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少し変わった関係の中で

春の柔らかな朝陽が、ステンドグラスを透過して教室の床に色とりどりの影を落としている。

 黒板の端から微かに漂うチョークの粉っぽさと、開け放たれた窓から吹き込む新緑のむせ返るような青い匂い。いつもと何一つ変わらない、ミリス魔法学園の平穏な朝の風景。

 だが、私――アイリス・フォン・クラインの指先は、膝の上で氷のように冷たく強張っていた。


昨日の午後。アイクの制止を振り切り、一人で公爵邸へと突っ走っていったマリー。

 その後、彼女がどうなったのか、私たちは誰も知らない。ただ、徹夜で解呪薬の調合を続けていたセドリックの元に、深夜になって公爵邸の使いから「エラルド様のお加減はすっかり回復なさいました。薬は不要です」という、簡素な伝上が届いただけだった。


(……回復した? セドリックの薬なしで、どうやってあの呪いを?)


私が微かに眉をひそめ、爪が手のひらに食い込んだ、その時だった。


「おはよー! アイク、アイリス、セドリック!」


教室の前方の扉がガラリと開き、聞き慣れた元気な声が響いた。

 マリーだ。

 彼女はいつものように鞄を肩に引っかけ、ニカッと笑いながら私たちの席へと近づいてくる。

 張り詰めていた空気がふっと緩み、アイクが大きく息を吐き出して肩の力を抜いた。徹夜明けで目の下にひどい隈を作ったセドリックも、弾かれたように顔を上げる。


「マリーさん! よかった、無事だったんですね! エラルド様は……」

「うん! なんかよく分かんないけど、私が気合入れたら熱も下がってさ! 今日は大事をとって休んでるけど、もうピンピンしてるよ!」


マリーは自慢げに胸を張って笑った。

 だが。私は、彼女が一歩教室に足を踏み入れた瞬間から、心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような、決定的な『違和感』を覚えていた。


まず、歩き方だ。

 いつもなら廊下をドタドタと踵から走り込んでくる野生児の彼女が、今日は歩幅が狭く、内腿を庇うようなぎこちない動きをしている。自分の席の木製の椅子に腰を下ろした瞬間、彼女の眉間が微かに引きつり、痛みを逃がすように細く息を吐いたのを、私は見逃さなかった。


次に、制服。

 彼女が着ているブラウスは、昨日着ていたものではない。真新しい予備の制服だ。しかも、いつもなら第一ボタンを開けてだらしなく着崩しているはずの首元を、今日は一番上まで息苦しいほどきっちりと留め、さらにその上から、不自然なほど太いリボンをきつく巻いて肌を隠している。


そして。彼女がふわりと動いた瞬間に、春の風に乗って鼻腔を掠めた、微かな移り香。

 エラルド様が好んで纏う、あのシダーウッドの深く冷たい香りだ。

 香水を直接つけられたような強烈なものではない。彼の服を借りたか、あるいは、彼のそばで極めて密接な時間を共に過ごしたからこそ微かに染み付いてしまったような、気配の残滓。


(……まさか)


私の胸の奥で、カチリ、と最悪のパズルのピースが音を立ててはまった。


セドリックの薬なしで、呪いが解けた理由。

 マリーの『特異点』は、魔法を粉砕する力。もし、あの理性を失ったエラルド様が彼女を組み伏せ、自らの呪いの熱ごと、彼女の奥深くにまで踏み込んだとしたら。

 彼女の特異点は、その深い接触を通して彼の魔力回路に直接流れ込み、呪いを消滅させたのではないか。


「そっか、よかったな! お前が無理するからヒヤヒヤしたぜ」

「本当ですね。……でも、少し顔色が悪いですよ? 無理はしないでくださいね」


アイクとセドリックは、ホッとした顔で笑い合っている。彼ら男の子には、マリーのその微細な変化までは読み取れていない。


「……ねえ、アイリス? どうしたの、そんな怖い顔して」


マリーが不思議そうに小首を傾げた。

 その顔を見た瞬間、私は泣き叫びたいような、とてつもない悲しさと苛立ちに襲われた。

 彼女は、笑っていた。

 一人で無茶をして、私たちが想像もつかないような痛みや恐怖を味わったかもしれないのに。彼女は自分の傷を完全に無視して、「私がエラルドを助けたんだから、これでいいんだ」と、必死に自分に言い聞かせるように、歪な笑顔を取り繕っていた。


