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新しい関係と不穏な学年末テスト

初夏の眩しい朝陽が、ミリス魔法学園の白亜の校舎をキラキラと照らし出している。

 どこからか聞こえてくる小鳥のさえずりや、風に揺れる新緑の葉擦れの音さえも、今日の私には、世界を祝福するファンファーレのように聞こえていた。


「おはよーっ! いい天気だね!!」


学園の正門をくぐり、私はすれ違う見知らぬ生徒たちにまで元気いっぱいに挨拶を振り撒きながら、羽が生えたような軽い足取りでスキップを踏んでいた。

 昨日の夜、あんなに死にそうになって大図書室の絨毯に倒れていたのが嘘のようだ。我ながら、自分の平民特有の野草のような回復力(と、特異点による異常な体力)には呆れるばかりだが、一晩ぐっすりと眠った私の身体からは、熱の気配など一ミリも残っていなかった。


いや、熱がないわけじゃない。

 私の胸の奥、第一ボタンまでしっかりと留めたブラウスに隠された首筋の『痕』のあたりは、今もポカポカと、春の陽だまりのような甘くて温かい熱を持ち続けている。

 それは高熱なんかじゃない。幸せの余熱だ。


(えへへ……っ。夢じゃ、なかったんだなぁ)


廊下を歩きながら、私は自分の両手でパシンッと頬を挟み、にやけそうになる口元を必死に抑え込んだ。

 でも駄目だ。今朝の出来事を思い返すだけで、顔面から火が出そうなくらい熱くなって、口角がだらしなく天井まで吊り上がってしまう。


――今朝、私が目を覚ましたのは、公爵邸にあるエラルドの寝室の、広くてふかふかな天蓋付きベッドの中だった。


『……ん、んん……』


朝陽が差し込む部屋でまぶたを開けると、視界いっぱいに、見慣れたサファイアの瞳と、プラチナブロンドのサラサラの髪が広がっていた。

 エラルドだ。彼は、昨夜私を抱きしめた体勢と一寸違わぬ姿で、私の顔を至近距離で見つめていた。その分厚い腕は私の腰にしっかりと回され、私がどこにも逃げられないように、甘く、重く拘束している。


『……おはよう、マリー。気分はどうだ?』


彼が、ひどく甘く掠れた声で囁いた。

 いつもの「起きろ、マリー。行儀が悪いぞ」という呆れた小言じゃない。それは、愛しい宝物を扱うような、とろけるように甘い響きだった。

 昨夜の恥ずかしい告白の記憶が蘇り、顔面が沸騰しそうになった私が、照れ隠しで『お腹すいた! 恋人になったんだから、これからは特大パフェ四分の三食べていいってことだよね!』とムードぶち壊しの要求を突きつけると。

 彼は張り詰めていた糸が切れたように笑い出し、私を『世界で一番尊い姫君』だなんて呼んで、もう一度、壊れ物を扱うように優しく、そして逃がさない強さで抱きしめてくれたのだ。


――だめだ。思い出しただけで、胃袋と心臓が同時にギュンギュン鳴ってしまう。


あの「他人行儀な壁」も、「絶対不可侵の誓い」も、全部粉々にぶち壊してやった。

 彼は私のことが好きで、私も彼のことが好き。

 私、マリー・トマスは、なんとあの学園一の完璧な次期公爵様と、両想いになってしまったのである!


「ふふっ……じゅるり……」


私は、教室の自分の席に着いてからも、頬杖をついて窓の外の青葉を眺めながら、不気味な笑みをこぼし続けていた。

 私の頭の中では、エラルドとの新しくて甘い生活の妄想が、ヨダレが出そうなフルスピードで展開されている。


(今日から、また大食堂で一緒にご飯を食べられるんだ! 今度は遠慮なくあいつの皿から特大のハンバーグを横取りしても、絶対に拒絶されないどころか『これも食べるかい?』って一番美味しいところを切り分けてくれるに違いない……!)


