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マリーの必死のカチコミ

アルバーン公爵邸の最上階。

 エラルドの私室へと続く廊下に足を踏み入れた瞬間、私は思わず「ぶるっ」と身震いをした。


春の暖かな陽気はそこにはなく、まるでそこだけが真冬の霊峰のように空気が凍てついている。分厚い赤絨毯の表面にはうっすらと霜が降り、私のローファーが踏み込むたびに、パキ、パキと微かな破砕音を鳴らした。


一番奥にある、重厚なマホガニーの扉。

 ドアノブに手を伸ばすと、ビリッと皮膚が張り付くような極寒の痛みが走った。鍵がかけられているどころではない。扉の隙間という隙間が、内側から発生した分厚い氷によって完全に目張りされ、文字通り『絶対的な拒絶の結界』として機能していた。


「……一人で殻に閉じこもって、何が氷の貴公子よ」


私は、ジンジンと冷え切っていく右手を強く握り込み、限界まで大きく息を吸い込んだ。

 魔力が暴走しているなら、こっちにはこっちのやり方がある。


「開けろォォォォォッ!!」


ドゴォォォォォォンッ!!!


渾身の右ストレートが、マホガニーの扉のド真ん中に炸裂した。

 私の『特異点の拳』によって、強固な氷の結界がガラス細工のようにあっけなく砕け散る。爆発的な衝撃で扉の蝶番がへし折れ、分厚い木の板が部屋の中へと勢いよく吹き飛んだ。


もうもうと舞い上がる木屑と氷の粉塵。

 私はそれを手で払い除け、ズカズカと部屋の中へ踏み込んだ。


「エラルド!!」


叫んだ私の喉が、室内の異様な空気にヒュッと詰まった。

 薄暗い。分厚い遮光カーテンが完全に引かれた部屋は、昼間だというのに夜のような暗闇に沈んでいた。

 そして、空気がひどく重い。いつもの上品なシダーウッドの香りに混じって、高熱に浮かされる病人のような甘く重たい匂いと、暴走寸前の魔力が焦げるようなオゾン臭が、肺の奥までねっとりと絡みついてくる。


「……誰だ」


地の底から這い上がってくるような、絶対零度の声だった。

 部屋の奥。巨大な天蓋付きベッドの横で、壁に背を預けて座り込んでいる影が動いた。


「誰も入れるなと、言ったはずだ。……消えろ」


それは、私の知る『優しくて完璧な幼馴染』の声ではなかった。

 氷の刃そのもの。一歩でも近づけば命を刈り取るという、純粋で絶対的な排他衝動。アイクたちが「殺されるかもしれない」と顔を青ざめさせていた理由が、肌を刺すような殺気となって空間を支配していた。