「……立ちなさい、マリー。少し顔を貸して頂戴」


私は、椅子を蹴るような勢いで立ち上がった。

 マリーの手首を……彼女の痛む体になるべく負担をかけないように、けれど絶対に逃がさない強さでスッと掴み、教室の後ろの扉へと向かう。


「お、おいアイリス? どこ行くんだよ」

「女の子同士の、野暮用よ。あなたたちは絶対についてこないで。……誰か来たら、追い返しておいて頂戴」


私の硬質な声色に、アイクとセドリックはハッとして顔を見合わせた。

 アイクの金色の瞳が、普段のヘラヘラとした仮面を捨てて鋭く細められる。彼は私とマリーの背中を一度だけ見つめると、小さく頷き、「……分かった。この廊下にはネズミ一匹通さねえよ」と、セドリックと共に教室の扉の前に立った。


* * *


薄暗く、ひんやりとした旧校舎の階段の踊り場。

 カビと古い埃の匂いが、石造りの冷たい壁から這い上がってくる。私は、戸惑うマリーを壁際に立たせると、無言のまま、彼女の首元に巻かれた太いリボンに指をかけた。


「あ、アイリス……? ダメだよ、それ取っちゃ……っ」

「黙っていなさい」


私の震える声に、マリーはビクッと肩をすくめて抵抗をやめた。

 リボンを解き、一番上まで留められた第一ボタンを外す。

 あらわになった彼女の白い首筋から鎖骨にかけて。


そこには、痛ましいほどにくっきりと、赤紫色の痕が点々と刻み込まれていた。

 それは、どう見ても『魔法の暴走による怪我』などではない。間違いなく、理性を失った獣が力任せに残した、消えない所有の印だった。


「……っ」


私の喉の奥から、ヒュッと空気が漏れた。

 視界が涙で滲む。なんてこと。本当に、彼女は一人で、こんな理不尽な暴力を受け止めてしまったというの。


「ご、ごめん、アイリス」


マリーが、気まずそうに目を伏せた。


「エラルド、魔法が暴走しちゃっててさ。……私が止めたんだけど、その時にちょっと、怪我しちゃって……治癒魔法でも治らなくて……」

「嘘をつかないで!」


私が思わず声を荒げると、マリーはビクッと肩を震わせた。旧校舎の冷たい空間に、私の声が鋭く反響する。


「そんなの、怪我じゃないことくらい、私にだって分かるわよ……! 一人で怖かったでしょう。痛かったでしょう。……なんで、私にまで嘘をついて笑うのよ。私たち、親友でしょう……っ」


私は、震える両腕を伸ばし、マリーの小さな体を、壊れ物を扱うようにそっと、力強く抱きしめた。

 私のその体温に触れた瞬間。

 今まで必死に張り詰めていた彼女の強がりが、音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。


「あ……ぅ……」


マリーの喉の奥から、ヒック、と小さな子供のようなしゃくり上げが漏れた。

 私の背中に回された彼女の手が、制服の生地をギュッと力強く握りしめる。


「……怖かった」


震える声が、私の耳元に落ちた。


「怖かったよ、アイリス……。エラルドが、別の人みたいになっちゃって……力が強くて、全然動けなくて。私、わけ分かんなくて……っ」


ボロボロと。

 私の肩に、彼女の恐怖と混乱の涙が染み込んでいく。


「……大丈夫。大丈夫よ、マリー」


私は、彼女の背中を何度も何度も優しく撫でた。

 無理もない。今まで「少し小言の多い、心配性な幼馴染」だと信じて疑わなかった相手が、突然、理解の及ばない仄暗い情念を剥き出しにして自分を組み伏せてきたのだ。恋愛という概念すら持たない彼女にとって、それは自分の知る世界が根本から作り替えられてしまうような、得体の知れない恐怖だったはずだ。


