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近づく星夏祭 賑やかな公爵邸

南の孤島での激動の合同演習から戻り、王都は夏の終わりの気配を漂わせ始めていた。

 私たちミリス魔法学園の生徒はまだ夏季休暇の真っ最中であり、今日は久しぶりに『あぶれ者同盟』の四人で王都のオープンカフェに集まっていた。


「んん〜っ! やっぱり王都の『特大ベリーパフェ』は最高! 演習中のサバイバル肉も良かったけど、甘いものは別腹だよね!」


私が顔の大きさほどもあるパフェのグラスを抱え込んでいると、向かいの席でアイスコーヒーを飲んでいたアイクが呆れたように笑った。


「お前、島でディアナと張り合って、毎日俺たちの三倍は肉食ってたじゃねえか。マジでその胃袋どうなってんだよ」

「マリーさんの胃袋は特異点ですからね……。それにしても、あっという間の夏休みでしたね。来月、秋風が吹く頃には、僕たちもいよいよ『3学年』ですか」


セドリックが丸眼鏡を押し上げながら、少しだけ感慨深そうに息を吐く。

 この春、2学年になったばかりだと思っていたのに、季節が巡るのは本当に早い。もっとも、ミリス魔法学園は1学年から3学年までクラス替えのない「持ち上がり制」だ。秋から最高学年になるとはいえ、周囲の顔ぶれもこの騒がしい日常も、劇的に変わるわけではないという安心感があった。


「あなたたちは気楽でいいわね。私は今から胃が痛いわ」


隣の席で、アイリスが優雅に日傘を畳みながら、深々とため息をついた。


「どうしたのアイリス? パフェの生クリーム、胃にもたれた?」

「違うわよ。来週、王宮で開催される『星夏祭せいかさい』の準備で、実家のお母様がドレスの仕立てだのマナーの特訓だのと五月蝿くて敵わないの」

「あー、あの王族や上位貴族だけが集まるっていう、お城のパーティー?」


『星夏祭』。それは毎年夏の終わりに王宮で開催される、国を挙げた厳かな祝祭だ。

 そして今年の星夏祭は、ミリス魔法学園にとっても非常に重要な意味を持っていた。


「ええ。国王陛下や貴族たちの御前で、現在の3学年――レオンハルト会長、ガイル先輩、アーサー先輩たち『旧生徒会』から、次期会長であるエラルド様への正式な『生徒会権限の譲渡式』が行われるのよ。……そして光栄なことに、私も新生徒会の『会計』として任命されることになってしまったから、嫌でも出席しなければならないの」


アイリスの言葉に、私はパフェの底のコーンフレークをすくいながら首を傾げた。


「そっか、アイリスは会計なんだ。じゃあ、書記と副会長は?」

「書記は、実務能力に長けた伯爵令嬢のカトレアよ。そして副会長には、新2学年から抜擢された俊才、シオン君が就任する手はずになっているわ。エラルド様が自ら選んだ、隙のない完璧な布陣ね」


相変わらず、私の幼馴染は仕事が早いというか、完璧主義だ。

 そんな話をしていると、カフェの少し離れたテラス席から、着飾った貴族の令嬢たちの甲高い笑い声が風に乗って聞こえてきた。


『ねえ、今年の星夏祭の大舞踏会、本当に楽しみですわね!』

『ええ! 式典の後の、限られた者だけが参加を許される夜会……なんと言っても、新生徒会長となられるエラルド様と、ミーシア様のファーストダンスが見られますもの!』


ピタリ、と。

 私のパフェをすくう手が止まった。


『春先から学園で噂になっておりましたけれど、あの大舞踏会の場で、ついにアルバーン公爵家と侯爵家からの正式な「ご婚約発表」があるのではないかと、専らの噂ですわ!』

『なんて絵画のように美しいお二人なんでしょう……。これで、あの不釣り合いでガサツな平民の幼馴染も、お役御免ですわね』


令嬢たちのうっとりとした、そして私を嘲笑うようなひそひそ話が、嫌でも耳に届く。

 アイクが「あいつら……!」と眉をひそめて立ち上がろうとしたが、私はそれを手で制した。


(……ミーシア様との婚約の噂、か)


