マリーの知恵熱 通い合う心
バンッ!!
大図書室の重厚な扉が、爆発したかのような勢いで蹴り開けられた。
エラルドは、風のような速度で室内に飛び込んだ。彼のサファイアの瞳が、薄暗い魔力灯の光の中、散乱した書物の海と――その中心の絨毯に倒れ伏している、茶髪の少女を捉えた瞬間。
「マリー……ッ!」
エラルドの喉から、今まで誰にも聞かせたことのないような、悲鳴に近い掠れた声が引き剥がされた。
彼は床に膝をつき、倒れている彼女の小さな身体を抱き起こした。
「……っ、熱い」
彼女の身体に触れた瞬間、エラルドは思わず息を呑んだ。
まるで火のついた暖炉の炭を抱え込んだかのような、尋常ではない高熱。彼女の肌は汗でびっしょりと濡れ、荒い呼吸を繰り返すたびに、苦しげな小さな呻き声が漏れている。
「エラルド様、マリーお嬢様のご実家に……!」
「駄目だ。トマス夫妻は今日から三日間、隣領へ希少薬草の買い付けに出ていて不在だ。薬局には誰もいない」
背後で血相を変えているベアトリスに、エラルドは短く、氷のように張り詰めた声で告げた。
そうだ。だからマリーは、家に帰らず、一人でこの公爵邸の図書室にこもって限界まで無理をしていたのだ。頼る家族がいない夜に、一番頼りたいはずの幼馴染である自分から徹底的に拒絶され、彼女は逃げ場を失い、一人で倒れるまで身を削っていた。
(……僕が、彼女をここまで追い詰めた)
自らが築き上げた「絶対不可侵」という名の自虐的な壁が、彼女の命すら脅かしているという事実が、エラルドの心臓を鋭い刃で滅多刺しにする。
しかし、今は己の罪を呪っている場合ではない。
「ベアトリス、氷水とタオル、それに一番強い解熱の煎じ薬を僕の寝室へ運んでくれ。急げ!」
「かしこまりました!」
エラルドは、熱でぐったりとしているマリーを腕に抱き上げた。
二度と触れないと誓った。彼女の純潔を脅かしたこの汚れた手で、彼女に触れる資格などないと。
だが、今の彼に迷いはなかった。彼女を失う恐怖に比べれば、自分の誓いなど路傍の石以下の価値しかなかった。
「……マリー、しっかりしろ。マリー!」
エラルドは、彼女を抱き抱えたまま、自身の寝室へと全速力で廊下を駆け抜けた。
* * *
天蓋付きの広いベッドにマリーを寝かせ、エラルドは震える手で治癒魔法と冷却魔法を編み込もうとした。
しかし。
「……くそっ、弾かれる……!」
エラルドの手から放たれた青白い魔力の光は、マリーの肌に触れた瞬間、パチンッ! と弾けて霧散してしまった。
『特異点』。いかなる魔法をも粉砕する、彼女の特異体質。
普段なら絶対の盾となるその力が、今夜ばかりは最悪の障壁となっていた。エラルドの規格外の魔力をもってしても、彼女の身体に直接干渉して熱を下げることはできないのだ。
「仕方ない……物理的に冷やすしかない」
エラルドは、ベアトリスが運んできた氷水にタオルを浸し、固く絞ってマリーの額に乗せた。
さらに、彼女の首筋、脇の下、足の付け根といった太い血管が通る場所を、冷やしたタオルで何度も何度も丁寧に拭っていく。
魔法に頼れない以上、彼自身の「手」で、つきっきりで看病するしかなかった。
汗で額に張り付いたプラチナブロンドの髪を優しく梳き、荒い息を繰り返す彼女の唇を、水を含ませた布で潤す。
(……ごめん。ごめん、マリー)
看病をしながら、何度も謝る。
自分が彼女を避けたから。彼女を怯えさせ、傷つけたくないというエゴで、彼女を孤独な暗闇に突き落としたから。
「……んん……っ」
どれほどの時間が経っただろうか。
窓の外が深い夜の闇に包まれた頃、マリーの閉じていたまぶたが、微かに震え、ゆっくりと持ち上がった。
「……マリー? 気がついたかい!?」
エラルドが身を乗り出し、彼女の小さな手を両手で包み込んだ。
マリーの瑠璃色の瞳は、高熱で潤み、焦点が定まっていない。彼女はぼんやりと天井を見つめ、やがて、自分の手を握りしめているエラルドの顔へと視線を移した。
「……えらる、ど……?」
カスカスに掠れた、ひどく弱々しい声。
エラルドの胸がギリッと締め付けられる。
「ああ、僕だ。大図書室で倒れていたんだよ。熱が高い……痛いところはないか? 水は飲めそうかい?」
エラルドが、これ以上ないほど優しく、けれどこれ以上彼女を怯えさせないように、感情を殺した穏やかな声で問いかける。
だが、マリーは水を飲むどころか、潤んだ瞳からポロリと一粒の涙をこぼした。
「……ゆめ、だ」
「え……?」
「だって、エラルド……もう、私に触らないって……私のこと、避けてたもん。こんなに、優しく手ぇ握ってくれるの……夢に決まってる」
熱で理性が溶け落ちているマリーの口からこぼれたのは、飾ることも隠すこともできない、彼女の最も無防備な本音だった。
「違う、夢じゃない。僕はここにいる。君を、もう独りになんて……」
「……行かないで」
マリーが、エラルドに握られていない方の手を力なく伸ばし、彼が着ているシャツの胸元を、ギュッと、小さな子供のように強く握りしめた。
「エラルド……お願い、行かないで……ミーシア様のところ、行かないでよ……っ」
「……なっ!?」
エラルドは、息を呑み、完全に硬直した。
ミーシア? なぜここで、彼女の名前が出る?