だが、そんなもので私の足は止まらない。


「消えないよ。私だよ、大馬鹿野郎」


私がズン、と床を踏み鳴らして一歩前に出た瞬間。

 暗闇の中で、エラルドの肩がビクッと大きく跳ねた。


「マ、リー……?」


掠れた声。

 魔力灯の僅かな光が、彼の顔を照らし出す。

 プラチナブロンドの髪は汗で額に張り付き、その肌は死人のように蒼白だった。だが、私を見つめるサファイアの瞳だけが、異常なほどの熱を帯びてギラギラと濁っている。

 自らの内側で暴れ狂う呪いを強靭な意志で押さえ込むためか、膝の上で組まれた両手は、関節が白く浮き出るほどに固く握り込まれ、小刻みに震えていた。


「あんた、こんなになるまで一人で……!」

「来るなッ!!」


私が駆け寄ろうとした瞬間、エラルドが絶叫した。

 ガガガガガッ!! と音を立てて、私の足元から天井に向けて、鋭利な氷の棘が巨大な檻のように隆起し、私とエラルドの間を無情にも分断した。


「なぜ君がここにいる……帰れ、早く……っ、僕から離れろ!!」


荒い呼吸を繰り返し、肺から白い息を吐き出しながら、エラルドが自身の頭を抱え込む。


「お願いだ、マリー……今の僕は、君を……ッ」


――君を、傷つけてしまう。

 言葉の裏に張り付いた、ひどく臆病で、不器用な自己犠牲の悲鳴。

 自分の心がドス黒い呪いに乗っ取られていく恐怖にたった一人で耐えながら、それでも私を守ろうとして、必死に張った氷の壁。


そのどうしようもないほどの隔たりが、私の胸の一番奥にある導火線に、バチッ! と火をつけた。


「……ふざけんな」

「マリー……?」

「私が、『弱点になるから離れろ』って言われて、おとなしく引き下がるようなやつだと思ってんの!?」


私は、目の前にそびえ立つ氷の棘の檻に、素手でガシィッ! と掴みかかった。

 極寒の冷気が私の手のひらを凍らせようと牙を剥く。だが、私の手が触れた瞬間、強固なはずの氷の刃は『特異点』の力に抗えず、パキパキと甲高い音を立ててひび割れ、無害な光の粒子となって霧散していく。


「なっ……やめろ! 僕の魔力が……!」

「あんたが氷の壁を作るなら、私が何度だってぶっ壊してやる!!」


バキィィィィィィンッ!!!


拳に全霊の力を込め、氷の檻を真正面から粉砕する。

 顔面に冷たい魔力の残滓を浴びながら、私はエラルドの懐へと一直線に飛び込んだ。

 驚愕に見開かれた彼のサファイアの瞳。その顔の真横に、ドンッ! と拳を叩きつけて壁ドンの体勢で彼を逃げ場のない状況へと追い詰める。


「エラルドの馬鹿!! 呪いだか何だか知らないけど、私を遠ざければ私が幸せになるとでも思った!? あんたが一人で泥被って傷ついてるのに、私が平気な顔して笑っていられるわけないでしょ!!」

