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3学年編:小難しい政治と、知恵熱と、物理の拳1

木々の葉はまだ青々とした、王都を覆う大結界が澄み渡った初秋の青空の下で淡い虹色の光を放っている。

 冷たさを増した夏風が、3学年1組の教室の窓から吹き込み、黒板のチョークの粉をふわりと舞い上げた。


「……はぁ。思えば、怒涛の一年だったなぁ」


私は、窓際の自分の席で頬杖をつきながら、ポツリと独り言をこぼした。

 この秋から、私たちはいよいよミリス魔法学園の『3学年』、つまり最高学年になった。


たった一年前。2学年に進級したばかりの頃は、まさか自分がこんな未来を迎えるなんて、想像の欠片もしていなかった。

 夏の『星夏祭』での王宮での一件、ディアナや、アイクたち『あぶれ者同盟』との絆、次々と押し寄せる貴族社会のドロドロとした波。

 そして何より――あの幼馴染と、両想いになるなんて。


(……恋人、かぁ)


私は、机の下で自分の右手をギュッと握りしめた。

 あの星夏祭の夜、下町の屋台で串焼きのタレごと口づけされた手の甲が、思い出すだけでカッと熱くなる。

 あれ以来、エラルドは新生徒会長としての激務に追われながらも、隙あらば私を公爵邸のディナーに誘い、甘やかしてくれている。……とはいえ、私たちがいわゆる『大人の関係』に踏み込む決定的な瞬間は、あの熱を出した日の昼下がりから、見事なまでにお預けを食らったままだったけれど。


「マリーさん、何を一人で顔を真っ赤にしてニヤニヤしているんですか。……もしや、また購買の新作肉まんのことですか?」


前の席から、丸眼鏡をスッと押し上げたセドリックが呆れたように振り返った。

 その隣の席では、アイクが大剣の手入れをしながら「どうせエラルドの野郎に美味いもんでも食わせてもらう約束でもしてんだろ」とカラカラと笑っている。


「違うもん! ちょっと、去年の今頃のことを思い出してただけ! ……それにしても、レオンハルト先輩たちが卒業しちゃって、学園もなんだか少し静かになったよね」

「静か、ですか。……表向きは、そう見えるかもしれませんね」


不意に。

 教室の前方の扉が開き、生徒会の腕章をつけたアイリスが、分厚い書類の束を抱えて入ってきた。

 彼女は私の席までツカツカと歩いてくると、ふう、と疲れたように息を吐き、ドサリと書類を机に置いた。


「アイリス、お疲れ様。生徒会の仕事、忙しい?」

「ええ。エラルド様が新会長に就任されてから、学園の予算の無駄を徹底的に洗い出しているから、会計の私は毎日数字とのにらめっこよ。……でも、本当に頭が痛いのは学園内のことじゃないわ」



アイリスは、私の前の空いている席の椅子を引き、優雅な所作でありながらも、ひどく疲労の色が滲む動作で腰を下ろした。

 机に置かれた分厚い羊皮紙の束から、王宮の書庫特有の、防虫用の古い香木の匂いが漂ってくる。


「頭が痛いって……どういうことだ?」


大剣の手入れの手を止めたアイクと、丸眼鏡の位置を直したセドリックが、真剣な顔つきでアイリスを囲み込むように身を乗り出した。

 アイリスは一度だけ短く息を吐き、扇子をパチンと開いて口元を隠した。


「卒業されて、本格的に国政に参加し始めたレオンハルト殿下が……王宮の『旧守派』と呼ばれる特権貴族たちに対して、事実上の全面戦争を仕掛けたのよ」

「全面戦争!?」

「ええ。……この複雑な状況を理解するには、今からちょうど十年前。この国が迎えた『歴史の転換点』まで遡る必要があるわ」


十年前。

 その言葉が出た瞬間、秋風の冷たさとは違う、氷のような悪寒が私の背筋をスッと撫で上げた。

 無意識のうちに、服の上から背中――あの日、エラルドを庇って教団の凶刃から受けた、呪いの傷跡のあたりに手が伸びていた。


「十年前、国王陛下は『国家の繁栄には、血筋よりも実質的な魔力と才能を重視すべきだ』として、平民であっても優秀な者を重用する特待生制度……いわゆる『実力主義メリトクラシー』の構想を発表したわ。けれど、何百年も特権を貪ってきた高位貴族たちがこれに猛反発し、王城周辺で大規模な暴動を起こした」