それだけじゃない。

 休日は、エラルドのお金(公爵家の財力)で、王都の屋台の『特大串焼き』を全種類制覇するデートだってできる。

 公爵邸の厨房にこっそり忍び込んで、ベアトリスさんが焼いてくれた焼き立ての木苺のジャムクッキーを二人でつまみ食いして、『口の周りに粉がついてるよ』なんて言いながらお互いにつまみ合うのだ。

 あと、大食堂の期間限定『超特大イチゴパフェ』! あれは一人じゃ食べきれないから諦めてたけど、これからはエラルドに半分食べてもらえば(いや、四分の一くらいでいいや)、夢のパフェ制覇だって夢じゃない!


(ああ……恋人同士って、なんて美味しい響きなの……っ!)


私は完全に食い気と恋心が渾然一体となった欲望の渦に飲み込まれ、机に突っ伏して自分の口元を両手で覆った。


* * *


「……ねえ、アイク」

「おう。なんだ、アイリス」


斜め後ろの席で、アイリスがこめかみを指で押さえながら、心底呆れたようなヒソヒソ声を上げた。


「マリーのやつ、ついに高熱で脳が溶けたのかしら。昨日の夜、公爵邸の大図書室で倒れたって聞いて心配してたのに、今朝ケロッとした顔で登校してきたと思ったら……さっきから壁の染みを見つめたまま、完全にヨダレ垂らしてるんだけど」

「ああ。あいつ、恋をして少しは乙女になるかと思ったら、妄想してる顔が『目の前の特大肉に飛びつく直前の猟犬』と全く同じじゃねえか」

「いや、あれは脳が溶けたっていうより……マリーなりの『春』が来た顔ね。ほっときなさい。どうせあの過保護な貴公子様に、何か美味しいものでも奢ってもらう約束でも取り付けたんでしょ。色気より食い気、あの子らしいわ」


背後で友人たちが何を言っていようと、今の私の耳にはそんな雑音すら心地よいBGMにすぎない。

 ああ、世界ってこんなに輝いていて、美味しそうだったんだ!


キィィン、コォォン……。


授業開始を告げる鐘が鳴り、教壇に白髭を蓄えた老教授が立った。

 今日の午前中の科目は『基礎魔術陣構築理論』。私が学園で一番苦手とし、入室三分で必ず睡魔に襲われるという悪魔の座学だ。

 老教授が、黒板にカリカリと複雑な魔法陣の数式を書き連ねていく。

 チョークの粉っぽさが鼻をかすめる。


(エラルド、今頃なにしてるかなぁ……。今日のお昼、購買の幻のメロンパン、一緒に買いに走ってくれないかなぁ……)


私は、ノートを開きもしないまま、羽ペンをくるくると回しながら、完全に魂を昼休みの購買部へと飛ばしていた。

 魔法陣の複雑な数式が、すべて串焼きのタレとメロンパンの編み目に見えてくる。

 ふふっ、私ってば、本当に彼(と食欲)に骨抜きにされちゃったんだな。


「――そこっ!! 何をニヤついているか!! トマス!!」


ビクンッ!!


突然、鼓膜を突き破るような老教授の怒鳴り声が教室に響き渡り、私の額のど真ん中に、凄まじいコントロールで放たれた白いチョークが『スパーンッ!』とクリーンヒットした。


