10年前の出来事と、氷の誓約
同じ学年だけど、マリーの方が数ヶ月お姉さんです。
「……あんた、何者!?」
私は背中の熱に喘ぎながら、勢いよく振り返った。
旧温室の入り口。サラサラの灰と化した星見草の残骸を踏み躙りながら立っていたのは、ボロ布のような灰色のローブを深く被った、小柄な男だった。
深いフードのせいで目元はよく見えないが、露出している口元は死人のように青白く、不気味な三日月の形に歪んでいる。彼の手には捻くれた枯れ木のような杖が握られており、その先端からは、泥のようにドロドロとした黒い瘴気が漏れ出していた。
「この花をこんなふうにしたのも、あんたなの? ここは学園の敷地内だよ。勝手に入ってきて、何してるのさ!」
私が痛みを堪えながら声を張り上げると、男は愉快そうに喉の奥で笑った。
『くくっ……騒ぐな、小鳥。こんなところを見られたからには、生かしては帰せない。死にゆく餌が私の名など知る必要はないが……お前のその若々しい生命力、大いなる灰の教義のための糧として有難く頂くとしよう』
「……気味の悪い声。聞くだけで吐き気がする。さっさと消えてよ」
私はミッドナイトブルーのローブの袖をまくり上げ、熱で霞む視界を必死に保ちながら、両拳を顔の前で構えた。
『ほう? ただの一介の生徒が、教団の闇の魔術に勝てるとでも?』
「舐めないでよね!」
温室のガラスを震わせるような黒い瘴気が、灰色のローブの男の杖から膨れ上がる。
私は痛む背中を庇いながら、両拳を構えて男を睨み据えた。
(でも、おかしい。なんでこんな不審者が、学園の中にいるの?)
熱で霞む頭の片隅で、冷静な疑問が警鐘を鳴らしていた。
王都全域を覆う『大結界』は、外からの悪意ある魔力や魔獣を弾き飛ばす絶対の盾だ。中でもこのミリス魔法学園は、未来の国家の要となる貴族の子弟が集まる場所。王城に次ぐ、最高レベルの二重結界が張られているはずなのだ。
それを、こんな末端の教団員が力業で破れるはずがない。結界が破られれば、すぐに王宮の魔導士団に警報がいく。だが、学園は今も平和な静寂に包まれたままだ。
つまり、こいつは結界を破ったのではなく、『正規の手続き』に近い形で結界の網目をすり抜けてきたということになる。
(……内部に、手引きしてる協力者がいる……!? あるいは、結界の死角を知り尽くした人間が……)
そこで思考が停止した。
十年前の事件の首謀者、ギデオン。私たちが”あいつ”と呼んでいた彼は、この学園に
入学してから知ったのだが、元・ミリス魔法学園の教師だったらしい。
当時の事件以来、学園はさまざまな審議や内部関係者の始末の対応で追われていたはず。嫌な汗が背中を伝う。もしそうだとしたら、この学園はすでに教団にとって、いつでも侵入可能な『庭』になりつつあるということではないか。それに、あの組織はこの10年間ぱったりと消息を途絶えていたはずだ。 なぜ、今また...........??
『よそ見をしている余裕があるのか? 小鳥』
男の杖の先端から、ドス黒い泥のような刃が三日月状に放たれた。
大気を腐らせるような音を立てて迫り来る闇の刃。私は咄嗟に右足を踏み込み、腰の回転を乗せた拳で、その刃の『側面』を思い切り殴り飛ばした。
パァァンッ!!
