星夏祭の叙勲式と舞踏会
王宮・大謁見の間。
足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような冷気と、数百年もの歴史を吸い込んだ重厚な香木の匂いが鼻腔を埋め尽くした。
天上は遥か高く、宙に浮く数百の巨大な魔光石のシャンデリアが、夜を忘れたかのような眩い光を床の大理石に落としている。
壁沿いに立ち並ぶのは、王家直属の近衛騎士たち。そして、広間を埋め尽くすのは、豪奢なドレスや正装の礼服に身を包んだ、この国の中枢を担う王族や高位貴族の面々だ。
彼らが放つ、息をするのも躊躇われるほどの圧倒的な魔力と権力の『圧力』が、空間そのものを重く、薄暗く錯覚させるほどに支配していた。
年に一度の、王宮主催の祝祭『星夏祭』。
そのメインイベントの一つである、ミリス魔法学園の『新生徒会樹立・叙勲式』が、今まさに国王陛下の御前で執り行われようとしていた。
「これより、次代の国の頭脳たるミリス魔法学園生徒会、権限委譲の儀を執り行う」
厳かな宰相の声が響き渡る。
一般生徒用の観覧席である二階のバルコニー。私は、ビロード張りの手すりを両手で強く握りしめ、瞬きすら忘れて眼下の光景を見下ろしていた。手すりに押し付けられた指先が白く変色し、微かに震えている。
広間の中央。真紅の絨毯が敷かれた玉座へと続く階段の下で。
現生徒会長であるレオンハルト先輩、そしてガイル先輩、アーサー先輩たち『旧生徒会』の三人が、誇り高く整列していた。学園を力強く牽引してきた彼らの背中は、王族の御前であっても一切の揺らぎがない。
その彼らの前に、静かな足音を立てて進み出たのは――純白の儀礼服に身を包んだ、エラルドだ。
「次期生徒会長、エラルド・フォン・アルバーン。前に」
名前を呼ばれたエラルドは、玉座に座る国王陛下に向かって、流れるような美しい所作で片膝をついた。
レオンハルトが一歩前に進み出ると、生徒会長の証である『星明かりの宝杖』を両手で掲げ、エラルドへと差し出した。
「頼んだぞ、エラルド。次代のミリスを、そしてこの国の未来を」
「……はい。先輩方の築き上げた誇り、確かに引き継ぎます」
シャンデリアの光が、宝杖を受け取ったエラルドのプラチナブロンドの髪を神々しいまでに照らし出す。その横顔は、私が知っている「口うるさくて過保護な幼馴染」の甘さは一ミリもなく、ただ冷徹で、完璧で、誰もがひれ伏す次期筆頭公爵としての圧倒的な威厳に満ちていた。
「続いて、次期生徒会役員の任命を行う。……副会長、シオン・ヴァレンタイン。書記、カトレア・フォン・ルイス。……そして会計、アイリス・フォン・クライン」
エラルドの後ろに、新たに選ばれた三人の役員が進み出る。
新2学年から大抜擢されたという、天才的な魔力操作を誇る銀髪の少年、シオン。
実務能力に長けた伯爵令嬢のカトレア。
そしてその隣で、アイリスは一糸乱れぬ完璧なカーテシー(淑女の礼)を披露していた。
『……アイリス・フォン・クライン? あの、商会上がりの成金男爵家の娘が、なぜミリスの生徒会に?』
『アルバーン公爵家を筆頭とする生徒会には、あまりにも家格が不釣り合いでは……?』
一階の貴族たちの中から、隠しきれない嘲笑と疑問のひそひそ話が波のように広がるのが分かった。
アイリスの実家であるクライン家は、一代で莫大な財を成した新興の男爵家だ。由緒正しき血統を重んじる旧家の貴族たちからすれば、彼女は「金で爵位を買った成金」に過ぎない。
だが、アイリスは顔を上げないまま、ドレスの裾を握る指先にグッと力を込め、その嘲笑の嵐を堂々と耐え抜いていた。
(……笑うなら笑えばいいよ、お貴族様たち)
私は、手すりを握りしめたまま、心の中で毒づいた。
アイリスが生徒会役員に選ばれたのは、彼女が私と仲が良いからという身内贔屓でも、偶然でもない。
