2-1 魔物
タスクは俯いたまま歩いた。
「俺の華々しい未来が……外車が……キャバクラが……せっかく受注した事業再生が……」
そもそも駆け出しのコンサルタントの稼ぎは決して良くはない。世間のイメージの士業っぽくなるのはかなり軌道に乗ったあとだ。そしてこの度、その軌道に乗る機会は失われた。
「大丈夫ですよ。勇者さま。そのガイシャさんもキャバクラさんもジギョー何とかさんも、きっと元気にやっていますよ!」
適当ななぐさめを口にする妖精。少なくとも事業再生を頼むような会社が元気な訳がないのだが。
「いやコンサルタントが逃げた時点で駄目だろ。元気にやってるどころか会社は終わりだろ」
とはいえ、森の中にいても仕方がないので足は進める。
歩けども歩けども見えるのは森ばかり。タスクからしてみればこれほどの大自然に身を置くのは十数年前ぶり、学生時代に富士山に登ったとき以来だ。
しかしながら本場の、プロの妖精さんから見れば抱く感想も変わってくるようで、どうやらこの森は要求されるクオリティを満たしていないらしい。
「私の若いころと比べたらこの森も酷いものですよぉ。魔王軍のせいで枯れていく一方です。昔は妖精の仲間も居ましたし、精霊たちも飛び交って、魔力に満ちた良い森だったんですけどねぇ。たまーに人間さんも遊びに来るので、みんなで驚かせて遊んだりもしていましたぁ」
そんなどうでもいい話を聞きながら、なおも歩いた。
まったくもって不本意ではあったが、どんなに事態が最悪であろうと行動をするとしないとでは、結果は大いに異なる。
気づけば鞄すら失っていたタスクの所持品は腕時計と、スーツのポケットに入っていた小銭とガムと筆記用具のみ。
まずは衣食住を確保が必要ということで、人間のいる方角を目指して、こうして歩いている次第だ。
人と出会って衣食住が得られるかと言えば甚だ疑問ではあるが、それでも右も左も分からない森の中で妖精と二人きりというよりは、よほど建設的だろう。
アリスタは10秒と黙ることなく口を働かせ続けたが、圧倒的に情報が不足しているタスクにはラジオ代わりには丁度良いものでもあった。そもそも自身をこんな事態に巻き込んでくれた元凶ではあるが、まぁそこは目を瞑るしかない。
「その精霊ってのは? 魔力が満ちるってのは?」
この世界の人間がどんな文化で、どんな道徳観念があるのかは知らないが、仮にタスクが原住民側であったとして、最低限の常識すら知らない住所不定の不審人物に進んで手を貸したいとはあまり思わないだろう。まずは少しでもこの世界のことを知っておきたかった。
「精霊は魔力の集合体ですねぇ。本来は意思を持たない現象である精霊が土や草、木々や岩といったものから命と意思を得たものが私たち妖精だって言われてます。魔力は量の差はありますが世界中に日常的にありますよぉ」
数百年生きていると言うだけあってか子供っぽい喋り方とは裏腹に、もたらされる情報は比較的まともだ。
「まぁ知恵と知識は違うからな」
「え? 勇者さま、なにか言いました?」
特に馬鹿にするつもりは無かった。いや、このせわしなく頭の周りと飛び回る妖精がアホっぽいのは事実だが、知恵と知識はどちらも大切であり、逆にどちらか一方であってもそれはそれで重要な資源だ。
そんな思案を知らず故か、アリスタは深く考えていない様子で、タスクの「いやべつに」という短い返事だけで納得し話を続けた。
「人間やエルフの中には魔力ではなく、精霊の力を借りた精霊魔導士っていうのもいるみたいですよぉ」
タスクには完全に専門外のジャンルだが、自身のいた世界とは若干違う認識というのは分かった。
あまり詳しくはないが、たしか草木に宿る魂がスピリチュアル的なものであると言われていたような気がする。
「つまり俺がさっきから話す度に、無意識に知らない言語で話してるのも、そうゆうマホウの類だってこと?」
「おぉ! 流石は勇者さま! 気づかれてたんですねぇ!」
たとえ音を聞いて意味を認識できたとしても、自分が馴染みのない言語を話していれば普通は気づくだろう。
順を追う流れで質問のタイミングを待っていただけだ。
「大精霊アダムスの御意思によって、勇者さまをとりまく精霊が力を貸してくれてるんですねぇ」
「いや、そんな親切より他に気を遣うところがあるだろ。その大精霊様の果たすべき説明責任と社会的責任がさ」
どうせなら井戸に飛び込めばすぐにもとの世界に帰れるとか、そうゆう親切が欲しかった。
というか百歩譲ってあの光に触れたことが契約であると言うならば、せめて重要事項を記載した契約書の事前の読み合わせがあって然るべきである。
「それで? もう随分歩いたはずだけど、人間の『に』の字も見えんぞ」
