ムラサキドール
こんなもの、信用して良いのだろうか。
もちろん、そんなわけない。安納は手のひらの上で転がしているものを見つめながら考えていた。午前三時三十分、カーテンを開けっ放しにした窓から見ても、自分の部屋以外に明かりを灯している家は見つからない。高校生の安納自身この時間まで起きていたことはそんなにない。
安納は再び自分の手のひらに視線を戻した。そこには、紫色の毛糸で編まれた、不恰好な人形が横たわっている。
こんな下らないもののために、自分はなぜ悩んでいる?
捨てようと手をゴミ箱の上にもっていくが、人形を握った手は開こうとしない。まるで何かに憑かれたように、震えるだけだ。安納は諦めた様に息を吐き、机の上に人形を放った。
その人形には、目も鼻も、髪の毛もついていない。ただ、棒人間を連想させるような、棒の体に取り外し可能な丸い頭、細い手足が付いているだけだ。それら全てが紫一色で編まれており、まあ、不穏な雰囲気が漂う悪趣味な人形だ。
これは、いわゆる呪いの人形だ。都市伝説として、全国的な噂となっている。
その人形の胴体は空洞で、呪う相手の名前を書いた紙を、その中に入れる。そして、それを四分四十四秒電子レンジにかける。これで、下準備は完了となる。その後は呪いの重さによってやるべきことが変わる。
使うのは押しピン
一回刺せば軽い災難
三回刺せばよく聞く不幸
十回刺せば不慮の悲劇
そして 体が原型を留めなくなるまで刺し続ければ
十二時間以内に 相手は無惨に死ぬ
結局、捨てられなかった。自分でもどうかしてると思う。実費で買ったのならまだしも、塾でたまたま拾ったものなのだ。捨てて得はしないが、損することもない。そんなものがどうしても手放せない。
隈の浮かんだ目を擦りながら、教室の開きっぱなしになった扉を通る。無駄に重い鞄を机の上に置くと、奴が話しかけてきた。
「よ、安納」
「・・・」
「どうした、昨日寝れなかったか?凄い隈だ」
「・・・別に。で、何だよ」
自分でも子供臭いと思いながら、安納は無愛想に訊いた。
「体育のプリント、集めたいんだけど」
手を机の引出に突っ込み、そのプリントを乱雑に押し付けると、奴はありがとうと言い残して、安納の視界から消えていった。
奴は園という名前を持っている。
けして恨みを買うような性格はしていない。人の前に立つでもなく、何か特別なものをもっているでもなく、でもいつの間にか人の輪の中心に立っている、そんな人間だった。いわゆるムードメーカーと言うやつだろうか。奴はどこからかそんなオーラを放っては、人々を集めるのだ。
そんな奴を安納がなぜ嫌っているか。簡単である。奴が何の努力も無しに、級友と笑い合っているからだ。この感情、お門違いも甚だしい妬みは、悪を嫌う自分の正義感から来るものだと、安納は思っている。
小学校の時の安納は、言うならば、道に落ちたガムのような人間だった。何の役にも立たず、人から好かれる訳なく、ただ人の邪魔になった時だけ皆の注目を集める、そんな存在だった。
四年生の事だったか、運動会の大リレーでバトンを落としたことがある。その日の放課後、安納はしっかりと同級生に責められた。椅子に強制的に縛り付けられ、次々と暴言を吐かれるという物だった。その言葉たちには皮肉など含まれておらず、ただ剥き出しの暴言が安納に襲いかかった。
理不尽だ、安納は思った。いい勝負だったのにバトンを落としたせいで負けた――そんなよくある話ならまだ納得もできる。ただ、違うのだ。これは、そんなのじゃない。
安納がバトンをもらった時、既に最下位だったのだ。それも次のクラスと半周も差が開くほどの。もう安納がバトンを落とそうが、何をしようが結果は変わらなかっただろう。それなのに自分だけ、何故こんなにも責められるのか。
その翌日、安納は足が震えたまま、教室の重い扉を開けた。きっと今日から自分は奴隷のように過ごさなければならない、そう思うとむしろ死んでしまいたくなった。
そんな安納の怯えとは裏腹に、その一日はいつもと同じように安納の視界の中を通り過ぎた。誰からも暴言を言われず、かといって無視されるわけでもなく、放課後を知らせるチャイムが鳴って一日が終わる。嘘みたいに静まり返った教室に、安納一人が残っていた。自分に何が起こっているのか、何もされないということがあまりにも怖くて、椅子から立ち上がることが出来なかった。
そして、悟った。誰も安納のことなど見ていないと。彼らが暴言を吐いていたのは安納ではなく、本当はその向こう側にある自分たちの不甲斐なさだった。安納は鏡にされたのだ。敗北を乗り越えるための、身代わり人形にされたのだ。