私がその噂を初めて聞いたのは、春の学園の中庭だった。

 あの時は、彼が遠くに行ってしまうような気がして大泣きしたけれど……結局その噂がきっかけで、私は自分がエラルドに向ける感情が『恋』なのだと自覚できたのだ。

 それに、あの夜の公爵邸の図書室で、彼自身の口からはっきりと聞いた。


『僕が愛しているのは、後にも先にも君だけだ。ミーシア嬢との噂なんて、周囲が勝手に騒いでいるだけのただの幻だよ』と。


だから、あの噂が事実無根のデタラメだということは、私が一番よく知っている。

 エラルドが私以外の誰かを選ぶなんて、あの重たくて甘いサファイアの瞳と甘やかしっぷりを知っている今となっては、天地がひっくり返ってもあり得ない。


……分かっている。分かっているのに。


「……美味しくない」


私は、さっきまであんなに輝いていたパフェの残りを、スプーンでぐちゃぐちゃとつつきながら唇を尖らせた。


彼が私を愛してくれていることは、疑っていない。

 でも、あの令嬢たちが言う通り、来週の星夏祭で行われる『大舞踏会』は、私のような平民が立ち入れる場所ではないのだ。

 王宮の輝かしいシャンデリアの下。私が絶対に足を踏み入れられない煌びやかな世界で、彼は『次期公爵』としての仮面を被り、国の体面のために、ミーシア様のような美しく完璧な令嬢の手を取ってワルツを踊る。


その事実だけは、揺るぎない現実だった。


「マリー……」


セドリックが心配そうに私を覗き込む。

 私が彼に向けられる陰口はどうでもいい。でも、大好きな彼が、私の手の届かない遠い世界で他の誰かと踊る姿を想像すると、胸の奥がチリチリと焼け焦げるように痛んだ。


「大丈夫よ、マリー」


アイリスが、私の頭を扇子でポンと軽く叩いた。


「噂はあくまで噂。それに、あの頭の回る過保護な次期公爵様が、ただ大人しく貴族社会の思惑通りに踊らされるタマだと思う? ……今日の夕方、彼の家に遊びにいくのでしょう?」

「えっ……うん。今夜は、『公爵邸で晩御飯を食べる』約束だったから……」

「なら、その時に直接彼にぶつけてみなさい。いつもの物理攻撃みたいに、真っ直ぐにね」


アイリスの冷たくも優しい言葉に、私は顔を上げて、小さく頷いた。


そういえばそうだ。エラルドのことだ、きっとこの星夏祭の裏でも、私が知らないところで何かとんでもない政治的計算を巡らせているに違いない。

 私は、残ったパフェを一気に口に書き込むと、両頬をパンッ! と叩いて気合を入れた。


「うん! 悩んでてもお腹が空くだけだしね! よーし、今日の夕方はエラルドんちの食材の底が尽きるまで、夜ごはん食い尽くしてやるんだから!!」

「ははっ、それでこそマリーだ! がっつり食べてこい!」


夏の終わりの生温かい風が、王都の街路樹を揺らしていく。

 迫り来る王宮の公式行事と、決して埋まらない貴族と平民という身分の壁。

 それでも、私の心の中には、彼がくれた絶対の安心感と、これから始まる彼との美味しい逢瀬への期待が、確かな熱を持って燃え続けていた。




* * *




アイクたち『あぶれ者同盟』とカフェで別れた後。

 私は、西日がオレンジ色に染め上げる王都の石畳を抜け、アルバーン公爵邸へと向かっていた。


夏の終わりの風が、少しだけ涼しさを帯びて頬を撫でる。

 豪奢な鉄格子の門をくぐり、手入れの行き届いた広大な庭園を抜けると、大理石造りの荘厳な本邸が姿を現した。10年以上前なら「お城みたいで緊張する」と萎縮していたであろう(マリーなら何も気にしないだろう)この場所も、今ではすっかり私の第二の家(という名の、最高の専属シェフ付きレストラン)のように馴染んでしまっている。


「失礼します、マリー様。エラルド様は自室で執務中ですが、お通しするよう申し付かっております」

「ありがとう! そのまま行くね!」


出迎えてくれた使用人たちに軽く手を振り、私は迷うことなく、屋敷の奥にあるエラルドの私室へと向かった。


重厚なオーク材の扉を少しだけ開けると、ふわりと、彼特有の落ち着くシダーウッドの香りと、羊皮紙の乾いた匂いが鼻をくすぐった。


「やっほー、エラルド。邪魔するよ」

「いらっしゃい、マリー。悪いね、もう少しだけかかりそうだ」


広々とした豪奢な自室。窓際の大きなマホガニーの執務机に向かっていたエラルドが、羽ペンを動かす手を止めずに、ふっと柔らかく微笑んだ。

 彼の机の上には、来週の『星夏祭』に向けた生徒会の膨大な引き継ぎ資料や、公爵領の秋の収穫に関する書類が山のように積まれている。窓から差し込む夕陽が、彼のプラチナブロンドの髪を黄金色に縁取っていた。


