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合同演習で飛び散る火花

――王国の剣であれ。

 それが、第一騎士団長を父に持つ、ディアナ・フォン・ローゼンブルクに物心ついた時から課せられた絶対の使命だった。


血の滲むような鍛錬の日々。同年代の令嬢たちが美しいドレスや宝石に夢中になっている間、ディアナは泥と汗にまみれ、手のひらに無数のマメを作りながら木剣を振るい続けた。

 痛みに泣きそうになっても、「ローゼンブルクの娘が涙を見せるな」という父の厳しい言葉が彼女の心を縛った。

 強くなければならない。誰よりも気高く、美しく、そして圧倒的な力を持つ『完璧な騎士』にならなければ、国を背負う真の王者の隣には立てないのだから。


そんな彼女にとって、ミリス魔法学園の次期筆頭公爵、エラルド・フォン・アルバーンは、まさに『己のすべてを懸けて護り抜くべき、完璧な主君(あるいは伴侶)』の理想像そのものだった。

 彼の圧倒的な魔力と知性。そして、誰も寄せ付けない孤高の気高さ。

 彼と肩を並べ、その背中を預かることができるのは、血のにじむような努力で学年トップの座を勝ち取った自分のような人間だけだ。そう信じて疑わなかった。


……だというのに。


(なんなの、あの平民は……っ!!)


海浜別邸の豪奢な自室のベッドで、ディアナはギリッと歯を食いしばり、シーツを強く握りしめた。

 昨日、エラルドが白昼堂々、自らの手で口の汚れを拭ってやっていたあの小柄な少女。

 マリー・トマス。

 貴族の教養も、洗練された魔力も、騎士としての気高さも一切持たない、ただ食い意地が張っているだけのガサツな平民。

 あんなものが、あの完璧なエラルド様の隣で無神経に笑っているだなんて、ディアナのこれまでの人生のすべてを否定されたような屈辱だった。


(絶対に認めない。今日のサバイバル演習で、わたくしが格の違いを見せつけてやるわ……っ!)


ディアナは、ルビーの瞳に烈火の如き闘志を燃やし、真紅の演習服のベルトを固く締め直した。


* * *


「……ふわぁぁ〜……よく寝たぁ!」


翌朝。

 私は、海浜別邸に用意された最高級の客室の、天蓋付きのふかふかなベッドの上で、両腕を思い切り伸ばしてあくびをした。

 今回の演習中、別邸の部屋割りは二人一組だ。私と同室になったのは、当然のごとく親友のアイリスである。


「おはよう、マリー。相変わらず、魔獣みたいな寝起きね」


すでに身支度を終え、優雅に朝の紅茶を傾けていたアイリスが、呆れたようにため息をついた。

 バルコニーの大きな窓からは、南の島の強烈な日差しと、どこまでも青い海が見渡せる。部屋の中は魔石の冷房が効いていて、快適そのものだ。


「えへへ、だってベッドがマシュマロみたいだったんだもん。……って、それより!」


私は毛布を蹴っ飛ばし、一瞬で演習用の動きやすい制服へと着替えた。


「いよいよ今日から実技演習! ディアナと、夕食のバーベキュー特選肉を懸けた絶対に負けられない戦いが始まる!! アイリス、今日の私は一味違うよ!」

「はいはい。あんたの脳内が完全に『魔獣=美味しそうな動く肉』に変換されてることはよく分かったから、さっさと顔を洗ってきなさい。……エラルド様も、よくこんなのの世話を焼く気になれるわね」


アイリスの呆れ声を背中に浴びながら、私は洗面台へとダッシュした。

 今日から二日間は、この修練島に生息する魔獣の討伐ポイントを競うサバイバル演習だ。

 気合十分で別邸前の広場に集合すると、そこにはすでに、真紅の制服を着た騎士学校の生徒たちと、純白の制服の魔法学園の生徒たちが、互いにバチバチと牽制し合うように並んでいた。


「――これより、両校合同の特別魔獣討伐演習を開始する!! ルールは簡単だ、日没までにジャングルでより多くの討伐証(魔石)を持ち帰った者の勝利とする! 各自、己の誇りを懸けて戦え!!」


