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婚約の噂とマリーの自覚

『もう、僕に近づかないでくれ』


その言葉は、いっそ物理的な魔法の刃であったなら、どれほど楽だっただろうか。

 私の特異点の体質なら、どんなに強固で鋭い氷の刃だって、拳一つで粉々に打ち砕くことができるのに。彼が血を吐くような声で絞り出したその拒絶は、魔法でもなんでもない、ただの純粋な「心からの願い」だったから。私には、それを壊すことなんてできなかった。


私はあの日、彼が一人で執務室で冷えていくのを置いて、逃げるように公爵邸の自室へと帰った。

 ベッドに潜り込み、布団を頭から被っても、ガタガタと震えが止まらなかった。

 私が彼に突きつけた「昔みたいに普通に戻ろう」という無邪気な願いが、彼にとってどれほど残酷な拷問だったのか。

 彼は、自らの内に巣食う私への仄暗い情欲を自覚し、それに苦しみ、私を汚してしまった罪悪感で心臓をすり減らしているというのに。私はそんな彼の血の滲むような葛藤を完全に無視して、「今まで通り、頭を撫でてよ」「無条件に私を守って、甘やかしてよ」と強要していたのだ。


(残酷だね、君は。本当に、救いようがないほどに)


その通りだ。私は本当に、救いようのない大馬鹿野郎だ。

 いざ彼が一人の「男」としての重くて生々しい感情をぶつけてくると、怯えて、「家族」という安全で心地よい箱庭に逃げ込もうとした。

 私が欲しかったのは、エラルド・フォン・アルバーンという人間のすべてではなく、私を甘やかしてくれる「都合の良い保護者」の幻影だったのか?


(違う、違うよ……私はただ、今までみたいに一緒に……)


言い訳のように頭の中で繰り返しても、もう遅かった。

 私が彼を傷つけた。私の無自覚な甘えが、彼の理性を、誇りを、ズタズタに切り裂いてしまった。


その夜を境に、私たちを繋いでいた細い糸は完全に、そして致命的に切断された。

 翌日からの学園生活で、エラルドは私に対する態度を「他人行儀」から「完全な無」へと移行させた。

 廊下ですれ違っても、彼のサファイアの瞳は私を映さない。まるでそこに空気しか存在しないかのように、一切の感情を排した氷の横顔のまま、通り過ぎていく。

 私が彼に近づこうとすれば、彼は自然な所作で身を翻し、生徒会の役員たちや取り巻きの貴族たちの輪の中へ入っていく。

 あんなに彼を振り回してやると息巻いていた私の反骨心は、彼のあの絶望に満ちた涙を思い出すたびに萎縮し、ただ立ち尽くすことしかできなくなっていた。


* * *


それから、重苦しくて息の詰まるような数週間が過ぎた。

 季節は完全に初夏へと移り変わり、王都の空は抜けるような青に染まっていた。

 ミリス魔法学園の中庭では、色とりどりの薔薇が満開に咲き誇り、むせ返るような甘い香りを漂わせている。日差しはジリジリと肌を焦がすように熱く、木陰の涼しさが恋しい季節だ。


昼休み。私はアイク、アイリスと共に、大きな樫の木の木陰に敷かれたベンチに座っていた。

 購買で買った冷たいハーブティーのグラスを両手で包み込んでいるが、一口も飲む気になれない。


「おいマリー、お前最近ほんとに食わねえな。その分厚いハムカツサンド、いらねえなら俺が食うぞ」

「……うん、いいよ。あげる」

「お、マジか! やっほーい!」


アイクが私の手からハムカツサンドを奪い取り、豪快に頬張る。

 普段なら「ちょっと! 一口だけって言ったでしょ!」と怒って奪い返すところだが、今の私にはそんな気力は一ミリも残っていなかった。胃の奥に冷たい石が詰まっているようで、固形物を受け付けないのだ。


