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過ぎ去った嵐

厚いベルベットの遮光カーテンの隙間から、夕暮れの光が、赤く細い糸のように床へ落ちていた。

 嵐が去った後の、死んだような凪。

 静まり返った公爵邸の最上階。巨大な天蓋付きベッドの中は、外の石壁が放つ春先の冷たさが嘘のように、ひどく生温かい熱と、むせ返るような匂いに満ちていた。

 汗と、シダーウッドの残り香と、そして、決して誤魔化しようのない――男女が肌を重ね合わせ、境界線を完全に踏み越えた、生々しく甘い匂い。


「……っ」


エラルドは、微かな頭痛と共にゆっくりとまぶたを開けた。

 視界が、ゆっくりと焦点を結ぶ。

 最初に認識したのは、己の胸に張り付くような、柔らかくて重い『質量』だった。


自身の腕の中に、すっぽりと収まっている小さな体。

 乱れたプラチナブロンドの髪の隙間から、規則正しい、けれどどこか疲労しきった浅い寝息が聞こえる。マリーだ。彼女は、エラルドの素肌に直接頬を預け、彼が少しでも動けばすぐに分かるように、その太い腕を両手でギュッと抱きしめたまま、泥のように眠っていた。


(……僕は、一体……)


エラルドのサファイアの瞳に、極寒の理性の光が、ゆっくりと、しかし確実に戻ってくる。

 彼は、自らの内に意識を向けた。

 昨日まで、彼を狂気と絶望の淵に追い詰めていた、あのドス黒い『熱』。心臓の奥底で脈打ち、思考を泥のように濁らせ、純粋な愛情を醜悪な独占欲へと強制的に反転させていたギデオンの精神呪詛。


――ない。

 嘘のように、綺麗さっぱり消え失せている。

 魔力回路を流れているのは、彼本来の澄み切った光と、静謐な氷の魔力だけだった。呪いの残滓すら、一滴たりとも残っていない。


(呪いが、消えた……? どうやって。セドリックの解呪薬は、まだ完成していないはずなのに)


エラルドは、ベッドのシーツに沈む己の右手を、ゆっくりと持ち上げた。

 震える指先。そして、胸元で丸くなるマリーの、無防備な寝顔。

 冴え渡った頭脳と論理的な思考回路が、即座に一つの明確な『解』を導き出した。


マリーの持つ、いかなる魔法も結界も粉砕する『特異点』の体質。

 通常、彼女のその力は、物理的な接触(拳による打撃など)によって外部の魔法を破壊するものだ。だが、もし、その『特異点』を持つ人間と、呪いを宿した人間が、魔力回路が最も無防備になるほどの極限の精神状態において、粘膜を伴うほどの深い、直接的で継続的な肉体の交わりを持ったとしたら。


彼女の体温が、吐息が、そして彼女のすべてが彼の中に溶け込み、逆に彼のすべてが彼女の中へと注ぎ込まれる、その圧倒的な一体化の過程で。

 彼女の『特異点』の力は、エラルドの魔力回路の深層にまで直接流れ込み、そこに根を張っていたギデオンの呪いを、内側から完全に破壊し、霧散させたのだ。


(……僕の呪いは、彼女との交わりによって、浄化された……)