(……相変わらず、完璧で綺麗な横顔だなぁ)


私は、彼の邪魔にならないように、部屋の奥にある巨大な天蓋付きベッドへとダイブした。

 ふかふかのシルクのシーツ。羽毛のクッション。

 私はうつ伏せになり、両手で頬杖をつきながら、ベッドの端から両足をパタパタとぷらぷらさせてくつろぎ始めた。


カリカリ、と、エラルドが書類にサインをする万年筆の音だけが、静かな部屋に響いている。

 その心地よい音を聞きながら、私はシーツに顔を埋め、大きく息を吸い込んだ。

 微かに残る、彼と同じシダーウッドの香り。


(……そういえば)


ふと。

 ひんやりとしたシルクのシーツに顔を埋めた瞬間、そこに染み付いていた彼特有のシダーウッドの香りが鼻腔をくすぐり、私の脳裏に『あの日』の記憶がフラッシュバックした。


私が熱を出して倒れた夜のことじゃない。あの夜は、お互いの本音をぶつけ合い、彼が泣きそうな顔で強く抱きしめてくれただけで終わった。

 私が唐突に思い出してしまったのは……もっと前。私が昼間にこの部屋へ突撃していって、そのまま夕方まで、彼に手酷く抱かれたあの日のことだ。


……重くのしかかってくる彼の、熱すぎる体温。

 シダーウッドの香りに混じった、むせ返るような汗の匂い。シーツの擦れる音。

 普段の涼やかで優しい彼からは想像もつかないほどの、強引で、切羽詰まったような力強さ。

 男女のすべてを理屈ではなく身体で理解したあの時間は、正直言って少し怖くもあったけれど。でも、いつも完璧で理性の塊のような彼が、あんなにも余裕をなくして私を強く求めてくれたことが……今思い返すと、胸の奥がギュンッと締め付けられるように甘く疼くのだ。

 もし、呪いでもなんでもなく、今のあの穏やかで優しい彼が、もう一度私をあんな風に求めてくれたら――。


(って、んんっ!? 今、私なに考えてた!? 私っぽくないぞ!?)


ボンッ!!

 自らのお花畑(あるいは肉食)な思考に、顔面から一気に火を噴いた。

 私は熱くなった両頬を冷たいシーツに擦り付けながら、一人でパニックに陥る。


いや、だって! あれから合同演習やら試験やらで忙しかったとはいえ、私たちは正真正銘の『両想い』になったのだ。

 それなのに、あの夜以来、彼からのスキンシップといえば、口元のソースを素手で拭われたり、頭を撫でられたり、机の下で手を繋がれたりする「極度の過保護」ばかりで。

 大人の階段を上るような、あの切羽詰まった展開は、見事なまでにあの一回きりなのだ!


(え、もしかして私に色気がないから!? 食べるばっかりで、女として見られてない!? ……いや、だってあの時のエラルドの目は、呪いで完全に野生の肉食獣みたいに黒く濁ってたし……! じゃあ、呪いのない今は、こんな私とそういうことはしなくてもいいということか!?)


窓から差し込む西日が、チリチリと私の背中を焦がす。

 カリカリという彼の羽ペンの音だけが響く静かな部屋の中で、私の頭の中だけが謎の焦燥感でぐつぐつと煮えたぎっていた。

 焦りと、羞恥と、そしてほんの少しの不満。

 ベッドの端から投げ出した両足をぷらぷらさせる速度が、自分でもコントロールできないほどだんだん速くなっていく。

 バタバタバタバタッ!! と、シーツが激しく擦れる音が部屋に響き渡った。


「……マリー? どうしたんだい。急に顔を真っ赤にして、足をバタバタさせて」


不意に。

 書類から顔を上げたエラルドが、小首を傾げて私を覗き込んだ。

 そのサファイアの瞳は、純粋な不思議さと、ほんの少しの呆れを含んでいる。

 どうやら彼の理性のストッパーは、あの夜、一度は完全にぶっ壊れたものの、私が「学園生活(と試験勉強と食欲)」に全振りしているのを見て、超強力な『次期公爵としての自制心』という名のアロンアルファでガチガチに修復されたらしい。