彼女は、座学から実技に至るまで、常にすべての成績を『上位20%』に収めるという、恐るべきバランス感覚と要領の良さを持っている。そして何より、商人の娘として培われた「経済観念と数字への嗅覚」は、学園の莫大な予算を管理する上で、どの高位貴族の令嬢にも真似できない最強の武器なのだ。
「以上の三名を、我が手足として生徒会役員に任命する」
エラルドが立ち上がり、振り返って広間全体を見渡した。
そのサファイアの瞳が一瞥しただけで、先ほどまでアイリスを嘲笑っていた貴族たちは、まるで首元に氷の刃を突きつけられたかのように一瞬で静まり返り、息を潜めた。
誰も、彼には逆らえない。
この絶対的な権力社会の頂点に、私の幼馴染は立っているのだ。
「……遠いなー」
私は、ポツリと、誰に聞こえるでもない声で呟いた。
物理的な距離の話じゃない。
王宮のシャンデリアの光を浴び、国の中枢を担う大人たちを平伏させる彼の姿は、まるで夜空に瞬く一番星のように、決して手の届かない場所にあるように見えた。
厳かな音楽と共に、叙勲式が無事に終了する。
ここからは、私たちのような一般生徒は退室し、限られた王族と高位貴族、そして新生徒会役員たちだけが残る『大舞踏会』へと移行する時間だ。
二階席の生徒たちが、次々と出口へ向かって歩き始める。
「わりぃ、マリー、セドリック。俺は親父に首根っこ掴まれてるから、この後の夜会にも残らなきゃなんねえ。……屋台の飯、俺の分まで食ってきてくれよ」
隣にいたアイクが、侯爵家の嫡男としての重いため息をつきながら、ひらひらと手を振って一階の大広間へと続く階段へ向かっていった。
彼もまた、あの煌びやかな世界側の人間なのだ。
残されたのは、平民の私とセドリックだけ。
『さあ、いよいよ夜会ね。……エラルド様と、ミーシア様のファーストダンス』
『あの完璧なお二人が手を取り合う姿……想像しただけでため息が出るわ』
すれ違う令嬢たちの浮き足立った声が、耳にこびりついて離れない。
あの噂は嘘だ。彼は私だけを愛していると言ってくれた。
頭では完璧に理解している。
なのに、あの大広間で、私が決して立ち入れないあの煌びやかな空間で、彼がミーシア様という完璧なお姫様の手を取り、微笑みを交わしながらワルツを踊るという『現実』が、どうしても私の胸の奥をチリチリと焼け焦がす。
「……マリーさん。行きましょうか」
「……うん」
セドリックの気遣うような声に短く頷き、私は最後に一度だけ、眼下の大広間を振り返った。
純白の儀礼服を着たエラルドが、色とりどりのドレスを着た貴族たちの波に飲まれていく。
もうすぐ、ここで華やかなワルツが始まる。
私には預かり知らぬところで、貴族たちのドロドロとした思惑と、ミーシア様との「婚約」という名の政治的暴走が、彼に牙を剥こうとしていることなど、退室を促される平民の私には、知る由も止める術もなかった。
王宮の重厚な扉が閉じられ、一般生徒たちが退室した後。
『星夏祭』の大舞踏会は、いよいよその本性を現し始めていた。
数百の魔光石が降り注ぐ眩い光の下、優雅な管弦楽の調べが滑り出している。しかし、その優雅さとは裏腹に、広間を満たしているのはむせ返るような香水の匂いと、高位貴族たちのどろどろとした『野心』と『値踏み』の熱気だった。
広間の壁際、豪奢なタペストリーの前に、新生徒会会計に任命されたアイリス・フォン・クラインは一人、静かに立っていた。
手にしたシャンパングラスの表面に、冷たい水滴が結露している。
『……あの方よ。クライン男爵家の』
『生徒会役員に抜擢されたとはいえ、所詮は金で爵位を買った商会の娘。どこの家のどなたが、あのような血筋の娘をファーストダンスに誘うというのかしら』
扇子の陰から向けられる、あからさまな嘲笑と好奇の視線。