「……ッ」

「私を安全な場所に閉じ込めて、蚊帳の外にするなんて絶対に許さないって、あの冬に約束したでしょ! 私はあんたの隣で、一番うるさくて図太い盾になるって決めたの!!」


至近距離で、私のありったけの怒鳴り声が彼に降り注ぐ。

 エラルドの息が、ピタリと止まった。


私は構わず、両手でエラルドの汗ばんだ胸倉を強引に掴み上げた。


「……っ、熱い」


服越しに伝わってくる彼の体温は、氷のように冷え切ったこの部屋とは真逆の、尋常ではない高熱だった。

 呪いの熱だ。彼が必死に封じ込めようとしている、私に対する強烈なまでの情念と破壊的な衝動。


「……ばかだね、君は。本当に……救いようのない、大馬鹿だ」


ふいに、エラルドの喉の奥から、クツクツとひび割れたような笑い声が漏れた。

 彼を見下ろしていた私の背筋に、ゾクリと強烈な悪寒が走る。


「僕が、どれだけの思いで……君を遠ざけようとしていたか」


エラルドの纏う空気が、一変した。

 ギリギリのところで繋がっていた、今にも弾けそうであった理性の糸が、今、私の熱と匂いを至近距離で浴びたことによって、ブツンッと音を立てて焼き切れたのだ。


「エラル……」


私が名前を呼ぼうとした瞬間。

 ドンッ!! と、凄まじい力で視界が反転した。

 胸倉を掴んでいたはずの私の腕が、いとも容易く払いのけられ、両手首を頭上で一纏めにされて床に押さえつけられる。

 私の体の上に、高熱を発するエラルドの分厚い体が、重くのしかかっていた。


「……あ」


見上げた彼の瞳を見て、私は初めて『恐怖』に似た息苦しさを覚えた。

 そこにあるのは、いつもの優しい幼馴染の光ではない。

 獲物を絶対に逃さないと決めた捕食者のような、ひどく甘く、そして底なしの泥沼のように暗く濁った『情念』の炎。


「……幼馴染? 盾? 笑わせないでくれ」


エラルドの冷たい指先が、私の首筋をなぞり、そのまま制服の襟元に深く指を潜り込ませた。


「君のその無防備さが……他の男にも向けられるその無自覚な笑顔が、僕をどれだけ狂わせているか。……君には、一生分からないだろうね」


呪詛のような、甘く低い声。

 エラルドの顔が、私の首筋に埋められる。

 彼の乱れた熱い息が私の肌を焼き、重い体が完全に私を組み伏せた。

 理性を完全に失い、ただ私を自分だけの世界に閉じ込めるためだけに牙を剥いた呪詛の種の狂気が、逃げ場のない密室で、とうとう完全に解き放たれてしまったのだった。


ドンッ、という鈍い衝撃が背中を打ち据え、肺から短い呼気が漏れた。


視界が、ぐらりと反転した。

 つい数秒前まで私が胸倉を掴み、壁際へと追い詰めていたはずだった。だが、気づけば私は、冷え切った自室のベッドに仰向けに組み伏せられていた。


「え……?」


状況が、まるで理解できない。

 私の頭上でクロスするように纏められた両手首には、ギリリと骨が軋むほどの強い力が込められている。鉄の万力のような、絶対に逃がさないという意思を持った、男の力だ。


のしかかってくる、分厚く、重たい体。

 いつもは綺麗にアイロンがけされているはずのシャツ越しに、火傷しそうなほどの異常な高熱が、私の薄い制服の布地を隔てて直接肌へと伝わってくる。


「エ、エラルド……? ちょっと、痛いよ。離して……っ」


私は、彼の下で身を捩った。

 私の『特異点の拳』は、いかなる強固な魔法の結界も粉砕する。だが、今私を押さえつけているのは魔法ではない。彼自身の、純粋な男としての腕力だった。

 それに加えて、彼の体から立ち上る、泥のように重く粘り気のある魔力の圧が、部屋中の酸素を根こそぎ奪い取っていくように私にのしかかっている。息が、うまく吸えない。


「……マリー」


頭上から降ってきた声に、私の全身の産毛が総毛立った。


それは、私の知る幼馴染の声ではなかった。

 鼓膜にべっとりと張り付くような、低く、掠れた、ひどく甘い声。

 恐る恐る視線を上げると、暗闇の中で魔力灯の僅かな光を反射する、サファイアの瞳と目が合った。


「ひっ……」


声にならない悲鳴が、喉の奥で引きつった。

 違う。この目は、エラルドじゃない。


いつも極寒の氷河のように透き通っていて、私を見る時だけは、少し呆れたように優しく和らいでいた、あの綺麗な青色。

 その光は、完全に死に絶えていた。

 代わりにそこにあるのは、底なしの沼のように暗く濁った、赤黒い炎。私という存在を、骨の髄まで溶かして飲み込み、二度と外界へは逃がさないと宣言する、完全な捕食者の目だった。


「……あ、エラル、ド。やめ……どうしたの、ねえ……っ」


声が震える。奥歯がカチカチと鳴る。

 教団の化け物を前にした時でさえ、私は一度も恐怖で足がすくんだことなどなかった。どんな理不尽な暴力も、殴り飛ばせば解決できると信じていたからだ。

 だが、今の彼から発せられているのは『殺意』ではない。

 もっとねっとりとした、得体の知れない、私のような子供には到底理解の及ばない、ひどく仄暗い情念の波だった。


「やめて、じゃないだろう……マリー。君の方から、僕のこの一番深いところまで踏み込んできたんだ」


エラルドの顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 彼の乱れた、熱い呼吸が私の顔にかかる。シダーウッドの上品な香りは、もう完全に熱病の汗と、血の匂いに塗り潰されていた。