だが。

 私が彼女の深い心の傷に寄り添おうとした、次の瞬間。


「でも、ね」


マリーの声のトーンが、恐怖から、別の熱を帯びたものへと変わった。

 私の背中の布地を握りしめる彼女の指先に、ギリッ、と強い力が込められる。


「私が怒ってるのは……そんなことじゃないの」

「え……?」


マリーは顔を上げると、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、ギリッと奥歯を噛み締めた。その瞳に燃えていたのは、恐怖や悲しみではなく――明確な『怒り』だった。


「夕方に起きたらさ、あいつ、すっごく絶望したみたいな顔してて……『二度と指一本触れない。これ以上君を縛らない』って言ったの。……意味、分かんないよっ!」


マリーは、しゃくり上げながら、叫ぶように言葉を吐き出した。


「私、あいつが苦しんでたから、死んじゃうかもしれないって思ったから、私が助けるって決めてやったのに! 痛かったけど、でも助かったんだからいいじゃん! なのに、なんであいつは、私を汚いものみたいに見て……勝手に離れていこうとするの!?」


マリーの口から紡がれた言葉に、私は思わず目を見開いた。

 彼女の肩を濡らしているこの涙は、暴力を振るわれたトラウマからくるものではなかったのだ。


「また一人で抱え込む気なんだよ、あいつは! ずっと一緒にやってきたのに。私たち、家族で、相棒じゃないの!? なんで、私が痛い思いをしてまで助けてやったのに、私を蚊帳の外にするの!? あんなの、絶ッ対に許さない……っ!」


(ああ……エラルド様)


私は、目を閉じて、冷たい石壁に背を預けた。

 エラルド様が今、どれほどの凄絶な罪悪感と絶望の底で、彼女を遠ざけようと自分自身を罰しているか、痛いほどに察しがついた。彼は理性を失い、大切な幼馴染を傷つけてしまった。だからこそ、彼女を己の呪縛から解放するために、自ら切り捨てようとしたのだろう。


でも、違う。

 この無鉄砲で真っ直ぐな少女は、彼が思っているような、ただ庇護されるだけの、悲劇のヒロインなんかじゃない。

 マリーにとって、昨日の出来事は「貞操の危機」でも「女としての尊厳の喪失」でもなかった。彼女が何よりも許せなかったのは、自分が身を呈してまで守り抜いた『相棒としての絆』を、エラルド様が一方的に断ち切ろうとしたことなのだ。

 それはひどく子供っぽく、残酷なほどの独占欲だ。


「……ふふっ」


私は、張り詰めていた息を吐き出し、思わず吹き出してしまった。


「ア、アイリス? 何笑ってんのさ、こっちは真剣に怒ってんのに!」

「ごめんなさい。でも……あなたって子は、本当に」


私は、涙と怒りでぐしゃぐしゃになった彼女の頬を両手で包み込んだ。

 なんて不器用で、いびつな二人なのだろう。一方は罪悪感から身を引き、一方は相棒をクビにされたと怒り狂っている。


「ちっともおかしくないわ、マリー。あなたの怒りはもっともよ。あんな身勝手な理由であなたを突き放すなんて、万死に値するわ」

「でしょ!? あいつ、ぜってー一発殴る!」

「ええ、思いきり殴り飛ばしてやりなさい。あなたが世界一の相棒だってこと、あの不器用で頭の固い貴公子様に、骨の髄まで思い知らせてやるのよ」


踊り場の入り口で。

 私たちには見えない死角の廊下で、コホン、とアイクのわざとらしい咳払いが微かに響いた。彼らには今の会話の詳細など聞こえていないはずだ。だが、マリーの泣き声が止んだことだけは伝わったのだろう。