「マリー……。あんまり無理しないでね。放課後、気分転換に王都の新しいカフェにでも行かない? 甘いクレープでも食べれば、少しは元気になるわよ」


アイリスが、日傘を傾けながら心配そうに私を覗き込んでくる。

 彼女たちには、エラルドとの間に何があったのか詳しく話していない。でも、完全に断絶してしまった私たちの様子を見て、何か決定的な決裂があったことなど、すぐに察しがついているはずだった。


「ありがと、アイリス。……でも、今日はまっすぐ帰る。ちょっと、まだレポート終わってなくて」


私が力なく笑ってみせた、その時だった。

 生垣の向こう側の遊歩道を、日傘をさした上位貴族の令嬢たちのグループが、華やいだ声で通り過ぎていくのが聞こえてきた。


「ねえ、聞いた? エラルド様と、ミーシア様のこと」


ピクリ、と。

 『エラルド』という名前に、私の耳が勝手に反応した。


「ええ、もちろん! サマードレスの仕立ての時に、うちのお母様が王宮の奥方様からこっそり聞いたらしいわ。いよいよ夏の長期休暇の前に、正式に婚約が発表されるんですって」

「まあ……! ついに、あの氷の貴公子が身を固められるのね。でも、才色兼備で血筋も完璧なミーシア様なら、誰も文句は言えないわ。本当に、絵画のようにお似合いのお二人だもの」

「来月の王宮で開かれる『星夏祭』の舞踏会では、きっとお二人がファーストダンスを踊られるわね。……ああ、ロマンチックでうらやましい……」


コロコロと転がるような令嬢たちの笑い声が、初夏の生温かい風に乗って、私の鼓膜を直接引っ掻くように飛び込んできた。


「…………え」


手に持っていたグラスが、ガタガタと震え始めた。

 グラスの表面から、冷たい水滴がポタポタと私の膝に落ちる。

 私は、その令嬢たちの後ろ姿を見つめたまま、パチパチと瞬きを繰り返した。


「……おい」


隣に座っていたアイクの声が、急に一段階低く、ドスを孕んだものに変わった。

 彼の手の中で、食べかけのサンドイッチの包み紙がメシャッと無惨な音を立ててひしゃげる。アイリスもまた、無言のままティーカップの持ち手を白くなるほど強く握り締め、氷のような冷たい視線で令嬢たちの背中を睨みつけていた。


「あ、あははっ……! な、なんだぁ。あいつ、ついに年貢の納め時なんだね! 完璧なミーシア様なら、エラルドもお小言言い放題だし、お似合いじゃん!」


私は、アイクたちが何か言い出す前に、わざとらしく両手をパンッと叩いて、いつもの『ガサツで元気なマリー』の笑い声を張り上げた。

 幼馴染が、ついに結婚する。

 公爵家の当主となる彼が、血筋も魔力も申し分ない完璧な令嬢を妻に迎えるのは、この国では呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだ。

 昔の私なら、「えー、あいつのお嫁さんになる人、絶対小言ばっかり言われて可哀想!」なんて、無邪気にからかって笑い飛ばしていただろう。彼が隣に美しいミーシア様を立たせて笑っている姿を想像しても、「少し遠くに行っちゃうみたいで寂しいな」くらいにしか思わなかったはずだ。


――だけど。

 笑おうとした私の頬の筋肉は、どうしようもなく引きつり、ひきつった口の端からヒュッと冷たい空気が流れ込んできた。


(婚約。……夫婦になる、ってことは)


私の脳裏に。

 あの日の、分厚い遮光カーテンが引かれた、暗くて重い熱に満ちた部屋の記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって襲いかかってきた。


