変人、再び……
「ふう……」
小さく溜息をついてから、私は歩き出した。毎晩毎晩残業ばかりで、さすがに疲れていた。何にしろ、熱い。今日は熱帯夜だという予報が出ていた。途中のコンビニで晩酌用に買ったビールの冷えた缶が、時々足に当たって心地良い……。家の冷凍庫に眠っている枝豆もチンしよう。そう考えながら私は、マンションの階段を登った。
「……ん?」
一番奥の私の部屋の前に、見知らぬ男が座り込んでいた。……絶対に怪しい。そう思った私は、くるりと踵を返して下に降りようとした。だが、その時。
「……響子さん!」
名前を呼ばれて、驚く。どこかに聞き覚えのある声だったが、まさか、ストーカー? 私は慌てて階段を降りようとした。男が勢いよく立ち上がった。
「あわわ、待って下さい、響子さん! 僕ですよ! 仲井啓介です!」
聞き覚えのある名前に、私の手はピタリと止まった。そして、暗がりにいる男の顔をまじまじと眺める。髪は切られて小ざっぱりとしていたし、髭も剃られてなくなっていた。だが、眼鏡の奥に見える子犬のような垂れ目……。どうやら、本当に彼のようだ。……よかった、最後のゼロを押す前で。危なく、警察に通報してしまうところだった。それにしても……。
「……あんたって、どうしていつもそんなにボロボロなのよ?」
前に来た時よりもややまともな格好をしていたが、なぜか服は泥だらけ。顔にも、土を擦った跡が付いていた。
「あ、そうだ! お土産持って来たんです、響子さん!」
私の問いかけには答えず、彼は元々座り込んでいた部屋の前まで行くと、ニコリと笑って小さな花束を取り出した。……ヨレヨレのリボンが付いた、タンポポの花束だ。
「……何、これ?」
「何って、花束ですよー! 綺麗ですよね!」
「いや、まあ……」
……お世辞にも綺麗とは言えない。何しろ、先程も述べたようにリボンはヨレヨレ。しかもずっと握りしめていたのだろう、タンポポの茎は萎れて、くたっとしていた。
「……で、どうしてそんなに泥だらけなのよ?」
私の二度目の問いかけに、彼は今度はニコニコしながら答えた。
「本当はお花屋さんで買った花束があったんですけど、ここに来る途中で会ったお兄さんが、恋人の誕生日に花束を用意したかったのにもう店が閉まっちゃって困ってたから、あげちゃったんです。それで響子さんに用意した分がなくなっちゃったから、公園で摘んで来たんですよ! それで、公園で転んだ時にちょっと泥んこに……」
「ちょっと、ね……」
ちょっと転んだだけでこんなにドロドロになるなんて器用なこと、間違いなく彼以外の人間にはできないだろう。私は先程以上に大きな溜息をついて、ポケットから部屋の鍵を取り出した。
「ほら、入りなさいよ。またシャワー貸してあげるから」
「うわあ、助かります!」
彼はそう言って本当に嬉しそうに笑うと、私が入った後に続いて部屋に入った。ミャアウ、と甘えた鳴き声がする。
「ミルク、ただいま。今御飯あげるからね」
私はそう言いながら電気をつけ、それからバスルームに彼を連れて行く。……あ、どうしよう。着替えがない……。元彼の服は、以前彼に渡した物しか残っていなかった。そう言えば、と呟いて彼が誇らしげに胸を反らせた。
「この前の服、洗濯して持って来ましたよ!」
「じゃあ、それを着て出て来なさい」
私はちょうどよかったと思い、そう言って脱衣所を出た。それからミルク……以前彼が拾って来た子猫に、キャットフードを与えた。お皿にキャットフードを入れてやるまでは私の足にゴロゴロと甘えた声を出しながら纏わりついていたミルクだったが、いざ食事となると、私のことは完全に無視だ。……ゲンキンな奴。
「あ、あいつの分も準備しなきゃダメかな、御飯……」
バスルームからは呑気な鼻歌が聞こえて来る。……困ったな、冷蔵庫の中、またしてもほぼ空っぽなのに……。元々、私はあまり料理なんてしない。面倒くさいし、下手なのだ。だから、冷蔵庫にはいつも近所のスーパーやコンビニのお惣菜が入っていた。……どうしてこいつは、いつもこんなタイミングの悪い時に来るんだろう……。どうしようかと思案している所で、彼がシャワーから出て来た。
「ありがとうございました! 気持ちよかったですー」
彼がニコニコしている様子が、何かと重なる……。あ、そうか。……子犬だ。子犬が嬉しくて尻尾を振っているのと、何となく様子が似てるんだ。
「御飯、何もないの。買って来るから、あんたは大人しくミルクの相手でもしてて。いいわね?」
「ええー、こんな夜中にですか? 危ないですよ! それに、何か作ればいいじゃないですか!」
どこまでもマイペースで変な奴だとは思っていたが、ここまで我儘だったとは。苛立っても仕方ないと思った私は、溜息とともに怒りの感情を吐き出した。
「それが、碌に材料もないの。料理自体もあまり好きじゃないし。だから、大人しくしてなさいよ」
そう言って玄関に向かい、サンダルを履いてドアを開けようとした私の所に、彼が走って来る。……下の階に音が響くから、走らないで欲しいな。
「パスタ! パスタの麺はないんですか? あれさえあれば、どうにでもなりますよ!」
「……あ、あったかも」
パスタの麺があればどうにでもなると言う根拠がどこにあるのかはわからないが、私はサンダルを脱いでキッチンに向かい、戸棚からパスタを取り出した。時間がある時は、これをゆでてインスタントのパスタソースをかけて食べたりもする。だが、今はそのパスタソースがない。
「おおっ、これで十分ですよー」
そう言って目を輝かせる彼に、私は身構えた。まさか、いや、さすがに……。だが、彼なら言い出しかねない。このまま食べてもおいしいですよー、とか……。
「他に何かありませんか? パスタと合いそうなもの!」
「はあ? そんなこと言われても……」
どうしてこんな変人の言うことを聞いて動いているんだろう? でも、とりあえずパスタをそのまま食べる、とは言い出さなかったから良しとしよう……。そう思った私は、冷凍庫から枝豆を取り出した。
「後はそこの戸棚に入ってる缶詰位よ」
「おおっ、ツナ缶とホールトマトがあるじゃないですか! 完璧ですよ!」
彼はそう言うと、戸棚から二つ缶詰を取り出した。晩酌用のツナと、以前隣に並んでいた鯖の味噌煮と間違えて購入してしまったトマトの缶詰だ。使い道がわからないから、戸棚に入ったままになっていたのだ。
「じゃあ、一緒に作りましょう、響子さん!」
「は……?」
今、この変人はなんて言った? 一緒に作ろう、とか聞こえた気が……。私は料理が好きじゃないときちんと伝えたはずなのに……。いや、それ以前にこの人に料理なんてできるのか? いつもどこかで行き倒れていそうな、子犬みたいな変人が、料理……?
「だから、一緒に作りましょうよ、響子さん! 僕、料理は得意なんですよ!」
「いや、私は料理は嫌いなんだけど……」
私がそう言うと、彼は一瞬哀しげに表情を曇らせた。だがそれから、またしても子犬のような笑顔を見せて、私の手を取った。
「大丈夫ですよ、響子さん。一緒にやればきっと楽しいです!」
何を根拠にそんなことを……と思いながらも、不思議と嫌な気分はしなかった。……まあ、少しくらい付き合ってやるのもいいか。この、変人に。
マグカップに挿したヨレヨレのタンポポたちが、黄金色の笑みを浮かべていた。