氷の雪解け
購買で手に入れた新作の肉まん五つを胃袋に収め、完全にエネルギーを充填した私は、夕闇が降り始めた王都の石畳を力強く蹴った。 向かう先は当然、アルバーン公爵邸だ。 門番の騎士たちに軽く手を上げ、顔パスで敷地内へと足を踏み入れる。
本館の二階。重厚なマホガニーの扉の前に立つ。
いつもなら「遊びに来たよ!」と勢いよく開け放つところだが、今日は少しだけ勝手が違った。
扉の隙間から、ひどく冷たくて、ピリピリと肌を刺すような魔力の残滓が漏れ出している。
彼が極度の疲労とストレスを抱え込んでいる証拠だ。 私は音を立てずにドアノブを回し、静かに部屋の中へと忍び込んだ。
部屋の中は魔力照明が落とされ、薄暗い青闇に沈んでいた。 開け放たれた窓から初秋の冷たい夜風が吹き込み、薄手のカーテンを幽霊のように揺らしている。冷え切った空気の中に、彼特有の上質なシダーウッドの香りと、インクの乾いた匂いが重く滞留していた。
部屋の奥。 大きな革張りのソファに、エラルドが身を預けていた。 シャツの第一ボタンまでをきっちりと留め、完璧な姿のまま、彼は腕を組んで浅い微睡みの中にいる。しかし、その呼吸はひどく不規則で、眉間には深い皺が刻まれていた。
(……また、一人で難しい顔して)
旧守派の老人たちとの暗闘。私の周りに護衛を配置しようとしたのも、彼が一人で先の先まで考えて、最悪の事態に怯えているからだ。
私は足音を殺してソファに近づき、彼の寝顔を覗き込んだ。 青白い肌。目の下の色濃い隈。 その痛々しい姿に、胸の奥がキュッと締め付けられる。 私は、窓から吹き込む風を遮るように彼の前に立ち、そっと手を伸ばして、彼の眉間の皺を指先でなぞった。
「……ん……っ」 私の指の温度に反応して、エラルドの長い睫毛が微かに震え、ゆっくりと持ち上がった。 焦点の合わないサファイアの瞳が、暗がりの中で私を捉える。 「……マリー?」 ひどく掠れた声。彼は自分がまだ夢の中にいるとでも思っているのか、ゆっくりと手を伸ばし、私の頬に触れようとした。 しかし、その指先が私の肌の温もりに触れた瞬間、彼はハッと息を呑み、弾かれたように身を起こした。
「なぜ、君がここにいる。……今は、公爵邸に出入りするのは危険だと言ったはずだ」 瞬時に『次期公爵』としての冷たく硬い仮面が貼り付き、その声の温度が絶対零度まで下がる。
「僕の指示を聞いていなかったのか。君の周りには今、旧守派の暗部の目が……」
「うるさい」 私は、彼の言葉を遮り、ソファの前にドンッと両足を踏み張った。
「危ないから帰れ、僕が守るから隠れていろ。……そんな言葉、もう聞き飽きた」
「マリー、これは遊びじゃないんだ! 君がいくら特異点を持っていようと、大人の悪意は――」
エラルドが立ち上がり、私を部屋から追い出そうと肩を掴もうとする。 私はその手を振り払う代わりに、くるりと彼に背を向けた。
そして、着ていた制服のブラウスの背中のボタンを、下から一気に引き千切るように外した。
「なっ……!? マリー、君、何を……!」 エラルドの息が止まる音がした。
私は、ブラウスの背中を大きくはだけさせ、肩甲骨の下――十年前、彼を庇って『灰の教団』の闇魔法を真っ向から受けた、そのいびつで生々しい火傷のような『呪いの傷跡』を、彼自身の目の前に突きつけた。
「……エラルド。あんたは、この傷を見るたびに、自分が弱かったから私を傷つけたって、自分を責めてるんでしょ」
静かな部屋に、私の声だけが響く。
背後で、エラルドがガタガタと小刻みに震え始めているのが気配で分かった。
「違う。……この傷は、あんたのせいじゃない」 私はゆっくりと振り返り、はだけたブラウスを押さえながら、彼を真っ直ぐに見据えた。
「十年前のあの日。私は、誰かに命令されたからでも、あんたが弱かったからでもなく……『私が』、あんたを守りたいって自分で決めて、自分の意志で前に飛び出したの。……これは、私が自分で選んで背負った『勲章』なんだよ」
「……っ、あ……」
エラルドの喉から、空気が漏れるような音が鳴った。
「あんたは私をガラスケースに閉じ込めて、一生『守られるだけのお姫様』にする気? 冗談じゃない。……私は、あんたの盾になるために、この傷と一緒に泥だらけになって生きてきたの。私の覚悟を、あんたの勝手なトラウマで否定しないでよ」