呪いが解けた。

 その事実を理解した瞬間、エラルドの心を満たしたのは、歓喜でも安堵でもなかった。


――ズズンッ、と。

 胃の腑に、真っ赤に焼けた鉛の塊を流し込まれたような、強烈な吐き気と絶望だった。


完璧に理性が戻ったということは、自分が狂気に呑まれていた間に『何をしたのか』を、一切のフィルターなしに、細部に渡って正確に自覚するということだ。

 エラルドの視線が、部屋の惨状をなぞる。

 内側から粉砕され、蝶番ごと吹き飛んだ分厚いマホガニーの扉。

 床に散乱した、鋭利な氷の破片。

 そして、ベッドの足元に無惨に引き裂かれて落ちている、見慣れた学園の制服と、下着。


エラルドは、息を呑み、己の腕の中で眠る少女へとおそるおそる視線を落とした。

 羽毛布団から覗く、彼女の白い肩。

 そこには、痛々しいほどにくっきりと、赤紫色の鬱血の痕――彼が理性を失い、獣のように貪ったキスマークと、力任せに押さえつけた指の痕が、無数に刻み込まれていた。


首筋、鎖骨、そして布団に隠された、その先の柔らかい肌にまで。

 傷一つなかった彼女の純白のキャンバスは、すべて、彼自身の剥き出しの情念と暴力によって、赤く、痛ましく汚されている。


「あ……」


エラルドの喉から、ヒュッと引きつった音が漏れた。

 彼女の顔を見る。

 いつも太陽のように明るく笑っているはずの目元は、泣き腫らして赤く熱を持ち、長い睫毛はまだ涙の跡で濡れて張り付いていた。

 眠りながらも、時折「ひぐっ」と小さなしゃくり上げを漏らし、恐怖の残滓に怯えるように体をビクッと震わせる。


『痛いのも、怖いのも、全部……私が、もらってあげる』

『あんたが気が済むまで、どこまでも付き合ってあげるから』


記憶の底から、彼女の泣き笑いのような、あの掠れた声が蘇る。


エラルドは、震える両手で自身の顔を覆い、音を立てずに絶望の淵へと沈み込んだ。


(……僕は、なんてことをしてしまったんだ)


彼女は、何も分かっていなかった。

 恋愛の機微にも、男女の情事にも、絶賛するほど鈍感で、無知な少女だ。

 自分がこれから何をされるのか、その行為が女性にとってどれほど重く、取り返しのつかない意味を持つのか。ただただ「痛い」「怖い」という暴力的な恐怖しか理解できないまま、それでも彼女は、彼がこれ以上一人で苦しまないようにと、己の身を差し出したのだ。


男としての悦びなどではない。ただの、純粋すぎる『自己犠牲』。

 彼女は、エラルドという幼馴染の命と心を救うためだけに、自身の体と、少女としての純潔を、恐怖に泣き叫びながら彼に差し出したのだ。


「……っ、あァ……っ」


両手のひらから、ポタポタと涙がこぼれ落ちる。

 胸を掻き毟りたくなるほどの、凄絶な自己嫌悪と罪悪感。


僕は、彼女のその無知につけ込んだ。

 呪いのせいだと言い訳などできない。あの醜悪な執着も、彼女を自分だけの部屋に閉じ込めてしまいたいという仄暗い独占欲も、間違いなくエラルド自身の中に初めから存在していた「マリーへの深すぎる愛情」の裏返しなのだから。

 自分の中にある泥のような男の情欲を、力ずくで彼女に押し付け、蹂躙した。

 彼女が恐怖で泣いているのを分かっていながら、その涙を舐め取り、無理やり自身の熱を叩き込み、何度も、何度も、彼女が気絶するように眠りに落ちるまで、その体を貪り尽くした。


(僕は……化け物だ)


