仕事ついでのはずなのに……
「あ、響子さん。右手、もう少しふわっと開いて下さい」
「……こう?」
彼がニッコリと笑うのを確認してから、そのまま静止する。彼の絵は、デッサンはほぼ完成していた。ただ、どうしても絵の中の私の手が気に入らない、と彼が言うので、今日はその最終調整をしていたのだ。
「うーん、ダメだ、やっぱり何か違うな……」
そう言われてしまうと、無性に彼が描いている絵を覗いてみたくなってしまう。だが、彼は描きかけの絵だけは見せたくない、と言って一度も見せてはくれなかった。
「何よ? どう違うのよ?」
極力彼の希望に沿うようにしてあげようと思って、私はどこをどうすればいいのか問いかけた。そんな私に彼は首を横に振って見せる。
「違うんです、響子さんはそのままでいいんです。僕が未熟なんですよ……。響子さんの手はもっと優しくて綺麗なのに……」
そんなことを真剣な表情で言われては、思わず赤面してしまう。絵を描いている時の彼の表情は真剣そのものを通り越していて、あまりの真っ直ぐさに正直に言うと私は見惚れてしまったりもしていた。
彼がキャンパスの前から立ち上がってこちらに歩いて来る。私は硬直したままでいたが、彼はじーっと私を見つめたまま、ぐるりと私の周りを一周して見せた。
「響子さん、手を見せてもらってもいいですか?」
いいわよ、と軽く返事をして野の花に見立てた新聞紙の束を足元に置いた私の手を彼が取る。矯めつ眇めつ色々な方向から観察されると、何だか居心地が悪い。手の甲に触れる彼の指先が、何だかくすぐったく感じる……。
「……そうか!」
彼は何かを発見したらしく、慌ててキャンパスの方に戻って行った。それから、何かを消して、描き足す……。ここからではどんな作業をしているのか全く分からないが、どうやら今度は気に入る出来だったらしい。満足気に微笑んで彼は鉛筆を置いた。
「よし、後は色をつけるだけです! ねえねえ響子さん、今日はこの後、一緒にお出掛けしてもらえませんか?」
「え、うーん……。まあ、いいけど……」
やりかけの仕事はあるが、今日は日曜日だ。たまに休息を取ってみるのも良いかもしれない。……この変人と一緒に出掛けると言うのが、たまらなく不安だったりするのだが……。
――一時間後。彼は、私を近くの休養林まで連れて来てくれた。木の香りと水の香りを含んだ空気が、口から入って体中を満たしてくれる……。何だか、大きく伸びをしたくなるような場所だ。
「響子さん、手伝ってもらえますか? あの絵に描いてある花を摘んで帰りたいんです。それで、家に帰って色付けします」
「いや、手伝うのはいいけど……写真とかじゃダメなの?」
こんなに綺麗な所に咲いているのに、何だか摘んだりしては可哀想だ。私はそう思ったのだが、彼は首を横に振った。
「ダメなんです。写真だと、どうしても何かが変わっちゃうんですよ。……何て言うか、色が綺麗になり過ぎる。僕は、響子さんの絵に嘘は描きたくないんです」
普通の男に言われたら気障で気色悪いとまで思ってしまうような台詞だったが、彼に言われると何だか照れくさいような気分になってしまう……。きっと、絵に向き合う彼の真摯な瞳を知っているからなのではないかと思う。
「……よくわからないけど、まあいいわ」
私の答えで、彼は思い切り笑顔になって頷いた。そのまま、二人で歩き出す。よく晴れた日曜の昼は、絶好の散歩日和だ。周りの木々のお陰だろうか、町にいるよりもずっと涼しく感じる。クーラーが効いた部屋の中でゴロゴロしているよりも、余程健康的だ。
「響子さん、見て下さい、茸ですよ! これって食べられるんですかね?」
彼がそう言って指差したのは、赤いかさに白い斑点、某テレビゲームの主人公が食べると巨大化する、あの有名な毒茸……。
「……食べちゃダメよ」
目をキラキラと輝かせてこちらを見ている彼に、溜息とともにそう言った。しゅうんとしょぼくれる様は、まるで悪戯を叱られた子犬のようだ……。
「あ、見て見て響子さん! 小鳥です! かわいいですねー。……あっ、あそこにもいますよ! あっちにも!」
とても楽しそうにキョロキョロとして見せる彼に、私は思わず笑みをこぼしてしまった。何だろう、彼の一挙一動は、見ているだけで癒される何かがある……。
結局、仕事ついでの散歩のはずが、仕事の方がついでになってしまった。……すごく楽しかったけど。