『……君は、僕が君に向けている感情の正体から、目を背け続けているだけだ』


私を上から組み伏せた、火傷しそうなほど熱くて重い、男の身体の質量。

 私の首筋に顔を埋め、息も絶え絶えに私の名前を呼んだ、あの掠れた声。

 抵抗する私の両手首を頭上で軽々と拘束した、太くて硬い腕の圧倒的な力強さ。

 シダーウッドの香水と、熱病のような汗の匂いが混じり合った、むせ返るようなあの空気。


私は、知ってしまったのだ。

 男と女が、夫婦という境界線を越えて、二人きりの閉ざされた部屋で『何をするのか』を。

 ただキスをするとか、抱きしめるとか、そんなおとぎ話みたいな綺麗なものじゃない。

 骨の髄まで溶かされるような恐怖。息が止まるほどの痛み。そして、それを凌駕するほどの、頭の芯が真っ白にショートするような圧倒的で甘い熱量。

 私の身体は、細胞の一つ一つに至るまで、彼が私の中に無理やり叩き込んだあの途方もない熱と悦びを、完璧に記憶してしまっている。


(……エラルドが、ミーシア様と、あれを……?)


ドクンッ、と。

 心臓が、肋骨の内側を鈍器で殴りつけられたような、暴力的な痛みを訴えた。


あの、極寒の氷河のように澄み切ったサファイアの瞳が、情欲にドロドロに濁って、ミーシア様を見つめるの?

 いつも私のお菓子の欠片を拭ってくれていたあの綺麗な指先が、ミーシア様の真っ白な素肌を、熱を帯びた手つきで撫で回すの?

 私の耳元で低く甘く呪詛のように囁いたあの声で、ミーシア様に愛を囁くの?

 彼が、理性を失った獣のような狂おしい息遣いで、私以外の女の身体に、あの熱を注ぎ込むの?


「…………っ、あ……」


喉の奥が、ヒューッ、と不自然な音を立ててひしゃげた。

 呼吸の仕方が、急に分からなくなった。初夏の生温かい空気をいくら吸い込んでも、肺が完全に凍りついてしまったように酸素が全く入ってこない。


「マリー!? どうしたの、顔が真っ青よ!」


アイリスが日傘を放り出し、血相を変えて私の肩を掴んだ。

 アイクもガタッと立ち上がり、周囲の生徒たちの視線を遮るように、私の前に大きな背中を向けて立つ。


「ご、ごめん……っ、なんか、急に、気持ち悪く……っ」


私は、アイリスの手を振り解き、口元を両手で覆った。

 胃の底からせり上がってくるのは、吐き気ではない。もっとドス黒くて、醜くて、得体の知れない強烈な『痛み』だ。

 胸が痛い。内臓が捩り切られそうに痛い。息ができない。指先が氷のように冷たくなって、ガタガタと制御不能なほどに震えが止まらない。


「保健室に……っ、一人で、行くから……ごめんっ!」

「おい、マリー! 待てって!!」


アイクの静止の声を背中に浴びながら、私は脱兎のごとく駆け出した。

 手から滑り落ちたグラスが石畳に叩きつけられ、ガシャン! と派手な音を立てて割れるのが聞こえたが、振り返る余裕なんてなかった。


中庭の噴水の脇を通り抜け、旧校舎の裏手へと続く人通りのない小道へと、ただ無我夢中で足を動かす。


走りながら、私の目からボロボロと、大粒の涙がとめどなく溢れ出していた。

 拭っても拭っても、視界がぐしゃぐしゃに滲んで前が見えない。

 息が苦しい。胸が張り裂けそうに痛い。


(いやだ)


石畳を蹴るたびに、頭の中で、絶対に認めたくなかった一つの感情が、狂った鐘の音のようにガンガンと鳴り響く。


(嫌だ。……嫌だ!!)