「いっっっだぁっ!?」


私は椅子から飛び上がり、額を押さえながら涙目で教壇を睨んだ。


「な、なにするんですかクイットウィンク教授! 痛いじゃないですか!」

「痛いのはお前のその脳味噌のほうだ、トマス! ノートも開かずに、窓の外を見てだらしなくヨダレを拭いおって! そんなに今の私の講義が退屈か!」


クイットウィンク教授が、机をバンバンと叩きながら激怒している。

 教室中の生徒の視線が、一斉に私に突き刺さった。アイリスが「だから言ったのに……」と顔を覆い、アイクが机に突っ伏して肩を震わせて笑いをこらえているのが見える。


「い、いや、退屈っていうか……その、ちょっと人生の春と食欲の秋を同時に謳歌しておりまして……」

「春だの秋だの言っている場合か、この大馬鹿者が!!」


教授の雷が、さらに大きく落ちた。


「お前は自分の立場を忘れたのか! 来週から始まる『学年末試験』で、一つでも赤点を取れば、特待生の資格を剥奪されるのだぞ!!」


――ピキィッ。

 私の頭の中で、串焼きとメロンパンを持って飛び回っていた天使たちが、一瞬にして石化してポトリと落ちた。


「あ……」

「この『基礎魔術陣構築理論』は、平民のお前が最も苦手とする科目であろうが! 先週の小テストの点数も、目も当てられない悲惨なものだった! 昨夜図書室で倒れたと教授朝礼で聞いた時は少しは反省しているかと思ったが、このままでは退学確実だというのに、危機感というものがないのか!!」


老教授の容赦ない現実の弾丸が、浮かれポンチになっていた私の心臓を無惨に撃ち抜いていく。


「た、退学……」

「そうだ! 学園を去りたくなければ、今すぐその緩み切った顔を引き締め、黒板の数式を脳に刻み込め!! 立て、トマス! この第五層の術式展開の解を、今すぐここで答えてみろ!」

「えっ!? あ、ええと……だ、第五層は……気合で、ドカーンと……串刺しに……?」

「退学だーーーーっ!!!」


老教授の絶叫が、初夏の爽やかな教室に虚しくこだました。


* * *


「……やばい」


昼休み。

 私は、大食堂のいつもの席で、目の前に置かれた山盛りのシチューとハンバーグに一切手をつけることなく、頭を抱えて机に突っ伏していた。


「やっっっっっばい……!! 私、完全に忘れてた……!」


恋が実って串焼き食べ放題になった高揚感で、すべてがハッピーエンドになったと錯覚していた。

 でも、現実は何一つ終わっていない。

 私が昨日、公爵邸の大図書室で倒れたのは、テスト勉強の過労と呪いの反動が参っていたのもあるが、根本的な原因は「学年末試験の勉強がヤバすぎて無茶な徹夜をしたから」だったのだ。


恋が叶ったからといって、魔法陣の数式が頭に入るわけじゃない。

 エラルドと両想いになれたからといって、学園の成績が底上げされるわけじゃない。

 もし、私がこの学年末試験で赤点を取り、特待生の資格を失って退学になったら。


(学園を追い出されて、実家の薬局で留守番するだけの生活……!? そんなの、お昼に大食堂の限定メニューを食べられなくなるし、日中はみんなと会えなくて暇になっちゃうってことじゃん!!)


せっかく、彼との甘くて美味しい日々が始まろうとしているのに。あぶれ者同盟のみんなで、平和で、心労もひとっつもない明るい毎日を送れると思っているのに!

