていく。
音も光も、まるで本物のようだ。
花火の中盤で、僕は視界を通常の状態へと切り替えた。
当然花火なんて上がっていないし、上にあるのは夜空ではなく圧迫感のある天井だけ。悲しいがこれが現実だ。
偽りの空へと映し出される偽りの花火。それは、僕にとって閉塞感の象徴でしかない。だから僕は、花火が嫌いだ。
通常、AR用の視界を通常の視界に変更することは出来ないけど、僕は独自開発したアプリケーションでそれを可能にした。
れっきとした違法行為だけど、真実の光景に背を向けるような真似だけはしたくなかったし、ARで彩られた世界に染まり過ぎると、危機感が薄れてしまうような気もした。
無機質な天井を見上げる度に、地上で見る本物の空への憧れは強まる。
僕の世代で実現出来るは分からないけど、きっといつか、人類が地上に住めるような未来をもたらしてみせる。
偽りの空ではなく、本物の空の元で、子供達が元気で遊びまわれる日が来てほしいと、そう思う。
僕は再び、視界をAR用に切り替えた。
ベランダへと出て、大輪の花によって彩られている夜空を見上げた。
見据えるのは偽りの空の向こう側、本物の空だ。
夢で終わらせない。絶対に地上での生活を取り戻してみせる。
「いつか、あの空の向こう側へ」
言葉に出す。それが、僕なりの覚悟の表し方だ。
了