教団の残党など比較にならない。

 十年間、血を吐くような思いで鍛え上げてきたはずの理性。彼女の笑顔を護るためなら、自分の命など惜しくはないと誓ったはずの高潔な騎士の誇り。

 そんなものは、すべて嘘だった。

 結局のところ、自分は、彼女の強さと優しさに甘え、彼女の羽根をへし折って無理やり自分の鳥籠に引きずり込んだ、最も醜悪な化け物になり果てたのだ。


「……ごめん。ごめんね、マリー……っ」


エラルドは、布団の中で彼女の小さな手を両手で包み込み、自らの額をすり寄せて、声を殺して慟哭した。

 ごめん。痛かっただろう。怖かっただろう。

 僕のような汚い男のせいで、君の真っ白な心に、消えない傷を刻み込んでしまった。


エラルドの涙が、マリーの手の甲を濡らす。

 その時。


「……んん……」


マリーが、小さく身じろぎをした。

 エラルドは心臓を鷲掴みにされたように息を止め、体を硬直させた。

 目覚めた彼女は、僕にどんな顔を向けるだろうか。

 怒りか、軽蔑か。それとも、僕の顔を見るなり、恐怖で悲鳴を上げて逃げ出してしまうだろうか。どんなに罵倒されても、殴り殺されても文句は言えない。


だが、薄くまぶたを開けたマリーは、ぼんやりとした瑠璃色の瞳でエラルドの顔を数秒見つめると。


「……エラルド。泣いてるの……? 痛いの、どっかいった……?」


掠れた、ひどくかすれた声。

 彼女は、自分がどれほどの酷い扱いを受けたかも忘れたかのように、ただ純粋に、エラルドの心配をして、布団の中からゆっくりと手を伸ばし、彼の濡れた頬を撫でようとした。


その瞬間。

 エラルドの心の中で、何かが決定的に、そして永遠に砕け散る音がした。


(――ああ、もう、戻れないんだ)


エラルドは、彼女のその伸ばされた手を、微かに震える手でそっと握り返した。

 その指先の、なんと細く、頼りないことか。

 こんな小さな体で、彼女はあの絶望的な呪いの底から、彼を引っ張り上げてくれたのだ。


同時に、突きつけられる残酷な真実。

 自分たちはもう、昨日までの『ただの幼馴染』には、二度と戻れない。


彼女が勝手に公爵邸に上がり込み、ノックもせずに部屋に入ってきて、クッキーを横取りして笑い合う。

 大きなソファやベッドで無防備に昼寝をする彼女に、呆れたように小言を言いながら毛布をかける。

 そんな、陽だまりのように温かくて、純粋で、無条件の信頼に満ちていた穏やかな日常は。

 昨夜、エラルド自身が彼女のブラウスを引き裂き、その肌に歯を立てた瞬間に、完全に死滅したのだ。


これからの彼女は、エラルドを見るたびに、昨夜の痛みを思い出すかもしれない。

 あるいは、その特有の図太さで「そんなこと気にしてないよ!」と笑って許してくれるかもしれない。

 だが、エラルド自身が、もう絶対に許せない。

 彼女に触れるたび、彼女の笑顔を見るたび、自分が彼女を力で組み伏せ、恐怖で泣かせたという拭いようのない『罪』が、呪い以上に深く彼の心臓を突き刺し続けるのだ。


「……泣いてないよ、マリー」


エラルドは、サファイアの瞳から涙を消し去り、血の滲むような努力で、いつもの『完璧な微笑み』を作り上げた。

 いや、それはもはや、かつての完璧な氷の貴公子の仮面ではない。

 取り返しのつかない罪を背負い、地獄の底で生きることを決めた罪人の、ひどく冷たくて、けれどどこまでも悲しい微笑みだった。


「もう、痛くない。……君のおかげで、僕は正気に戻れたよ」

「そっか……よかったぁ……」


マリーは、ホッとしたようにふにゃりと笑うと、体力の限界だったのか、再びコテン、とエラルドの胸に頭を預けて、泥のような深い眠りへと落ちていった。


エラルドは、規則正しい寝息を立て始めた彼女の背中を、まるで壊れ物を扱うように、そっと、慎重に抱きしめた。

 もう、あの狂気じみた力は込めない。

 その代わり、彼の心の中に、呪いとは違う、もっと静かで、氷のように冷たく、絶対に折れることのない『覚悟』が形成されていく。


(僕は、君の『家族』には戻れない。……君の隣で、無邪気に笑う資格は、もう永遠に失われた)


彼女の純白を汚し、心身を蹂躙したこの罪は、一生かけても償い切れるものではない。

 だからこそ。

 彼は、彼女を愛することを、誰にも渡さないと執着することを、やめることはできない。


(もし、君がいつか本当の恋を知って、僕のしたことの恐ろしさに気づき、僕を拒絶して逃げようとする日が来ても)

(もし、世界中のすべての人間が君の敵に回ろうとも)


エラルドのサファイアの瞳が、朝日に照らされて、鋭く、研ぎ澄まされた刃のような光を放つ。


「……僕のすべては、君のものだ」


誰にも聞こえない、暗闇の中での、血の誓い。

 幼馴染という光の当たる特等席を自らぶち壊した彼は、これからは、最も深い影の中から彼女を護り、そして永遠に縛り付ける『絶対的な守護者』であり『罪人』として生きることを選んだのだ。