「……うんっ……!」


マリーは、手の甲でゴシゴシと涙を拭うと、赤く腫れた目で私を見て、いつもの不敵な――けれど、どこか一つ殻を破ったような、力強い笑みを浮かべた。


「ありがと、アイリス……私、絶対に引き下がらない。あいつが泣いて謝るまで、隣にへばりついてやるんだから」


春の冷たい石造りの踊り場で。

 私たちはようやく本当の笑顔を取り戻し、これから彼に叩きつける盛大な反撃の狼煙を、心の中で静かに上げ始めていた。






季節は巡り、王都を吹き抜ける風が、春の生温かさから初夏の爽やかな青葉の匂いへと変わり始めていた。

 ミリス魔法学園の広大な敷地内では、色鮮やかな初夏の花々が咲き乱れ、中庭の噴水が涼しげな水音を立てている。生徒たちの制服も、軽やかな夏用のベストや薄手のブラウスへと衣替えを済ませていた。


平和で、活気に満ちた学園生活の再開。

 ……のはず、だったのだが。


「あ、エラルド! ちょっとこの魔法史のレポートなんだけど――」

「やあ、マリー。すまないが、これからレオンハルト殿下と次期生徒会執行部の編成会議があってね。急ぎなら、そこのセドリックに頼むといい。彼なら僕より正確な文献を知っているはずだ」


昼休み。学園の図書室で彼を見つけて声をかけた瞬間。

 エラルドは、分厚い魔導書をパタンと閉じ、一定の距離を保ったまま流れるような動作で立ち上がった。

 その口元には、学園の他の令嬢たちに向けるような、穏やかで、けれど決して踏み込ませない綺麗な微笑みが貼り付いている。


「え、でも、これ大分前にエラルドが教えてくれた――」

「失礼するよ。セドリック、彼女のサポートをよろしく頼む」


私が伸ばした手が空を切り、彼が歩き出す風圧で私の前髪がフワリと揺れた。

 すれ違いざま、彼の制服から微かにシダーウッドの香りが漂う。あの日、私を押し包むように深く刻み込まれたあの匂いが、今はただ、他人のように私を通り過ぎていくだけ。

 パタン、と図書室の扉が閉まる。


「…………また、逃げられた」


私は、空中に取り残された右手をゆっくりと下ろし、ギュッと拳を握りしめた。

 ”あの日”から、ずっとこの調子なのだ。

 エラルドは、私と二人きりになる空間を徹底的に、かつ『自然に』排除していた。

 公爵邸の彼の自室や図書室に遊びに行っても、「急ぎの決済があるから」と、私一人を広い部屋に残してどこかへ行ってしまう。まるで追いかけっこをしているみたいだ。学園で話しかけに行っても、必ずセドリックやアイリスを間に挟み、私と直接視線を合わせようとしない。

 呼び方は「マリー」のままなのに、声の温度が、まるで初めて会った他校の生徒に対するように、よそよそしいのだ。



「……ふざけないで。勝手に『触れない』なんて誓い立てて、一人で納得しないでよ」


私は、手の中のレポート用紙をくしゃっと握りつぶし、悔しさに唇を噛んだ。

 彼が私のことを大事に思ってくれているのは分かる。でも、こんなふうに腫れ物みたいに扱われるのは、怒られるよりもずっと寂しくて、悲しかった。


* * *



「それよりマリー、お前まだエラルドの野郎に壁作られてんのか?」


 とある日の昼休み、アイリスと私が大食堂で食事をしているとアイクは、ずかずかと私の隣に歩いてくると、私の頭をガシガシと乱暴に撫で回した。

 私は顔を上げ、涙目で彼を睨みつけた。


「壁どころじゃないよ……! 完全に他人の距離感! あいつ、私に触れないようにすっごい気遣うんだよ!? クッキー横取りしても怒んないんだよ!? 学年末試験も近づいてきているのに、勉強に全く手がつかない……!」

「あー、マリーが勉強をしないのはいつものことだがなるほどな。あの生真面目野郎、絶賛『おのれを罰するタイム』に入ってやがるな」


アイクは、サンドイッチを豪快に頬張りながら、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「でもよ、マリー。お前、あいつのその綺麗なメッキ剥がすの、得意だろ?」

「……え?」

「あいつが距離置いて殻に引きこもるなら、その殻がひび割れるくらい、お前が規格外のワガママお嬢様になって振り回してやればいいじゃねえか。お前が諦めたら、あいつ一生あのまま枯れてくぞ」


アイクの言葉に、私の目がカッ! と見開かれた。


「そうよ、マリー」


アイリスが、ティーカップを優雅に置きながら、不敵な笑みを浮かべた。


 待ってろよ、エラルド。

 私がただ遠くから守られるだけの大人しい女性になんて、なるわけないでしょ!