エラルドが、私以外の誰かに触れるなんて。

 あの不器用で、小言ばかりで、でも誰よりも深くて重い愛情を、ミーシア様に向けるなんて。

 彼の熱い体温も、シダーウッドの匂いも、理性を失って泣きそうに歪んだあの綺麗な顔も。

 全部、全部、私だけのものだったのに。私だけが知っている、私の特権だったのに。


「……はぁっ、はぁっ……っ」


旧校舎の裏手にある、今は使われなくなった古い温室。

 そのひび割れたガラス壁に辿り着いた瞬間、私は糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。

 初夏の強い日差しを遮るものは何もない。生い茂った雑草の上に膝をつき、私は冷たいレンガの土台に背中を預けてうずくまった。


「あ……ぁぁ……っ、うわぁぁぁんっ……!!」


両手で顔を覆い、私は声を上げて、子供のようにみっともなく泣きじゃくった。


誰にも見られたくない。こんな醜い自分を、誰にも知られたくない。

 家族が遠くに行ってしまう寂しさなんかじゃない。

 幼馴染としての、妹分としての独占欲でもない。

 これは、もっと泥沼のように醜くて、身勝手で、ドス黒い感情だ。


(私、あいつのことが……)


あの夜、彼に無理やり押し倒されて、恐怖に泣き叫んだ。

 でも、本当は。彼があんなにも私を欲しがり、理性を失うほどに私に執着してくれていることが、私の奥底のどこかで、恐ろしいほどの歓喜を生み出していたんじゃないのか。

 私が「家族」という言葉で誤魔化し続けていたのは、彼との関係が変わってしまうのが怖かったからだ。平民の私と、公爵家の彼。そんな身分違いの恋に踏み込んで、もし彼に拒絶されたら、私はすべてを失ってしまう。

 だから私は、「優しい幼馴染」という絶対安全な無菌室の中から出ようとしなかった。彼が私を特別扱いしてくれることに胡座をかいて、彼がどれほどの葛藤を抱え、私への情念を必死に理性で殺して微笑んでくれていたのか、気づかないふりをしていたのだ。


他の女になんて、絶対に触れさせたくない。

 ミーシア様になんて、渡したくない。

 あの理不尽なまでの重い熱情で、もう一度、息ができないくらい私だけを抱きしめてほしい。

 あの分厚い氷の壁を叩き割って、あいつの隣に立てる「たった一人の女」になりたい。


(……好き、なんだ)


初めて明確に形を持ったその感情は、おとぎ話に出てくるような、ふわふわと甘やかな恋心なんて綺麗なものではなかった。

 呪いのように私の心臓を締め付け、呼吸を奪い、全身の血を沸騰させる、猛毒のような執着。

 エラルドが私に向けていたあのドス黒い感情と、何一つ変わらない。


私は、あの日、エラルドに身体を無茶苦茶にされたから、こんなにおかしくなってしまったわけじゃない。

 とっくの昔から、私はあいつに惹かれていたのだ。

 あいつが私の頭を撫でてくれるたびに、呆れたように笑ってくれるたびに、私の心は少しずつ彼に絡め取られていた。

 私が気づかないふりをして、「家族」という毛布にくるまって甘えていただけ。あいつが一人で、私への仄暗い情念と必死に戦って苦しんでいることにも気づかずに、無邪気に笑いかけて、あいつの心をズタズタに切り裂いていたのは、他でもない私だったのだ。


『僕を、ただの幼馴染としてしか見られないのなら。もう、僕に近づかないでくれ』


エラルドのあの絶望的な声が、再び脳内に蘇る。


彼が私を突き放したのは、私が彼を「男」として見ていなかったからだ。

 私が彼に女としての愛情を返せないなら、これ以上私の純潔を脅かさないように、そして自分自身がこれ以上狂ってしまわないように、自ら距離を置いたのだ。

 彼は、私のために、自分自身を罰している。


「……エラルドの、ばか……っ、大馬鹿野郎……っ」


私は、土にまみれた両手で、自分の髪を掻き毟った。


泥だらけになっても、あんたの隣に立つって決めたじゃないか。

 あんたが化け物になるなら、私が盾になって引きずり戻すって、そう誓ったじゃないか。

 なのに、私は一番大事なところで逃げ出した。彼が真っ直ぐに向けてきた「男」としての感情から逃げて、彼を底なしの孤独に突き落とした。


「私だって……っ、私だって、あんたのこと、好きなのに……っ!!」


誰もいない温室の裏で、私は誰に届くわけでもない告白を、初夏の空に向かって絶叫した。

 