春の朝の冷たい風が、吹き飛んだ扉の向こうから吹き込んでくる。

 エラルドは、眠るマリーの肩までしっかりと羽毛布団を引き上げると、その乱れたプラチナブロンドの髪に、懺悔するように、そして神に祈るように、深く、静かに口づけを落としたのだった。




* * *




あれからどれから経ったのだろうか。

 


「……んっ」


深い泥の底から浮上するように、私はゆっくりとまぶたを開けた。

 視界が、ぼんやりと茜色に滲んでいる。

 体を動かそうとした瞬間、全身の筋肉、いや、骨の髄から悲鳴が上がるような、経験したことのない重い気怠さと、局所的な鋭い痛みが走った。


「あ……ぅ、痛っ」


思わず声が漏れる。

 自分の体が、自分のものじゃないみたいだった。

 引き裂かれたブラウスの代わりに、今はエラルドの大きな羽毛布団が私の裸体を包んでいる。だが、その布擦れの感触すら、今の私には過敏すぎてビクッと肩が跳ねてしまう。


首筋、鎖骨、胸元、そしてもっと奥の、柔らかな場所。

 彼が唇を這わせ、歯を立て、力任せに自身の熱を刻み込んだすべての場所が、火傷をしたようにジンジンと熱を持ち、脈打っていた。


(私……)


霞んだ頭の中に、数時間前の記憶が、熱を帯びたフラッシュバックとなって押し寄せてくる。


獣のように濁ったエラルドの瞳。

 引き裂かれた服。逃げ場のない重み。

 怖かった。本当に、殺されるんじゃないかと思うほど怖くて、息ができなくて、子供のように泣き叫んだ。

 彼が私の中に無理やり押し入ってきた時の、体が真っ二つに裂けるような激痛。それは、教団の化け物に殴られた時の痛みなんかとは全く違う、私の存在そのものを根底から作り替えようとする、恐ろしい暴力だった。


――でも。


(なんで……)


布団の中で、私は自分の体をギュッと抱きしめた。

 怖くて、痛くて、たまらなかったはずなのに。

 彼の熱い息遣いが耳元で響き、私の体の一番奥深くに、彼自身のすべてがどくどくと注ぎ込まれたあの瞬間。


『マリー……っ、マリー……!!』


まるで縋るように私の名前を呼びながら、私を抱きしめる彼の背中が、ひどく小刻みに震えているのを感じた時。

 私の頭の芯が、パチパチと火花を散らして、真っ白にショートしたのだ。

 痛みの向こう側から、信じられないほどの熱波が押し寄せてきた。お腹の奥が甘く痺れ、脳髄が溶け出すような、未知の快感。

 私は彼の下で、恐怖の涙とは違う、もっと熱くてどうしようもない涙を流しながら、自分から彼の背中にしがみつき、その体を求めてしまっていた。


(嫌じゃ、なかった……)


その事実に、私は愕然とした。

 あんなに乱暴にされて、痛い思いをしたのに。私の奥には今も、彼が残した熱い塊がドクドクと居座っていて、それが私に「お前はもうエラルドの女だ」と、強制的に刻み込んでいる。