乾いた破砕音と共に、闇の刃が黒い霧となって霧散し、私の背中の傷跡へと吸い込まれていく。
「が……っ、あ……っ!」
ジュリアンの炎槍の比ではない。
傷跡が焼け焦げ、内臓を直接握り潰されるような猛烈な吐き気と痛みが全身を駆け巡った。一撃弾いただけで、膝がガクガクと震え、立っているのがやっとだ。
『なに……? 私の闇の刃を素手で弾いただと? お前、まさか……10年前の』
教団の内で噂にだけは聞いていたのだろう。「闇の呪いを喰らうイレギュラーな小娘」の存在を。目の前で起きた異常な光景と、その伝説が結びついたのか、男が驚愕に目を見開いた。
私は荒い息を吐きながら、血が滲むほど唇を噛み締めて、無理やり笑って見せた。
「……そうだよ。十年前にあんたたちのボスの魔法を喰らって、生き残った小娘だよ」
痛みに耐えながら、口角を上げる。私の脳裏には、あの日、血の海に沈んでいく私の視界の最後に焼き付いた――エラルドの絶望の慟哭が蘇っていた。
* * *
十年前。エラルドが六歳で、私が七歳の誕生日を迎えたばかりの、春の終わりのことだ。
当時のミリス王国は、建国以来の最も大きな『歴史の転換点』を迎えていた。
王家はそれまでの貴族院の権限を大幅に縮小し、国王への権力集中(専制政治)を推し進めようとしていた。さらに、「国家の繁栄のためには、血筋の古さよりも実質的な魔力と才能を重視すべきだ」とし、平民であっても優秀な魔力を持つ者を重用する『特待生制度』の構想を大々的に発表したのだ。
当然、特権階級である高位貴族たちは猛反発した。
連日、王城周辺では特権の維持を訴える貴族たちの抗議活動が激化し、一部では暴動にまで発展する騒ぎとなっていた。王都の治安は極度に悪化し、大結界の要である筆頭公爵家の当主(エラルドの父)も、国王の側近として事態の収拾にあたるため、連日王城に缶詰めになっていた。
しかし、それは教団の巧妙な罠だった。公爵邸が襲撃されたのと全く同じ時刻、王城から急いで戻ろうとしていた公爵夫妻の馬車が教団の別動隊による大規模な闇魔法の爆撃を受け、二人は帰らぬ人となってしまったのだ。
そして最悪なことに、王族の護衛と暴動鎮圧のため、公爵邸を警護する精鋭の近衛騎士たちの大部分までもが、王城へと駆り出されてしまっていたのだ。
王都一厳重であるはずの筆頭公爵邸に生まれた、ほんの数時間の『警備の空白』。
その致命的な隙を、歴史の影に潜んでいたカルト組織『灰の教団』は決して見逃さなかった。
「ほらエラルド、こっちこっち! 裏庭の奥に、すっごく綺麗な青い鳥の巣があったんだよ!」
「ま、待ってよマリー……っ。走ると、また息が苦しくなっちゃう……」
その日の午後。
私たち二人は、護衛の騎士が数名しか残っていない広大な公爵邸の裏庭で、かくれんぼの延長のようにして森の奥深くへと入り込んでいた。
王都を覆う大結界の基点の一つがあるその場所は、本来なら厳重に立ち入りが禁止されている領域だ。しかし、おてんば盛りだった七歳の私は、そんなことお構いなしにエラルドの手を引いてずんずんと進んでいた。
今思えば、私があの時彼を裏庭の奥に連れ出していなければ。いや、もしかすると結界の基点に近づいたことで、逆に教団の標的を絞りやすくさせてしまったのかもしれない。
空気が、不自然に冷たくなったのはその時だった。
「……あれ? 急に暗くなった……雨かな?」
春のうららかな陽光が、まるで分厚い鉛の雲に覆われたように突然遮断された。
違う。空を見上げると、上空には雲などなかった。ただ、私たちを包む空間そのものが、ドス黒いインクを水に垂らしたように、急速に淀み始めていたのだ。
「マリー……なんだか、気持ち悪いよぅ……」
エラルドが怯えたように私のローブの裾をギュッと握りしめる。
その直後だった。
私たちの足元に咲いていた色鮮やかな春の花々が、一瞬にして黒く変色し、まるで燃え尽きた紙くずのように『サラサラの灰』となって崩れ落ちていったのだ。
花だけではない。青々としていた芝生も、立派な樫の木も、触れたそばから生命の輝きを奪われ、灰色に染まっていく。
「な、なにこれ……っ!?」
悲鳴を上げそうになった私の口を塞ぐように、ひどく湿った泥のような声が響いた。
『――見つけたぞ。あの純粋な光の魔力……我らが大結界を内部から破壊するための、最高の「闇の器」だ』
音もなく。