私の真っ直ぐな言葉が、彼が十年間、血を吐くような思いで築き上げてきた『過保護な理性の壁』にヒビを入れていく。
「……マ、リー……」 エラルドは膝から崩れ落ちそうになりながら、ふらふらと私に歩み寄った。 彼の大きく冷たい手が、私の背中――呪いの傷跡のすぐ横の肌に、触れるか触れないかのギリギリの距離で震えている。
エラルドはギリッと奥歯を噛み締め、顔を歪めた。 サファイアの瞳の奥が熱を帯び、激しく揺れ動いていた。
「……君は、何も分かっていないんだ」
エラルドの声が、ひどく低く、氷のように冷たく沈んだ。
それは、学園で見せる爽やかな王子様の声でもなく、私に見せる過保護な幼馴染の声でもない。まるで、王宮の裏社会で冷酷な支配者として振る舞う時の、感情を完全に死滅させたような声だった。
「僕が、どれほど汚れた人間か。……教団の情報を引き出すために、王都の地下で僕が何をしてきたか。女を甘い言葉で騙して惚れさせ、情報を引き出せば躊躇なく切り捨てる……僕は、君が思っているような綺麗な人間じゃない。化け物だ」
エラルドのサファイアの瞳が、どす黒い自己嫌悪に濁る。
十年前の事件から、彼が一人で手を血に染めて背負ってきた暗闇。彼はそれを、太陽の下にいる私に触れさせることを何よりも恐れているのだ。 この血と泥と嘘に塗れた汚い手で、真っ白な君に触れる資格なんてないのだと。
「君が傷つくのが。僕のせいで、君の太陽みたいな笑顔が失われるのが……僕は、自分の命が消えるより何百倍も、恐ろしかった……っ」
エラルドはギリッと奥歯を噛み締め、顔を歪めた。 サファイアの瞳の奥が熱を帯び、激しく揺れ動いている。それでも彼は、決して涙をこぼすまいと、必死に自らを律するように呼吸を震わせていた。
「知ってるよ。女を騙したとか、手を汚したとか、そんなの知ったことじゃない! あんたが一人で泥水啜って傷ついてるのに、私が『エラルドは綺麗な王子様だわー』なんてお花畑なこと思ってるわけないでしょ!あんたがすっごいビビリなのは、十年前からずっと変わってない」
私は、震える彼の手を強引に引き寄せ、私の背中にしっかりと触れさせた。
「でも、私は壊れない。何度だって、あんたの隣で笑ってやる。……だから、もう一人で怯えるのはやめて。私を、信じなさい」
私の体温に触れた瞬間、エラルドはついに耐えきれなくなったように、私の背中に回した腕にギリッと力を込め、私をその胸の中に痛いほど強く抱きしめた。
「……ごめん。……すまない、マリー……っ」 彼の震える吐息が、私の肩を撫でる。
シダーウッドの香りが、強く、深く私を包み込んだ。
「いいよ。……やっと、分かってくれたなら」
私が彼の背中を優しくポンポンと叩いていると。 数十秒後。エラルドは、ハッと我に返ったように、私を抱きしめていた腕の力をスッと緩め、一歩後ずさった。
「……すまない、取り乱した」
彼は目元を片手で覆い、小さく息を吐き出して、再び自分の中に『冷たい理性』のストッパーを掛け直そうとしていた。
「君の覚悟は分かった。……でも、だからといって、君を危険に晒すわけにはいかない。護衛の件は考え直すにしても、やはり君は安全な場所に――」
「まだそんなこと言ってんの!?」
私は、彼の胸ぐらを両手でガシッと掴み、強引に私の方へと引き寄せた。
「えっ……マリー?」
「安全な場所とか、お姫様扱いとか、もうウンザリなの! あんた、初夏のあの日にちょっと暴走したくらいで、そこからずっと私に触れないように、お行儀のいい『保護者』のフリして!……私がそれで満足してるって本気で思ってんの!?」
「なっ……君、何を……」
エラルドのサファイアの瞳が、驚愕に見開かれる。
私は顔から火が出そうなくらい真っ赤になりながらも、決して彼から目を逸らさなかった。 旧校舎の備品倉庫で見た、先輩たちのあの密会。アイクとアイリスの初々しいやり取り。 彼が私を大事にしてくれているのは分かる。でも、それだけじゃ足りないのだ。
「私はあんたの盾で、相棒で……そ、それに、恋人でもあるんでしょ! なのに、ちっとも私をそういう風に扱ってくれないじゃない!」
「……っ!」
「あんたが勝手に引いたその分厚い理性の線、私が全部ぶっ壊してやるから!」
私は、胸ぐらを掴んだまま背伸びをし――彼の薄く形の良い唇に、私の方から思い切り噛み付くようにキスをした。
「んっ……!?」