この絶対的な階級社会において、新参者の男爵令嬢が、上位貴族の令息からダンスに誘われることなどあり得ない。アイリス自身、それは百も承知だった。それに、マリーとん仲良くなる前の学園の様子となんら変わりはない。
彼女は背筋をピンと伸ばし、形の良い唇に薄く気丈な笑みを浮かべたまま、この冷ややかな孤独の嵐が過ぎ去るのをじっと耐えようとしていた。
――その時だった。
「随分と壁の花を気取っているじゃないか、我がミリスの美しき会計殿」
不意に。
嘲笑の声を切り裂くように、聞き慣れた、しかし普段よりもずっと低く落ち着いた声が鼓膜を打った。
アイリスが息を呑んで顔を上げると、そこには、漆黒の最高級の燕尾服をしっかり着こなしたアイクの姿があった。
普段の、大剣を振り回して大口を開けて笑う脳筋の面影はどこにもない。侯爵家の嫡男として、幼い頃から叩き込まれてきたであろう洗練された足取りと、周囲の有象無象を威圧するような、王者の如き堂々たる風格。
「アイク……あなた、まだ残っていたの?」
「親父に挨拶回りをさせられててな。それに、俺の『大切な連れ』が、馬鹿な外野の視線に晒されてるのを放っておくほど、俺も野暮じゃない」
アイクは、周囲でヒソヒソと囁いていた貴族たちを一瞥した。
侯爵家嫡男の、鋭く冷ややかな剣気を含んだその一睨みだけで、令嬢たちは「ひっ」と息を呑み、蜘蛛の子を散らすように後ずさっていく。
静寂が落ちた壁際で。
アイクは、アイリスの前に優雅に片膝をつき、恭しく右手を差し出した。
「俺と踊ってくれるか、アイリス。……これで、三回目だな」
「……」
アイリスは、差し出されたその大きくタフな手のひらと、アイクの真剣な瞳を見つめ、ふっと、心底呆れたように、けれどひどく甘く笑ってその手を取った。
「ええ。光栄よ、侯爵令息殿。……でも、また私のドレスの裾を踏んだら、次期生徒会の予算からあなたの道場の修繕費を全額カットするから覚悟なさい」
「ははっ、そいつは恐ろしい! 死ぬ気でエスコートさせてもらうぜ」
アイクが力強くアイリスを引き寄せる。
周囲の驚愕の視線など意に介さず、二人は煌びやかなシャンデリアの中央へと、軽やかなステップを踏み出していった。
* * *
一方、広間の中央。
純白の儀礼服を纏ったエラルドの周囲は、凄まじい熱気に包まれていた。
群衆をかき分けるようにして進み出てきたのは、アルバーン公爵家の分家当主である公爵と、その娘――ミーシア・フォン・アルバーンだった。
波打つような銀糸の髪に、アメジストのように澄んだ紫の瞳。
夜空を切り取ったような深い瑠璃色のドレスを纏った彼女は、まさに雪の精霊のように美しく、儚く、広間にいる全員が息を呑んで振り返るほどの『学園一の美貌』を完璧に体現していた。
「エラルド殿。新生徒会長のご就任、誠におめでとうございます」
分家当主である公爵が、恭しく頭を下げる。
エラルドは、一寸の隙もない『氷の貴公子』の微笑みを浮かべて会釈した。
「本日は国王陛下も御覧になられている素晴らしい夜。……そして、我がアルバーン家の血の結束を示す絶好の機会でもあります。我が娘、ミーシアも、次期筆頭公爵たる貴方と『ファーストダンス』を踊れる名誉を、心待ちにしておりましたぞ」
公爵の声は、音楽を遮るようにわざと大きく広間に響き渡った。
周囲から「おお……」と期待に満ちたどよめきが上がる。
国王の御前という公の場で、分家の娘とのファーストダンスを既成事実化し、エラルドの莫大な魔力と権力を、分家の管理下に強固に繋ぎ止めようという露骨な政治的包囲網だった。
ミーシアは、アメジストの瞳を伏せ、優雅なカーテシーをした。
彼女の胸の奥は、千々に乱れていた。