* * *



夜のアルバーン公爵邸。

 分厚い絨毯が足音を吸い込む静寂の廊下を抜け、私はエラルドの執務室の前に立っていた。

 両手で包み込んだお盆の上には、温かいホットミルクが注がれた二つのマグカップ。手のひらに伝わる陶器の熱だけが、冷え切った夜の空気の中で唯一の救いのように思えた。

 昔から、彼が夜遅くまで勉強や生徒会の仕事をしている時、私がこうして夜食を持って押しかけ、彼の向かいのソファで本を読みながら寝落ちする……というのが、私たちの当たり前の『日常』だった。


私は、小さく深呼吸をしてから、ノックの音もそこそこに重いオーク材の扉を開けた。


「エラルド、まだ起きてる? ホットミルク持ってきたよ」


執務室の中は、青白い魔力灯の冷たい光に満たされていた。

 重厚なマホガニーの執務机に向かい、エラルドは山積みの書類に羽ペンを走らせている。古い紙の匂いと、微かに漂うシダーウッドの香り。

 私の声に、羽ペンのカリカリという音がピタリと止まった。


「……ありがとう、マリー。そこのテーブルに置いておいてくれ」


彼は、顔を上げなかった。

 視線は手元の書類に落としたまま、ただ淡々と、まるで使用人に労いの言葉をかけるような、温度のない声。


「ねえ、少し休憩しなよ。最近、学園でもずっと避けられてるし……私、エラルドと全然話せてない」


私は、マグカップをテーブルにコトンと置き、机に向かう彼の広い背中に向かってぽつりとこぼした。

 あの日から、彼は私と二人きりになるのを徹底的に避けている。学園でも、この公爵邸でも、彼は決して私に触れようとしないし、目すら合わせようとしない。

 それが、私にはどうしようもなく寂しかった。


別に、あの日みたいな得体の知れない熱いことをしてほしいわけじゃない。恋愛なんて、まだ私にはよく分からない。

 ただ、私は普通に話したいだけなのだ。

 相棒として、背中を預け合いたい。クッキーを横取りして呆れられたい。くだらないことで口喧嘩をして、最後は彼が折れて私の頭をクシャクシャに撫でてくれる。そんな、今まで通りの、温かくて騒がしい『幸せな日常』を取り戻したいだけなのに。


「……話すことなど、特にないだろう。僕は忙しいんだ」


エラルドは、羽ペンをインク壺に浸し、再び書類に文字を書き連ね始めた。

 その徹底した拒絶の壁に、私の胸の奥で燻っていた寂しさと苛立ちが、チリッと火花を散らした。


「あるよ! なんでそんなふうに壁作るのさ! ……私、気にしてないよ? あの日のことなんか、私が『勝った』んだから、もうどうでもいいじゃん!」

「……っ」

「だからさ、元に戻ろうよ。また、昔みたいに……一緒にいようよ!」


私が彼との距離を詰め、執務机の縁に両手をついて身を乗り出した、その瞬間だった。


――パキィッ!!