灰と化した森の奥から、数人の黒いローブを纏った影が現れた。
彼らは人間離れした、まるで幽鬼のように足音のない歩みで私たちを取り囲む。その中心に立っていたのが、教団の幹部――十年前の事件の首謀者であろうか。
背が高く、蛇のように冷酷で粘着質な目をしたいかにも恐ろしい男だった。彼が息をするだけで、周囲の生命がさらに灰へと変わっていくのがわかった。
「だ、だれ……っ! エラルドに近づくな!」
七歳の私は、恐怖でガタガタと震える膝を必死に抑えつけ、小さな両手を広げてエラルドを庇うように前に立った。
その時、異変を察知した三人の護衛騎士たちが、剣と杖を抜いて木々の間から飛び出してきた。
「貴様ら、何者だ! エラルド様に何をするつもりだ!!」
「エラルド様、マリー様、お逃げくださ――」
若き騎士が魔法陣を展開しようと杖を掲げた、次の瞬間だった。
ギデオンが面倒くさそうに指を弾く。
ただそれだけで、騎士たちの足元から黒い茨のような瘴気が噴き出し、彼らの身体に巻き付いた。
「が、あぁぁぁぁぁっ!?」
凄惨な光景だった。
鍛え抜かれた騎士たちの肉体が、ほんの数秒のうちにミイラのように干からび、そのまま甲冑ごと『灰の山』となって崩れ落ちたのだ。
彼らの生命力は黒い光となって、”あいつ”の持つ杖の先端に吸い込まれていく。それが『闇魔法』――他者の命を奪って魔力に変換する、禁忌の術理だった。
「あ……ああ……っ」
目の前で人が灰になるのを見たエラルドは、完全に腰を抜かして地面にへたり込んだ。
六歳の小さな彼は、生まれながらの魔力の強さゆえに、相手がどれほど絶望的で恐ろしい力を持っているかを、私よりもはるかに正確に感じ取ってしまっていたのだ。
恐怖でサファイアの瞳から大粒の涙が溢れ、喉が引きつって悲鳴すら出せない。
『さあ、おとなしく来るんだ、小さき器よ。お前のその純白の魔力を、最も残酷な絶望で反転させてやろう。……邪魔な小鳥は、そこで消し炭になっていろ』
”あいつ”が、無慈悲な目で私を見た。
彼の指先に、黒くドロドロとした『瘴気の槍』が収束していく。
逃げなければ死ぬ。頭ではわかっているのに、恐怖で一歩も動けない。
”あいつ”の指先が、私ではなく、へたり込んでいるエラルドへと真っ直ぐに向けられた、その瞬間だった。
(だめだ……っ! エラルドが、死んじゃう!)
体が、勝手に動いていた。
泣き虫で、雷の音にも震えて、いっつも私の後ろを歩いている、大好きな弟分。
私が守るって、決めたのに。
『――死と絶望の泥よ。その純白を黒に染め上げろ』
ギデオンの指先から、致死の闇魔法が放たれた。
私は地面を蹴り、エラルドに覆い被さるようにして、その小さな身体を力の限り強く抱きしめた。
「エラルドには、指一本触れさせない!!」
直後。
私の背中に、真っ赤に焼けた太い鉄の杭を、骨の髄まで打ち込まれたような、言葉にならない激痛が走った。
「が……っ、あぁぁぁぁぁぁっ!!」
身体の水分がすべて一瞬で蒸発し、魂そのものが燃やされるような熱。
私を灰に変えようとする闇の呪いが、血管の中を這いずり回り、私の命を喰い破ろうとする。
『マ……リー……?』
腕の中で、エラルドが信じられないものを見るような目で私を見上げていた。
彼の綺麗なプラチナブロンドの髪に、私の口からこぼれた赤い血がぽたりと落ちる。
「えらる、ど……なかない、で……だいじょうぶ、だから……っ」
かすれる声でそう絞り出し、私はそのまま意識を手放し、冷たい土の上へと崩れ落ちた。
本来なら、私はあの瞬間に灰となって死んでいたはずだった。
しかし、私の野性的な生命力と、特異な星の巡りが奇跡を起こしたのか。私を殺すはずだった闇の魔力は、私自身の未発達な魔力器官と複雑に癒着を起こし、その致死のエネルギーを強制的に相殺・霧散させてしまったのだ。
それが、私の背中に刻まれた『呪い喰い』の傷跡の始まりだった。
『……っ!? なんだ、この異常な魔力の干渉は。私の呪いが……消えただと?』
”あいつ”が驚愕の声を上げた、その直後だった。
『あ、あぁぁぁ……マリー……マリー!! あああああぁぁぁぁぁぁッッッ!!』
血を流して倒れ伏した私を見て、六歳のエラルドの感情は、完全に決壊した。
彼がずっと恐れ、身体の中に閉じ込めていた『規格外の光の魔力』が、深い悲しみと怒り、そして絶望によって制御を失い、大暴走を起こしたのだ。
ズドォォォォォンッ!!