「……ああ。親父から聞いたことがある。その暴動を鎮圧するために、近衛騎士団や、当時の筆頭公爵だったエラルドの親父殿までが駆り出されて、王都の警備に深刻な『空白』が生まれたんだよな」


アイクが、重々しい声で相槌を打つ。

 そう。その警備の空白こそが、すべての悲劇の始まりだった。


「その隙を突いて、王都一厳重なはずのアルバーン公爵邸を襲撃したのが……カルト組織『灰の教団』よ」


アイリスの澄んだ声が、静まり返った教室に響く。

 教団の狙いは、規格外の光の魔力を持つ幼いエラルドだった。

 私の脳裏に、むせ返るような血の匂いと、エラルドの絶望に満ちた泣き顔、そして暴走した光の魔力が夜空を焦がしたあの日の光景が、鮮明にフラッシュバックする。

 同じ夜、王城へ急ぎ戻ろうとしていたエラルドのご両親も、教団の闇魔法による馬車の爆撃で命を落とし、レオンハルト先輩の乳母兄弟も凶刃に倒れた。


「……でも、国王陛下はあの夜の教団のテロという『真実』を、完全に隠蔽したわ」


アイリスが、扇子を持つ手にギリッと力を込めた。


「陛下は、あの襲撃も爆撃もすべて『過激派貴族の反乱』として処理し、それを大義名分にして、反対派の貴族たちを一網打尽に粛清した。教団の存在を隠し通すことで、ご自身の権力基盤を強固にし、強引に今の『実力主義社会』を推し進めたのよ」

「……つまり、今のこの活気ある国は、血塗られた嘘の上に建ってるってことですね」


セドリックが、震える声で呟く。

 アイリスは静かに頷いた。


「結果として、平民でも魔力や知識があれば事業に参入できるようになり、魔力結晶マナ・ストーンの取引で経済は異常なスピードで発展したわ。私の実家のような新興の商会が台頭し、街には最先端の魔法ファッションや娯楽が溢れている。……けれど、それはあくまで『経済』と『技術』の話よ」

「え?」

「国の防衛を担う『騎士団のトップ』や、王宮の『中枢の意思決定機関』。そこだけは未だに、十年前の粛清を生き延びた古い特権貴族――旧守派の老人たちが、世襲でしぶとく握りしめたままなの。彼らにとって、平民が力を持つ今の社会は不愉快極まりないわ」


アイリスは、机の上の書類を指先でトントンと叩いた。


「レオンハルト殿下は、そこにメスを入れたの。『国家防衛および魔力管理の完全実力化法案』……軍事と政治の中枢からも世襲制を撤廃し、完全に実力主義にするという、旧守派へのトドメとなる法案よ」

「なるほど……。教団の脅威を肌で知っている殿下からすれば、血筋だの体面だのにこだわっている旧守派の軍隊じゃ、来るべき有事に対応できないって考えたわけだ」

「ええ。当然、権力を奪われる旧守派は激怒し、『法案を取り下げないなら、自分たちの領地からの税収と兵の拠出を凍結する』と、王家を脅迫している。王宮は今、一触即発の泥沼状態よ」


アイリスとアイク、そしてセドリックが、深刻な顔で現在の王政と権力構造について深い議論を交わし始める。

 『メリトクラシー』、『軍事覇権の世襲』、『税収の凍結』、『旧守派の政治的ストライキ』。


「えっと……」


私は、窓際の席に座ったまま、虚空を見つめていた。

 最初は真面目に聞いていたのだ。十年前の因縁までは、当事者だから痛いほどよく分かる。

 でも、そこから先の小難しい政治用語の連続爆撃に、私の脳細胞は完全に白旗を揚げていた。


「……まり、つまり……『メリト・クラシー』っていうのは、新しい霜降り肉のブランド名で……税収が凍結されるってことは、お肉が冷凍保存されて美味しくなくなるってこと……?」

「マリーさん。瞳の焦点が合っていませんよ。それに、口から魂と一緒になにか白い煙が出ています」


セドリックが青ざめた顔で私を揺さぶる。

 ぐるぐると渦巻きになった私の両目には、カビの生えたおじいちゃん貴族たちが、冷凍されたお肉を抱え込んでストライキを起こしている謎の映像が浮かんでいた。


「あーもう、わかったわ。小難しい話をした私が悪かったわね」


アイリスが、呆れ果てたように深々とため息をつき、扇子を閉じて私に向き直った。


「いい? マリー。あなたの得意な言語に翻訳してあげるわ。……レオンハルト殿下のその法案を通すには、王宮で最大の発言力を持つ『アルバーン公爵家(エラルド様)』の力が必要不可欠なの。だから、古いお貴族様たちは、エラルド様をどうにかして失脚させたいのよ」