十歳の夜会で彼に心を奪われて以来、彼にふさわしい完璧な令嬢になろうと、血の滲むような努力を重ねてきた。だが、彼女は知っている。彼が庭の暗がりで見せた、あのどうしようもなく甘く、人間らしい『心からの笑顔』は、自分ではなく、ただ一人の平民の少女に向けられたものだということを。
(……それでも)
ミーシアは、ドレスの裾を握る指先に力を込める。
先日、マリーを特別サロンのお茶会に呼び出し、「貴女は彼の瑕になる。身を引きなさい」と冷酷に言い放った。
だが、あの少女は『だからって幼馴染を一人ぼっちにするなんて絶対に嫌だ。私が一番うるさくて図太い盾になってやる』と、真正面から跳ね返してきたのだ。
あの時味わった、清々しいほどの敗北感。あんなにも眩しい太陽のような光を前にしては、自分の用意した緻密な政治の盾など、ひどく霞んで見えた。
それでも、家門の義務として、そして捨てきれない彼への慕情の残り火として、ミーシアは今、ここに立っている。
「……公爵閣下。そして、ミーシア嬢」
エラルドが、ゆっくりと口を開いた。
その瞬間、彼のサファイアの瞳の奥で、絶対零度の吹雪が静かに渦を巻いた。
「身に余る光栄です。雪の精霊と謳われるミーシア嬢と踊ることは、王国のすべての青年の夢でしょう」
エラルドの言葉に、公爵の顔がパッと明るくなる。
だが、エラルドの冷徹な笑みは、そこから一歩も引くことはなかった。
「……しかし。先ほど国王陛下より、ミリスの生徒会長という『国全体の未来』を担う重責を賜ったばかりのこの身。今この場で、他ならぬ身内であるアルバーン分家の令嬢とファーストダンスを踊れば、周囲の目にはどう映るでしょうか」
「な、なに……?」
「アルバーン公爵家が、就任の宴すら利用して権力の独占を図っている――国王陛下の御前で、そのような『身内贔屓』の疑念を抱かせることは、本家次期当主として、そして生徒会長として、断じて許されるべきではありません」
しんっ……、と。
大広間が、まるで時を止められたかのように凍りついた。
「公爵閣下。貴方様も、アルバーンの名に泥を塗るような真似は、望んでおられないはずだ。……違いますか?」
逃げ場のない、完璧な政治的な論破だった。
『家門の結束』を盾に取った侯爵に対し、エラルドは『国王への忠義と家門の体面』というさらに巨大な盾で完全に押し潰したのだ。
ここで侯爵が食い下がれば、「己の野心のためにアルバーン家の名誉を傷つける愚か者」として、周囲の貴族たちから一斉に排斥される。侯爵は顔を真っ青にさせ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「……っ」
その、息の詰まるような沈黙を破ったのは。
コトリ、と。扇子を優雅に開いた、ミーシアだった。
「お父様。エラルド様の仰る通りですわ」
ミーシアは、美しいアメジストの瞳を細め、完璧な令嬢の微笑みを浮かべて一歩前へ出た。
「エラルド様は今夜、ミリスの生徒すべての象徴であらせられます。私たち分家が、その光を独占しようとするなど、はしたないにも程がありますわ。……エラルド様、お父様の無礼、どうかお許しくださいませ」
「ミーシア……!」
「素晴らしいご見識です、ミーシア嬢。貴女のその誇り高さこそ、我がアルバーンの宝だ」
ミーシアが自ら泥を被ることで、エラルドの拒絶を受け入れつつ、父親の顔を立て、その場の空気を一瞬にして華やかに丸く収めてみせたのだ。
その並外れた精神力と頭の回転の速さに、周囲の貴族たちから「見事なご令嬢だ……」と感嘆の溜息が漏れる。
エラルドは、ミーシアに向けて、今夜一番の深い敬意を込めた一礼をした。
それは、恋人に対するものではない。同じ王国の未来を背負う、優れた『同志』に対する、最上級の礼だった。
エラルドが身を翻し、群衆の波へと消えていく。
その後ろ姿を見送りながら、ミーシアは扇子で口元を隠し、小さく息を吐いた。
(……本当に、敵いませんわね)
完璧な政治の盾で自分たちを退けた彼。