 ガサツでお転婆で、色気なんて欠片もなかった『野生児のマリー』は、あの昼下がりの嵐の中で完全に殺された。

 今の私は、彼の匂いと熱に染め上げられ、彼の指先一つで簡単に甘く蕩けてしまう、全く別の生き物に作り替えられてしまったみたいだ。


「……マリー」


ふいに、頭上から掠れた声が降ってきた。

 ビクンッ! と、私の体が勝手に大きく反応してしまう。


恐る恐る視線を上げると、私のすぐ隣に、エラルドが身を起こして座っていた。

 彼もまた、上半身に何も纏っていない。その引き締まった白い肌には、私が苦痛と快感に耐えきれずに爪を立ててしまった、痛々しい引っ掻き傷が無数に残っていた。


だが、私の目を釘付けにしたのは、彼の『顔』だった。


「エラル、ド……?」


そこには、私を組み伏せた時のあの狂気に満ちた化け物はいなかった。

 呪いの濁りは完全に消え失せ、サファイアの瞳は、元の極寒の氷河のような透明さを取り戻している。

 しかし、その瞳には光がなかった。

 深い、深い絶望。まるで、世界で一番重い罪を背負って断頭台に立つ罪人のような、息が詰まるほどの凄絶な自己嫌悪が、彼の美しい顔を歪ませていた。


「……呪いは、消えた」


エラルドの唇が、微かに動く。

 その声は、泣き出しそうに震えていた。


「君のおかげだ。君が、僕の体の中にまで踏み込んで……あの呪いを、跡形もなく消し飛ばしてくれた」


彼は、自らの両手で顔を覆った。


「でも……僕は、正気に戻って、自分が何をしたのかを……君から何を奪って、どれほど取り返しのつかない傷を刻み込んだのかを……っ」


ポタ、ポタと。

 彼の指の隙間から、透明な涙がシーツに零れ落ちる。

 呪いが解けた安堵など、微塵もない。彼は、私を傷つけてしまったという事実の重さに押し潰され、一人で地獄の底に墜ちていた。


「……ごめん。ごめんね、マリー。僕のような汚い男が、君の優しさにつけ込んで、君を……こんな……っ」


声を殺して泣く彼の背中を見て。

 私の胸の奥が、ギュッと痛く締め付けられた。体の痛みなんかじゃない。彼がそんな顔をしていることが、何よりも悲しかった。


私は、重い体を無理やり動かし、ゆっくりと身を起こした。

 シーツが擦れるだけで肌がヒリヒリと痛んだが、私は構わず、彼へと手を伸ばした。


ひび割れた窓硝子の隙間から、どこか冷たい春の夕風が忍び込んでくる。

 汗とシダーウッド、そしてひどく甘く生々しい匂いが沈殿する寝室の空気が、その風に撫でられて微かに揺らいだ。


汗とシダーウッド、そしてひどく甘く生々しい匂いが沈殿する寝室の空気が、その風に撫でられて微かに揺らいだ。


「……泣かないでよ、エラルド」


私は、鉛のように重く、節々が軋む右腕をゆっくりと持ち上げた。

 指先が、うなだれる彼の青白い頬にそっと触れる。

 ビクンッ、と。

 私の指がわずかにかすめただけで、エラルドの分厚い肩が、まるで鞭で打たれた罪人のように激しく跳ねた。

 彼は顔を上げない。ただ、シーツを握りしめる両手の甲に、青白い筋がミシミシと浮き上がるほど力が込められ、その広い背中が小刻みに、ひどく怯えたように震えている。


(……私に触れられる資格すら、自分にはないって本気で思ってるんだ)