もし正しい、いや、正しくはなくとも心の優しい人間だったなら、誰かの為になったことを慰めにして、前を向けただろう。しかし安納はそんな理不尽を許せなかった。いじめられるほうがまだいい、他人の成長の踏み台にされるなんて、惨めだ。そう思った。
人気者になろう、自分は自分であるために。
中学校に入学して、安納は必死に皆の人気を集める日々を過ごした。何度も心が折れそうになったが、壁に『人形になっても良いのか』と書いた紙を貼って自分を奮い立たせた。素直さなど微塵もない生活の中で、安納はついに人気者の資格を手に入れたのだった。
そんな努力のお陰で、安納は学校生活をとても楽しんでいる。もう無理せず人と笑い合うこともできる。はっきりと言う、奴を憎む必要なんて、昔ならともかく、今の安納には皆無だ。ただ、安納の精神は奴を受け入れようとはしなかった。
自分はあんなに頑張った。奴は何も頑張ってない。それなのに、奴は当たり前のように級友たちと笑い合っている。
そんなことが、許されて良い、はずがない。
深夜一時、安納は電子レンジのボタンに手をかけた。無論、四角い箱の中には紫色の人形が入っている。安納は明かりの点いてない台所で一人立っていて、息を殺しながら開けっ放しにした茶色いドアを見ていた。家族に見つかってはいけない――言い訳など幾らでもできるが、この作業はやはり、人に気付かれてはいけない。そんな気がした。安納は空き巣のような自分の姿に自嘲し、そして、人を呪おうとしている自分にうんざりした。
意を決して赤いボタンを押すと、電子レンジはゆっくりと動き始めた。妙な黄色の光の中で、紫色の人形がくるくると回る。安納は早く終わってくれと、汗を掻きながら四角い液晶を見つめ続けた。
二分・・・一分・・・十秒・・・三、二、一、
大きな電子音が鳴り響かないよう、直前で扉を開ける。安納は人形を手に取った。人形は熱を帯び、まるで人を呪う力を蓄えたように思えた。
すぐさま自分の部屋に戻り、手ごろな大きさだった、数学の小テストの裏側に奴の名前を書いた。
人形の首は安納が力を加えると、あっさりと胴体から抜けた。紙を丸め、胴の中の紫の空間に押し込み、頭を元に戻す。安納はあっさりと、飴玉の包装を剥がすより簡単に、呪いの下準備を完了させた。
押しピンの針の先を人形に押し付けると、軽い抵抗感とともに紫色の皮膚に突き刺さった。実際は耳がおかしくなりそうなほど静かだったが、安納の頭の中では得体の知れない言葉がぐるぐると回っていた。
次の日の体育の時間、奴の運動靴の紐が切れた。奴はわりと困った顔をしていたが、先生や周囲の気遣いで無事にその時間を過ごした。安納は騙された様な気がして、チャンスを逃してバスケットボールの試合を台無しにしてしまった。
その後、何度も呪いを試したが、どれも同じような結果に終わった。不幸が起こる事は起こる。が、周りの手助けで最後は笑って切り抜けてしまうのだ。むしろ、その出来事がきっかけで奴はさらに信頼を深めているように見えた。そして、それと逆行して安納の顔は険しくなり、人は離れていった。
そんな日の昼休みのことだった。誰とも話さず机の上に穴だらけになった人形を置いて眺めていると、奴が話しかけてきた。
「それって呪いの人形」
「・・・」
奴は心底安納を心配しているように言った。
「止めな。そんな物で不幸になるのは自分自身だ」
「・・・・・・」
その通りだった。奴を不幸にしようとすればするほど、昔の自分に戻っていく。そのことを安納は見て見ぬフリをしていた。
「誰を呪ってるのかは知らないが、今のうちに止めておくんだな」
ただ、その言葉を聞いた安納が、止める気など持つはずも無かった。
今のうちに。止めておくんだな。完全に他人事な言葉。まるで、自分が呪われる道理なんて無いとでも言うような。安納が奴のせいで死ぬほど悩んでいるのに、だ。
安納は教室を飛び出し、鞄も持たずに、人形だけその手に握って学校から抜け出した。衝動だった。最早、感情などではなかった。奴を許すわけにはいかない。そんな思いだけが頭を支配し、全身を弾くように動かした。
家に辿り着くと、親に見つかるのも気にせず自分の部屋に駆け込んだ。驚いた母がこちらに向かう足音が聞こえ、安納は乱暴に部屋のドアを閉め、鍵をかけた。
机の引き出しを開け、中に入っていた押しピンを手に取る。左手に握り締めていた穴だらけの、紫色の人形が、安納には笑っているように見えた。目も鼻もないが、それでも笑っているように見えた。