突然、エラルドの手の中で、硬い黒檀の羽ペンが真っ二つにへし折れた。

 飛び散った黒いインクが、真っ白な書類と、彼の手の甲を無惨に汚す。


「エラル……ド?」

「……元に、戻る?」


エラルドが、ゆっくりと顔を上げた。

 青白い魔力灯に照らされた彼の顔を見て、私はヒッと喉を引きつらせた。

 そのサファイアの瞳は、まるでひび割れた氷河のように痛々しい絶望に満ち、そして、己自身をこの世の汚物か何かのように忌み嫌う、どす黒い自己嫌悪で濁りきっていた。


「あの日のことなんか、どうでもいい? ……君は、僕が君を力ずくで組み伏せ、恐怖で泣かせ、その純潔を蹂躙したあの凄惨な事実を……無かったことにして、また『家族』に戻って笑い合おうと言うのか」

「だ、だって……そうしないと、私たち、ずっとこのままだよ! 私は、今までみたいにエラルドに頭を撫でてほしいのに……っ!」


私の必死の訴えを聞いて。

 エラルドは、自虐に満ちた、ひどく冷たい笑みを口元に浮かべた。


「……残酷だね、君は。本当に、救いようがないほどに」


彼の低い声が、静まり返った執務室の空気を震わせる。

 彼は、血の滲むような力でインクまみれの拳を握りしめ、私を真っ直ぐに射抜いた。


「君は、僕が君に向けている感情の正体から、目を背け続けているだけだ。……君が欲しいのは、無条件に君を甘やかし、守ってくれる『優しい幼馴染』の幻影だろう」

「ちがっ……!」

「違わない! 君の目には、まだ僕が『兄弟』や『家族』として映っている! ……でもね、マリー」


エラルドが、立ち上がった。

 彼の大きな影が、私を完全に覆い隠す。

 かつての口うるさくて優しい幼馴染ではない、仄暗い熱を帯びた、一人の『男』としての圧倒的な重圧。

 肌を重ねた記憶――彼の荒い吐息、逃げ場を塞がれた腕の力――がフラッシュバックし、私の身体は「恐怖」ではなく、理解の及ばない未知の感情に当てられ、本能的にビクッと強張ってしまった。


私のその微かな反応を、彼が見逃すはずがなかった。


「……ほら、そうやって君の身体は、僕を恐れているじゃないか」

「あ……違う、これは」

「僕はもう、君の知っている『優しい幼馴染』じゃないんだよ」


エラルドの顔が、苦痛に歪んだ。それは、10年前のあの凄惨な事件の夜に彼が見せた無力感よりも、はるかに深く、暗い絶望の表情だった。


「君を見るたびに、その肌に触れたいと願い、誰にも渡したくないと執着し、君のその無垢な翼をへし折って鳥籠に閉じ込めてしまいたいという、醜い情欲を持て余している……僕は、最も醜悪な化け物だ」


彼の言葉が、氷の刃となって私の胸に突き刺さる。


「恋愛感情すら持たない君の、その無自覚な『家族愛』に寄り添えるほど……僕の理性が、もう綺麗じゃないんだ」


エラルドの瞳から、ポタ、と。

 彼自身の絶望を象徴するような、熱い涙が一滴、インクに汚れた書類の上に落ちた。


「君がどれほど僕を許そうと、僕自身が僕を許せない。君の隣にいる資格を、僕は自ら永遠に捨てたんだ」


彼は、自らの心臓を抉り出すような、ひどく掠れた声で宣告した。


「だから……君が、僕にあの頃の『幸せな日常』を求めるなら。僕を、ただの相棒としてしか見られないのなら」

「やめて、エラルド……言わないでっ」

「――もう、僕に近づかないでくれ」


ガシャンッ、と。

 私の中で、何かが完全に砕け散る音がした。


執務室の冷たい空気が、肺を凍らせていく。

 彼は、私の「昔に戻りたい」という願いが、今の彼にとってどれほどの拷問であるかを、明確に突きつけてきた。

 私が彼に向けた「相棒としての親愛」は、彼にとっては、自らの罪と醜悪さを突きつけられる針のむしろでしかなかったのだ。


「……っ」


私は、何も言い返すことができなかった。喉の奥に鉛が詰まったように、言葉が出てこない。

 テーブルの上に取り残されたマグカップから立ち上るホットミルクの湯気だけが、二人の間に横たわる、決して越えられない深くて暗い断絶の溝を、ただ静かに揺らいでいた。

 やがてその熱も、残酷なほどあっけなく、冷たい夜の空気の中に溶けて消えていった。

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