 喉がちぎれそうに痛い。涙で視界がぐらぐらと揺れる。

 胸の奥で暴れ狂うこの巨大な感情を、どう扱っていいか分からない。

 彼が他の女のものになってしまうという想像が、これほどまでに私を狂わせるなんて、思いもしなかった。


自分の傲慢さと、残酷さと、そして初めて知った逃げ場のない恋の痛みに打ちのめされながら。

 私は、古いレンガの壁に爪を立て、初夏の刺すような日差しの下で、いつまでもいつまでも、己の愚かさを呪うように泣き叫んでいた。


彼が私に刻み込んだ首筋の『痕』が、私の涙に呼応するように、ジンジンと焼けつくような熱を帯びて脈打っていた。

 それはまるで、「お前はもう俺のものだ」と嘲笑うかのような、彼からの消えない呪いだった。そして私は、その呪いを、愛おしくて手放したくないとすら思ってしまっているのだ。


私は、もう二度と、昨日までの『ただの幼馴染』には戻れない。

 この身を焦がすような恋心を抱えたまま、あの氷の壁の向こう側にいる彼に、どうやって立ち向かえばいいのか。

 絶望と熱情が入り混じる泥沼の中で、私の本当の戦いが、今、幕を開けようとしていた。


* * *


初夏の日差しがじりじりと王都の石畳を焦がし始めた頃。

 ミリス魔法学園の生徒たちは、一年で最も憂鬱な時期――『学年末試験』の足音に怯えていた。


私にとって、この試験はただの成績評価ではない。

 平民である私がこのエリート学園に通えているのは、ひとえに『特待生』という身分のおかげだ。学園の規則には、「学年末試験において一つでも赤点を取った特待生は、その資格を剥奪し、退学処分とする」と冷酷に記されている。

 退学。

 それはつまり、この学園から追放され、エラルドの隣にいる口実すら完全に失ってしまうことを意味していた。


(……勉強しなきゃ。絶対に、赤点なんか取れない)


頭では分かっている。分かっているのに、教科書の文字はただの黒い虫の群れのように滑っていき、一文字も頭に入ってこなかった。

 無理もない。私の頭の中は今、生まれて初めて自覚してしまった『恋心』と、あいつに突き放された絶望、そして、「いずれ正式にミーシア様と婚約する」という令嬢たちの噂話で、ぐちゃぐちゃに飽和していたのだから。


放課後。私は重い足取りで、学園の巨大な中央図書室へと向かった。

 アイクたち『あぶれ者同盟』の秘密基地で勉強してもよかったが、今の私は少しでも気を抜くと、ボロボロと情けない涙をこぼしてしまいそうだったからだ。一人で、静かな場所で集中しなければ。