「君は、本当に何も分かっていない。……僕が、どれだけ狂いそうな思いで、その無防備な笑顔を見ていたか」


彼の手が、私の手首を拘束したまま、もう片方の冷たい指先で私の頬をなぞった。

 ゾワリ、と。

 背筋を、巨大な蛇に這いずり回られているような悪寒が駆け抜けた。

 いつも口元についたお菓子の欠片を拭ってくれる、あの優しい指先と同じはずなのに。今は、その指が触れた場所から、皮膚が粟立ち、内臓が冷たく収縮していくのを感じる。


「……君は、誰にでもそうやって笑う。アイクにも、セドリックにも。……僕の知らない場所で、僕の知らない顔で笑って、勝手に傷ついて、勝手に泥だらけになって帰ってくる」


彼の指先が、頬から顎のラインを滑り、そのまま私の首筋へと這い降りてくる。

 脈打つ頸動脈の真上を、親指がゆっくりと、確かめるようになぞった。


「や、あッ……! 触んないで……っ、どこ触って……っ」


私は、半狂乱になって首を振った。

 何が起きているのか、分からない。ただ、彼の指の動き一つ一つが、私の知っている陽だまりのような、家族のような親愛とは全く違う、ひどく生々しくて、暴力的な意味を持っていることだけは、本能が警鐘を鳴らしていた。


「……分からないだろうね。君には、一生分からないままでいい」


エラルドの顔が、私の首筋に埋められた。

 ゾクッ、と。

 首筋の薄い皮膚に、彼の熱い唇と、熱病に浮かされた吐息が直接押し当てられる。

 ビクンッ、と私の体が大きく跳ねた。両手首の拘束から逃れようと必死に暴れるが、彼の体はビクともしない。


「っ、いやぁっ! エラルド、離して! お願いだから、いつものエラルドに戻ってよ!!」


涙が、ボロボロと溢れ出した。

 怖い。怖い。怖い。

 私の知っている、小言ばかりで、でも誰よりも優しくて、私が寝てしまったら静かに毛布をかけてくれるあの幼馴染は、どこに行ってしまったの。


首筋に押し当てられた唇が、微かに動く。

 吸い付かれるような、生々しい水音。

 何かが皮膚に刻み込まれるような、経験したことのないひどい悪寒に、私はついに子供のように声を上げて泣きじゃくった。


「うわぁぁぁんっ! やだ、やだぁっ……! なんで、こんなことするの……っ、私が何したって言うの……っ!」


私のその泣き声を聞いて。

 エラルドの動きが、ほんの一瞬だけ、ピタリと止まった。


首筋から顔を上げた彼のサファイアの瞳。

 そこには、呪いに完全に喰い破られ、狂気と執着でドロドロに濁りきった赤黒い炎が燃え盛っていた。

 だが。


――ポタ、と。


冷たい水滴が一つ、私の頬に落ちた。

 瞬きをした彼の瞳から、透明な涙が、一筋だけこぼれ落ちていたのだ。


(え……?)


私は、泣きじゃくるのを忘れ、呆然と彼を見つめた。

 彼の表情は、完全に狂った捕食者のそれだ。私を力で押さえつけ、恐怖で泣かせ、その泣き顔すらも自分だけのものだと歓喜しているような、醜悪なまでの歪んだ支配欲に満ちている。

 なのに、その目からこぼれ落ちた涙だけは。

 まるで、分厚い氷のさらに奥深く、真っ暗な海の底に一人で閉じ込められた『本当のエラルド』が、私を傷つけてしまうことに絶望して、声を枯らして泣き叫んでいるように見えた。


『……お願いだ、マリー……今の僕は、君を……ッ』


数分前、氷の檻の向こう側で、彼が頭を抱えて絞り出したあの悲鳴。


(……あいつは、ずっと、この化け物と戦ってたんだ)