空を突くほどの巨大で神々しい光の柱が、公爵邸の裏庭から真っ直ぐに立ち上った。
それは、教団が求めていたような『闇に反転した魔力』ではない。ただひたすらに純粋で、触れるものすべてを灼き尽くす、怒れる太陽のような浄化の光。
その圧倒的な熱量と神聖な魔力に直撃された教団員たちは、悲鳴を上げる間もなく光の中に消え去り、ギデオンもまた、防御魔法を張ったにもかかわらず片腕を完全に消し飛ばされた。
『チィッ……! 器が壊れたか……っ。忌々しい平民のガキめ、覚えておけ!!』
自身の命の危機を悟った”あいつ”は、激痛に顔を歪めながら、残った瘴気で空間を切り裂き、這うようにして闇の中へと逃げ去っていった。
この『公爵邸襲撃事件』は、歴史の表舞台では「専制政治に反対する過激派貴族の反乱」として処理された。
国王はこれを口実に、王都で暴動を起こしていた反対派の貴族たちを一網打尽にして粛清し、専制政治への移行と特待生制度の設立を完全に推し進めることに成功した。
教団を退けても、エラルドの魔力暴走は止まらなかった。
幼い彼の魔力器官は、自身の生み出した規格外の光と熱に耐えきれず、内側から焼け焦げようとしていた。彼の白い肌に無数の亀裂のような光の筋が走り、その目からは涙の代わりに、黄金色の魔力の雫が溢れ出していた。
私が意識を失っていた間の地獄のような惨状は、すべて後になって父やベアトリスたちから聞かされた話だ。
『エラルド様!!』
異常事態を察知して駆けつけた私の父であるトマスが見たのは、地獄のような惨状だった。
王城からの応援も間に合わない中、父は自身の命を捨てる覚悟で、暴走する光の渦の中へ飛び込んだ。
灰と化した木々、黒焦げの地面。圧倒的な光の渦の中で、意識を失ったまま宙に浮き上がり、自らの魔力で焼け死のうとしているエラルド。
そして、血の海に沈みながらも、最後の力を振り絞ってその小さな手を彼へと伸ばし、必死に光の暴走を止めようとしている私――。
父は、自身が調合した最も強力な『魔力封じの劇薬』を何十本も束ねて、決死の覚悟で渦の中心へと飛び込んだ。
肌を焼かれながらもエラルドにしがみつき、その口に劇薬を強引に流し込む。
父の泥臭い執念と、私の伸ばした手が彼の暴走する魔力に触れてわずかに相殺したことが奇跡的に噛み合い、エラルドの暴走はなんとか沈静化した。
しかし、真の地獄はそこからだった。
丸三日、生死の境を彷徨ったエラルドが目を覚ました時。
彼が虚ろな目で最初に発した言葉は、ひどく掠れた声での「……お母様、お父様は?」という問いだった。
しかし、彼に告げられたのは、襲撃と同時刻、王城から急ぎ戻ろうとしていた両親の馬車が教団の別動隊による闇魔法の爆撃を受け、二人が帰らぬ人となったという残酷すぎる知らせだった。
『うそだ……。だって、お母様、今日は一緒に絵本を読むって……お父様も、すぐ帰るって言ったもん!』