分厚いオーク材の扉を開け、静寂に包まれた図書室の奥深く、高い書架が迷路のように並ぶ歴史学のコーナーへと足を踏み入れた。


――その時だった。


「……ここの術式展開ですが、第三層の魔力干渉を逆位相にすれば、より安定するのではないかしら」

「ああ、なるほど。流石だね、ミーシア。君のその視点は、王宮の研究員たちにも引けを取らないよ」


本棚の隙間から聞こえてきた、涼やかで知的な男女の会話。

 私の足が、床に縫い付けられたようにピタリと止まった。


書架の向こう側。西日が柔らかく差し込む、窓際の閲覧席。

 そこに、エラルドがいた。

 そして彼の向かいの席には、輝くような金糸の髪を揺らし、優雅に微笑むミーシア様の姿があった。

 二人の机の上には、私が見たこともないような高度な魔法陣の専門書が広げられ、彼らは一枚の羊皮紙を挟んで、高度で難解な魔法談義に花を咲かせていた。


ドクンッ、と。

 私の心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたような鈍い音を立てた。


あそこは。

 あの、窓際から三番目の、一番日当たりのいい特等席は。

 いつも、私が座っていた場所だ。


『……こら、マリー。よだれを垂らして寝ているよ。この公式を覚えないと、明日の小テストで赤点だよ』


私が机に突っ伏して舟を漕いでいると、彼が丸めたノートで私の頭をポカッと叩く。私が文句を言いながら顔を上げると、彼は呆れたように溜息をつきながらも、私のために信じられないほど分かりやすく、一つ一つの基礎を教えてくれていた。


彼が呆れながら私を甘やかしてくれていた、あの『特等席』。

 そこに今、完璧な美貌と、彼と対等に渡り合えるだけの圧倒的な魔力と知性を持った、本物の公爵夫人にふさわしい令嬢が座っている。

 エラルドは、私に見せるような「世話焼きの兄」の顔でもなく、あの暗く重い情欲に歪んだ顔でもなく。ただ、自分と対等な知性を持つ令嬢に対する、穏やかで理知的な『完璧な貴公子』然とした顔をして、ミーシア様と微笑み合っていた。


「……っ」


私は、本棚の陰に身を隠したまま、自分の下唇を血が滲むほど強く噛み締めた。

 胸の奥から、鋭い痛みを伴う疎外感がせり上がってくる。

 私は魔法が使えない、ただの平民の野生児だ。彼が抱える公爵家という重圧や、高度な魔法の研究、貴族としての政治的なしがらみ……そんな彼が生きる『本当の世界』のことを、私は何一つ理解してあげられない。


(お似合い? 完璧な公爵夫人? ……知るか、そんなこと!)


私は、涙で滲みそうになる視界を、ギリッと奥歯を噛み鳴らして強引に晴らした。

 本棚の木枠に押し当てた拳に、ミシッ、と怒りのこもった力が加わる。


私が薔薇のサロンで、ミーシア様に何と啖呵を切ったと思っているんだ。「平民の貴女は彼の弱点になる」と言われて、おめおめと引き下がるようなタマじゃない。

 私には、彼女のような完璧な知性も魔力もない。けれど。


(誰が、あの席を譲ってやるもんか……!)


私じゃあいつの隣に立つ資格がないだなんて、誰が決めた。

 身分が違うからって、魔法が使えないからって、それがなんだ。私はあいつの盾になるって決めたんだ。一番うるさくて図太い盾になって、あいつを地獄から引きずり戻すって決めたんだ。


(私は絶対に退学になんかならない。這いつくばってでも赤点を回避して……私のやり方で、絶対にあの特等席にへばりついてやる!)


