変人とミルク
「ここを、もう少し濃くして……。……よし、できた! 響子さん、出来ましたよ! ありがとうございます!」
「おおーっ、本当? おめでとう!」
モデルとして……と言っても、彼の真剣な目を受け止めながらじっとしていただけだったが、それでも一つの創作活動に関われたということ、そしてその作品が完成したということに、私は深い喜びを覚えた。こんな充実感を感じたのは、いつぶりだろうか。仕事で成功した時にも嬉しいとは思うが、それの比ではない。……何と言うか、高校時代の学校祭のような感じだ。
立ち上がって彼が完成させた作品を覗こうとすると、彼は大慌てでその作品の上に覆い被さった。未完成のままでは見せられない、なんて言って描き途中の物は見せてくれなかったのだから、せめて完成品位見たい。そう思っていたのに、彼は完成品すら見せてくれないらしい。……ケチだ。
「ちょっとー、モデルにだって見る権利位あるでしょ? 見せてよ」
「ダメです! 僕はこの作品に願掛けをしてるんです! 今響子さんに見せちゃったら、お願い事がかなわなくなっちゃう! 後で必ず見せてあげますから、今はダメです!」
彼はそう言って、頑としてキャンパスの上からよけてくれない。……そうか、もしかしたら、応募まで誰にも見せなければ入賞するとか、そんな願掛けをしたのかもしれない。それなら、無理矢理見てしまうのはちょっと可哀想だ。ちょうどその時ミルクが甘えた声を出し、私の足にすり寄って来た。……もう昼食の時間か。
「わかったわよ、そんなに言うならもういいわ。お昼にしましょう」
「わかりました! 今日は、前に一緒に作ったあのパスタにしましょう! 響子さんも一緒に作って下さいよー」
猫の他に変人の居候にも甘えられて、私は溜息をつきたくなってしまった。……でも、時間って恐ろしい物だな。一緒にいる内に、最初は溜息しか出て来なかった彼の行動も、今はかわいらしいとまで思えてしまうのだから……。
「はいはい、わかったわよー……。お湯、沸かすわよ」
私はそう言ってキッチンに入った。まずミルクの御飯を出してあげてから、一度手を洗って鍋に水を汲み、火にかける。……そう言えば、ここからだと彼の絵がよく見える位置だ。彼にばれないようにこっそり見る位なら、きっと大丈夫だろう。そう思って、火の大きさを調整してから顔を上げる。……やられた。彼はその短い間にキャンバスの向きを変え、私から見えなくしていた。……こう言う時だけは素早いし、頭も回るんだから。
「よーし、僕も頑張りますよ! 何しろ、響子さんと一緒に作れる最後の御飯ですからね!」
隣に来て手を洗い始めた彼のその言葉に、ハッとする。そうか、もう絵は描き終わったんだから、彼は行ってしまうのか……。この部屋ではない、どこか別の場所へ……。……あれ?
「響子さん? もしもーし、響子さん? どうかしたんですか? お湯、噴いちゃいますよ!」
そう言って、彼が慌てて鍋の蓋を持ち上げてくれた。噴きこぼれる寸前までせり上がっていた泡が、一気に沈静化する……。……どうしてだろう? おかしな居候に散々振りまわされる生活からやっと離れられるはずなのに……。……サミシイ?
「響子さん、本当に大丈夫ですか? ……疲れてるみたいですね、無理を言ってごめんなさい。御飯は僕が作るから、響子さんは休んでいて下さい」
ニコリといつもの垂れ目が細まる笑い方をしてから、彼は私の手を引いて歩いた。それから、ソファに横になるように言われる。言われた通りに横になった私に、彼は薄い布団をかけてくれた。
「お休みなさい、響子さん。御飯が出来たら起こしますね」
彼は優しくそう言ってキッチンに戻り、いそいそと昼食作りを始めた。どうしたんだろう、私は……。やっと元の生活に戻れると言うのに、ちっとも嬉しくない……。むしろ、気が重いと感じる位だ。これからはモデルをするせいで寝不足になることもないし、好きな時に仕事も食事もできるはずなのに……。
「それじゃあ響子さん、本当にお世話になりました! 展覧会のお知らせを送りますから、絶対に来て下さいね!」
「うん、何かいつも御飯の支度とかさせちゃったね。どうもありがとう……。展覧会、楽しみにさせてもらうわ」
その日の夜、彼は本当に荷物をまとめ始めた。そして、初めて出会った時と同じ位の時刻に、玄関まで出て行く……。振り返った彼が言ったのが、先程の言葉だったのだ。
「いいんですよ、僕は響子さんに見捨てられたら、この絵を完成させられなかったんですから! それに、響子さんがおいしいって言って食べてくれる姿、かわいくて大好きでした!」
「……それはどうも」
変人に可愛いなんて言われてもな、と思いながらも、言われ慣れない言葉に胸が踊る……。厚い眼鏡の奥で、子犬のような目が細められた。このかわいい笑顔を見るのも、今日で最後……。
「じゃあ、僕は行きますね。ミルクと仲良くして下さい! それじゃあ、お世話になりました!」
彼はそう言って行儀よく礼をすると、踵を返して行ってしまった。ガチャンと音を立ててしまったドア越しに、彼の足音が遠ざかって行くのを確認する……。もういいだろうと思って、私は鍵をかけた。それから、部屋の中に戻る……。あれ、おかしいな……。足元に寄って来たミルクを、抱き上げる。
「この部屋、こんなに広かったっけ……?」
ミャアウ、と心地良さそうに鳴いたミルクの温かい体に、ギュッと顔を押し付ける。ミルクは優しくて温かくて……あいつみたいだ。