エラルドの身体が、雷に打たれたようにビクンと大きく跳ねた。
不器用で、ムードも何もない、ただの物理的な衝突みたいな口づけ。
でも、私の持っているありったけの熱と「私を見ろ」という主張を、これでもかと彼に叩き込んだ。
数秒後、私が息継ぎのために顔を離すと。 エラルドは、完全に虚を突かれた顔で、自身の唇に指を当てて硬直していた。
そして――彼の中で、十年間、そしてあの初夏から必死に継ぎ接ぎして守り続けてきた『過保護な理性の壁』が、音を立てて粉々に砕け散っていくのが分かった。
「……ははっ」
エラルドの喉の奥から、自虐と、そしてどうしようもない熱情が入り混じった、低く甘い笑い声が漏れた。
「……本当に。君には、敵わない」
彼のサファイアの瞳から、冷たい氷の気配が完全に消え失せる。 代わりにそこに宿ったのは、隠し切れない一人の男としての、私への深く、暗く、重たい執着の炎だった。
「僕がどれだけ君を汚さないように、大事に大事に箱にしまっておこうとしたか……君は本当に、何も分かっていないんだから」
エラルドの大きな手が、私の腰を引き寄せ、もう片方の手が私の後頭部をしっかりとホールドする。 逃げ場を失った私の唇が、今度は彼の方から、有無を言わさぬ強さで深く、甘く塞がれた。
「んっ……、えらる、ど……っ」 私の不器用なキスとは違う、頭の芯が溶け出すような、息もできないほどの熱い口づけ。 エラルドの大きな手が私の腰を強く引き寄せ、もう片方の手が私の後頭部をしっかりとホールドする。
彼の唇の熱と、有無を言わさぬ強引な舌の絡まり。
鼻腔を埋め尽くす、濃密なシダーウッドの香り。 それは、私が望んだ「対等な恋人」としての熱情のはずだった。
――なのに。
(……あ)
私の意志とは裏腹に。 逃げ場を塞がれるようなその強い拘束と、押し寄せる圧倒的な「男」の質量を感じた瞬間、私の身体がビクゥッ! と硬く跳ねた。
脳裏に、初夏のあの日の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって襲いかかってきたのだ。 呪いで理性を失い、獣のように濁った彼の瞳。 引き裂かれたブラウス。力任せに組み伏せられ、息もできずに泣き叫んだあの恐怖。
「っ……、ぁ……」 嫌だ。違う。今のエラルドは、あの時の化け物じゃない。 頭では分かっているのに、奥歯がカチカチと鳴り、彼に抱きついていた私の両手が、無意識のうちに彼の胸板を『拒絶』するように押し返してしまっていた。
その微かな、けれど決定的な怯えの反応を、彼が見逃すはずがなかった。
「……ッ!」 エラルドは弾かれたように唇を離し、私を抱きしめていた腕の力をスッと抜いた。 「……ごめん。ごめんなさい、マリー」 荒い息を吐きながら、彼が一歩、後ずさる。
薄暗い部屋の中で見えた彼の顔は、自分自身の欲望を深く呪うような、ひどく痛ましい絶望に染まっていた。
「やはり、僕は……君に触れる資格なんてない。あの日の恐怖を、また君に思い出させてしまった……っ」
彼が、自分で引いた『保護者』の境界線の内側へ、再び逃げ込もうとしている。
それが悔しくて、私は震える両手で、彼が離れていこうとするシャツの袖をギュッと強く掴み返した。
「……逃げない、でよ」
「マリー……でも、君は今、震えている」
「そうだよ。……怖いよ。あんたがあの時みたいに、私の声を聞いてくれなくなるんじゃないかって、身体が勝手にこわばっちゃうの」
私は俯いたまま、正直な本音を吐き出した。
「でも……それは、あんたが嫌いだからじゃない」
顔を上げると、私の目からポロリと涙がこぼれた。
「怖いけど……それ以上に、私、あんたに触れてほしいの。保護者みたいに遠くから見守るんじゃなくて、私のことを、ちゃんと女の子として見てほしい……っ」
泣きながらすがりつく私を見て、エラルドは息を呑んだ。
そして、痛むような顔でふっと微笑むと、私の両手をそっと解き、代わりに私の頬を、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うように両手で優しく包み込んだ。
「……馬鹿だね、君は。本当に、救いようがないほどに」
エラルドのサファイアの瞳から、先ほどの強引な熱情が消え、代わりに、春の陽だまりのように温かく、とろけるような深い愛情が満ちていく。
