閑話休題 ある令嬢の一コマ
ミリス魔法学園の1学年、セリア・フォン・アルジェント子爵令嬢にとって。
2学年の生徒会役員であり、次期筆頭公爵であるエラルド・フォン・アルバーンという存在は、文字通り『決して手の届かない、雲の上の神様』であった。
セリアの生家であるアルジェント家は、長年、派閥争いと政略結婚によって家格を維持してきた典型的な貴族だ。両親の間に愛情はなく、邸宅の空気は常に冷たく、計算高く淀んでいた。セリア自身もまた、いずれ家のために愛のない結婚を強いられる『駒』として育てられてきた。
だからこそ、セリアは貴族社会の薄っぺらい微笑みや、打算に満ちた愛の言葉をひどく軽蔑していた。
入学当初、セリアはエラルドのことも「どうせ、その完璧な美貌と権力で他人を見下している、冷酷な貴族の頂点」だと思っていた。
だが、その偏見は、学園内で密かに語り継がれている『ある事件』の噂を聞いて、根底から覆されることになった。
――去年の冬。ある上位伯爵家の令嬢が、エラルドへの恋心を拗らせるあまり、彼を夜の無人のサロンに呼び出し、無理やり身体の関係を迫ったというのだ。
その令嬢は、自らのドレスの肩紐を下ろし、涙ながらに「どうか一夜だけでも」と彼にすがりついた。どんな男であれ、美しく高位の令嬢にそこまでされれば、欲望に流されるか、あるいは身の程知らずだと冷酷に突き放すかのどちらかだろう。
しかし、エラルドはそのどちらでもなかった。
彼は一切の動揺も見せず、自らのジャケットを脱いで令嬢の剥き出しの肩を優しく包み込み、こう告げたという。
『……貴女ほどの気高く美しい方が、暗がりで自らの価値を貶めるような真似をしてはいけない。僕は貴女の想いには決して応えられない。だが、今夜のことは、僕の記憶から完全に消し去ろう。だからどうか、貴女が本来いるべき、光の当たる場所へお帰りなさい』
令嬢を傷つけず、誇りを守り、それでいて一寸の隙もなく、完璧に拒絶した。
その令嬢は、エラルドのあまりにも高潔で紳士的な振る舞いに、己の浅ましさを恥じて泣き崩れ、自らその顛末を周囲に懺悔したという。
その話を聞いた時、セリアの胸の奥で、何かが激しく音を立てて鳴った。
打算も、欲望も、見栄も存在しない。貴族社会の泥水の中で、彼だけが、まるで澄み切った氷河のように美しく、気高かった。
顔が格好いいから惹かれたのではない。彼のその『人間としての途方もない美しさ』に、セリアは焦げるような、息もできないほどの初恋に落ちてしまったのだ。
それから、セリアは必死に試行錯誤をした。
彼と話したい。少しでも彼の視界に入りたい。図書委員になったのも、彼がよく図書室を利用すると聞いたからだ。
そして一度だけ、本当に一度だけ、奇跡のような出来事があった。
春先のことだ。実家から「四十も歳の離れた辺境伯の元へ嫁げ」という非情な手紙を受け取ったセリアは、放課後の図書室の書架の陰で、一人で声を殺して泣いていた。
絶望と悲しみに暮れるセリアの前に、ふわりとシダーウッドの香りが漂った。
顔を上げると、そこにエラルドが立っていた。彼は何も聞かず、ただ、雪のように真っ白なハンカチをセリアの膝にそっと置いた。
『……音のない涙が、一番心に重くのしかかるものです。でも、貴女の人生の選択権は、決して他人のものではないはずだ。……顔を上げて。貴女は、涙より笑顔の方がずっと似合う』
ただ、それだけだった。
彼はセリアを「アルジェント子爵家の駒」としてではなく、一人の人間として扱い、優しく背中を押してくれた。その一言にどれほど救われたか。どれほど勇気をもらい、両親に初めて「嫌だ」と反抗できたか。
あの日の彼の温かい声と、ハンカチに残るシダーウッドの残り香。それだけを胸に抱いて、セリアはこの密やかで絶対に叶わない恋情を、宝物のように大切に温め続けていた。
――あの日、学年末試験の最終日の放課後。
誰もいない中央図書室の奥で、その『真実』を見てしまうまでは。
「ふぅ……やっと図書委員の仕事が終わったわ」
セリアは、大量の返却本を本棚に戻し終え、埃の舞う夕暮れの図書室を後にしようとしていた。
静寂に包まれた歴史学コーナーの奥底。一番日当たりの良い窓際の閲覧席から、微かな衣擦れの音が聞こえた。
(誰か、残っているのかしら?)
足音を忍ばせて近づいたセリアは、書架の陰からその席の様子を覗き込み――ヒッ、と息を呑んで、自らの口を両手で塞いだ。
そこにいたのは、エラルドだった。
だが、セリアの目を釘付けにしたのは、彼がそこにいたことではない。
エラルドの向かいの席で、机に突っ伏して、豪快な寝息を立てて爆睡している一人の女子生徒の存在だった。
(マリー・トマス……っ!?)
