変人の女神様
後日、彼から展覧会の案内が届いた。それには、「絶対に来て下さい。持ってます」と書かれたメモ書きだけが添えられていた。……絵は綺麗なのに字は汚いな、あいつ。しかも、漢字間違えてるし……。そんな彼らしいメモ用紙に笑顔を向けてから、手帳を開く。今度の日曜日に、私は赤い丸印をつけた。ミルクがその手帳を覗いてから、私を見上げて来る。……大分大きくなったな、この子……。
「はいはい、御飯ね。ちょっと待ってよ」
私はそう言ってミルクの御飯を出してあげる。それから、自分の食事を用意する。今日は、前に彼に教えてもらったオムライスだ。私は、自分で料理をするようになっていた。……まだまだ上手ではないけれど。並んで料理をしてくれた、男性のものにしてはやや華奢な手が懐かしい。もうすぐ会えるんだと思うと、自然と気分が明るくなる。知らない内に、私は鼻歌なんて歌いながら料理をしていた。……あいつみたいだ。
日曜日、私は予定通り彼の作品が展示されている展覧会の会場に来ていた。中に入ってみると、なかなかの盛況で、私は少々驚いた。……こんな中に、私を描いた絵が飾られているのか……。何だか、気恥ずかしい……。
「あ、響子さん!」
二、三人の男性と話していた彼だったが、私の姿を見つけると、すみません、なんて言って真っ直ぐこちらに向かって来た。……走るなよ。
「良かったぁ、来てくれたんですね! 聞いて下さい! あの絵、大賞を取ったんですよ!」
「……! すごいじゃない! おめでとう! どこにあるの? 私、まだ見せてもらってないんだもの。見たいわ」
頬を赤く上気させて、こっちです、と言って彼は私の手をぐいぐいと引いて行った。……子犬が散歩の時に、喜んで飼い主を引っ張って歩いてるみたいだ……。そんなことを考えていた私を、彼は一番奥の展示場所まで連れて来た。真正面に、彼が丹精込めて描いた絵が飾られている……。
「う、わあ……」
私は、言葉を失ってしまった。もはや、美しいとかいう月並みな言葉さえも出て来ない……。
全体的には、とても優しい印象を受ける。夕暮れ間近の、薔薇色の空が背景に描かれているせいだろうか。そして、花々の力強さを感じる生命力溢れる輝き……。それは、私が着せられている白いワンピースの柔らかさと相まって、強さだけでなく繊細さも感じさせる。そして、描かれた私……。……絵の中の私は、とても穏やかな表情をしていた。自分でもこんな良い表情は見たことがない、と言う位……。この絵全体から受けた優しい印象を一番強く感じさせるのは、私の表情だった。柔和で、儚げで、それでいて芯の強さが窺える……そんな表情だ。これが、彼の中の私なのか……。
「どうですか? 響子さん! 素敵ですよね!」
「う、うん……」
ポケーっと見惚れてしまっている私に、彼は隣から一生懸命話しかけてくれた。ダメだ、本当は彼の目を見て感想を言ったり、美化しすぎじゃない? なんて言ったりしなきゃいけないのに、目が離せない。
「審査をして下さった先生方に言われました。この絵の隅々から僕の気持ちが滲み出ている、余程大切な人を描いたんだろう、って! 僕は胸を張って言いましたよ! 響子さんは僕の一番大切な人です、って!」
……は? 今、隣の変人が聞き流してはならないことを言った気がするのだが、気のせいだろうか……? 絵の素晴らしさに心を奪われてはいたが、急に現実に引き戻された。
「……は?」
最初に心の中で出たのと同じ台詞が、口から出て行く。私の怪訝そうな視線を受けて、彼はますます笑みを深めた。子犬みたいな垂れ目が細くなるのを見ると、何だか心が和んでしまう。……いや、今は和んでいる場合じゃない!
「僕、この絵に願掛けしてたんです!」
「聞いたわよ、それは! そうじゃなくて、今っ……!」
自分が言ったことがとんでもない誤解を招くことだったという事実に気付いていないのか、この変人は……。溜息とともに、どっと疲れが押し寄せて来た。そうだ、この変人にまともな愛の言葉なんて期待した、私が愚かだったんだ……。……は? 愛の言葉? そんな物期待してないから! 何を言っているんだ私は! こいつのがうつって頭がおかしくなったのかしら?
「この絵が入賞したら、響子さんに言おうと思っていたことがあるんです! 聞いてくださいよー、いいでしょう?」
ああ、おねだりをする子犬の垂れ耳としっぽが見える気がする……。大した期待もせず、私はいいわよと答えてあげた。
「響子さんの絵のタイトルは、女神、なんです! どうしてかわかりますか?」
「……わかんないわよ、ちっとも……」
タイトルを決めた本人でもなければ、絵を描いた本人でもない。おまけに、完成品だって今日初めて見たのだ。タイトルの理由なんて、想像もつくはずがない……。
「ずぶ濡れだった僕と、可哀想なミルクを拾ってくれた。あの時響子さんが僕に向けてくれた優しい表情で、僕は響子さんのことを女神様だと思ったんです!」
……変人の思考回路はやはり理解不能だ。シャワーを貸してあげただけ、いやそれ以前に、話しかけた時点で、女神様……? 思考が彼の世界に追い付かず混乱している私を後目に、彼はスーツのポケットをゴソゴソとまさぐり始めた。そして、何かを見つけたらしく、嬉しそうにニコリと笑ってそれを私の目の前に取り出す。
「だから、響子さんにお願いがあるんです!」
……いや、全く流れが掴めないんだけど……。私が呆気に取られてポカンとしているのを知ってか知らずか、彼はそのまま話を続けた。
「今日からずっと、これからずっと、僕の女神様になって下さい! 響子さんじゃなきゃ、ダメなんです!」
モデルになってくれと私を拝み倒した時と同じ口調で、そう言われる。……何が言いたいんだ、この変人は……。でも、彼がその手に持っている物が、如実にその答えを語っている。……ダイヤモンドのそれは、婚約指輪だ……。
ザワザワと周りが騒いでいるはずだ。それなのに、私の五感の全てが外界を受け付けない……いや、受け入れられないでいた。耳に響くのは、目に見えるのは、頭の中は、彼だけ……。
思いつく答えは、いくつもあった。こんなに人がたくさんいる所で、恥ずかしいでしょう! とか、それを言うなら女神様じゃなくてお嫁さんじゃないの? とか……。その他にも、色々とツッコミ所はあった。それなのに、出て来た言葉は私の意思に反して……。
「……晩御飯、作ってね……」
……思いの外情けない声に、私は内心驚いた。涙が頬を伝うのは、意識の隅で感じていた。ふわふわと、地に足が付かない。けれど、その浮遊感がとても心地良い……。この変人の女神様になんてなったら、これからも色々と振りまわされて大変なのは、わかっているのに……。
もちろんです! なんて言って笑う変人がやっぱり子犬みたいでかわいいから、まあ良しとしよう……。多分、きっと。
最後までお付き合い下さってありがとうございます。
一応完結という形は取らせていただきますが、これはまだまだ骨組みの段階ですので、これから地道に付け足しを行っていこうと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
二日間で書きあげたものを一気に掲載してしまいました。かなり体力を使いましたが、普段私のお話には出て来ないような男性だったので、書いていてとても楽しかったです。皆様にも少しでもお楽しみいただけたのなら幸いです。
ここまでお読み下さった皆様、本当にどうもありがとうございました。