 一緒にご飯を食べたり、放課後に王都の屋台へダッシュしたりする夢のスクールライフが、試験の点数一つで、開始一秒でゲームオーバーになってしまう。


「あーあ。浮かれポンチの限界突破してたからな。自業自得だぜ、マリー。ほら、冷める前にそのハンバーグ寄越せ」

「だめっ! これだけは絶対に譲らない!!」

「マリーさん、このままでは本当にまずいですよ……。昨日の分まで、僕のノートを写してください!」


向かいの席でアイクが私のハンバーグをフォークで狙い、セドリックがオロオロしながら几帳面な字で書かれた分厚いノートを差し出してくれる。

 私は、アイクのフォークを牽制しつつセドリックのノートを受け取ると、その場にバンッと額を打ち付けた。


「わあああああんっ! せっかく両想いになったのに、なんでこんな試練が待ってんのよぉぉぉっ!! 神様の意地悪!!」

「自業自得よ、マリー」


隣で優雅に紅茶を飲んでいたアイリスが、氷のように冷たいツッコミを入れた。


「まあ、でも……。世界で一番優秀で、あなたにだけはどこまでも甘い『家庭教師』が、あなたにはついているじゃないの」


アイリスがティーカップをソーサーに置き、ふっと視線を私の背後へと向けた、その時だった。


鼓膜を揺らすほど騒がしかった大食堂の空気が、まるで魔法で時を止められたかのように、スッと不自然に静まり返った。

 直後、ざわざわと、波が押し寄せるようなひそひそ話の『どよめき』が空間を支配し始める。


「え? なに?」


私が顔を上げると、向かいの席のアイクとセドリックも、目を丸くして食堂の入り口付近を見つめていた。

 人垣が、まるでモーゼの海割れのように左右に開いていく。

 その中央を、優雅で隙のない足取りで、真っ直ぐにこちらへ向かって歩いてくる人物がいた。


――エラルドだ。


ミリス魔法学園の大食堂は、暗黙の了解で座るエリアが分かれている。高位貴族たちは静かで景色の良い奥の特等席で優雅に食事をとり、平民や変わり者が集まる私たち『3組』は、いつも入り口近くの騒がしい席に陣取っていた。

 だから、普段から生徒会の仕事で忙しいエラルドが大食堂に姿を見せること自体が珍しい上に、彼の方からこの『3組のエリア』へ自ら足を運んでくることなど、今まで一度たりともなかったのだ。


しかも、今日のエラルドは、何かが決定的に違った。

 『氷の貴公子』と呼ばれる彼が普段纏っている、人を寄せ付けない絶対零度の壁が、今日はない。

 窓から差し込む初夏の日差しを浴びたプラチナブロンドの髪はキラキラと輝き、サファイアの瞳は春の陽だまりのように柔らかく溶けている。どこか内側から発光しているような、周囲の令嬢たちが思わずため息を漏らすほどの、圧倒的に爽やかで『幸福感』に満ちたオーラを放っていた。


『……嘘、エラルド様があんなに柔らかいお顔で笑っていらっしゃるなんて……』

『でも、どうしてこちらへ? ミーシア様とのご婚約の噂が立ったばかりですのに……』

『ええ、あちらの席には特待生の……』


周囲の令嬢たちの戸惑いと好奇のひそひそ話が、私の耳にもはっきりと届く。

 そういえばそうだ。学園中には「エラルドとミーシア様が婚約する」という噂が絶賛出回っている真っ最中なのだ。それなのに、当の本人がまるで花畑でも背負っているかのようなキラキラオーラ全開で、一直線に平民の私の元へ向かってきていた。