「私、やだ……っ。あんたが、ミーシア様と……夫婦に、なるなんて……あの時みたいに、ミーシア様に触れるのなんて……絶対に、いやだぁっ……」
マリーの目から、堰を切ったようにボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
高熱で呼吸が苦しいはずなのに、彼女はエラルドのシャツを握る手を絶対に離そうとせず、嗚咽を漏らしながら言葉を絞り出す。
「私じゃ、駄目なの……? 平民だから? 魔法が使えないから? だから、図書室でミーシア様と……二人で、あんなに楽しそうに……っ」
「マリー、待ってくれ。何を言っているんだ。僕がミーシアと婚約するなど――」
「噂、聞いたもん……! 魔法祭の夜に、二人でファーストダンス踊って、婚約発表するって……っ」
エラルドの頭の中で、バラバラだったピースが、雷に打たれたように一瞬で繋がり、一つの残酷な真実を組み上げた。
彼女が、血走った目で狂ったように勉強をしていた理由。
彼女が、僕の姿を見るたびに顔を真っ赤にして逃げ出していた理由。
それは、僕への「恐怖」や「トラウマ」などではなかった。
「……私、あの時のこと……全然、怖くなかったよ」
マリーが、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、熱を帯びた瑠璃色の瞳でエラルドを真っ直ぐに見つめた。
「あんたが近づくと、身体がおかしくなって……胸が痛くて、苦しくて、逃げたくなったのは……あんたが怖いからじゃ、ない」
彼女は、しゃくり上げながら、自分自身の最も柔らかくて痛い部分を、不器用に、彼に向かって剥き出しにした。
「……あんたが、他の女の人のものになっちゃうのが、怖かったの。……私を、もう一人の女の人として見てくれないのが、怖かったの」
「マ、リー……」
「家族なんて、嘘。……私、エラルドのことが、好き……っ。幼馴染としてじゃなくて……あんたのたった一人の女になりたいくらい、あんたのことが、どうしようもなく好きなの……!!」
――ドォォォンッ、と。
エラルドの心臓が、破裂するほどの音を立てて打ち鳴らされた。
世界が、反転した。
彼がどれほど願っても、絶対に手に入らないと絶望していたもの。彼女が自分に向ける感情は、庇護を求める幼馴染としての家族愛だけだと、そう自分に呪いをかけて、彼女の未来を汚さないために身を引いた。
なのに。彼女は今、熱に浮かされながら、僕と同じ地獄に落ちて、僕を求めて泣いている。
「……っ、あァ……っ!」
エラルドの喉から、歓喜の嗚咽が漏れかけた。彼はすがりつくようにマリーの肩に手を伸ばしかけ――だが、その指先が彼女の肌に触れる寸前で、ビクッと凍りついたように止まった。
「エラ、ルド……?」
エラルドは、弾かれたようにベッドから一歩、後ずさった。
彼のサファイアの瞳に浮かんでいたのは、歓喜を無理やり押さえ込んだ、血を吐くような凄絶な『罪悪感』だった。
「……駄目だ。駄目なんだ、マリー」
「え……?」
「君が僕を愛してくれても……僕には、君に触れる資格がない。あの日、僕は君を恐怖で泣き叫ばせ、力ずくで傷つけた……っ。君の純粋な想いに応えるには、僕はあまりにも汚れすぎている。最低な男なんだ……!」
自らの罪に苛まれ、顔を両手で覆って絶望に沈み込もうとするエラルド。
その、あまりにも卑屈でめんどくさい姿を見た瞬間。
マリーの胸の中で、熱の苦しさや悲しみをすべて吹き飛ばすほどの、持ち前の『図太い反骨心』が爆発した。
「……っ、この、わからずや……っ!」
マリーは、熱でふらつく身体を無理やり起こし、ベッドから身を乗り出した。
そして、両手で顔を覆うエラルドの胸ぐらを、力任せにガシッと掴み、自分の顔のすぐ目の前まで強引に引きずり込んだ。