「……ぷっ! 人間の『に』の字も、って。あっはははは。勇者さまって真面目な方だと思ってましたけど、面白いことも言うんですね! 『に』の字もって。ぷくくく。あはははははははは、ひゃーっ」
酔っぱらった蜂の如く飛び回るアリスタになんとも言えない憤りを覚えるが、きっと笑いのツボも文化的な違いなのだろうとタスクは心の中でそっと素数を数えた。
そう、日本のビジネスシーンで戦ってきた士業戦士にとってこの程度のストレスはなんてことは無い。なんてことは無いのだ。
「いや別に面白いこと言ってないから。あとどれくらいの距離なんだよ」
ひーひーと笑い飛び回っていたアリスタは、しばらく息を整えて、ようやく答える。
「あっ、はい。えーっとぉ、100年前にきたときは、あそこの魔力溜り(マナ・スポット)からぁ……あ、見えないかも知れませんけど、あそこに魔力溜りがあるんですよ。あそこからもう人間の集落が見えたんですけどねぇ」
そうは言われても周囲には何もない。
「あとはぁ、たしか東の方におっきな街と、すっごいおっきな家があったはずですねぇ。ここからだとだいたい10ロールグくらいですねぇ」
「……え? なんて?」
「10ロールグですよ。1万リールグです」
おっきな家とやらも気になるがそれよりも問題がある。
「なんだ、そのロールグって。大精霊の自動翻訳が早速働いていないぞ」
まぁおおよその想像はつく。おそらくぴったり対応する単語のない固有名詞には機能しないのだろう。
そして裏を返すと、すでに会話が成立している「年」という単位については、お互いの共通認識であると想像できる。
「距離の単位なのか、それとも消費エネルギーの単位なのか? あと十進法で間違いないんだよな?」
タスクにとっては先刻に28歳という自己紹介が正常に通じた時点でなんとなく分かってはいたことだが、念のために記数法もアリスタの口から確認しておきたかった。
「ルグは長さの単位ですよぉ。ルグ、ラールグ、リールグ、ロールグって100までいったら次の単位になるんです」
「それさっきの説明と一致しないんだけど。10ロールグは1000リールグじゃないのか?」
あまり的確な指導を貰えたとは言いがたいが。
「あぁっ! そうかもしれません!」
しかし少なくともアリスタの頭の出来具合はタスクもよく分かった。とは言え、単位だけを知ったところで自分が理解できる尺度でないと参考にもならない。
「お前、自分の身長は分かるの?」
「はい。むかし人間の尺棒を拾ったときに測りました。えっとぉ、たしか39ルグでした!! 身長を測るときにはぁ、スクエアナッツの殻のかどっこの部分を、頭の上にこう押し当ててですねぇ……」
得意げに身長の測り方を教えてくれるアリスタであったが、タスクはおもむろにその39ルグの物体を掴むとその肢体に手のひらを這わせた。
「……ちょ! ゆ、ゆゆゆ、勇者さま! 駄目ですよ。確かに私は妖精の中でも可愛いと評判でしたし、勇者さまは男性な訳で、あひゃぁん。もちろん私としては種族や生命属性にこだわる気はありませんしぃ、勇者さまは格好いいと思いますけど、でもぉ、こんな日も沈まぬ内から、ひゃわぁぁぁぁーーー!」
頭頂部から踵までが、およそタスクの手のひら1・5個分といったところだ。
「だいたい25センチ前後だな。えーっと、39分の250で……ろく、てん、5、いや4か」
概算で1ルグがおよそ6ミリ強。つまり10ロールグは65キロといったところだろう。
「はうぅぅ。勇者さま意外と大胆なんですねぇ。ところでさっき言ってたジュッシンホーってなんですか?」
「あぁ。それももう分かったからいいよ」
近所とは言えない距離だが、学生時代にはフルマラソンにも挑戦したし、昨年の独立したての頃は挨拶回りに半日で10キロくらい歩き回ったこともある。
距離的には問題はない。
まぁ果たして人間のいる場所にたどり着いたとして事態が好転するかと言えば甚だ疑問ではあるが。
「って言っても、魔物とやらがいるような世界で野宿もできんしなぁ……」
そもそもその魔物という存在すらいま一つ理解ができない。
「そういえばその魔物って……おい。聞いてんの?」
返事は無い。
思案を巡らせて気がつかなかったが、先ほどまでは運転中に流すどうでもいいラジオの如き存在だったはずのアリスタが妙に大人しくなっていた。
「おい、アリスタ。触ったのは悪かったよ。確かにセクシャル・ハラスメントは労働環境問題でも特に重要視されている話題だけど、お前は妖精だし……」
言いかけてふと気づいた。
どうも触ったことで口をつぐんだ訳ではないらしい。というか思い返してもあまり嫌そうでは無かった。
心底どうでも良いけど、と思いながらアリスタの視線の先を追ってみれば、遠目に何かが動いている。
「あのぉ……勇者さまは本当に剣は使えないんですか?」
「剣どころか包丁もあまり使えんが」