ざわめきが最高潮に達する中。

 私の背後で立ち止まったエラルドから、ふわりとシダーウッドの香りが漂った。


コテンッ、と。

 私の頭の上に、軽く丸められた羊皮紙が落とされる。


「――ずいぶんと騒がしいね、マリー」


振り返ると、そこには、いつもの完璧な制服を身に纏ったエラルドが立っていた。


「エ、エラルド……! なんでここに……!?」

「教授から、君の絶望的な小テストの成績表を見せられてね。……熱が下がって元気になったのは嬉しいけれど、この点数を見たら、少し心配になってしまったよ」


彼は、困ったように眉尻を下げて、ふわりと優しく微笑んだ。

 それは、周囲の貴族たちが見ている爽やかで完璧な学園の王子様としての、非の打ち所のない気遣いの笑顔だった。

 生徒会役員として、そして幼馴染として、退学の危機にある不出来な特待生を放っておけずに忠告に来た――という、誰の目にも自然で、慈愛に満ちた公的な振る舞い。


『ああ、やはりエラルド様はお優しい……』

『あんな落ちこぼれの平民にも、わざわざ忠告にいらっしゃるなんて』


周囲の令嬢たちが、彼のその完璧な王子様スマイルに安堵の溜息をつき、頬を染めている。

 その反応に満足したのか、隣に座っていたアイリスが「……やれやれ、相変わらず食えない男ね」と小さく呟き、気を利かせてスッと席を一つ分横へずれた。

 エラルドは「ありがとう、アイリス嬢」と優雅に会釈をすると、空いた私のすぐ隣の席に、ごく自然に腰を下ろした。


「うっ……ごめんなさい。でも、私だっていろいろあって……その、あんたのせいでもあるんだからね!」

「僕のせい?」


エラルドが小首を傾げ、至近距離で私の顔を覗き込んできた。

 爽やかな笑顔のまま、彼の顔がスッと近づき、シダーウッドの香りがフワッと鼻をかすめる。


「君が赤点ギリギリなのは、今に始まったことじゃないだろう? ……でも、退学にさせるわけにはいかないな。君が学園にいなくなったら、僕が困る。一緒にお昼を食べられなくなるからね」


声のトーンは、あくまで周囲の喧騒に溶け込むような、穏やかなものだった。

 しかし。


――ギュッ。


「ひゃっ!?」


テーブルクロスの下。

 誰の目にも見えない死角で、エラルドの大きくて熱い手が、私の左手を強引に捕まえたのだ。

 剣ダコのある骨ばった指が、私の指の間をするりと滑り込み、一ミリの隙間も許さないほどの強い力で、恋人繋ぎに固く絡め取られる。


表向きは、周囲の令嬢たちに向けて『爽やかな王子様の微笑み』を完璧にキープしたまま。

 テーブルの下では、私の手がちぎれるんじゃないかと思うほどの、重くて熱い拘束。


「エ、エラル、ど……っ」


顔面から一気に火を噴きそうになる私に、エラルドは少しだけ身体を傾け、私の耳元にだけ届くような、ひどく低くて甘い声で囁いた。


「……今日の放課後から、またビッチリ教えるから覚悟しておきなさい。君が寝落ちしても、もう絶対に手加減はしないからね」

「あ……う……っ」

「その代わり。無事に赤点を回避できたら……王都の屋台を端から全部買い占めて、君のお腹がはち切れるまで、食べさせてあげるよ。……だから、絶対に僕のそばから離れないで」


その、甘やかな悪魔の囁きと、テーブルの下で私の指を親指で撫であげる感触に、私の脳髄は完全にショートした。


周囲には「真面目に勉強を教え諭す優しい王子様」にしか見えていない。


「ほ、本当っ!? やったぁ!! 私、死ぬ気で頑張る!!」


私は、テーブルの下で彼に手を握られっぱなしの状態で、顔を茹でダコのように真っ赤にしながら、残った右手だけを高く突き上げた。


「ああ、期待しているよ」


エラルドは、私にだけ分かるように、サファイアの瞳の奥をちらりと瞬かせ、再び完璧な微笑みを作った。

 向かいの席では、アイクが「マリーのやつ、屋台の買い占めって単語で完全に釣られやがったな」と呆れて笑い、セドリックが「とりあえず、僕のノートは置いておきますね」と苦笑している。アイリスだけは、テーブルの下の私たちの繋がれた手に気づいているのか、口元を扇子で隠して面白そうに目を細めていた。


せっかく始まった、甘くて美味しい新しい日々。

 恋の余韻に浸る間もなく私を待ち受けていたのは、退学の危機という容赦ない現実だったが。

 表向きは完璧な氷の貴公子、中身は過保護で甘く(そしてちょっと重い)なった幼馴染が、最強の味方として隣にいてくれる。


食い気と、隠しきれない恋心を燃料にして。

 私の前途多難で騒がしい学園生活は、まだまだ全力で駆け抜けていくのだった。


* * *


初夏の日差しが、日に日にその熱を増していく王都。

 ミリス魔法学園の生徒たちにとって、この季節は爽やかな青春の1ページなどではなく、迫り来る『学年末試験』という名の死神の足音に怯える地獄の期間である。学年末試験が無事に終われば学年が終わり、夏季休暇の後、秋からの新学期で一つ上の学年へ進むことができる。


特に、赤点=即退学という首輪をはめられた特待生の私にとっては、文字通り人生(と胃袋)を賭けた大一番だった。


「――よって、第二紀における魔力革命は、貴族社会の構造そのものを変革させたのである。……おいトマス、そこ! 何を下を向いてゴソゴソやっている!」


ビクンッ!!