「おお! それなら分かる! でも、エラルドに正面から喧嘩売っても、あいつ完璧だから絶対勝てないじゃん」

「その通りよ。だからこそ、奴らは最も卑劣で、最も効果的な方法を選んだ」


アイリスのルビーのような瞳が、スッと細められ、真っ直ぐに私を射抜いた。


「エラルド様が、世界で一番、理不尽なまでに執着している最大の『弱点』。……王宮の雀たちは、もうとっくに嗅ぎつけているわ」

「……弱点?」


私が小首を傾げると、アイクがガシガシと赤髪を掻きむしりながら、やれやれと肩をすくめた。


「お前だよ、この鈍感食いしん坊。……魔法すら使えねえ平民のくせに、あの氷の貴公子様の隣を陣取ってる、世界一図太い特待生サマのことだ」


秋風が、もう一度教室を吹き抜ける。

 黒板のチョークの粉が、陽の光を浴びてキラキラと舞っていた。


私が、エラルドの弱点。

 十年前、血の海の中で彼を庇ったあの日から、いつかこういう日が来るかもしれないという覚悟は、心のどこかにあった。

 特権を奪われそうになっている旧守派の老人たちにとって、私ほど攻撃しやすく、エラルドを根底から揺さぶるのに都合のいい存在はいないだろう。


「……なるほど、ね」


私は、机に突っ伏していた体をゆっくりと起こし、自分の首をゴキッと鳴らした。

 脳みそを覆っていた知恵熱の煙が、一瞬にしてスッと冷え、代わりに、お腹の底からフツフツと熱い闘志(と食欲)が湧き上がってくるのを感じた。



「アイリス。エラルドのことだから、きっと私の周りに裏から見張りの暗部か何かを配置しようとしてるんでしょ」

「ええ。当然よ。王宮の旧守派の息がかかった過激な生徒が、この学園内にも必ず潜んでいるもの。エラルド様は、ご自分の手の者をあなたの影に……」

「全員、今すぐ撤収させるように伝えて」


私がピシャリと言い放つと、アイリスが扇子を握る手をピタリと止め、アイクとセドリックが一斉に息を呑んだ。


「な、何を言ってるのマリー! 相手は国の中枢で腐りきった老人たちと、その狂信的な手先よ! どんな卑劣な手を使ってくるか分からないのに、丸腰で歩くなんて正気の沙汰じゃないわ!」

「丸腰じゃないよ。私には、どんな魔法も無効化するこの『特異点』の身体がある」


私は、自分の両手をグッと握り込み、その拳をアイリスたちの前に突き出した。


「いい? 私はエラルドの盾で、いつかあいつの隣に立つんだよ。それなのに、自分の身一つ守れずにコソコソ隠れて護衛に囲まれてるなんて、絶対に嫌だ。私は、あいつの足を引っ張る弱点なんかじゃない。一番図太くてうるさい『盾』になるって決めたの!」

「マリー……」

「それに! 護衛なんかつけられたら、購買の新作パン争奪戦に出遅れるし、夜中に厨房に忍び込んでつまみ食いもできなくなるでしょ! 絶対に反対!!」


「……っ、この期に及んで最大の理由がそれですか、貴女は!」


張り詰めていた空気が一気に抜け、アイリスが扇子で私の頭をペシッと叩いた。

 アイクが「ははっ、違いねえ!」と腹を抱えて笑い出し、セドリックもやれやれと丸眼鏡を押し上げて苦笑する。


「分かったわ。エラルド様には『私が護衛を全力で拒否した。もし無理やり護衛をつけるなら、口を利かないし、作ってくれたご飯も食べない』って伝えておく。……あの過保護な次期公爵様にとって、これ以上ないほど残酷で致命的な脅し文句ね」