そして、その彼の心を、ただの「食欲と図太さ」だけで丸ごと奪い去ってしまった、あの平民の少女。
痛む胸の奥底で、ミーシアはふっと、諦めと清々しさが入り混じったような、小さく柔らかい笑みをこぼす。
彼女はもう、迷わなかった。自分の初恋がここで完全に終わったことを悟りながらも、ドレスの裾一つ乱すことなく、誇り高きアルバーンの令嬢として、煌びやかな舞踏会の光の中へと背筋を伸ばして歩み出していった。
* * *
背後で、王宮・大広間の重厚なオーク材の扉が、地響きのような音を立てて完全に閉じられた。
華やかなワルツの調べも、貴族たちのどろどろとした野心の熱気も、分厚い扉の向こう側へと遮断される。
静まり返った大理石の回廊。
純白の儀礼服を纏ったエラルドは、そこでようやく、完璧に張り付けていた貴公子としての笑みをスッと拭い去り、長く、冷たい息を吐き出した。
「――お見事でしたよ、会長。あそこで公爵家を完封するとは。おかげで大広間の温度が三度は下がって、極寒の夜会になっていましたけれどね」
不意に。
回廊の柱の影から、空間そのものが歪むような気配と共に、一人の少年が音もなく姿を現した。
新生徒会・副会長に任命されたばかりの、シオン・ヴァレンタインだ。
無造作に後ろで結ばれた銀髪。常に眠たげで飄々とした笑みを浮かべているが、その瞳の奥には、戦場で培われた氷のように冷徹で、合理主義者の光が宿っている。辺境伯家の次期当主であり、学園で唯一、エラルドの圧倒的な力に心酔し、絶対の忠誠を誓う『狂犬』だった。
「シオンか。……公爵家の追手は?」
「ご安心を。貴方にすがりつこうとした無粋な輩どもは、僕の『魔力結糸』で廊下の絨毯ごと縫い付けておきました。命までは取っていませんが、小一時間は動けないでしょう」
シオンは、指先で目に見えない魔力の糸を弄びながら、楽しげにクスクスと笑う。
彼にとって、エラルドの命令と平和な排除は至上の娯楽なのだ。
「ご苦労だった。後の生徒会の顔繋ぎは、カトレアとアイリスに任せてある。僕はこれより、王宮を出る」
「ええ、存じておりますよ。……あの太陽のような特待生殿が、下町の屋台でお待ちかねでしょう? どうか、存分に楽しんできてください」
シオンが恭しく、臣下としての最敬礼をする。
エラルドは短く頷くと、そのまま王宮の奥に用意された、アルバーン公爵家専用の控室へと足早に向かった。
* * *
控室の扉を施錠した瞬間。
エラルドは、首元をきつく締め付けていた純白のクラヴァット(タイ)を、苛立たしげにむしり取った。
「……息が詰まる」
ぽつりとこぼした声には、隠しきれない疲労と焦燥が混じっていた。
次期筆頭公爵としての威厳、国王への忠誠、そして群がる貴族たちを牽制するための、完璧な政治の盾。この純白の儀礼服は、彼を縛り付ける『鳥籠』そのものだった。
エラルドは、金糸の刺繍が施されたジャケットを脱ぎ捨て、上質なミッドナイトブルーのロングコートと、動きやすい黒のトラウザーズ(スラックス)に素早く着替えた。
夜の王都の喧騒に紛れ込める、目立たない、しかし一目で最上級の仕立てと分かる私服。
鏡の前に立つ。
隙なく撫でつけられていたプラチナブロンドの髪に指を差し込み、少しだけ乱雑に掻き回して、意図的に完璧なセットを崩した。
これでいい。今の自分は、国の未来を背負う生徒会長でも、アルバーンの次期当主でもない。
ただの、『エラルド』だ。
コートの内ポケットに、分厚い財布(王都の串焼きをすべて買い占めても有り余るほどの白金貨が入っている)が入っていることを確認する。
彼女が待っている。
あの煌びやかな大広間に満ちていた、どんな最高級の香水の匂いよりも。彼女の隣で嗅ぐ、油と煙と、焦げた醤油の匂いがひどく恋しかった。
