変人、居候になる
「お、おいしい……」
「はい! きっと一緒に作ったからですよ」
変人の突然の申し出から三十分後、私は信じられない程おいしいパスタを食べていた。彼は結局枝豆とツナが入ったトマトソースを作ってくれたのだ。……意外だ、意外過ぎる……。この変人に、こんなことができるなんて……。もしかして、こいつの絵も相当の物なんじゃ……? 確か駆け出しの画家だって言ってたし。
「……ところで、今日はどうして来たのよ? わざわざ服を返しに来たの?」
あげると確かに言ったはずだが、まあいい。しかもきちんと洗濯までして来たと言うのだから、実は常識のある奴だったに違いない。……多分、きっと。
「違いますよー。それもあるんですけど、響子さんにお願いがあって来たんです」
「お願い?」
まさか、ミルクのことだろうか……? ミルクを譲ってくれなんて言われたら、どうしよう。元々はこいつが拾って来た猫なんだから、返さなきゃいけないのはわかっている。けれど、正直に言うと、嫌だった。ミルクは、味気ない毎日を送っていた私にとってはなくてはならない存在になっていた。職場での競争に疲れ切って帰って来た私を、人間ではないけれど、誰かが待っていてくれる。私はそんなことに、ささやかな幸せを感じているのだから……。
そんな私の心を見透かしてか否か、彼は眼鏡の奥の垂れ目を細めて笑った。……本当に、何度見ても大きな子犬みたいだ……。
「響子さんに、モデルをやって欲しいんです。ほら、僕は絵のモデルを探して放浪の旅をしているって、以前言いましたよね?」
「はっ? いや、言ってたとは思うけど……。……あんた、目が見えてないの? 私をモデルにしようだなんて、どこをどうしたらそんなこと考えつくのよ?」
私は、あまり言いたくはないが器量は人並みだ。パッとしないという言葉が一番しっくりくる、そんな感じだ。
「どうしたらも何もないですよ! 僕が絵を描くためにはどうしても響子さんが必要なんです! お願いします!」
以前よりも改まった様子で彼は床に指をつき、頭を下げた。……無理だ。いくら頼みこまれたって、絶対にやらない。大体、絵のモデルなんて言ってはいるが……。
「……もしかして、脱がなきゃダメなんじゃないの? そう言うのは絶対にお断りだからね!」
私のそんな言葉を聞いて、彼は耳まで真っ赤になった。それから、ブンブンと勢い良く首を横に振る。
「ぬっ、ぬっ、ぬっ、脱ぐっ? ななな、どっ、どうしてですかっ? おっ、落ちついて下さいよ、響子さん!」
「いや、まずあんたが落ち着きなさいよ……」
彼のその様子を見て、どうやらヌードの絵などを描こうと思っている訳ではないと言うことはよくわかった。……いや、この反応を見る限り、彼にヌードの絵なんて絶対に描けないだろう。どちらにしろ。
「とにかく、私に頼むよりも、もっと美人で若い子を見つけなさいよ。……それともあんた、友達いないとか?」
「……まあ、画家なんてアトリエに籠りきりの仕事なんで……」
……嘘をつくな、嘘を。この前は、思いっきり放浪の旅とやらに出て行き倒れていたではないか……。白い目で見ていると、彼が急に顔を上げた。子犬のような目に、真剣な光が宿る。……子犬が遊んでもらっている時みたいだ。
「それに、響子さんじゃなきゃダメなんです! 僕が描こうと思っていた絵にぴったりのイメージだったんですよ、響子さんが! お願いします!」
拝み倒されても嫌なものは嫌だ。私が困ったなと思って溜息をついている隙に、彼はこの前と同じリュックの中からスケッチブックを取り出した。
「見て下さい! 響子さんの絵を描くために描きためたスケッチです! 響子さんに説明するために、大体の構図も描いておきました。響子さんじゃなきゃダメだって言った意味がわかるはずです!」
渡されたスケッチブックを、とりあえずパラパラと繰って行く……。どのページにも、生命力に溢れた美しい野の花が描かれていた。力強い感じがするが、どこか儚げで優しい風情の、花々……。そして、最後のページにはその花々を両手いっぱいに抱いて微笑む、私の姿が描かれていた。……すごく、綺麗だ……。うまくは言えない。けれど、彼が描いた物全てから、彼が一つ一つと向き合ったであろう時間、愛情をかけた時間と言うものが伝わって来る……。
「……素敵ね……」
あまりに美し過ぎて、そんな陳腐な言葉しか出て来ない。私の言葉を受けて、彼はこの上なく嬉しそうに笑って見せた。
「お願いします、響子さん。僕のモデルになって下さい。響子さんじゃなきゃ、もう僕は絵が書けません。お願いします!」
「……ここまで言われたら頑張るしかないわねー。わかった、モデル、させてもらうわ!」
……本当は、別に頼みこまれたのが理由ではなかった。モデルを引き受けた理由の一つは、彼の絵にどうしようもなく感動したから。純粋な心で描く対象に愛情を向けなければ描けない程の、まっすぐで優しさに溢れた繊細な絵……。もしかしたら、私もその位大切に描いてもらえるのではないか、そんな気がしたのだ。そしてもう一つは、モデルをしている間は、彼にちょくちょく会えること。打算や陰謀などと無縁に、裏表なく接することができる人間を、私は求めていた。……足の引っ張り合いに、疲れたのかもしれない。
「ほっ、本当ですか? ありがとうございます! 助かったぁ、これで秋の展覧会に間に合いそうです! よろしくお願いします!」
彼はニコニコと笑いながら、リュックの中からあれやこれやと荷物を出し始めた。……え?
「まさか、ここで描くの……?」
「そうですよー。だって、響子さんだってお仕事があるでしょう? 昼間は僕がお留守番してるから、安心してお仕事に行って下さい! モデルは夜の間だけしてくれれば大丈夫ですから!」
……いや、ちょっと待って。
「ここに住む気なのっ?」
もちろんですよー、なんて言いながら、彼はミルクと遊び始めた。……ああ、冗談でしょう……? こうして、私と子猫と変人の同居生活が始まるのだった……。