教官の号砲と共に、生徒たちが一斉に島の奥の鬱蒼とした熱帯雨林ジャングルへと駆け出していく。


「行くわよ、マリー・トマス!」

「望むところだ、ツンツンポニーテール!!」


私とディアナは、互いに火花を散らしながら、深い森の中へと飛び込んだ。


ジャングルの中は、むせ返るような熱気と湿気に包まれていた。

 巨大なシダ植物が生い茂り、見たこともない極彩色の鳥たちが頭上を飛び交っている。

 少し離れた場所では、アイクが「オラァッ!」と大剣を振り回して巨大な毒蛇を薙ぎ払い、セドリックが「うおおおっ、見たことのない粘菌です!」と別の意味で興奮しながら森を這いずり回っていた。


「シッ!!」


鋭い呼気と共に、ディアナが動いた。

 彼女の細身のレイピアが、身体強化魔法によって真紅の閃光となり、木の上から襲いかかってきた豹型の魔獣の急所を的確に貫く。


「ふう……。どうかしら? これがローゼンブルク家に伝わる『火閃の剣技』よ。無駄な動きは一切ない、完璧な討伐ですわ」


ディアナが優雅にレイピアを振り下ろして血糊を払い、私に向かって勝ち誇ったように笑った。

 確かに、流れるような美しい動きだ。周りの騎士学校の生徒たちからも「おおっ!」と歓声が上がっている。

 しかし。


「へえ、すごいね。……でも、そんな細っこい剣じゃ、デカい獲物は狩れないんじゃない?」

「なんですって?」

「見てなよ。私の『狩り』を!」


その時、茂みの奥から、地響きを立てて巨大な魔獣が姿を現した。

 体長五メートルはあろうかという、硬い甲殻に覆われた巨大なヤシガニの化け物、『要塞鋏蟹フォートレス・クラブ』だ。

 その巨大で凶悪なハサミを見た瞬間、騎士学校の生徒たちが「あ、あれはBランク魔獣だぞ! 退がれ!」と浮足立った。


しかし、私の目に映っていたのは、脅威などではない。


(カニ……!! あれ、絶対に茹でたらカニミソがぎっしり詰まってるやつだ!!)


私の食い気メーターが完全に振り切れた。

 私は、ディアナが止める間もなく、真正面から巨大ヤシガニに向かって猛ダッシュした。


「ギチチチィッ!!」


巨大なハサミが、私を真っ二つにしようと振り下ろされる。

 私はそれを避けることなく、両手でガシィッ!! とその硬いハサミを正面から受け止めた。


「なっ……!? 素手で!?」

「うおおおおぉぉぉっ!! カニ鍋ェェェェッ!!」


私は特異点由来の規格外の腕力を全開にし、ハサミを掴んだまま、自分の体重の数十倍はある巨大ヤシガニを強引に持ち上げ――そのまま、背負い投げの要領で地面に激しく叩きつけた!!


ズッドォォォォォンッ!!


クレーターのような大穴が開き、巨大ヤシガニが白目を剥いて泡を吹く。


「……は?」


ディアナの持っていたレイピアが、カラン、と音を立てて手から滑り落ちた。

 周囲の騎士学校の生徒たちも、文字通り顎を外さんばかりの顔で硬直している。


「よしっ! 大物ゲット! これでバーベキューのお肉は私のものだね、ディアナ!」

「あ、あなた……魔法も使わずに、その細腕で……っ、どういう理屈で動いているのよ!?」

「理屈? 食欲だけど?」

「理解不能ですわーーーっ!?」


パニックを起こすディアナを尻目に、私は次なる獲物(食材)を探してジャングルを爆走し始めた。


* * *



当初、私と騎士学校のトップ令嬢であるディアナとの間で勃発した「エラルドの隣(と夕食のバーベキュー肉)を懸けたサバイバル勝負」は、たった数日でその様相を大きく変えることになった。


「ふんぬぅぅぅっ!! そっち行ったよディアナ! 逃がさないで!!」

「言われなくても! 『水刃のウォーター・エッジ』!!」


演習三日目。鬱蒼と生い茂る熱帯雨林ジャングルの奥深くで、私たちの怒号が響き渡っていた。

 私の目の前を、巨大な六本足の猪魔獣『ヘキサボア』が地響きを立てて突進していく。私はその太い後ろ脚を素手でガシッと掴み、強引に動きを止める。

 その隙を縫うようにして、ディアナの真紅のレイピアが、水属性の魔力を帯びて鋭く閃き、ヘキサボアの急所である首元の魔石を正確に穿った。


ズドォォォンッ! と、巨大な魔獣が地響きと共に倒れ伏す。


「よしっ! これで今日のノルマ達成! ディアナ、ナイスアシスト!」

「ふふっ、貴女が完全に動きを止めてくれたおかげですわ。……それにしても、まさか突進中の魔獣の脚を素手で止めるなんて、何度見ても貴女のその力、常軌を逸していますわね」