エラルドは、控室の窓を音もなく開け放つと、風魔法を足元に纏わせ、王宮の裏庭から夜の街へと一直線に飛び出していった。
* * *
「……マリーさん。あの、そろそろ胃薬飲みますか?」
「飲まない! まだ六本目だもん! セドリック、そっちのイカ焼きも一口ちょうだい!」
王宮を見上げる高台のベンチ。
私は、秋の少し冷たい夜風に吹かれながら、隣で心配そうに私を見ているセドリックからイカ焼きを強奪し、無理やり笑顔を作って齧り付いた。
視線を上げれば、煌びやかにライトアップされた王宮が、夜空に圧倒的な存在感で浮かび上がっている。
噂は嘘だと分かっている。彼が私を特別扱いしてくれていることも、痛いほど分かっている。
でも、自分が絶対に立ち入れない世界で、彼が『完璧な王子様』として振る舞わなければならないという物理的な距離の壁が、どうしようもなく悔しくて、寂しかった。
イカ焼きの味が、なんだか少しだけしょっぱく感じる。
(……馬鹿みたいだなぁ、私)
ため息をつき、七本目の串に手を伸ばそうとした、その時だった。
「――こんなところで油を売っていては、王都中の串焼きを買い占める前に、夜が明けてしまうよ」
不意に。
祭りの喧騒を切り裂くように、ひどく甘くて、少しだけ息を切らした低い声が降ってきた。
同時に、屋台の煙の匂いを上書きするように、ふわりと上品なシダーウッドの香りが私を包み込む。
「え……?」
私が弾かれたように顔を上げると。
そこには、上質なミッドナイトブルーのコートの裾を夜風に翻し、少しだけ髪を乱したエラルドが立っていた。
王宮の儀礼服を脱ぎ捨てた彼は、夜の闇に見事に溶け込んでいる。けれど、そのサファイアの瞳だけが、私を真っ直ぐに射抜くように熱く、爛々と輝いていた。
「エ、エラルド!? なんで……っ、舞踏会は!? 主役の生徒会長が抜け出してきちゃって、大丈夫なの!?」
私が慌てて立ち上がると、エラルドは涼しい顔で、ふっと小さく笑った。
「問題ないよ。国王陛下への謁見と、必須となる派閥への挨拶はすべて完璧に済ませてある。その後の有象無象の相手は、優秀な新生徒会の役員たちに一任してきた」
「い、一任って……」
「シオンが面倒な貴族たちを牽制し、カトレアが実務的な顔繋ぎを行い、アイリスが予算交渉の土台を作っている。……僕はあらかじめ、僕が中座しても大舞踏会が『完璧に回る』ように、すべての布陣と根回しを済ませておいたからね。明日の朝刊には、新生徒会の見事な連携が称賛されるはずだ」
さらりと恐ろしいことを言う幼馴染に、私は目を丸くした。
この男は、自分に向けられるであろう「婚約発表」という政治的圧力を躱すためだけに、そして私との『串焼きの約束』を守るためだけに、王宮の大舞踏会という国最大のイベントの盤面を、完全にコントロールしてのけたというのか。
「……それに」
エラルドは、私の隣で完全に硬直しているセドリックの方へと向き直り、ふわりと、いつもの穏やかな笑みを向けた。
「こんばんは、セドリック。僕がいない間、マリーの護衛を任せてしまってすまなかったね。……君も、何か食べたいものはないかい? 屋台の串焼きも絶品だが、もし希望があるなら、今夜は僕の財布を好きに使ってくれて構わないよ。 灰の組織の件で色々お世話になったからね」
「えっ!? い、いえ! 僕はもう十分お腹いっぱいで……っ」
セドリックは、丸眼鏡をズレさせながら激しく首を振った。
彼の目には、信じられないものを見るような驚愕が浮かんでいる。
(……なんという方だ。さっきまで、あの煌びやかな天上の世界で、雲の上の存在として君臨していた貴公子が。今は下町の屋台の匂いの中に立って、僕のような末端にも相変わらず気さくに笑いかけているなんて)
セドリックは、エラルドの底知れない手腕に内心で戦慄していた。