六歳の幼い少年に、死という永遠の別れがすぐに理解できるはずもなかった。
彼は包帯だらけの身体でベッドの上で暴れ、大きなサファイアの瞳からポロポロと涙をこぼして、子供のようにわんわんと泣き叫んだ。
『いやだ、いやだぁっ! ママぁ……パパぁ……っ! どこにいるの、ひとりにしないで……っ!!』
少し熱を出しただけでも、いつもお母様が優しく抱きしめてくれた。お父様が心配そうに大きな手で頭を撫でてくれた。
それなのに、いくら泣き叫んでも、二度とその温もりは帰ってこない。たった六歳にして、彼は突然両親を奪われ、天涯孤独の身で巨大な公爵家を背負うことになってしまったのだ。
泣き叫ぶエラルドを、母であるマーサが「エラルド様、エラルド様……っ」と本当の息子のように抱きしめ、共に涙を流した。父トマスも何も言えず、ただ血走った目で沈痛な面持ちを浮かべていた。生き残ったメイド長のベアトリスたちも、小さな次期当主の底知れぬ絶望の前に、ただ咽び泣くことしかできなかった。
泣き疲れて声も枯れ果てた彼が、ふと、横に視線を向けた時。
彼を薄暗い部屋から外の世界へ連れ出してくれた唯一の光である私が、隣のベッドで、背中から胸にかけてぐるぐると包帯を巻かれ、死人のように青白い顔で眠り続けているのが見えた。
『……まり、ー』
まだ高熱に浮かされる重い身体を引きずって、エラルドはマリーの母の腕から抜け出し、ふらふらと私の傍らに崩れ落ちた。
私の傷は、父の薬と王宮の治癒術師の総力をもってしても、完全には癒えなかった。闇の呪いが私の魔力器官と癒着し、高熱を発しながら生命力を削り続けていたのだ。誰の目から見ても、私が助かる見込みは薄かった。
『マリー、ごめん……ごめんなさい、マリー……』
エラルドは、包帯から覗く私の冷たい手を、両手で包み込むようにギュッと握りしめた。
あの日、自分が怖がって逃げ出そうとしたから。自分が、いっつもマリーの背中に隠れてばかりの、弱くて情けない泣き虫だったから。
大好きなパパとママが死んでしまった。そして今、太陽みたいに明るくて、泥だらけでいつも自分を引っ張ってくれた彼女までが、自分のせいで光を失おうとしている。
『マリー……おねがい、おいていかないで。めを、あけて……』
彼のサファイアの瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、マリーの手の甲を濡らした。
(――僕が、弱いからだ)
嗚咽を漏らしながら、幼いエラルドの脳髄に、呪いのように冷たくて重い事実が刻み込まれていく。
自分が弱いから、両親を失い、彼女が傷ついたのだ。
自分が誰かに守られる「子供」である限り、彼女はきっとまた、その小さな拳を握って、自分よりも大きな絶望の前に立ちはだかろうとするだろう。
なら、どうすればいい?