ディアナは、額に滲んだ汗を純白のハンカチで優雅に拭いながら、呆れたように、けれどどこか楽しげに笑った。

 初日のような見下す視線は、もうそこにはない。

 魔法が一切使えない代わりに、どんな魔法も無効化し、規格外の物理力を誇る私。そして、鍛え抜かれた剣術と水属性魔法を巧みに操るディアナ。

 「どちらがより多く狩るか」という勝負は、いつの間にか「私の絶対的な防御力(と腕力)で魔獣の動きを封じ、ディアナの剣で致命傷を与える」という、完璧なコンビネーション狩猟へと変化していたのだ。


「おうい! お前ら、そっちの獲物は片付いたかー!?」


そこへ、木々の向こうから大剣を肩に担いだアイクが、汗だくになって姿を現した。

 その後ろには、アイクと同じくらい背の高い、見知らぬ男子生徒が歩いている。

 王立騎士学校・重装歩兵科の2学年、ガウェイン・ダグラス。身の丈ほどもある巨大な鋼のタワーシールドを背負った、熊のように筋骨隆々な少年だ。


「マリー嬢、ディアナ様! こちらのエリアの魔獣も一掃しましたぞ!」

「ガウェイン、お疲れ様。アイクと一緒に前衛を張ってくれて助かったわ」


ディアナが労いの声をかけると、ガウェインは「なんのこれしき!」と豪快に笑い、アイクと拳をゴツンと突き合わせた。

 この一週間、合同演習の班編成において、なぜか私たち3組の「あぶれ者同盟」は、ディアナ率いる騎士学校のトップチームと常に行動を共にしていた。

 魔法よりも剣術を好む脳筋のアイクは、同じく前衛特化のガウェインと一瞬で意気投合し、毎日のように「どっちの筋力が上か」で腕相撲や素振りの対決をしている。


「……あ、あの、皆さん。そのヘキサボアの死骸、まだ動かさないでください。この島特有の植生を食べた影響で、牙の成分が王都のものと変異している可能性が……っ」


さらにその後ろから、セドリックがふらふらとした足取りで、分厚いスケッチブックを抱えながら現れた。

 彼にとって、この島は未知の生態系の宝庫だ。演習中も魔獣そっちのけで地面を這いつくばって植物を採取しており、魔獣に襲われそうになるたびに、ガウェインの巨大な盾か私の拳によって命を救われていた。


「あら、もう終わったの? あなたたち、泥だらけで暑苦しいわよ」


そして、少し離れた安全地帯の木陰では。

 アイリスが、携帯用の冷却魔石を仕込んだ日傘の下で、優雅にレモネードを飲んでいた。彼女は後方からの広範囲索敵と、補助魔法バフに徹しており、一切汗をかいていない。


「アイリス、あんたもたまには前線で汗流しなよ!」

「お断りよ。貴族の令嬢たるもの、真夏の太陽の下で野蛮に駆け回るなんて美学に反するわ。……ディアナ、あなたも少し肌が焼けたんじゃない?」

「っ……! し、しまった……! 演習に夢中で、日焼け止めの魔法をかけ直すのを忘れていましたわ!」


アイリスの指摘に、ディアナが悲鳴を上げて日陰へと駆け込んでいく。

 魔法学園の落ちこぼれ(と一部の天才)たちと、騎士学校のエリートたち。

 決して交わるはずのなかった二つの学校の生徒たちは、南の島の強烈な日差しと、サバイバルという極限状態(と大自然のバーベキュー)を経て、驚くほどの速さで絆を深めていった。


* * *


演習五日目の午後。

 午前の厳しい討伐訓練を終えた私たちは、王家所有の『海浜別邸』のプライベートビーチで、束の間の休息バカンスを満喫していた。


「そぉれっ!!」

「ば、馬鹿野郎マリー! スイカ割りで拳を使う奴があるか!!」


ドゴォォォォンッ!!