午前の魔法史の授業中。教壇からの鋭い指摘に、私は机の下に隠していた分厚い『魔法薬学』の単語帳を、目にも留まらぬ速さで教科書の下に滑り込ませた。


「な、なんでもありません! 先生の素晴らしい講義をノートに刻み込んでおりました!」

「嘘をつけ! お前のノートはさっきから一文字も増えておらん! 授業中の内職など言語道断だぞ!」


チョークの破片が飛んでくるのを間一髪で躱しつつ、私は「すみませーん!」と平謝りした。

 授業中に別の教科の勉強をするなんて、優等生のエラルドが見たら呆れて溜息をつくような愚行だ。だが、背に腹は代えられない。

 私の頭の中には今、『赤点=退学=エラルドとの学園生活終了=屋台の串焼き買い占めデート消滅』という、恐るべき絶対方程式が鎮座している。授業の進度に悠長に合わせてなどいられないのだ。

 私はサリバン教授が黒板を向いた隙に、再び素早く単語帳を広げた。


(ええと、マンドラゴラの根と、炎トカゲの尻尾を調合すると……魔力増強薬。……だめだ、全然覚えられない。炎トカゲの尻尾を『極上霜降り肉』に置き換えて、マンドラゴラを『秘伝のスパイス』とすれば……おおっ、なんか一気に美味そうになって脳に定着してきたぞ!)


私の脳内では、複雑な魔法薬学の調合レシピが、次々と王都の絶品グルメレシピへと変換されていた。食い気という最強のブースターを全開にして、私は己の限界を突破しようと必死にもがいていた。


* * *


キィィン、コォォン……。


昼休みの鐘が鳴るや否や、私は購買部で買った特大の焼きそばパンとメロンパンを両脇に抱え、旧校舎の奥にある『秘密基地』へと猛ダッシュした。

 埃っぽい談話室の扉を開けると、すでにいつもの面々が長テーブルに陣取り、勉強会を始めていた。


「遅いぞマリー! 早くこの基礎魔術陣のプリント終わらせろ! 飯食いながらでいいから!」

「わ、分かってるよ! 今やるから! もぐもぐ……!」


私は椅子に飛び乗るなり、右手に羽ペン、左手に焼きそばパンという二刀流の構えをとった。

 向かいの席では、アイクが頭を掻きむしりながら数式と格闘し、セドリックが教師さながらの流暢さで解説を加えている。


「ですからアイク君、ここの魔力パスはA地点からB地点へ、第三層を経由して流れるんです。直線で繋いだら術式がショートしますよ!」

「ああもうっ、なんで魔法ってのはこうも回りくどいんだよ! 気合で一直線にドーンじゃ駄目なのか!?」

「それはマリーさんの特異点の物理攻撃です! 一緒にしないでください!」

「セドリック、その第五層のパスの移動なんだけどさ」


私は口の周りにソースをつけながら、身を乗り出した。


「これって、巨大な串焼きのタレが、一番上の玉ねぎから豚バラの層を経由して、一番下のお肉まで染み込んでいくのと同じ原理だよね!?」

「…………はい?」


セドリックの丸眼鏡が、ズレて鼻の頭に落ちた。

 隣で優雅にサンドイッチをかじっていたアイリスが、氷のように冷たい視線を私に向ける。


「あなたねぇ……神聖な魔術理論を、油まみれの串焼き理論にすり替えないでちょうだい。第一、玉ねぎから豚バラって何よ」

「だってそう考えた方がめっちゃ分かりやすいんだもん! 魔力(肉汁)が上から下に流れて、最後に結界(美味い)になるんでしょ!?」

「お、おいセドリック……今のマリーの串焼き理論、妙に納得できるんだが……俺もそれで覚えりゃいいのか?」

「アイク君まで馬鹿にならないでください!! 串焼きのタレで結界は張れません!!」


初夏の生温かい風が吹き込む秘密基地は、私たちの怒号と笑い声、そして焦りと熱気でむせ返るようだった。

 退学の危機というギリギリの綱渡り。でも、不思議と悲壮感はない。こうして仲間たちと机を囲み、文句を言い合いながら同じ壁を乗り越えようとするこの騒がしい時間が、私はどうしようもなく好きだった。