遠目に見えたその何かが少しずつ大きくなってくる。
「でも、少しくらいは戦えますよね?」
「だから商人とか、執事とか、秘書とか、そうゆう系統の職業だっつーの」
何かのシルエットが少し明らかになる。
胴だけを覆う簡素な鎧。そこから出ている手足はゴツゴツした鱗に覆われていて、頭には犬と豚の中間のような不細工な顔がついている。
「山犬蜥蜴です! 逃げましょう!!」
「先に言え。役立たず!」
一目散に駆け出した。
十数年前、身体能力全盛期に甲子園予選で決めた人生のベスト盗塁が脳裏をよぎる。今は絶対にそれよりも速いと断言できた。
「お、おい! これどうするんだよ?」
なのに後ろを見れば徐々に距離が縮まっている。
「1匹だけなのできっとどこかで人間と戦って、群れからはぐれたんでしょう」
そんな冷静な分析は欲しくない。いま欲しいのは逃げきる算段だ。
振り向くたびにコボルトは近づき、手に持っているものも鮮明に見えてきた。刃こぼれだらけの手斧。ベタベタと張り付いている赤黒い固まりかけのペンキのようなものが、なんであるのかはあまり考えたくなかった。
「勇者さまぁ! あそこ、人間さんの人影です。助けて貰いましょう」
アリスタがひょいと正面に回って指差した先に人影が見える。そして彼女がタスクに合わせているだけで、本当はもっと速く飛べるらしいことも判明する。
「…………っ」
もはや喋る余裕すらもない。タスクはひたすら全力で走った。
幸運にも人影はこちらに気づいたようで、向こうからも駆け寄ってきてくれた。
あと20メートル……10メートル。
助けを求めて、死にたくない一心で走った。
仮定として、もしもタスクが冷静であったなら、これから起こる事態は予想の範疇であっただろうし、「よく知らないけど確かネットゲームとかで言う……ほら、なんだっけ、MPKって言うの? そりゃやったら不味いわな」くらいのことは言ったかも知れない。
「……っ!」
息も絶え絶えになったタスクが見たのは、魔物を背に息を切らせ、そして絶望に染まった少年と少女の顔であった。
彼らからも同じように、魔物を背にして絶望を浮かべたタスクの顔がよく拝めたことだろう。
あろうことか、魔物に追われる2組の男女は互いに助けを求めて、魔物を引き連れて鉢合わせてしまったのだ。
背後には山犬蜥蜴。前方には少年少女を視界に挟んで2匹の緑肌の醜悪なモンスター。
「ゴ、ゴブリンです。逃げないと! 勇者さまっ」
アリスタが必死に袖を引っ張っるが、ここへたどり着くことに全労力を投入したタスクの心肺にもはや余裕はない。
少年少女も事態を察した様子で、膝から崩れ落ちていた。
少年が「姉さん」と呼んでいるところを見ると姉弟なのだろう。服装はヨーロッパ系の民族衣装に少し似ている。髪色は自然なブラウン。当然と言うべきなのか、アジア系の顔立ちではないようで、正確には見て取れないが、おそらくは10代半ばといった年齢に見受けられた。
職業柄ゆえ第一印象を広く浅く捉える癖がついてしまったタスクは、酸素の不足した頭でそんなどうでもいい分析をしながら、ゴブリンの持つ汚れた剣を眺め、そして思った。
あぁ、これ死ぬわ、と。
そんな人間の様子に悦を得たのか、コボルトはぐひぐひと喉を鳴らしながら口端を持ち上げ、ゴブリンたちはベロベロと剣を舐めまわしている。
コボルトが手斧を振り上げるのを見て、恥も外見もなく泣き叫びそうになるが、その声はすんでのところで上からかき消された。
「下がれ!」
何を言われたかなど全く理解できないタスクであったが、怒号に驚いて思わず尻もちをついてしまう。
途端に風切り音が幾重かに重なって響き、1本の矢がコボルトの首から生えた。同時に何本かの矢が鎧に弾かれ、あるいは地面へと突き刺さる。
「ひょぇぁ!」
後になれば助けようとしてくれたのだろうとは分かるが、不意に飛来する何本もの矢を見て28歳コンサル業の男性はいまにも泣きそうな声で後ずさってしまう。
矢筈が指す方角を見れば、猛烈な勢いで突進してくる鎧姿の騎士。その更に奥には弓を構えた集団も確認できる。
巡らせた視線を再び手前に戻せば、もはや間近にまで迫った鎧騎士が映る。
手足と胴を覆った見るからに重厚な鉄の塊に加えて、背中には盾と思しきもの、身の丈の6~7割はあろうかという鉄板を担いでいる。にも拘らず、恐るべき勢いで突っ込んでくる。
目標を変更して剣を構えたゴブリンたちに目を付けたその赤毛の騎士は、腰に固定されていた戦鎚棍を引き抜くと、駆け抜けざまにそれを振りぬいた。
「ふんっ!」
途端にゴブリンたちの上半身が吹き飛び、色々なものが撒き散らされる。
最後に、矢を受けてよろめくコボルトへのとどめとして犬の頭部が粉砕された。
タスクは息をするのも忘れて地面にへたれこんだ。