彼のその姿を見て、ズキリと私の胸の奥が痛んだ。

 下半身から這い上がってくる、引き裂かれたような鈍い痛みよりも、彼が一人で地獄の底にうずくまっていることの方が、私には何倍も苦しかった。


「確かに、めちゃくちゃ痛かったし、怖かったよ」


私が淡々と事実を口にした瞬間。

 エラルドの喉の奥から「ヒッ……」と、息が引きつるような音が漏れた。

 彼の呼吸が浅く、不規則に乱れる。私が発する『痛み』という言葉の一つ一つが、見えない刃となって彼の心臓を滅多刺しにしているのが、手に取るように分かった。


「あんた、力加減ってものを全然分かってないんだもん。いきなりあんな……っ、教団の化け物に殴られるより、ずっと痛かったんだから。バカ、大馬鹿野郎」


私は、わざと荒っぽい言葉を吐き捨てながら、彼の頬を伝い落ちる冷たい涙を、親指の腹でぐいっと拭った。

 私の手は、さっき氷の檻を砕いたせいで傷だらけで、少し血が滲んでいる。その無骨な指が、彼の陶器のように美しい、けれど今は絶望に歪みきった顔に触れる。

 私の指の熱が伝わったのか、エラルドは弾かれたように顔を上げた。

 そのサファイアの瞳は、涙でぐしゃぐしゃに濁り、私に対する凄まじい『恐怖』――拒絶されることへの恐怖に染まりきっていた。


「でもさ。……死ななかったじゃん」


私は、引きつりそうになる頬の筋肉を無理やり持ち上げて、ニカッと笑ってみせた。


「……マ、リー……?」

「呪いも、消えてなくなったんでしょ?」


エラルドの唇が、声にならない言葉を紡ごうとして、ワナワナと震えている。

 私は、彼のその震える唇を塞ぐように、言葉を続けた。


「じゃあ、私の勝ちだ」

「勝ち……?」

「そう。私が一番図太い盾になって、あんたをあんな気持ち悪い化け物(呪い)から、力ずくで引きずり戻してやったんだから。私の完全勝利でしょ? 文句ある?」


私は、ズキズキと痛む腰を庇いながら、少しだけ身を乗り出して彼の顔を覗き込んだ。


(……私の中は、もう、あんたの熱でドロドロに作り替えられちゃったけど)

(でも、あんたが正気に戻ってくれたなら、こんな痛み、なんてことない)


私がフッと得意げに笑ってみせると、エラルドのサファイアの瞳が、限界まで見開かれた。

 彼の瞳の奥で、強烈な自己嫌悪と、私の言葉の意味を処理しきれない混乱が、激しい渦を巻いている。


「どうして……」


ひび割れた声が、夕暮れの部屋にポツリと落ちた。


「どうして、君はそうやって笑えるんだ……ッ!」


エラルドの両手が、私の肩を掴もうと空中で彷徨い、そして「自分にはその権利がない」と思い出したように、力なくシーツの上へと墜落した。


「僕が、君にどれほど恐ろしいことをしたか……! 君の尊厳を、未来を、僕の醜い欲で無茶苦茶に引き裂いて……君を、一生消えない傷で汚したんだぞ! なのに……っ」


血を吐くような、凄絶な叫びだった。

 彼は、私に罵倒されたかったのだ。殴られ、憎まれ、永遠に軽蔑されることで、自分の犯した大罪に対する『罰』を受けようとしていた。

 なのに、私がすべてを許し、あろうことか「自分の勝ちだ」と笑って受け入れてしまったから。彼の完璧な頭脳は、その無条件の赦しに耐えきれず、完全に崩壊しようとしていた。


「汚されたとか、傷とか、そういう難しいことは分かんない」


私は、シーツの上で震えている彼の大きな手を、私の両手でギュッと包み込んだ。

 エラルドが、ハッと息を呑む。

 私の手より何回りも大きくて、分厚くて、そして私を組み伏せた恐ろしい腕力を持っているはずのその手は、まるで迷子になった子供のように、冷たく小刻みに震えていた。


「だって、あんたが一人で暗闇の中に引きこもって、呪いに喰われて壊れちゃうくらいなら」


私は、その震える手を自分の胸元――彼が赤く痛ましい痕を刻み込んだ、鎖骨のすぐ下――に、強引に引き寄せて押し当てた。

 トクン、トクン、と、私の心臓が少し早鐘を打っているのが、彼の手のひらにも伝わったはずだ。


「私を巻き込んで、一緒に泥だらけになってくれた方が、百倍マシだもん」

「……ッ、あ……」

「一人でカッコつけて、全部抱え込もうとするからこういうことになるんだよ。私たちは『二人で一つ』だって、約束したでしょ。だから……あんたのそのドス黒い呪いも、罪悪感も、全部私が半分持ってあげる」


私が真っ直ぐに彼の目を見つめて告げると、エラルドの喉から、ヒューッ、と空気が漏れるような音が鳴った。

 彼の瞳から、せき止められていたものが決壊したように、大粒の涙が次々と溢れ出し、シーツに黒い染みを作っていく。


「マリー……っ、あァ……マリー……!!」


もはや、言葉にはなっていなかった。

 エラルドは、獣のような嗚咽を漏らしながら、その長い腕で私の体を――今度は暴力ではなく、まるで壊れやすいガラス細工でも抱きしめるように――恐る恐る、けれど二度と手放さないという強い力で、掻き抱いた。