 目隠しをした私が、砂浜に置かれた巨大な南洋スイカに向かって全力の正拳振りを叩き込んだ瞬間、スイカは綺麗に割れるどころか、木端微塵に爆散して赤い果汁の雨を降らせた。


「あーっ! 私のスイカが!!」

「自業自得だろ! だから木刀を使えって言ったんだ!」


頭からスイカの汁を被ったアイクとガウェインが大笑いし、私は砂浜に四つん這いになって「私の……甘い果肉が……」と絶望の涙を流していた。


「……本当に、貴女たちを見ていると飽きませんわね」


波打ち際に立てられた巨大なパラソルの下。

 涼しげなサマードレスに着替えたディアナが、アイリスと一緒に冷たいトロピカルジュースを傾けながら、呆れたように(しかし口元には隠しきれない笑みを浮かべて)私たちのドタバタ劇を眺めていた。


「ディアナもこっち来て一緒に海入ろうよ! 水すっごく冷たくて気持ちいいよ!」

「わ、わたくしは結構です! 第一騎士団長の娘たるもの、殿方の前で水着で波とはしゃぐなど……きゃあっ!?」


私が海水を両手ですくってバシャッとディアナに向かってかけると、彼女の端正な顔に冷たい水滴が降り注いだ。


「や、やりましたわねマリー! ウォーター・バレット!!」

「うわっ、魔法はずるい! アイク、ガウェインを前に出せ!!」

「おう! 任せろマリー!」


いつの間にか、スイカ割りは魔法と物理攻撃が入り乱れる大規模な水遊び(という名の戦争)へと発展していた。

 ディアナも最初は「はしたない」と顔を赤らめていたが、最終的には真紅の瞳をキラキラと輝かせ、スカートの裾が濡れるのも構わずに、本気で水魔法を連発して私やアイクを追い回していた。


笑い声が、青い空に吸い込まれていく。

 厳しい鍛錬と貴族としての重圧に縛られていた騎士学校の彼女にとって、こんなふうに地位も名誉も忘れて、ただの「十七歳の少女」として泥だらけになって笑い合える時間は、生まれて初めてのものだったのだ。


――そんな私たちの騒がしい光景を。

 別邸のバルコニーから、静かに見下ろしている視線があった。


「……エラルド様。また、あちらの騒がしい集団を目で追っておられるのですね」


エラルドの背後から、彼を取り囲むように談笑していた他校の令嬢の一人が、少しだけ棘のある声で口を開いた。

 この一週間、エラルドは合同演習の生徒会代表として、常に教官や高位貴族の生徒たちに囲まれ、完璧な「氷の貴公子」としての公務をこなしていた。私たちが泥だらけになって遊んでいる間も、彼は涼やかな顔で外交のテーブルに就いている。


「あのようなはしたない真似、ミリス魔法学園の品位を疑われますわ。ディアナ様も、なぜあのような平民がいる輪に混ざっておられるのか……」

「品位、ですか」


エラルドは、バルコニーの手すりに軽く寄りかかったまま、視線だけを波打ち際の私――ガウェインの盾を強引に奪い取って、ディアナの水魔法を弾き返して大笑いしている私――から外すことなく、静かに応えた。


「僕には、彼女たちが誰よりもこの修練島の自然から『生きる力』を学んでいるように見えますがね。それに……」


エラルドのサファイアの瞳の奥で、誰にも見えないほどの微かな、けれどひどく甘い煌めきが揺らめいた。


「あの無防備な笑顔は、飾られた宝石よりもずっと美しく、価値のあるものです。……少なくとも、僕にとっては」


その言葉は、潮風に溶けて誰の耳にも届かなかったが。

 彼の眼差しは、遠く離れていても、ただ一人、幼馴染の姿だけを、真っ直ぐに捉え続けていた。


* * *


そして、演習の最終日――七日目の夜。


王立修練島の全日程を無事に終えた生徒たちを労うため、海浜別邸の豪奢な大広間では、両校合同の盛大な『別れの晩餐会』が開かれていた。

 広間にはシャンデリアの眩い光が降り注ぎ、楽団が奏でる優雅なワルツの調べが空気を震わせている。

 着飾った魔法学園の令嬢たちと、正装の軍服に身を包んだ騎士学校の生徒たちが、グラスを片手に談笑を交わしていた。


「んん〜〜っ! この『海竜のホイル焼き』、最高に美味しい!! セドリック、こっちのローストビーフも取って!」

「マ、マリーさん、落ち着いてください。ドレスの胸元にソースが飛んでますよ!」


私は、ベアトリスさんが用意してくれた淡い水色のドレスを着ているというのに、大広間の隅のビュッフェコーナーに陣取り、両手いっぱいの皿を抱えて一心不乱に食べ続けていた。