「うん! よろしく! カビの生えたお貴族様たちの嫌がらせなんて、私の胃袋と拳で、全部まとめて美味しく平らげてやるから!」


秋の陽光が差し込む教室で、私はニィッと凶悪に(そして最高に図太く)笑い飛ばした。


* * *



――夏の王宮での大舞踏会から、季節は確実に歩みを進めていた。


ジリジリと肌を焼くような夏の熱気が引き、朝夕の風に涼しさが混じり始めた初秋。

 ミリス魔法学園は今、一年で最も活気にあふれる熱狂の渦に包まれようとしていた。


「よし、皆聞いてくれ! 来月に控えた『魔法祭』の、我々3年3組の出し物を決定するぞ! 本番まであと一ヶ月、最高学年として恥じないものを作り上げよう!」


ホームルームの時間、毎年このクラスに選出される委員長のフェリクスが教壇で声を張り上げると、教室中から「おおーっ!」という歓声が上がった。

 『魔法祭』。それは、ミリス魔法学園が全校を挙げて開催する、秋の最大のイベントだ。昨年同様、クラスでの出し物と夜に開かれる舞踏会に向けて、今年も学園中が、一ヶ月後の本番に向けて浮き足立っていた。


だが、その華やかな喧騒の裏側で。

 旧守派と呼ばれる、古き良き血統と特権にしがみつく歴史ある名家の生徒たちの顔には、色濃い疲労と焦燥が刻まれていた。


彼らの纏う外套は由緒正しき高級品だが、よく見ればどこか色褪せ、すり減っているように見える。

 それもそのはずだ。夏の終わりにレオンハルト殿下の『完全実力化法案』が議会に提出されて以降、この一ヶ月間、エラルドは冷酷な裏工作によって旧守派の資金源を徹底的に断ち続けていた。彼らの実家は、徐々に、しかし確実に経済的な首を絞められ始めていたのだ。


『……見ろ。あの生意気な平民の女を』

『特待生ごときが……我々誇り高き血統を没落へと追いやる元凶め……』


学園の一般生徒は、私とエラルドの個人的な関係などほとんど知らない。完璧な次期公爵である彼が、公の場で私に甘い態度を見せることなど絶対にないからだ。

 だが、旧守派の『内情』を知る過激な派閥の大人たち――そしてその子供である一部の生徒たちだけは違った。彼らは血眼になってエラルドの弱点を探り、あの冷徹な氷の宰相が、裏で一人の平民の特待生を異常なまでに囲い込んでいるという『秘匿された事実』を嗅ぎつけていたのだ。


(……なんか、可哀想になってくるなぁ)


私は、魔法祭の買い出しの帰りに購買で無事にゲットした「秋の味覚・メガローストビーフサンド」を両手で抱えながら、内心でため息をついた。

 彼らだって、好きでこんな風に誰かを憎んでいるわけじゃない。大人たちが作った「血筋がすべて」という狂った常識の檻の中でしか、生きる方法を知らないだけなのだ。


――そんな、一触即発の空気が限界に達したのは、魔法祭の準備期間に入って最初の週末のことだった。


「ん〜っ! 今日も図書委員の仕事と買い出し、頑張った! さてと、アイクたちが待ってる中庭に行って、このサンドイッチを食べ……」


図書室から続く、人通りの少ない旧校舎の渡り廊下。

 赤や黄色に色づき始めた中庭の木々をすり抜けた初秋の西日が、床に長く影を伸ばすその場所で、私の足はピタリと止まった。


前方の通路を完全に塞ぐように立っていたのは、深い緑色の外套を羽織った、3学年の男子生徒三人。

 旧守派の中核を担う、伯爵家と子爵家の嫡男たちだ。

 彼らの手には、すでに抜身の杖や、危険な魔力を帯びた魔導具が握られ、その先端からはジリジリと空気を焦がすような殺気が漏れ出していた。


「……何の用かな。私、お腹空いてて急いでるんだけど」


私がメガサイズのサンドイッチを大事に抱えながら尋ねると、リーダー格の伯爵令息が、血走った目で私を睨みつけ、ギリッと奥歯を鳴らした。


「とぼけるな……! 貴様のせいで、我が家がどれほどの屈辱を味わっているか……っ!」

「は?」

「この夏から秋にかけて、父上の領地からの税収が、生徒会長の息がかかった商会によって不当に凍結され続けている! 我が家の由緒正しき事業も、実力主義を騙る平民の成金どもに奪われた! ……すべては、貴様という平民の女が、次期公爵様の唯一の『弱点』だからだ!!」