「な、なんでもない! お腹が空きすぎて、夕食のメニューを妄想して熱くなってただけ!!」

「……本当に、君の頭の中は食べ物のことばかりだね」


エラルドは、呆れたように小さく息を吐き、机の上の書類を綺麗に揃えて立ち上がった。


「ちょうどいい。今日の仕事はここまでにしておこう。……行こうか。ギルバートが、君のために腕によりをかけたご馳走を用意して待っているはずだ」

「うおおおおっ! ギルバートさんの特製ディナー!!」


私は、さっきまでの悶々とした乙女心のようなものを光の速さで彼方に投げ捨て、ベッドからバネのように跳ね起きた。


* * *


公爵邸の1階にある、広大なダイニングルーム(食事場)。

 天井からは無数のクリスタルが連なるシャンデリアが眩い光を放ち、磨き上げられた長いマホガニーのテーブルには、純白のテーブルクロスが掛けられている。

 私たちが席につくと、奥の扉から、銀のワゴンを押した一人の初老の男性が、音もなく静かに現れた。


「お待ちしておりました、エラルド様、マリー様」


ピンと伸びた背筋。綺麗に撫でつけられた銀髪と、片眼鏡の奥で光る、鷹のように鋭くも、どこまでも深い慈愛に満ちた瞳。

 アルバーン公爵家の家令、ギルバートである。


「今夜は、マリー様がお越しになると伺っておりましたので。料理長に命じて、アルバーン領で獲れた特上の猪肉を使った赤ワイン煮込みと、近海産の白身魚の香草焼き、そして季節の果実のタルトをご用意いたしました」

「うわぁぁぁっ! ギルバートさん、神様!!」


運ばれてきた大皿の蓋が開けられた瞬間。

 暴力的なまでに芳醇な赤ワインと肉の脂の匂い、そしてバターの香りが空間を満たし、私の胃袋は歓喜のスタンディングオベーションを始めた。


「さあ、冷めないうちにどうぞ。アンナ、マリー様のお皿に取り分けて差し上げなさい」

「は、はいっ! かしこまりました、家令長様!」


ギルバートの背後から、今年新しく公爵邸に入ったばかりの若いメイド、アンナが、少し緊張した面持ちで私の前に進み出た。

 彼女はそそっかしいところがあるが、いつも一生懸命で明るい女の子だ。


「マ、マリー様、こちらお肉ですっ! あと、パンも……あっ」


アンナが緊張のあまり、カゴからこぼれ落ちそうになった焼きたての丸パンを、私が空中でヒョイッと素手で見事にキャッチした。


「ナイスパス、アンナ! いただきまーす! あむっ!」

「ひゃあ……! お、お行儀が悪くて申し訳ありません!」

「ふふっ、気にしないで。アンナが運んでくれたパン、すっごく美味しいよ」

「マリー様……っ!」


私が満面の笑みで頬張ると、アンナはパァッと顔を輝かせ、嬉しそうに胸を撫で下ろした。

 その微笑ましい(そして相変わらず貴族の作法ガン無視の)やり取りを、エラルドは自分のグラスのワインを傾けながら、呆れたように、けれど優しい瞳で見守っている。


「……ギルバート。彼女の分のお肉は、僕の三倍の量で取り分けてあげてくれ」

「かしこまりました。すでに厨房には、追加のローストビーフの塊を二つ、オーブンに入れさせております」

「さすがギルバートさん! 完全に私の胃袋を把握してる!」


私がとろとろに煮込まれた猪肉を口に運び、あまりの美味しさに身悶えしている光景を見つめながら。

 家令のギルバートは、片眼鏡モノクルの奥の目を細め、静かに、深く息を吐いた。


その視線の先にある、愛しい少女に向けるエラルドの柔らかい微笑みは――十年前に不慮の事故で命を落とした、亡き先代公爵の顔と、痛いほどによく似ていた。


――ギルバートにとって、アルバーン公爵家は単なる奉公先ではない。己の命そのものだった。


四十年前。下級官吏として王宮の財務局に勤めていた若き日のギルバートは、上司である高位貴族の横領の罪を被せられ、すべてを失った。

 激しい冬の雨が叩きつける王都の路地裏。二度とペンを握れないよう利き手の指を石で砕かれ、泥水の中でただ凍死するのを待つしかなかった彼の上に、不意に、温かい傘が差し掛けられたのだ。


『これほど緻密で美しい帳簿をつける男が、泥を啜って死ぬなど、この国の損失だ。……私の屋敷へ来い。お前のその明晰な頭脳を、今日から私が買い取ろう』


それが、先代アルバーン公爵だった。

 無実の罪を晴らし、砕かれた指に最高位の治癒魔法をかけ、温かい暖炉の火と、極上のスープを与えてくれた。何の後ろ盾もない平民の自分を、公爵家の金庫番として、やがては家令として、絶対の信頼と共に重用してくれた。