パパもママもいないこの世界で、このたった一つの光を守り抜くためには。
答えは、一つしかなかった。
(……僕が、もっと強く、完璧になればいいんだ)
涙で滲む視界の中。エラルドは、私の冷たい手を自分の額に押し当てた。
泣くのは、これが最後だ。
もう二度と、彼女の背中に隠れて震えたりはしない。
もう二度と、誰かに命を狙われるような『隙』は見せない。
誰もがひれ伏すような圧倒的な魔力と、決して揺るがない権力と、誰にも本心を見透かされない完璧な仮面を手に入れる。
(強くなる。誰よりも。……もう二度と、君にこんな傷は負わせない。君が拳を振るう前に、俺がすべての脅威を終わらせる)
『……だから、お願い。マリー……生きて』
その祈りが通じたのか。
あるいは、ただ単に私が『呪いごと喰い破る』ほどの野性的なバカだっただけなのか。
数日後。マリーは「んー……お腹すいたぁ……」と気の抜けた声を出して、奇跡的に目を覚ますことになる。
その時、マリーの顔を見て泣き笑いのような表情を浮かべたエラルドの顔は、まだ幼くとも、マリーが知っていた『泣き虫な弟分』のそれではなかった。
その瞳の奥に宿っていたのは、冷たく研ぎ澄まされたサファイアのような決意。
そして、残った家族や周りの人を生涯かけて守り抜く――静かで、けれど海よりも深く気高い、絶対的な決意だったのだ。
もちろん、その時のマリーは昏々と眠り続けていたから、彼がどうやって立ち直ったのかを直接見たわけじゃない。あいつも決して言葉にはしない。けれど、奇跡的に目を覚ました時、マリーの顔を見た彼の表情を見れば……あいつが暗闇の中でどんな絶望を味わい、何を誓ったのかは、痛いほど正確に想像がついた。
それからは、襲撃を生き延びたメイド長のベアトリスをはじめとする公爵家の働き手たちも、小さな次期当主の底知れぬ絶望に寄り添うように、身を粉にして看病と邸宅の立て直しに奔走した。
しかし。
いくら胸の奥底で重い誓いを立てたからといって、六歳の幼い子供が、その日から突然『完璧な大人』になれるはずもない。
両親の葬儀もまともに執り行われないまま、筆頭公爵家は国王の厳重な監視下に置かれた。
国王は、エラルドの魔力暴走を恐れると同時に、公爵家の莫大な権力を削ぐ絶好の機会と捉えたのだ。邸宅の周囲には王家の近衛騎士が配置され、事実上の軟禁状態。当主の後見人には、国王の息のかかった強欲でお飾りの貴族が送り込まれてきた。
両親を失った悲しみ。見知らぬ大人たちに家を土足で踏み荒らされる屈辱。そして、自分の魔力が暴走したことへの恐怖。
幼いエラルドは、何度も心が折れ、暗い部屋で一人塞ぎ込み、時には自暴自棄になって周囲に当たり散らすこともあった。彼がそのまま心を閉ざし、王家の都合の良い操り人形へと成り下がってしまっても、何ら不思議ではない過酷な環境だった。
彼がグレることも、心が完全に壊れることもなく、真っ直ぐで優しい青年に育つことができたのは。
ひとえに、彼を取り巻く『温かい大人たち』のおかげだった。
『エラルド様。亡き旦那様から託されたこの家は、そしてあなたの未来は、私めが命に代えてもお守りいたします』
亡き公爵に絶対の忠誠を誓っていた初老の家令は、法的な知識と政治的な駆け引きを駆使し、お飾りの後見人から公爵家の財産と領地を必死に死守した。
メイド長のベアトリスは、エラルドが食事を拒んだ日には彼が泣き疲れて眠るまでずっと背中をさすり続け、母親の代わりに無償の愛情を注いだ。
そして何より、マリーの両親であるトマスとマーサの存在が大きかった。
『エラルド坊ちゃん。辛い時は、無理して笑わなくていい。大声で泣けばいいんです。私たちは、ずっとあなたの家族なんですから』
彼らは平民でありながら、監視の目を盗んでは公爵邸の奥に忍び込み、両親を失ったエラルドを本当の息子のように抱きしめた。
トマスは彼の暴走しがちな魔力を薬で優しく安定させ、マーサは手作りの温かいスープで彼の凍りついた心を溶かした。
彼らの身を呈した献身と、絶対的な愛情。
そして、傷が癒えた私が「エラルドー! かくれんぼの続きしよー!」と、相変わらず能天気に彼の部屋の窓を叩き割らんばかりの勢いで迎えに行ったこと。
監視された箱庭の中で、エラルドはゆっくりと、時間をかけて悟っていったのだ。