これ以上、あの二人の完璧な空間を盗み見て心をすり減らしている暇はない。

 私は踵を返し、足音を殺して、燃え上がるような闘志と焦燥感を腹の底に抱えたまま、図書室を後にした。


* * *


「おいマリー! お前、昨日も徹夜しただろ! 目が血走ってんぞ!」


旧校舎の秘密基地。アイクがこの教室の鍵をどこからか引っ掴んできて以来、あぶれ者同盟の溜まり場として勝手に使っているこの場所で。

 アイクが、山積みの参考書に向かってカリカリと羽ペンを走らせる私から、強引にペンを取り上げた。


「返してよ、アイク! まだ魔法薬学の暗記が終わってないの!」

「バカ言え、お前この三日間、ろくに寝てねえだろ! 飯もまともに食ってねえし……お前が食欲なくすなんて、異常事態だぞ!」

「マリーさん、アイク君の言う通りです。少し仮眠をとらないと、脳が情報を記憶できませんよ」


セドリックも、心配そうに丸眼鏡の奥の目を伏せている。

 アイリスは無言で、私が少しでも口にしやすいようにと、温かいスープを私の手元に押しやってくれた。


「……大丈夫。一人で、できるもん」


私は、スープの甘い匂いに吐き気を覚えながらも、アイクからペンを奪い返した。

 エラルドに頼らなくたって、私は一人でやってみせる。赤点なんか絶対に取らない。学園を追い出されるのだけは、絶対に嫌だ。

 立ち止まってしまったら、図書室で見たあの完璧な二人の姿が頭の中でフラッシュバックして、狂ってしまいそうだったからだ。


「私、体力だけは化け物級なんだから! 眠気なんて、グラウンド十周走ってくれば吹っ飛ぶし!」


私は強がってニカッと笑ってみせたが、その声は自分でも驚くほどカスカスに掠れていた。

 四人での勉強会が終わった後も、私は一人でグラウンドを走り込み、そのまま実家の薬局には帰らずに、隣にある公爵邸へと足を向けた。


エラルドの執務室には近づかない。

 私が向かったのは、公爵邸の東翼にある、一族の歴史書や膨大な専門書が眠る『大図書室』だった。

 ここはエラルドが普段使う執務室からは遠く、夜になれば誰も寄り付かない。今の私には、学園の図書室よりも、ここが一番集中できる、そして、誰にも弱みを見せずに済む場所だった。


* * *


深夜。

 公爵邸の大図書室は、シンと冷え切った静寂に包まれていた。

 古書の紙魚と埃の匂いが混じる中、机の上には学園から持ち帰った教科書と、公爵邸の蔵書が山のように積み上げられている。


「……っ、はぁ……はぁっ……」


羽ペンを握る右手が、ガタガタと小刻みに震えていた。

 おかしい。文字が、二重にも三重にもブレて見える。


私はこれまで、風邪なんて一度も引いたことがなかった。「馬鹿は風邪を引かない」を地で行く、知恵熱とは無縁の頑丈な野生児だったはずだ。

 なのに、今の私の身体は、まるで鉛を飲み込んだように重く、関節という関節がひしゃげるように痛んだ。


いや、ただの過労じゃない。

 ドクン、ドクン、と。

 魔力回路の存在しないはずの私の身体の奥底、心臓のすぐ裏側あたりで、不気味な熱が脈打っているのだ。

 それは、あの暴走事件の夜、私が特異点を通してエラルドから直接吸い取った『呪いの熱』の残滓。

 普段の健康な状態なら、私の体内で完全に霧散させてしまえるはずのその微かな毒が、極度の睡眠不足と栄養失調、そして精神的ストレスによって免疫が底をついた今になって、私の肉体を内側から焼き焦がそうと牙を剥いていた。


「うぅ……っ、冗談、じゃない……」


意地と反骨心だけで保っていた気力が、限界を超えて決壊していく。

 頬が、身体が火傷をしたように熱いのに、指先は氷のように冷たくて震えが止まらない。


(倒れるわけには、いかないのに。……私が、私一人で……)


痛い。苦しい。

 助けて、と、無意識のうちに一番に名前を呼ぼうとして。

 今の私には、もう彼を呼ぶ資格すら、甘える資格すらないのだという絶望が、冷たい刃となって私の心臓を貫いた。


「ぁ……えら、る……」


不意に、視界が完全に真っ暗に反転した。

 椅子の背もたれから力が抜け、私の身体は重力に従って、分厚い絨毯の敷かれた床へと真っ逆さまに崩れ落ちた。


ドンッ、という鈍い音が、図書室の静寂を破る。


「……はぁっ、ふぅっ……」


床に倒れ伏したまま、私は自力で立ち上がることができなかった。

 全身から異常な量の汗が吹き出し、息をするたびに、呪いの毒が肺を焼いていく。

 床の絨毯の冷たさが、燃えるような肌に心地よかった。私は、もう指一本動かすこともできず、ただ薄れゆく意識の中で、彼が私を呼ぶあの優しい声を幻聴として聞きながら、深い暗闇の中へと沈んでいった。