恐怖で麻痺していた私の脳裏に、セドリックの言葉が蘇る。

 『愛情を触媒にして、独占欲や破壊衝動へと反転させる呪い』。


今、私を組み伏せているこの恐ろしい力は、エラルドの憎しみじゃない。

 彼が私を大切に想う、その大きすぎる愛情そのものが、ギデオンの呪いによってこのドス黒い暴力に変換されてしまっているのだ。

 私が暴れて彼を拒絶すればするほど、呪いは「逃がすな」と彼の精神を追い詰め、彼自身に『私を無茶苦茶に壊す』という、彼にとって一番の絶望を強制させようとしている。


「……マリー。君は、どこにも行かせない。僕の手の届かない場所で、君が誰かに笑いかけるくらいなら……いっそ、その羽根を折って、僕の部屋に一生閉じ込めて」


エラルドの冷たい指先が、私のブラウスの襟元にかけられ、無慈悲な力で布地を引き裂いた。

 ビリッ、という嫌な音が、暗い部屋に生々しく響く。

 肌寒い空気が露わになった肩口に触れ、私は恐怖で「ヒッ」と喉を引きつらせた。


「や、あ……っ! エラルド、いやだ、怖いよ……っ!」


私は、両手首を拘束されたまま、彼の下で必死に身を捩った。

 怖い。こんなエラルド、知らない。

 どこを触られているのか、これから何をされるのか、恋愛に疎い私には全く理解ができない。ただ、本能が「これ以上彼に呑み込まれたら、元の関係には戻れなくなる」と警鐘を鳴らし、全身の細胞が恐怖で悲鳴を上げていた。


私の抵抗を封じ込めるように、エラルドの重い体がさらに深くのしかかってくる。

 彼の顔が私の首筋に埋められ、熱病のような吐息と、貪るような唇が肌に押し当てられた。チクリとした痛みの後、内臓の奥が粟立つような、ひどく甘くて恐ろしい痺れが全身を駆け巡る。


「……ぁ、う……っ」


私の目から、ついに限界を超えた涙がボロボロと溢れ出した。


(……私、このままエラルドに、無茶苦茶にされちゃうの……?)


私の特異点としての拳なら、拘束を振りほどいて彼を殴り飛ばすことくらい、造作もないはずだった。

 彼がどれほど分厚い魔力と腕力で押さえつけようとも、私なら、いつだってこの狂気から逃げ出すことができる。


――だけど。

 涙でぼやけた視界の先。

 狂気と執着でドロドロに濁りきった彼のサファイアの瞳から、ポタ、と。

 一滴の、透明な涙が私の頬に落ちたのだ。


(え……?)


私は、息を呑んだ。

 私を押さえつけ、恐怖で泣かせ、その泣き顔すらも自分だけのものだと歓喜しているような、醜悪なまでの歪んだ支配欲。その顔に張り付いた狂気の仮面の、さらに奥深く。

 真っ暗な海の底に一人で閉じ込められた『本当のエラルド』が、私を傷つけてしまっているという絶望に耐えきれず、声を枯らして泣き叫んでいるのが分かった。


『……お願いだ、マリー……今の僕は、君を……ッ』


数分前、氷の檻の向こう側で、彼が頭を抱えて絞り出したあの悲鳴。

 セドリックの言葉が、脳裏をよぎる。


『彼がどんなに抑え込もうとしても、呪いが彼の体を乗っ取って……自分の手で、マリーさんを無茶苦茶に傷つけてしまうかもしれない。……正気を取り戻した時のエラルド様は、取り返しのつかない罪悪感で、今度こそ本当に心が壊れてしまう』


もし私が今、全力で彼を殴り飛ばして、この部屋から逃げ出したら。

 呪いの熱に取り残された彼は、たった一人で絶望の底に突き落とされる。私が彼を拒絶し、恐れて逃げたという事実が、彼の高潔な心を完全にへし折り、立ち直れないほどの致命傷を与えてしまうだろう。