私の首筋に埋められた彼の顔が、熱い涙でぐしゃぐしゃに濡れているのが分かる。

 彼の大きな背中が、呼吸をするたびに激しく上下に揺れていた。


「……よしよし。もう大丈夫だからね、エラルド」


私は、痛む体で彼の背中に腕を回し、子供をあやすようにゆっくりと撫でた。

 彼自身の絶望も、私への重すぎる執着も、消えてなくなったわけじゃない。

 きっと彼は、この先もずっと、私を傷つけた罪悪感に苛まれ、同時に私を誰にも渡したくないという仄暗い熱情を抱えて生きていくのだろう。


でも、それでいい。

 彼の胸板から伝わってくる、ドクドクという力強い心音と、私の奥底で燻り続ける彼の熱が、私たちが間違いなく生きていること、そして二度と離れられない『共犯者』になったことを、痛いくらいに証明してくれていたから。




私は、鉛のように重い腕を伸ばした。

 まだ熱を持ったまま震えている彼の背中に、そっと手を回し、少しだけ身を寄せて彼を抱きしめようとした。

 これまでは、それで良かった。

 ソファで彼がうなされている時も、雷の夜に怯えている時も、こうして温もりを分け合うことが、私たちにとって一番の『正解』だったから。


――だが。


指先が、彼の汗ばんだ肌に触れた瞬間。

 エラルドは、まるで焼け火箸を押し当てられたかのように、全身を激しく跳ねさせた。


「……ッ、触らないでくれ!!」

「え……?」


拒絶。

 弾かれたように、彼が私から距離を取った。

 ベッドの端まで後ずさった彼の顔は、夕闇の中で死人のように蒼白で、その瞳は、逃げ場のない獣のような『自制の苦痛』に血走っていた。


「エラルド……?」

「……ごめん。君は、何も悪くない。僕が……今の僕が、君のその優しさに触れたら、また君を傷つけてしまうかもしれないから」


冷え切った空気の中で、彼の声だけが、火傷をしたように熱く震えている。


 恋愛を知らない私の無垢な優しさに、これ以上「男」としての自分が甘え、その清らかな魂を泥のような情欲で汚し続けることは、エラルド・フォン・アルバーンという人間の誇りが、一滴たりとも許さなかったのだ。


「……服を、着て。君の制服は、僕が破いてしまったから……ひとまず、これを」


エラルドは、視線を床へと落としたまま、震える手で自身の大きめのシャツを手に取った。

 私の肩にふわりと掛けられた布地からは、濃厚なシダーウッドの香りと、彼自身の熱、そして、つい先ほどまで私たちの肌が重なっていたことの証明である、むせ返るような匂いが立ち上る。

 

 シャツを掛ける彼の指先が、私の肌に数ミリも触れないように。

 まるで猛毒を扱うかのような、ひどく臆病で、針の穴を通すように精密な拒絶。

 その徹底した距離感が、私の内側で疼いている痛みを、さらに鋭く逆なでしていく。


「……もう二度と、君に指一本触れないと誓う」


エラルドは、自らを断罪するような低い声で、呪文のようにそう呟いた。

 

「君が、いつか心から愛する男を見つけて、この公爵邸を去るその日まで……僕は、君を二度と縛らない。君の隣にいる資格を……僕は自ら捨てたんだ」


シャツの襟元を握りしめた私の指先が、ガタガタと震えた。

 彼の宣告を聞いた瞬間、私の胸の奥が、彼の体温から物理的に切り離されたことによる強烈な『寒さ』に襲われた。

 

(二度と、触れない……?)


あんなに激しく、私の心臓の音をかき消すほどの熱量で私を求めた、あの腕。

 怖くて、痛くて、たまらなかったはずなのに。

 その熱が一方的に奪われたことが、どうしてこんなにも、私の胸を鋭い錐で刺されたように寂しく、惨めな気持ちにさせるのか。


エラルドの瞳は、もう、私のことを見ようとはしなかった。

 呪いの熱は消えたはずなのに、私たちの間には、かつての幼馴染という名の『平穏な壁』さえ存在しなくなっていた。

 