「わっ……マリー!? 駄目だ、寝ていないと……!」
「私がいいって言ってんでしょ!!」
公爵邸の寝室に、熱病の患者とは思えないほどの、マリーの怒号が響き渡った。
「私を傷つけたって、一生ウジウジ後悔する気なら……私の傍で、一生かけて私を幸せにして償いなさいよ! 勝手に逃げんな、大馬鹿野郎!!」
至近距離で叩きつけられた、理屈も何もない、ただの我儘で強引な魂の叫び。
エラルドは、目を丸くしてマリーを見つめた。
涙と汗でぐしゃぐしゃの顔で、ゼァゼァと肩で息をしながら、絶対に自分を逃がすまいと胸ぐらを握りしめる彼女の、太陽のように眩しい生命力。
この圧倒的な光の前では、自分の卑屈な罪悪感など、ちっぽけな塵芥と同じだった。
「……っ、ふ、はは……っ」
エラルドの口から、乾いた笑いが漏れた。それは次第に、憑き物が落ちたような、心底安堵した穏やかな笑い声へと変わっていく。
「……君には、本当に敵わない。完敗だ」
エラルドの目から溢れ出した大粒の涙が、マリーの熱い頬にポタポタと落ちる。
彼は、今度こそ一切の躊躇を捨てて、マリーの小さな身体を、その長い両腕で掻き抱いた。
「もう二度と、君の手を離さない。君が嫌だと言っても、一生君の傍に居座って、骨の髄まで甘やかして償わせてもらうよ」
エラルドの低く、熱を帯びた声が、マリーの耳元に直接注ぎ込まれる。
彼は、マリーの首筋に顔を埋め、その肌に刻まれた、今はない彼自身がつけた痕があった場所に、縋るように深く唇を押し当てた。
「ひゃっ……あ……」
「愛しているよ、マリー。狂おしいほどに」
その言葉を聞いた瞬間。
マリーの瑠璃色の瞳から、張り詰めていたすべての糸が切れたように、安堵の涙がとめどなく溢れ出した。
「……ん……私も……エラルドの匂い、好き……」
熱で朦朧とする意識の中。
マリーは、エラルドの首に両腕を回し、まるで自分の居場所を確かめるように、彼にしがみついて目を閉じた。
エラルドは、彼女の背中を優しく撫でながら、彼女の規則正しい寝息が聞こえるまで、一晩中、その愛しい身体を腕の中に抱き締め続けていた。
* * *
小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む眩しい初夏の朝陽で、マリーはゆっくりと目を覚ました。
身体を覆っていた鉛のような重だるさは消え去り、視界も驚くほどクリアになっている。十分な睡眠とエラルドのつきっきりの看病によって、限界を超えていた体力も、呪いの熱も、すっかり引き払っていた。
「……朝、か……」
マリーは、自分が寝かされているのが最高級のシルクで設えられたふかふかのベッドであること、そして――自分の身体が、背中からすっぽりと、大きくて熱い体温に包み込まれていることに気がついた。
まぶたを開ける。
すると、視界いっぱいに、見慣れたサファイアの瞳とプラチナブロンドの髪が広がっていた。
エラルドだ。彼は、昨夜私を抱きしめた体勢と一寸違わぬ姿で、私の顔を至近距離で見つめていた。
「……おはよう、マリー。気分はどうだ? どこか、痛むところはないかい?」
彼が、ひどく甘く、掠れた声で囁く。
しかし、私をしっかりと腕の中に閉じ込めているというのに、彼が私の額に触れるその長い指先は、まるでひび割れたガラス細工でも扱うかのように、どこかおずおずとしていた。頬に触れるその手が、微かに震えているのが分かる。
熱に浮かされて両想いになったとはいえ、彼の中にある「自分は彼女を傷つけた最低な男だ」という凄絶な罪悪感は、一夜明けて完全に消え去ったわけではない。「本当に、僕の手で彼女に触れてもいいのだろうか」という臆病なためらいが、そのサファイアの瞳の奥で揺らいでいるのだ。
一方の、私はといえば。
(ち、近い近い近いっ!!)