伯爵令息の叫び声は、怒りというよりも、悲痛な響きを帯びていた。

 エラルドによる、旧守派への容赦ない兵糧攻め。それがついに、学園の生徒たちの実生活(実家の存亡)にまでダイレクトに影響を及ぼし、彼らを凶行へと走らせたのだ。


「エラルド様に、特権を奪われる我々の痛みを思い知らせてやる。……貴様という『きず』を、この学園から消し去ってな!!」


三人の生徒が、一斉に杖を振り上げた。

 彼らの目は完全にイっている。学園内での私闘は厳罰対象だが、家門の存亡がかかった彼らには、もうそんなルールを守る余裕すら残っていない。


『燃え盛る血の盟約よ、我らが敵を灰燼と化せ! 【紅蓮の炎蛇クリムゾン・サーペント】!!』

『大気を切り裂く不可視の刃! 【風絶の太刀シルフ・エッジ】!!』


彼らが唱えたのは、学生レベルを遥かに超えた、殺傷能力の高い高位魔法だった。

 旧守派の貴族として、幼い頃から血の滲むような鍛錬で叩き込まれたであろう、彼らの『誇り』そのもの。

 凄まじい熱波と、空気を切り裂く真空の刃が、渡り廊下のガラスを粉々に粉砕しながら、一直線に私へと襲いかかる。


――だが。


「……あのさぁ」


私は、左手にメガローストビーフサンドを大事に抱え込んだまま。

 空いている右手を、無造作に、飛んでくる業火と真空の刃の真正面へと突き出した。


「そういうのは、お腹いっぱいご飯食べてから言えっつーの!!」


パシィィィィンッ!!!!


私の素手のひらが、彼らの渾身の魔法に触れた瞬間。

 渡り廊下を焦がしていた紅蓮の炎も、大気を切り裂く風の刃も、まるで安いガラス細工のように、ピキッと甲高い音を立てて『完全消滅』した。

 煙一つ、焦げ跡一つ残らない。私の髪の毛一本すら、揺れることはなかった。


「な……っ!?」

「ま、魔法が……消えた……!?」


伯爵令息たちが、信じられないものを見たように目を剥き、恐怖に顔を歪める。

 だが、無傷で立ち尽くす私の背中――1年前、エラルドを庇って深く抉られた呪いの傷跡の奥が、久々に受け止めた高密度の魔力への反発で、ビリッ、と焼け焦げるような痛みを訴えていた。


(……っ。やっぱり、本気の殺意がこもった魔法を消すのは、ちょっと背中が痛むな)


顔をしかめそうになるのをグッと堪え、私は魔法が消え去った空白の空間を一直線に踏み込んだ。

 そして、腰を抜かしてへたり込んだ伯爵令息の胸ぐらを、右手一本でガシッと掴み上げる。


「ひっ……!」

「よく聞け、お貴族様! ご飯が食べられないなら、プライドなんか捨てて泥水啜ってでも働くの! 平民を恨む暇があるなら、魔法祭の屋台で商売でも何でも始めてみろ! あんたたちのその立派な魔法は、人を傷つけるためじゃなくて、誰かを守るためにあるんでしょ!!」


私の腹の底からの怒号が、初秋の渡り廊下にビリビリと響き渡る。

 伯爵令息は、私の絶対的な腕力と、圧倒的な生命力(と食欲)の前に完全に気圧され、カタカタと情けなく歯の根を鳴らすことしかできなかった。


「……そこまでだ」


不意に。

 割れた窓ガラスから吹き込む秋風に乗って、ふわりと、静かで、氷のように冷たい声が響いた。


渡り廊下の奥。

 純白の生徒会長の腕章をつけ、プラチナブロンドの髪を夕日に輝かせたエラルドが、足音一つ立てずに立っていた。

 いつの間に騒ぎを聞きつけて駆けつけたのか。


「神聖なる学園内において、背後から殺傷魔法を放つとは。……それも、我がアルバーン公爵家の庇護下にある特待生に対して。君たち旧守派は、随分と命知らずな真似をしてくれるようになったね」