セリアは目を疑った。
ブラウスの第一ボタンを開けたまま、ヨダレを垂らさんばかりの無防備な顔で熟睡しているその平民の少女。
神聖な図書室で、あろうことかエラルドの目の前でいびきをかいて寝ているなんて。
誰に対しても一寸の隙も見せないエラルドのことだ。いかに幼馴染とはいえ、氷のように冷たい声で彼女を叱責し、目を覚まさせるに違いない。
セリアがハラハラしながら見つめていると。
エラルドは、採点していたらしき紙の束をそっと机に置いた。
そして。
「……本当に、限界まで起きていたんだね。お疲れ様、マリー」
夕暮れの図書室に溶け落ちたその声は。
セリアが今まで聞いた、どんな甘い恋愛劇の台詞よりも、ひどく低くて、甘くて、そしてどこまでも優しかった。
(え……?)
セリアの目の前で、信じられないことが起こった。
あの、令嬢たちが三メートル以内に近づくことすら許されない不可侵の王子様が。
自らの制服のジャケットを静かに脱ぎ、それを、爆睡している平民の少女の肩に、まるで世界で一番尊い宝物を扱うような手つきでふわりと掛けたのだ。
「んむ……もぐもぐ……屋台の串焼き、あと三本……」
「ふふっ。夢の中でも食べているのかい? 食い意地ばかり張って……全く、君という人は」
エラルドは、少女の寝言に呆れたように肩を揺らして笑った。
その微笑みは、令嬢たちに向ける『誰も踏み込ませない完璧な笑顔』ではなかった。
眉尻を下げ、愛おしくて、可愛くてたまらないというように、深く、柔らかく溶けきった、一人のただの『男』の顔だった。
彼は、椅子から立ち上がると、少女の隣へと移動した。
そして、机に突っ伏す彼女の顔を覗き込むように身を屈め、長い指先で、彼女の口元をそっと拭ったのだ。
誰も触れられないあの綺麗な指先が、一切の躊躇いもなく、少女の口元の汚れを素手で拭い取っている。
「……っ」
書架の陰に隠れているセリアの胸が、ギュッと音を立てて締め付けられた。
エラルドが、少女の寝顔を見つめるそのサファイアの瞳。
少女の髪を一筋掬い上げ、自らの唇にそっと当てるその仕草。そこには、打算も、貴族の矜持も、何一つ介在していなかった。
ただ純粋に、心の底から一人の女性を慈しみ、大切に、大切に想っているという、祈りのような無償の愛だけが溢れていたのだ。
「……んん、エラるど……? 試験、終わっ……た?」
「ああ。君の解答用紙、完璧だったよ。約束通り、これから王都の屋台を全部買い占めに行こうか。……ほら、おいで」
「わぁっ! 行く!!」
少女が勢いよく顔を上げ、満面の笑みでエラルドの首に無遠慮に抱きつく。
エラルドは、それを咎めるどころか、世界で一番幸福なものを手に入れたような顔で彼女の腰を抱き寄せ、そのプラチナブロンドの髪にそっと口づけを落とした。
二人の間に、他人が入り込む隙など、一ミリの針の穴ほども存在しなかった。
セリアは、足音を殺して、静かにその場から立ち去った。
胸の奥にあった宝物のような初恋は、音を立てて終わってしまった。でも、不思議と悲しみや嫉妬は湧いてこなかった。
夕焼けに染まる廊下を歩きながら、セリアは小さく、けれど温かい息を吐いた。
(ああ……なんて、綺麗なんだろう)
学園中が憧れる完璧な王子様。
彼は、貴族の頂点に立ち、望めばこの国のどんな美しく完璧な令嬢でも選び放題のはずだ。権力も、美貌も、すべてを持っている。
それなのに、実際の彼は。
まるで古い絵本から抜け出してきた騎士のように、たった一人の、底なしの胃袋を持つ平民の幼馴染に一途に恋い焦がれ、彼女をただ一人のかけがえのない女性として大切に守り抜いているのだ。
身分も、外聞も関係ない。ただ、愛する人の隣で、優しく微笑んでいる。
それは、セリアがかつて軽蔑していた打算だらけの貴族社会の泥水とは無縁の、あまりにも純粋で、美しい絵物語のような光景だった。
(私の初恋の人が、あんなに素敵な人で……本当に、よかった)
セリアの目から、一筋だけ、透明な涙がこぼれ落ちた。
失恋の涙ではない。それは、世界で一番美しい本物の愛を見せてもらったことへの、静かな感動の涙だった。
あの二人の秘密の甘い世界を知ってしまったのは、おそらく自分だけだろう。
セリアは、図書室の奥で見たあの絵画のような情景を、初恋の思い出と共に胸の奥の宝石箱にそっとしまい込み、夕陽の差し込む廊下を、清々しい足取りで家路へと歩き出していった。