彼が、私を守るために、こんなにボロボロになって泣いているのに。

 私だけが、痛いから、怖いからって、彼を見捨てて逃げるなんて。


(……そんなの、絶対に嫌だ)


私の胸の奥で、恐怖を上回る、バカバカしいほどの決意が固まった。

 私は、震える唇をギュッと噛み締めると、頭上で拘束されていた両手首の力を、スッと抜いた。


「……マ、リー……?」


私の抵抗が完全に止まったことに気づき、首筋に顔を埋めていたエラルドが、微かに動きを止めた。

 私は、拘束が緩んだ隙に両手を引き抜き、彼を殴り飛ばす代わりに――その分厚く熱い背中に、ゆっくりと腕を回した。


「……いいよ、エラルド」


静かな部屋に、私の掠れた声が響く。


「え……?」

「痛いのも、怖いのも、全部……私が、もらってあげる」


私は、彼の背中を優しく、トントンと子供をあやすように叩いた。

 エラルドの体が、ビクンッと大きく跳ねた。彼のサファイアの瞳が、信じられないものを見るように見開かれ、濁った炎の奥で激しく揺れ動く。


「マリー、何を……君は、分かっていない……僕が今から君に、何をしようと……っ」

「分かんないよ。恋愛とか、そういう難しいことは、私には一生分かんないかもしれない」


私は、涙で濡れた頬のまま、彼を見上げてふにゃりと笑ってみせた。


「でも、あんたが今、一人で暗闇の中で震えて、泣きそうなくらい苦しんでるってことだけは分かるよ」


背中に回した手に、ギュッと力を込める。

 彼が私を自分だけの世界に閉じ込めようとするなら。私が、その狂った世界ごと、彼を丸抱えにしてやればいい。


「ミーシア様は『私が弱点になる』って言ったけど、違うでしょ。……私は、そんなにヤワじゃない。あんたの呪いがどれだけ真っ黒で重たくても、私なら絶対に壊れない」


エラルドの息が、ヒュッと喉の奥で詰まった。


「だから、大丈夫だよ。……あんたが気が済むまで、どこまでも付き合ってあげるから」


私の一番の『盾』としての覚悟。

 それは、彼の狂気を否定して叩き潰すことではなく、そのすべてを真正面から受け止めて、彼を絶対に一人にしないことだった。


「ぁ……あ、あァァッ……!!」


私のその言葉が、彼の中に残っていた最後の理性の防波堤を、完全に決壊させた。

 それは、絶望なのか、救済なのか。

 エラルドの喉から、獣の咆哮のような、悲痛な嗚咽が漏れた。


「マリー……っ、マリー……!!」


彼の腕が、私の背中を折れんばかりの力で抱きすくめる。

 もう、言葉による拒絶も、理性のブレーキも存在しなかった。ただひたすらに、私の体温と存在を自分の中に溶かし込もうとする、圧倒的で暴力的なまでの情念の濁流。


彼の熱い唇が、私の涙を舐め取り、そのまま私の唇を塞いだ。

 呼吸を奪われ、舌が絡み合い、頭の中が真っ白にショートしていく。

 引き裂かれたブラウスの隙間から、彼の手が直接私の素肌に触れ、熱病のような体温が伝染していく。未知の快感と恐怖が入り混じる激しい奔流に、私の体は自分のものじゃないみたいにビクビクと震え続けた。


怖い。やっぱり、すごく怖い。

 でも、私を抱きしめる彼自身の背中が、私の何倍も、ひどく小刻みに震えているのが分かったから。


(……一緒にいるよ、エラルド)


私は、彼の背中に回した手を絶対に離さないと誓いながら。

 燃えるように熱い暗闇の中へと墜ちていく彼の心に寄り添うように、静かに、ゆっくりと目を閉じた。


――そして、部屋の中の魔力灯の光が、重い空気の中でフッと溶けるように消え。

 二人の影だけが、熱の底へと沈んでいった。

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