* * *


「……マリーお嬢様? こんな遅くに、まだこちらで……」


公爵邸のメイド長であるベアトリスは、大図書室の扉の隙間から漏れる明かりを見て、静かに足を踏み入れた。

 彼女は、エラルドが最近マリーを徹底的に避けていることに気づき、心を痛めていた一人だ。だからこそ、夜遅くまで一人で無理をしている平民の少女を案じ、温かいお茶を淹れて様子を見に来たのである。


「マリーお嬢様?」


机には、散乱した教科書。

 そして、その足元の絨毯に、力なく倒れ伏している茶髪の少女の姿を認めた瞬間。


「きゃあっ!? マ、マリー様!!」


ベアトリスは手のお盆を放り出し、血相を変えてマリーの元へと駆け寄った。

 抱き起こしたその小さな身体は、まるで火のついた暖炉のように異常な熱を発していた。息は荒く、苦しげに顔を歪め、うわ言のように小さく何かを呟いている。


「なんという熱……っ! 誰か、誰か来なさい!!」


ベアトリスの悲痛な叫び声が、深夜の公爵邸に響き渡る。

 彼女は、この事態を誰に知らせるべきか、一瞬たりとも迷わなかった。二人の関係が今どれほど冷え切っていようとも、この邸宅において、マリーの命の危機を最優先すべき人間は、たった一人しかいない。


ベアトリスは、他のメイドにマリーを任せると、ドレスの裾を翻し、エラルドが籠もっているはずの執務室へと全速力で駆け出した。


バンッ!!


「エラルド様!!」


ノックもせずに執務室の扉を蹴り開けたベアトリスの姿に、書類の山に向かっていたエラルドが、驚愕にサファイアの瞳を見開いた。

 普段、誰よりも礼儀作法に厳しいメイド長が、息を乱し、顔面を蒼白にしている。


「ベアトリス、どうした。何があった」

「マリーお嬢様が……っ! 大図書室で、意識を失って倒れられました! 尋常ではない高熱です……っ!」


――ピキィッ、と。

 エラルドの心臓の奥で、彼が己に課していた『絶対不可侵の誓い』という分厚い氷の壁が、音を立てて亀裂を生じる音がした。


「……なんだと?」


エラルドの冷たい声が、執務室の空気を一瞬にして絶対零度へと凍てつかせる。

 手の中で、持っていた羽ペンが粉々に砕け散った。


彼は、自らに誓ったはずだった。

 彼女の純潔を脅かし、彼女の心に恐怖を刻み込んでしまった自分は、もう二度と彼女に指一本触れてはいけないのだと。遠くから、彼女が自分の手など借りずに幸せになっていくのを見守ることだけが、唯一の贖罪なのだと。


だが。

 彼女が、誰もいない冷たい図書室の床で、一人で倒れていた?

 彼が突き放したせいで、彼という逃げ場を失った彼女が、身を削って一人で限界を超えてしまったというのか。


「……エラルド、様」


ベアトリスが息を呑む。

 エラルドのサファイアの瞳は、もう、完璧な氷の貴公子のそれではなくなっていた。

 そこにあるのは、自らの愚かな誓いを呪う凄絶な怒りと、何よりも愛する半身を失うかもしれないという、剥き出しの狂乱。


「――どこだ」


椅子を蹴り倒し、エラルドは風のような速度で執務室を飛び出した。

 マリー。

 頼むから、僕を置いていかないでくれ。

 その悲痛な叫びを胸の奥に封じ込めながら、氷の貴公子は、絶対に触れないと誓ったはずの愛しい少女の元へと、一直線に駆け抜けていったのだった。

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