 一週間のサバイバル演習で消費したカロリーを、ここぞとばかりに補充しなければならないのだ。


「まったく、最終日の夜会まで色気より食い気なんだから。……でもまあ、あんたらしいわね」


アイリスが、ワイングラス(中身はぶどうジュースだ)を片手に、呆れたように微笑む。

 その横では、アイクとガウェインが「王都に帰ったら、絶対うちの道場に来いよ!」「おう、受けて立つぜ!」と、すでに暑苦しい友情のハグを交わしていた。


喧騒と熱気に包まれた大広間。

 しかし、その中心にいるはずの真紅のドレス姿の少女――ディアナの姿だけが、私たちの輪の中にいなかった。


* * *


――同じ頃。

 大広間の熱気から逃れるように、ディアナは一人、海風の吹き込む薄暗いテラスへと抜け出していた。


手すりに寄りかかり、静かに波打つ暗い海を見つめる。

 背後のガラス戸の向こうからは、ワルツの音楽と、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。その中には、間違いなくマリーの「お肉美味しい!」という響くような声も混ざっているはずだ。


「……明日には、もう王都へ帰るのね」


ディアナは、手にしたグラスの縁を指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。

 胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような、奇妙な寂しさが広がっている。

 地位も名誉も忘れ、ただの少女として泥だらけになって笑い合った一週間。明日になれば、また「第一騎士団長の娘」としての、息の詰まるような厳しい日常が待っている。あの騒がしい「あぶれ者同盟」の輪の中に、自分が戻ることはもうないのだ。


(少しだけ……本当に、少しだけ、寂しいですわね)


ディアナが、ふっと自嘲気味に息を吐いた、その時だった。


「――お疲れ様、ディアナ嬢」


不意に。

 夜風に乗って、ふわりと落ち着くシダーウッドの香りが漂ってきた。

 振り返ったディアナは、カタン、と小さくグラスを揺らして息を呑んだ。


そこに立っていたのは、純白の夜会服を完璧に着こなしたエラルド・フォン・アルバーンだった。

 月光を背に受けて立つ彼の姿は、現実のものとは思えないほど、息を呑むほどに美しかった。夜の闇に溶けそうなほど透き通るプラチナブロンドの髪が海風に揺れ、星屑を閉じ込めたようなサファイアの瞳が、静かにディアナを見下ろしている。

 誰もがひれ伏す貴公子の、圧倒的で暴力的なまでの造形美。


「エ、エラルド様……っ!」


ディアナは慌てて居住まいを正し、深く頭を下げた。

 しかし、エラルドは「そんなに畏まらなくていいよ」と、どこまでも優しく、静かな声で告げた。


「君とゆっくり話す時間が、この一週間どうしても取れなくてね。少し、隣に座ってもいいかな」

「は、はい……もちろんですわ」


エラルドは、テラスに置かれた白い瀟洒なベンチに腰を下ろすと、ディアナにも座るように促した。

 ガラス戸の向こうの喧騒から切り離された、二人きりの静かな空間。ディアナの心臓が、緊張で早鐘のように打つ。

 エラルドは、夜の海へ視線を向けながら、涼やかで完璧な微笑みを崩すことなく口を開いた。


「王立騎士学校のトップであり、第一騎士団長のご息女。……君の弛まぬ努力の噂は、魔法学園の生徒会にまで届いていたよ」

「え……」

「ローゼンブルクの家柄に甘んじることなく、誰よりも長く、手のひらから血を流すまで泥だらけになって剣を振り続けている気高き令嬢がいると。……僕は今回の演習で、国を背負って立つその誇り高き騎士の姿を、僕自身の目で確かめてみたかったんだ」