図書室で倒れたこと。彼が泣きそうな顔で看病してくれたこと。
そして。熱に浮かされて、自分から「好きだ」「たった一人の女になりたい」と号泣しながら告白してしまったこと。
「〜〜〜〜〜〜ッ!?」
昨夜の記憶が鮮明に蘇り、ボンッ!! と顔面から火が出るような音がした。
熱も下がったというのに、顔面から耳の先までが茹でダコのように真っ赤に染まる。
(い、言っちゃった……! 私、とんでもないこと言っちゃった……っ!)
心臓が、肋骨を突き破りそうなほどの勢いで早鐘を打っている。
両想いになった。それはつまり、自分とエラルドが『恋人』になったということだ。
今までみたいに「幼馴染だから」という言い訳で頭を撫でてもらうのとは次元が違う。エラルドの、たった一人の特別な女の子になってしまったのだ。
(ど、どうしよう……どんな顔して、あいつと話せば……っ)
かつてない強烈な恥ずかしさと、未知の関係性に対するドギマギ感。
その上、目の前の彼は「僕なんかが触れてごめん」とでも言いたげな、庇護欲をそそるような、それでいて重すぎる熱烈な愛情を向けてきている。
この甘すぎる空気に、これ以上耐えられない。
マリーの野生の防衛本能(思考回路)は、彼女がこの世で最も安心できる、ブレない絶対的な欲望へと猛スピードで急旋回した。
――ぐきゅるるるるるっ!
ロマンチックで、少しだけ張り詰めていた寝室の空気を、特大の腹の虫の音が木っ端微塵に粉砕した。
「……え?」
エラルドの指先が、私の額の上でピタリと止まった。
「エ、エラルド! 私、お腹すいた!!」
私は顔を真っ赤にしたまま、彼の腕の中からガバッと身を乗り出し、食い気全開の瑠璃色の瞳をキラキラと輝かせて至近距離で詰め寄った。
「三日もまともにご飯食べてないんだよ!? というか、私たち恋人になったんだよね!?」
「あ、ああ……そう、だが」
「だったら! これからは堂々と、王都で一番高い特大パフェを半分こ……いや、私が四分の三食べてもいいってことだよね! 次の星夏祭の屋台だって、エラルドの奢りで全制覇できるんだよね!!」
照れ隠しからくる、ロマンチックな余韻も何もない、あまりにも『いつも通りすぎる』図太い要求。
エラルドは、至近距離でパフェと屋台について熱弁する私を見て、数秒間パチパチと瞬きを繰り返し――やがて、張り詰めていた糸がふっと切れたように、肩を震わせて吹き出した。
「ふ、ははははっ! ああ……君は本当に、何も変わらないな」
エラルドの目元から、先ほどまでの臆病な緊張感と、重苦しい罪悪感が完全に消え去っていた。
「自分が汚してしまった」という彼の勝手な悲壮感など、この規格外に図太くて、眩しいくらいに真っ直ぐな太陽の前では、立ち入る隙すら与えられないのだ。
彼は心底愛おしそうに目を細めると、今度は一切の躊躇なく、私の頭をクシャクシャと乱暴に、けれど最高に優しく撫で回した。
「分かった。君の望む通りにしよう。特大パフェでも、屋台の買い占めでも、なんだって君に捧げよう」
「ほんと!? やったぁ!」
「とりあえず今は、消化に良くて君の好きなものを作らせる。だから……」
完全にタガが外れ、「過保護な甘やかしモード」へと全振りしたエラルドが、私をもう一度、今度は逃がさないとばかりに強く腕の中に引き寄せた。
「もう少しだけ、こうさせておくれ。僕のお姫様」
「〜〜〜っ! お、お姫様って柄じゃないでしょ!」
「いいや、僕にとっては世界で一番尊い姫君だよ」
耳元で囁かれるとろけるような甘い声と、シダーウッドの香りに、私はたまらず顔を真っ赤にして彼の胸に顔を埋めた。
「……エラルドの、ばか。……だって、エラルドと一緒に美味しいご飯を食べるのが、私にとって一番幸せなんだもん」
「……ああ。僕もだよ、マリー」
私のその言葉に、エラルドはたまらないというように口元を覆って、私のプラチナブロンドの髪に深く口づけを落とした。
家族愛という絶対的な土台の上に、恋心という新しいトッピングが乗っただけ。
私の図太さと、エラルドの不器用な過保護さは何も変わらない。いや、むしろ彼の中の『罪悪感』というブレーキが完全に壊れ、タガが外れてしまった分、これからもっと甘くて騒がしいことになりそうだ。
初夏の朝陽が差し込む公爵邸の寝室には、二度と離れることのない二人の、新しくて美味しい日常の始まりが満ちていた。