「女の子として見ていないわけないだろう。……君が僕に向ける無防備な笑顔を見るたびに、僕がどれだけ理性を総動員して、自分の中の泥のような感情を抑え込んでいたか」
彼の親指が、私の目尻に浮かんだ涙を、そっと拭い取る。
「……怖がらせてごめん。もう、君が嫌がることは絶対にしない。……だから、少しずつでいい。僕に、君のその震えを溶かさせてくれないか」
エラルドは、私を革張りのソファへとゆっくりと座らせると、自分は私の足元に片膝をつき、下から私を見上げるような体勢をとった。
そして、私の膝の上に置かれた震える両手を、彼の手でそっと包み込む。
「……ここから先は、君が少しでも嫌だと思ったら、すぐにその手で僕を殴り飛ばしてくれて構わない。約束する」
「……殴らないよ」
「なら、いいかい?」
私が小さく頷くと、エラルドは私の手の甲に、羽毛が触れるような柔らかなキスを落とした。
チュッ、という小さな音が、静かな部屋に響く。 そこには無理強いするような力は一切なく、ただひたすらに私を慈しむような温かさだけがあった。
彼の手が、私の手首から腕を伝い、ゆっくりと上へ登ってくる。
「……っ、ん……」 撫でられるたびに、強張っていた筋肉が少しずつ解れ、代わりに、甘く微かな痺れが皮膚の表面を駆け抜けていく。
エラルドは立ち上がり、ソファに座る私の隣に、密着しない程度の絶妙な距離を保って腰を下ろした。
「……マリー」 彼が私の名前を呼びながら、今度はそっと、私のこめかみの辺りに唇を寄せる。
熱い吐息が耳元を掠め、私の肩がビクンと跳ねた。
でも、不思議と恐怖はなかった。彼が私の一挙手一投足に細心の注意を払い、私が受け入れているのを確認しながら、ゆっくりと進んでくれているのが分かるから。
彼の唇が、こめかみから頬へ、そして顎のラインへと、確かめるように何度も優しいキスを落としていく。
「えらる、ど……」
「……可愛いよ、マリー。君の全部が、愛おしい」
囁く声に合わせて、彼の大きな手が、はだけたままになっていた私のブラウスの背中――『呪いの傷跡』のある辺りを、服の上からそっと、優しく撫でた。
「あっ……ぁ……っ」 そこは、私の身体で一番魔力に敏感で、痛みを伴う場所だ。
けれど、彼の純粋な光の魔力が微かに混じったその手のひらの熱は、呪いの痛みを和らげ、代わりに、身体の奥底から甘い熱をじわじわと引き出していくような感覚をもたらした。
「……痛くないかい?」
「ううん……エラルドの手、すっごく、温かくて……気持ちいい」
私が熱を帯びた息を吐き出して彼に寄りかかると、エラルドは安堵したように目を細め、ついに私の腰を抱き寄せて、自分の膝の上へと私をそっと抱き上げた。
「……っ」
再び、彼の重い体温と完全に密着する。
でも、あの日のような逃げ場のない拘束感はない。彼の腕は、私がいつでも抜け出せるだけのゆとりを残して、ゆりかごのように優しく私を包み込んでいた。
「マリー」
見上げた彼の瞳と、真っ直ぐに視線が絡み合う。
「……キス、してもいいかい」
今度は、私の方から、彼の手をキュッと握り返した。
「……うん。お願い」
エラルドの顔がゆっくりと近づき、私たちの唇が、今度こそ柔らかく重なり合った。
先ほどのような焦りはない。互いの温度を確かめ合い、甘さを分け合うような、ひどく丁寧で、とろけるような口づけ。
唇が離れては、また重なり、角度を変えて深く交わる。 チュッ、という水音と、互いの少し荒くなった呼吸だけが、秋の夜風が吹き込む部屋に響き続けていた。
「んっ……、ふぁ……エラる、ど……」 息継ぎのために唇を離すと、私の頭はすっかり熱に浮かされ、甘い麻痺に包まれていた。 過去のトラウマの冷たい影は、彼が私に与えてくれたこの圧倒的な優しさと熱によって、跡形もなく上書きされ、溶けて消え去っていた。
「……大好きだよ、マリー」
エラルドが私の首筋に顔を埋め、そこに、熱を刻み込むように深く唇を押し当てる。
「……私も。エラルドのこと、好き」
私は彼の広い背中に腕を回し、その温もりを心ゆくまで堪能するように、彼にぎゅっとしがみついた。
外の世界では、旧守派の思惑が渦巻き、間もなく学園を挙げての『魔法祭』が始まろうとしている。 けれど、今この夜、この薄暗い部屋の中だけは。 私たち二人が、すべての鎧と仮面を脱ぎ捨てて、ただの男と女として心と身体を寄せ合う、誰にも侵されない絶対の聖域だった。