エラルドの言葉に、ディアナの胸の奥が熱く震えた。

 誰にも見せず、一人で泣きながら木剣を振るい続けた孤独な日々。それを、他ならぬ彼が知っていてくれた。その姿を見るために、わざわざこのテラスへ足を運んでくれたのだ。


「そして……君のその気高さは、僕の想像以上だった」


エラルドが、ふっと視線をディアナに戻す。

 そのサファイアの瞳は、未来の国を背負う騎士に向ける、揺るぎない敬意と信頼の光を帯びていた。


「この一週間。……マリーたちと一緒に泥だらけになって笑ってくれて、本当にありがとう」

「エラルド、様……?」


突然の感謝の言葉に、ディアナが目を瞬かせる。

 エラルドは、ガラス戸の向こう――相変わらず料理の山と格闘しているマリーの姿を、呆れたような、けれど保護者のような温かい眼差しで見つめながら、ぽつりとこぼした。


「彼女は少し……いや、かなり不器用で、貴族の常識も持ち合わせていないから。学園では浮いてしまうことも多く、幼馴染としては、いつもハラハラさせられてばかりでね。……でも、この一週間、君と一緒にいる時の彼女は、いつにも増して楽しそうで、輝いていた」


エラルドの顔には、恋愛感情のような甘い隙は一ミリもない。

 そこにあるのは、「出来の悪い幼馴染を案じる、完璧な次期公爵」としての、非の打ち所のない慈愛の表情だった。


「身分の壁も、騎士としての体面もかなぐり捨てて、彼女を対等の友人として扱ってくれたこと……アルバーン家次期当主として、そして彼女の幼馴染として、心から感謝しているよ」


その言葉を聞いて。

 ディアナは、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような感覚を覚えた。


(ああ……なんて美しく、気高く、そして慈悲深い御方なのだろう)


ディアナは、エラルドのその横顔を見つめながら、小さく息を吐いた。

 貴族社会の頂点に立つ彼が、平民であるマリーをただの「腐れ縁」として見捨てることなく、ここまで深く案じ、見守っている。彼女の友人に、わざわざ頭を下げるほどに。

 それは、彼が次期公爵として、どれほど情に厚く、領民と身内を大切にする高潔な心の持ち主であるかの証明だった。


(だからこそ、わたくしは……この方の隣に立ちたい)


ディアナのルビーの瞳に、血の滲むような鍛錬で培ってきた、誇り高き『騎士』としての、そして『女』としての、燃え上がるような烈火の闘志が宿った。

 マリーは、魔法を無効化する最強の盾であり、大好きな自分の戦友だ。彼女がエラルドの大切な幼馴染であることは間違いない。

 ならば、自分はさらに己を磨き上げ、剣を振るい、誰よりも気高く美しい騎士になってみせる。

 いつか必ず、彼が「マリーを守るための右腕」として、あるいは「生涯を共にするパートナー」として、己を頼れる女だと認めさせるために。


「……頭を上げてくださいませ、エラルド様」


ディアナは、気高き騎士の微笑みを浮かべて立ち上がった。


「お礼を言うのは、わたくしの方ですわ。マリーのおかげで……わたくしは、本当の『強さ』と、そして大切な戦友を得ることができました。……彼女は、わたくしにとっても、かけがえのない大切な友人ですわ」

「……ディアナ嬢」

「それに!」


ディアナは、ツンと胸を張り、ルビーの瞳を爛々と輝かせて言い放った。


「わたくしはまだ、貴方の隣を完全に諦めたわけではありませんからね! 第一騎士団長の娘として、そしてマリー・トマスの最大のライバルとして、いつか必ず貴方を振り向かせてご覧に入れますわ!」

「え……」

「とりあえず、王都に帰ったらマリーに『串焼きの全種類制覇』を奢ってもらう約束をしていますの! あのような食いしん坊の相手をするのは、エラルド様一人では到底無理でしょうから、わたくしも精々保護者役をお付き合いして差し上げますわ!」


ディアナの力強く、誇りに満ちた、そして少し意地を張った宣言に。

 エラルドは一瞬驚いたように目を丸くし、それから、完璧な仮面の奥で堪えきれないように「ははっ!」と、年相応の爽やかな声を上げて笑い出した。


「……ああ、それは頼もしいな。ええ、ぜひ……僕と一緒に、彼女の底なしの胃袋を満たす手伝いをお願いするよ」


ガラス戸の向こうから、「あーっ! ディアナ、こんなところにいた! メロンのタルト、最後の一個取っておいたよ!」という、マリーの能天気な叫び声が聞こえてくる。

 ディアナは、エラルドに向かって、この一週間で一番美しく、優雅なカーテシー(淑女の礼)をして微笑んだ。

 そして、ガラス戸を開け、眩い光と騒がしい喧騒の中――自分の愛すべきライバルであり、最強の親友が待つ場所へと、迷いのない足取りで歩み出していった。

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