自分は決して、孤独ではないということ。
そして、自分を命懸けで守ってくれるこの優しくて不器用な大人たちと、太陽のように笑うマリーを、『今度は自分が守れるようにならなければならない』ということ。
強くなるには、大人たちに警戒されず、かつ絶対に手出しさせない存在になる必要がある。
彼は一切の反抗を見せず、誰よりも美しく、誰よりも優秀で、誰にでも微笑む『完璧な優等生』の仮面を少しずつ作り上げていった。
血を吐くような努力で魔法の制御を学び、公爵家当主としての帝王学を身につけ、監視者たちすらもその完璧な振る舞いで魅了し、味方につけていった。
十年の歳月。
それは、泣き虫だった孤独な少年が、彼を愛してくれた周囲の温かさを糧にして、自らの手で『完璧な貴公子』という最強の鎧を鍛え上げるための、長く尊い時間だった。
* * *
* * *
「……はぁっ、はぁっ……!」
過去の記憶から現実へと引き戻され、私は大きく肩で息をした。
男の放った闇の刃を殴り飛ばした代償で、背中の熱は限界に近い。今にも膝から崩れ落ちそうになるのを、気力だけでなんとか持ち堪えている。
『ほう。その顔の苦痛……どうやら、私の魔法を相殺するには、自らの命を削る必要があるようだな。やはり、出来損ないの紛い物だ』
「……うるさい。あんたなんか、一発殴れば、おしまいなんだから」
強がりを言いながら、私は前へ一歩踏み出した。
勝算はある。相手は私が『魔法を使えない平民』だと思って油断している。懐に飛び込んで、その不気味なローブごと顔面を殴り飛ばしてしまえば、魔力器官へのショックで魔法は途切れるはずだ。
(大丈夫。昔のエラルドは泣いてばかりだったけど……今のあいつは、すごく強くて、立派になったから)
私は、学園の中心で誰にでも優しく微笑む、完璧な『氷の貴公子』の姿を思い浮かべた。
(私は、あいつの背中を守る盾だ。あいつが学園で安全に、完璧に笑っていられるように……こんな末端のゴミ虫に、エラルドの日常を脅かさせたりなんかしない!)
私は奥歯を噛み砕くほどの力で踏み込み、温室の石畳を蹴った。
真っ直ぐに、一直線に。
男が驚いて杖を構え直すよりも早く、その懐へと潜り込む。
「これで……終わりッ!!」
熱で痺れる右腕を限界まで引き絞り、男の顔面に向けて、渾身のストレートを放った。
しかし。
私の拳が男のローブに触れる直前。
『――愚かな。罠に飛び込んでくるとはな』
男の足元に、予め描かれていた黒い魔方陣が赤黒い光を放った。
それは攻撃魔法ではなく、強力な『呪縛』の陣。
ズンッ! と、上空から見えない巨大な岩を落とされたような凄まじい重力が私の身体を押し潰し、私はそのまま温室の床に叩きつけられた。
「あ……がっ……!?」
手足がピクリとも動かない。肺が圧迫され、息ができない。
魔法を『殴る』ことはできても、すでに発動してしまった広範囲の呪縛結界の中に取り込まれてしまっては、どうすることもできない。
『十年前、ギデオン様の呪いを喰らって生き延びた忌まわしいイレギュラー。なぜ貴様がここにいるかは知らんが……生かして帰すわけにはいかないな』
男がゆっくりと歩み寄り、私の顔を冷酷に見下ろした。
末端の信者とはいえ、彼らは狂信者の集まりだ。一切の迷いも同情もなく、ただ機械的に「教団の不利益になる存在」を排除しようとしている。
男が杖を高く振り上げ、トドメとなる巨大な『闇の刃』を形成していく。
死の気配が、鎌を振り上げて私の首元に迫る。
(お願い、エラルド。……ここには、来ないで)
あいつに、私のこんな無様な姿を見せたくない。
私が傷つくたびに、あいつは自分を責めて、氷のような瞳を悲しみに歪ませてしまうから。
だから、絶対に来るな。
私が心の中でそう叫んだ、次の瞬間だった。
――パリィィィィィィィンッッ!!!!
旧温室の高い天井を覆っていた分厚いガラスが、内側から爆発したかのように一斉に砕け散った。
夕日を反射して降り注ぐ、無数の鋭いガラスの雨。
その煌めく破片を掻き分けて、上空から『尋常ではない質量の魔力』が落下してきた。
『なっ……!? なんだ、貴様は――!!』
男が驚愕して杖の向きを変えようとしたが、遅すぎた。
「――彼女に、その汚い手を向けるな」
極北の氷河よりも冷たく、そして、絶対的な怒りを孕んだ声がした。