* * *


そして、放課後。

 学園での騒がしい勉強会を終えた私は、休む間もなくアルバーン公爵邸の『大図書室』へと場所を移す。

 ここからは、本日のメインイベント――氷の貴公子による、マンツーマンの地獄のスパルタ指導の時間だ。


「……マリー。ペンが止まっているよ。その公式は、昨日も間違えたはずだ」


隣に座るエラルドから、容赦のない低い声が降ってきた。

 西日が差し込む大図書室。重厚なマホガニーの机には、私の弱点だけを的確にまとめた(彼の手書きの)恐ろしい分量の対策プリントが山積みにされている。


「うぅっ……だって、似たような記号ばっかりでゲシュタルト崩壊してきたんだもん……」

「言い訳は聞かないよ。ほら、もう一度ここから計算し直しだ」


エラルドは、私の手元にあるプリントを指先でコンコンと叩いた。

 大食堂で見せたような、周囲を欺く爽やかな王子様の笑顔はここにはない。二人きりのこの空間で彼が見せるのは、昔から変わらない世話焼きで、でも厳しい顔だ。

 彼が私のために本気で怒ってくれる。手加減なしで向き合ってくれる。それが嬉しくて、私は重い瞼を必死にこじ開けて数式に喰らいついた。


「よし、解けた! 答えは『七十三』でしょ!」


私がババンッと羽ペンを置くと、エラルドはプリントに視線を落とし、ほんの数秒で確認を終えた。


「……うん。正解だ。よく頑張ったね、マリー」


その瞬間。

 厳しかった彼のサファイアの瞳が、春の雪解けのようにふわりと甘く細められた。


「はい、ご褒美」

「あむっ!」


私の口の中に、彼の手によって直接、甘くて冷たい何かが放り込まれた。

 ベアトリスさんが差し入れしてくれた、特製の『冷やしフルーツタルト』の一口サイズだ。

 サクサクの生地と、カスタードクリームの濃厚な甘さ、そして新鮮な苺の酸味が、疲労しきった脳細胞に染み渡っていく。


「ん〜っ!! 美味しい〜っ!!」

「ふふっ。本当に君は、美味しいものを食べている時が一番良い顔をするね」


私が両頬を押さえて身悶えしていると、エラルドが私の髪をクシャッと優しく撫でた。

 その手つきには、昨日まで私を避けていた頃の躊躇いは微塵もない。彼自身の「触れない」という枷が外れたことで、エラルドの隠れ過保護とスキンシップは、以前の幼馴染時代よりもはるかに濃密で甘いものに進化していた。


「さあ、この調子で次の魔法歴史の年号も暗記してしまおう。あと三ページ終わったら、今度は僕がとっておきの紅茶を淹れてあげるからね」

「うおおおおっ! やる! 私、歴史の年号全部丸飲みしてやるぅ!」


鬼のようなスパルタ教育と、極上の餌(ご褒美)による激甘の飴と鞭。

 エラルドの手のひらの上で完全に転がされている自覚はあるが、甘いタルトと彼からの優しい撫で撫でを前にしては、私の単純な脳味噌などひとたまりもなかった。


* * *


夜。

 公爵邸での特訓を終え、私は実家の『トマス薬局』へと帰還した。


カランカラン、と入り口のベルを鳴らして店に入ると、薬草を煮詰める独特のほろ苦い匂いと、奥の厨房から漂ってくる夕食のシチューの暴力的なほど良い匂いが、私の全身を包み込んだ。