エラルドの声は平坦だったが、そのサファイアの瞳の奥には、すべてを凍てつかせるような静かな激怒が渦巻いていた。

 彼は冷徹な視線でへたり込む旧守派の生徒たちを一瞥すると、顎で短く合図をした。背後に控えていた暗部の生徒たちが、素早く三人を取り押さえる。


「彼らを生徒会室の地下牢へ。退学処分の上、彼らの実家には『公爵家被保護者への暗殺未遂』として、正式な法的手続きを行う」


淡々と、けれど一切の容赦なく事後処理を命じた後。

 エラルドはゆっくりと私の方へ向き直り、ツカツカと歩み寄ってきた。


「エラルド、お疲れ! ほら見てよ、メガローストビーフサンドも無事だし、魔法なんか一発で……」


私が得意げにサンドイッチを掲げて笑って見せようとした、その時。

 エラルドの大きな手が、私の両肩をガシッと、ひどく重く、息が詰まるような強さで掴み込んだ。


「……っ」

「……だから言っただろう。僕の言う通りに、護衛をつけておくべきだったと」


私の頭上から降ってきたのは、無事を喜ぶ声でも、私を褒める言葉でもなかった。

 それは、言うことを聞かない幼児を叱りつけるような、ひどく硬くて、重苦しい声。

 彼のサファイアの瞳は、私が無傷でピンピンしている事実などまるで見ていないかのように、私の腕や首筋に怪我がないかを、鋭い視線でなめるように確認している。


「な、なんで怒るのさ。私が自分で撃退したんだよ? 怪我なんて一つも……」

「結果論だ! 君は、自分の身がどれほど狙われやすいか、全く理解していない!」

「理解してるよ! してるから、自分の身は自分で守るって……!」

「君の特異点は万能じゃない!!」


エラルドの強い語気に、私は思わず言葉を詰まらせた。


「つい数ヶ月前……君はあの日もそうやって僕を庇って、呪いを引き受けて、高熱で倒れたじゃないか。……君に何度無茶をさせれば気が済むんだ。なぜ、大人しく僕に守られてくれないんだ……っ」


私を見下ろすエラルドの顔は、怒りというよりも、ひどく切羽詰まったような、息苦しい色に染まっていた。

 彼は本気で心配している。私が少しでも傷つくことを、誰よりも恐れている。

 ……でも。


(……なんなの、それ)


胸の奥で、カチン、と冷たい音がした。

 彼のその重すぎる保護は、私にはちっとも嬉しくなかった。


私とエラルドは、両想いになった。お互いの気持ちをぶつけ合って、やっと「恋人」という関係になれたのだ。

 それって、お互いを信じ合って、対等な立場で背中を預け合えるようになったってことじゃないのか?


なのに、彼はちっとも私を信じていない。

 私が「大丈夫だ」「強いんだ」といくら証明してみせても、彼の中の私は、昔からずっと変わらない『鳥籠の中で守ってやらなければならない、危なっかしいお姫様』のままなのだ。

 私がエラルドの隣に立つために泥だらけになって身につけた強さも、彼にとってはただの「無茶」でしかない。


「……私、怪我なんてしてない」


私は、両肩を掴む彼の手を、ペシッと冷たく振り払った。


「マリー……?」

「もう子供じゃないんだから。私が『大丈夫だ』って言ってんのに、いつまでそうやって保護者ヅラしてんのよ」


私の低くて硬い声に、エラルドはハッと息を呑んだ。

 私が彼の手を振り払ったことにショックを受けたのか、サファイアの瞳が微かに揺れる。

 でも、彼は何も言い返さなかった。ただ、己の「心配」を私に拒絶された事実を静かに飲み込むように、スッと目を伏せ、再びいつもの引き締まった次期公爵の顔へと戻った。


「……すまない。声を荒げた。君が無事でよかったよ」


声のトーンから、先ほどの熱が完全に消え失せる。

 彼は私から一歩距離を取ると、落ちたチョークの粉を踏みしめながら、踵を返した。


「行くよ、マリー。事件の調書を取らなければならないからね」


エラルドは、皆の前では決して私の手を握らない。

 あの日、大食堂のテーブルの下で「絶対に僕のそばから離れないで」と強く恋人繋ぎをしてくれた彼は、ここにはいない。

 彼は、私を安全なガラスケースに閉じ込めることばかりに必死で、私を対等な女、そして「相棒」として頼ろうとはしてくれない。


(……ふざけんな)


初秋の風が、割れた窓ガラスから吹き込み、私の茶色い髪を揺らす。

 手の中で、あんなに楽しみだったメガローストビーフサンドが、すっかり冷たくなってしまっている。

 今の私の心には、一ミリの食欲も湧いてこなかった。


一ヶ月後に控えた魔法祭に向けて、学園の空気は最高潮に盛り上がろうとしている。

 だが、私たち二人の間に横たわる、この重苦しくていびつな『保護者と子供』のような歪みは、限界ギリギリのところまで軋み始めていた。

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