 ギルバートにとって、先代公爵への恩義は、血一滴、骨の髄までアルバーン家に捧げてもなお余りあるものだった。


だからこそ。

 十年前、先代公爵夫妻が馬車の事故で突如としてこの世を去った時。

 王家から「幼き当主の後見人」という名目で送り込まれてきた、公爵家の莫大な財産と領地を貪り食おうとする強欲な親戚やハイエナ共を前にして、ギルバートは一人で『戦争』を始めたのだ。


魔法も、剣術も使えない。だが、彼には先代が愛してくれた「頭脳」があった。

 ギルバートは公爵邸の執務室に何日も立てこもり、睡眠を削って血を吐きながら、法律の抜け穴という抜け穴をすべて塞いだ。王家が介入できない強固な信託財産の防壁を築き、時には裏社会の情報を金で買い、親戚どもの不正の証拠スキャンダルを冷徹に突きつけて脅し上げた。

 すべては、両親を失い、広すぎる屋敷で一人ぼっちになってしまった六歳の坊ちゃま――エラルドを、理不尽な悪意から死守するためだ。


結果として、ギルバートは政治的駆け引きと法務の力だけでハイエナ共を牽制し、結果アルバーンの領地と財産を一セントたりとも奪わせなかった。


だが、彼が守れたのは「公爵家の地位」だけだった。

 周囲の大人すべてが敵に回るという異常な環境下で、幼いエラルドは決して泣かず、決して弱音を吐かず、己の心を完全に凍りつかせて『完璧な次期公爵』としての仮面を被ってしまったのだ。

 誰も寄せ付けない、絶対零度の氷の城。ギルバートは、若き主人が人間らしい感情を失っていくのを、ただ奥歯を噛み締めて見守ることしかできなかった。


このままでは、坊ちゃまの心が壊れてしまう。

 そう絶望しかけていたギルバートの前に――泥だらけの靴で、後継人の管理下においても公爵邸の分厚い扉を蹴破らんばかりの勢いで飛び込んできたのが。


『エラルド!! ご飯食べよう!! 私のお母さんが、特大のハンバーグ焼いてくれたから!!』


他ならぬ、目の前で口の周りにソースをベッタリとつけて笑っている、マリー・トマスだった。


身分も、公爵家のしがらみも、一切関係ない。

 彼女は、エラルドは当時思い詰めたことがあったのか、初めは近づかないでと彼女を遠ざけようとした。しかし、どれほど冷たい言葉で拒絶しても、彼女は翌日には「昨日のお肉のほうが美味しかった!」とケロリとした顔で窓から侵入してきたのだ。

 その規格外の明るさと底なしの胃袋は、エラルドが必死に築き上げた氷の壁を、いとも簡単に、そして乱暴に叩き割ってくれたのだ。


(マリー様。貴女は、エラルド様の……いえ、このアルバーン公爵家すべての『太陽』です)


メイド長ベアトリスもよく口にする言葉。ギルバートは、エラルドのグラスに年代物の赤ワインを静かに注ぎ足しながら、密かに、深く感謝の祈りを捧げた。

 彼女がいなければ、今頃この屋敷は、冷たく淀んだ権力闘争の舞台のままだっただろう。

 しかし今、この広大なダイニングルームには、新米メイドのアンナの弾むような笑い声と、マリーの「美味しい!」という歓声、そして、それを世界で一番幸せそうに見つめるエラルドの、穏やかな瞳がある。


「マリー。また口の端にソースがついているよ」

「んむ? 拭いて拭いてー」

「……本当に、君という人は」


エラルドが、苦笑しながら自身の純白のハンカチでマリーの口元を優しく拭う。


「……ギルバートさん! この白身魚の香草焼きもすっごく美味しい! アンナ、おかわりもらえる!?」

「はいっ! ただいまお持ちします、マリー様!」


屈託なく笑うマリーの声に、ギルバートは片眼鏡の位置をスッと直し、恭しく一礼した。

 王宮で囁かれる政治の噂も、星夏祭の重圧も、今のこの温かいテーブルには存在しない。

 彼が命を懸けて守り抜いたこの場所で、亡き主君の忘れ形見が、最愛の少女と共に心からの笑顔を浮かべている。それ以上の喜びが、この世にあるだろうか。


豪奢なシャンデリアの光が、ワイングラスの中で琥珀色に揺れる。

 初老の忠臣は、自らのすべてを懸けて護り抜いたこの騒がしくて優しい日常の風景を、ただひたすらに、誇り高く見守り続けていた。

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