 「ただいまー!」と声をかけながら居間に入ると、父のトマスがカウンターで薬草のすり鉢をゴリゴリと回し、母のマーサがエプロン姿でシチューの鍋をかき混ぜていた。


「おお、おかえりマリー。随分と遅かったな」

「ただいまお父さん。エラルドに勉強見てもらってたの。……あーあ、頭から煙が出そう」


私は居間の大きな木製テーブルにカバンを放り出し、どっこいしょと椅子に座り込んだ。

 我が家は公爵邸のような豪華さはないが、使い込まれた家具と、天井から吊るされた無数のドライハーブが、どこよりも安心する温かい空間を作り出している。


「はいはい、お疲れ様。今夜は特別に、マリーの大好きな厚切り豚肉の赤ワイン煮込みよ。それと、夜食用のハニーチーズマフィンも焼いておいたから、後で食べなさいね」

「お母さん神様!! 豚肉! マフィン!!」


母さんの言葉に、私のHPは一瞬にして全回復した。

 夕食を光の速さで平らげた私は、そのまま居間のテーブルに教科書を広げ、本日の復習(延長戦)に突入した。


「うーん……ここの、治癒魔法陣の応用展開……どうしても魔力干渉が計算合わないんだよね……」


私が羽ペンの後ろをガシガシと噛みながら唸っていると。

 すり鉢を洗っていた父さんが、ひょいと私の背後からノートを覗き込んできた。


「なんだ、そんなところで詰まってるのか。マリー、魔力干渉なんて難しく考えるから駄目なんだ」

「え?」

「要は、薬草の調合と同じさ。苦味の強い薬草に、そのまま別の強い薬草をぶつけたら反発して毒になるだろ? だから、間に甘味のある中和剤バッファを挟んでやる。この数式で言えば、第三層の逆位相をここに一つ噛ませるだけで、全部のパスが綺麗に流れるぞ」


父さんが、私の手から羽ペンをひょいと取り、ノートの余白にサラサラと魔法陣の補助線を書き足した。

 すると、さっきまでどれだけ計算してもショートしていた術式が、まるでパズルの最後のピースがはまったように、完璧な調和を見せて完成したのだ。


「ええっ!? なにこれ、すごい! お父さん天才!?」

「はっはっは、伊達に王宮の研究所からスカウトされてないからな。昔、エラルド坊ちゃんにも同じように教えたら、一瞬で理解して自分のものにしやがったが……お前はマーサ似で食い気ばかりだから、薬草や料理に例えないと分からんのだろ」

「お父さん、マリーを馬鹿にしないでちょうだい。この子はね、食べ物のためなら火事場の馬鹿力を出すのよ」


母さんが笑いながら、熱々のハニーチーズマフィンと、湯気を立てるハーブティーを私の机の脇に置いてくれた。

 とろけるチーズと蜂蜜の甘じょっぱい匂いが、鼻腔をくすぐる。


「……うんっ! 私、絶対に赤点回避して、エラルドと屋台買い占めデートするんだから!!」

「デート? おやおや、あの坊ちゃんとついにそんな関係になったのかい?」

「えっ!? あ、いや、その、これはただの食べ歩き同盟っていうか……っ!」


両親のニヤニヤとした視線に顔を真っ赤にしながら、私はマフィンに大きな口でかじりついた。


仲間たちと笑い合い、怒号を飛ばし合った学園での秘密基地。

 エラルドの甘くて厳しい、私だけの特別な大図書室。

 そして、両親の温かい匂いと美味しいご飯に包まれた、この薬局の居間。


退学の危機というプレッシャーは凄まじいけれど、今の私には、そのすべてをはね除けるだけの圧倒的なエネルギー(とカロリー)が満ち溢れている。

 初夏の夜風が、開け放たれた窓から吹き込み、机の上のプリントをパラパラと捲っていく。

 泣いて、もがいて、恋を知って、大飯を食らう。私の騒がしくて愛おしい学年末試験に向けた怒涛の日々は、こうしてエネルギッシュに、そして確実に、運命の試験当日へと突き進んでいくのだった。

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