 ただ、夕暮れの凪の中に、取り返しのつかない罪の匂いと。

 名前をつけられない、ひどく冷たくて重い孤独だけが、二人の間にどこまでも深く沈殿していた。


* * *


公爵邸の裏口から、実家であるトマス薬局への短い道のり。

 すっかり日が落ち、冷気を孕んだ夜風が、私の項を執拗に撫でていく。

 一歩踏み出すたびに、足の付け根から腰の奥にかけて、ズキリと電気が走るような鋭い痛みが走った。

 

(痛いよ……バカ。……本当に、バカなんだから)


エラルドから借りた外套を、私は縋るように強くかき抱いた。

 布地から漂う彼の匂いを嗅ぐだけで、首筋に埋められた彼の熱い唇や、理性を失って私の名前を呼び続けたあの声を思い出して、ギュッと切なくなる。


勝手口を開けると、見慣れたオレンジ色の魔力灯の光と、煮込まれた肉と野菜の家庭的な匂いが私を包み込んだ。

 

「あら、マリー? 遅かったわね。エラルド様、やっぱりお加減悪かったんでしょ? ベアトリスさんが血相変えてたもの」


キッチンで鍋をかき混ぜていた母さんが、ふり返る。

 その、いつもと変わらない『日常』の風景を見た瞬間。

 私の喉の奥に、ゴロリとした熱い塊がせり上がってきた。


「マリー? どうしたの、そんなに顔色悪くて。それに、その外套……」


母さんの視線が、私が羽織っているエラルドの大きな外套と、その下から覗く、不格好なほどに裾の長いシャツを捉えた。

 心臓が、耳のすぐそばで激しく脈打つのが聞こえる。

 言ってはいけない。言えるはずがない。

 私が今日、エラルドの部屋で、彼とどういうふうに、どんな熱情の中に墜ちていったかなんて。


「あ、う、うん……! エラルドね、魔力酔いで熱出してて……! 私が看病してたら、ちょっと魔法が暴走して、私の制服がビリビリになっちゃってさ! ははっ、あいつ、本当に不器用なんだから!」


私は、ひきつりそうになる頬の筋肉を必死に持ち上げて、いつもの『元気なマリー』の笑顔を作った。

 声が震えないように。不自然な歩き方を悟られないように。

 太ももの奥の激痛を、私は奥歯を噛み締めて殺した。


「あらあら、また特異点の力で無理やり抑え込んだのね。怪我はなかった?」

「平気平気! ちょっとカスリ傷ができたけど、エラルドが治癒魔法かけてくれたから! 制服は、後でベアトリスさんが直して届けてくれるってさ」

「もう、相変わらず無茶ばかりして……。ほら、シチューができてるから、早く手を洗ってきなさい」


母さんは呆れたように笑い、再び鍋の火加減に集中した。

 私の稚拙な嘘は、ひとまずこの平和な家の空気に溶け込んだらしい。


「……うん。洗ってくる」


私は、逃げるように洗面所へと駆け込み、扉を閉めて鍵をかけた。

 鏡の前に立つ。


シャツの襟元を少し開くと、そこには茜色の光の下で見た時よりも、ずっと色濃く、生々しく、赤紫色の痕が刻み込まれていた。首筋、鎖骨、胸元。

 どんな治癒魔法でも消すことのできない、エラルドが私の体に残した、呪いよりも深い『支配の刻印』。


「……っ」


私は、蛇口を全開にして、冷たい水を何度も何度も顔に叩きつけた。

 水滴が滴る顔を鏡で見つめる。

 両親に、初めて、こんなに取り返しのつかない嘘をついた。

 

 エラルドは「二度と触れない」と言った。

 でも、私の体は、私の皮膚は。

 彼に触れられ、無茶苦茶にされたあの瞬間の、恐怖と快楽が入り混じったあの熱い感覚を、細胞の一つ一つが記憶してしまっている。

 

 彼と『家族』に戻る道は、もうどこにも見当たらない。

 私は今日、一番大事な幼馴染を救ったはずなのに。

 どうしてこんなに、自分が、世界で一番寒くて暗い場所へ一人で墜ちていくような――どうしようもない孤独に、震えているのだろう。


エラルドの外套から漂うシダーウッドの香りが、私を鳥籠に閉じ込める鎖のように、いつまでも私の肌に纏わりついていた。

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