国の未来を担う大舞台を完璧に回し、誰にも文句を言わせない状況を作り上げた上で、涼しい顔でこの場所に立っている。そして何より――王宮で見せていたあの絶対零度の表情とは打って変わって、今のエラルドの顔は、年相応の青年のように柔らかく、心からの安堵に満ちていた。
「さあ、行こうか。まずはあそこの『特大オーク肉の直火焼き』からだね」
エラルドが自然な動作で私の背中に手を添え、歩き出す。
私たちは三人で、光り輝く屋台の海へと繰り出した。
「すまない、この端から端まで全部よろしく頼むよ」
「ええっ!? エラルド、いくらなんでも買いすぎ!!」
「大丈夫だよ。セドリックも食べるだろう? ほら、遠慮せずに」
エラルドは、呆気にとられる屋台の店主に白金貨をポンと渡し、山盛りの串焼きを受け取って私たちに配ってくれた。
「あ、ありがとうございます……っ! いただきます!」
「んん〜〜っ! やっぱりお肉は裏切らない! エラルドも食べる?」
「……ああ。もらうよ」
私が齧りかけの串を差し出すと、エラルドは一切の躊躇いもなく、私の口がついた場所をパクリと齧った。
そして、私の口の端についたタレを、自分の指先でごく自然に掬い取り、そのまま自身の口へと運ぶ。
「!?」
その、あまりにも親密で、そして自然すぎるスキンシップに、隣を歩いていたセドリックが「ゴフッ!」と串焼きを喉に詰まらせて咽せた。
私も一気に顔から火を噴き、「ちょ、ちょっとエラルド! セドリックがいるのに!」と小声で抗議するが、彼は「ん? 何がだい?」と不思議そうに小首を傾げるだけだ。絶対に確信犯である。
(……なるほど。僕の胃袋は、物理的な量ではなく、この甘すぎる空気で限界を迎えそうです)
セドリックは、咳き込みながら丸眼鏡を押し上げ、周囲の状況を冷静に(そしていたたまれなく)察知した。
あの完璧な次期公爵様は、王宮の窮屈な鳥籠を抜け出し、ただ彼女を甘やかすためだけにここにいるのだ。自分がこれ以上、この二人の間に挟まっているのは、あまりにも無粋というものだろう。
「あ、あの……エラルド様、マリーさん」
セドリックは、少し離れた時計塔を見上げ、わざとらしく「ああっ」と声を上げた。
「もうこんな時間ですか! すみません、僕はそろそろ実家に帰らなければ。夏季休暇中ですし、あまり遅くなると使用人が心配しますので……」
「えっ? セドリック、もう帰っちゃうの? まだ甘いもの食べてないよ?」
「いえ! 僕はもう、色々と『お腹いっぱい』ですから! あとは、お二人で存分に王都の夜を楽しんでください!」
私が引き留めるのも聞かず、セドリックはペコペコと頭を下げながら、逃げるような早足で夜の街路へと消えていった。
気の利く友人の、完璧な撤退戦だった。
「……行っちゃった」
「そうだね。彼も家での時間を大切にしたいのだろう。……さあ、マリー」
夜風が吹き抜ける中。
エラルドが、ふっと振り返り、私を見下ろした。
セドリックがいなくなったことで、彼が私に向ける瞳の熱が、さらに一段階、上がったように見えた。
「これで、ようやく二人きりだ。……王都の串焼きをすべて買い占めるには、まだ少し時間が足りないからね」
彼は私の左手をそっと取り、長い指を絡ませて、恋人繋ぎにギュッと握りしめた。
さっきまでの、王宮という遠い世界に対する不安も、もどかしさも。
彼のこの温かい手のひらと、私だけを映すサファイアの瞳の前に、一瞬にして溶けて消え去っていく。
「……うんっ! 覚悟してよね、エラルドのお財布が空っぽになるまで食べるんだから!!」
私は、彼の手に力強く握り返し、満面の笑みで宣言した。
秋の冷たい風も気にならない。身分の壁も、貴族の野心も、今は何一つ私たちの間には存在しない。
王宮のシャンデリアよりも眩しい、私だけの王子様との、甘くて、美味しくて、長すぎる夜のデートが、今ここから始まろうとしていた。