その身体に押しピンを突き刺す。安納は一回や十回ではなく、何百回、何千回と人形の身体に穴を開け続けた。時々自分の左手にも針を刺し、手から血が流れ出したが、安納は構わずに呪いを続けた。
何十分か経って、ついに人形はただの毛糸の屑に成り変った。
それを確かめると、安納は血だらけの手も洗わずそのまま床に倒れこんだ。
安納が起きた時、時計は既に翌日を示していた。つまり、あれから十二時間以上経ったことになる。自分の部屋から出ると、母がドアのすぐ傍に座っていた。母は何か言おうとしていたが、安納は口を開けた母の隣を何も言わず通り抜けた。
そのまま、学校に赴くことにした。制服を昨日から着替えておらず、鞄も置きっぱなしだったので、何の準備もせずに家を出ることができた。家の玄関の扉を開けると朝日が安納の目に飛び込んできた。
心が恐ろしいほど軽くなっている。安納はまだ薄暗い道を歩いた。
登校時間まではかなり暇があったが、寄り道することなく学校に向かった。普段は気だるく感じる道だったが、今日は何故か悪い気がしない。世界が輝いて見えるとはこういうことかと安納は思った。
学校に到着してゆっくりと階段を上がる。安納の教室は四階、つまり、たどり着くのがわりと面倒な場所だ。安納は一段一段、踏みしめるように上った。特に理由もなく笑い出したくなる。
目的の白いドアが見えた。手をかけてゆっくりとスライドする。古びた校舎は軋んで音をたてた。
窓から光の差し込む教室に、机が几帳面に並んでいる。その中に、花瓶が飾られているものがあった。安納は自分の目を疑った。
花瓶は二つの机の上に飾られていた。一つは奴の、もう一つは一番前の、ある男子生徒の机だった。
そのとき、後ろ側の閉まっていたはずのドアが、おなじように音をたてて開いた。そこには無数の級友たちがいた。振り向いた安納の目に、恐ろしい視線がつき立てられる。
「おい、どうしてくれるんだよ」
先頭に立っていた大柄の男子が安納に静かに言う。
「お前のせいで、園と堂野は死んだんだぞ」
「は?どう言う・・・」
「とぼけんな!」
男子生徒が声を荒げて叫ぶ。安納の頭は真っ白になった。奴を殺したのは自分――そう言われるだけでも不可解なのに、もう一人殺したなんて、意味がわからない。
「昨日、突然堂野が窓から飛び降りようとした。そこの、四回の教室の窓からだ。それを偶然見つけた園はそれを引き止めようとして、堂野と一緒に窓から落ちたんだよ。即死だった」
安納は細かく震えた声で訊く。
「それが、なんで・・・」
「これだよ」
男子生徒がそう言うと、隣の女子が安納に一枚の紙を差し出した。そこには堂野と名前が記されていた。
ごめんなさい。ただ、我慢できなかったんです。そんな文から始まる手紙には、安納がしつこくいじめて来たという内容が、ルーズリーフ五枚に渡って書いてあった。もちろん、安納に心当たりのないことばかりだった。臆病な安納に人をいじめるなんて出来る訳も無い。
「どう言うつもりだ」
「ち、違う!」
「お前のせいで二人は死んだんだぞ!」
安納はやっと理解した。自分は人をいじめ殺した犯人に仕立て上げられたのだ。
男子生徒が安納のほうに一歩踏み出した。安納の足がみっともなく震える。上手く後ろに下がることが出来ず。後ろにあった机を巻き込み転んでしまった。それは丁度奴の机で、花瓶が床に叩きつけられて割れた。安納が呆然としていると、その視界に一枚の紙切れが入ってきた。白地にシャープペンシルで安納の名前が書いてある。
それを手にとって表を見ると、それは奴の数学の小テストの裏紙だった。
呪いに丁度いい大きさの小テストの。
安納は立ち上がって、教壇と逆側にあるロッカーに駆け寄った。男子生徒は安納が逃げ出すのかと、一瞬身構えたが、ロッカーの前に座り込む安納を見て、呆気にとられていた。
安納の頭の中で最悪な予感がぐるぐると渦巻く。どうか違っていて。そう祈りながら奴のロッカーを開け放った。
中にはおびただしい量の紫色の毛糸が入っていた。ところどころ白い紙の欠片が交ざっている。これは恐らく、人形十数体分の毛糸だ。そして、と安納は考える。その人形たちは誰を呪ったのか。
考えるまでも無い。安納だ。
安納の肩に手が置かれた。振り向くと二人の警察官がゴミを見るような目で安納を睨んでいた。校舎の外でパトカーのサイレンのサイレンが鳴っている。
安納を、死よりも悪い悲劇が待っていた。