マリーの決意とセドリックへの依頼
「んん……」
ふかふかの羽毛布団の中で、私はゆっくりとまぶたを開けた。
窓の外はすっかり明るくなっていて、部屋の隅にある魔力灯が淡いオレンジ色の光を放っている。エラルドのベッドには、彼がいつも纏っているシダーウッドの落ち着く香りが染み付いていて、私は寝ぼけ眼をこすりながら体を起こした。
「……あれ? エラルド?」
静まり返った部屋に、私の声だけが虚しく響いた。
いつもなら、私が彼のベッドを占領して爆睡してしまっても、エラルドは決して私を追い出したりしない。部屋の隅にある一人用のソファで静かに分厚い魔導書を読んでいたり、執務机で書類仕事をしながら、私が起きるのを待っていてくれるはずだった。
そして私が起きると、「おはよう、マリー。いくら何でも寝すぎだよ」と呆れながらも、あの柔らかい微笑みを向けてくれるのだ。
でも、今朝の部屋には誰もいなかった。
執務机の上には、昨夜彼が目を通していたらしい書類が綺麗に整頓されたまま残されている。テーブルの上には、私が食べ残したチーズクッキーと、すっかり冷めきった二つのティーカップ。
「……急な生徒会の仕事でも入ったのかな」
私は首を傾げながらベッドから降り、彼が掛けてくれた毛布を丁寧に畳んだ。
この時、私はまだ呑気に構えていた。まさかこの朝を境に、彼との間に決定的な「すれ違い」が始まるとは、夢にも思っていなかったのだ。
* * *
その日から、エラルドの様子が明らかにおかしくなった。
いや、「おかしくなった」という表現は正確ではないかもしれない。彼はあまりにも『完璧』すぎたのだ。
数日後の、よく晴れた昼下がり。
学園の廊下で彼とすれ違った時。窓から差し込む春の陽光が、彼のプラチナブロンドの髪を神々しく照らしていた。
「あっ、エラルド!」
私が手を振って駆け寄ろうとすると、彼は立ち止まり、周囲の令嬢たちがため息を漏らすような、非の打ち所のない『氷の貴公子』の微笑みを私に向けた。
『やあ、マリー。今日も元気そうだね。……すまない、これから生徒会の会議があってね。また後で』
流れるような、一切の隙のない対応。
言葉自体は優しいのに、そのサファイアの瞳は極寒の氷河のように澄み切っていて、私の顔を真っ直ぐに見てはくれなかった。まるで、目に見えない分厚い氷の壁を間に一枚挟まれているような、決定的な距離感。
私が何かを言う間もなく、彼の纏う冷たい空気が廊下を通り抜けていった。
それからの日々は、まるで色を失ったように過ぎていった。
午後の魔法史の授業。開け放たれた窓からは、春の生温かい風と共に、中庭の芝生が土の匂いを運んでくる。老教授が黒板を叩くチョークの乾いた音が教室に響き渡っているのに、私の頭の中には全く入ってこなかった。
いつもなら、この時間は容赦ない睡魔に襲われて舟を漕いでいるはずなのに、なぜかちっとも眠くならない。ノートの端には、無意識のうちにペンの先でぐるぐると黒い丸を描き殴っていた。
放課後。静まり返った大図書室。
古書特有のインクとカビの匂いが漂う、薄暗い空間。私は一人で分厚い文献を前にウンウンと唸っていたが、隣の席は空っぽのままだ。
いつもなら、ここでエラルドが呆れたようにため息をつきながら、分かりやすく要点をまとめた羊皮紙をスッと差し出してくれるのに。
公爵邸に様子を見に行っても、彼の姿はなかった。ベアトリスさんに聞くと、「エラルド様なら、本日は王城での引き継ぎ業務があるとお出かけになられましたよ」と申し訳なさそうに言われる日々が続いた。
夜、自分の部屋のベッドで一人丸くなる。
春の夜風は心地よいはずなのに、なぜかひどく肌寒く感じられた。
(……避けられてる?)
一度芽生えたその疑念は、春の雪解け水のように、私の胸の奥に冷たく浸水していった。
灰の教団との死闘の時。エラルドは私を危険から遠ざけるために、わざと冷たく突き放し、一人で地獄のような重荷を背負い込もうとした。
あの時、私は無理やり彼の懐に飛び込んで、一緒に背中を預け合って戦った。呪いの結界を打ち破り、「私たちは二人で一つだ」と、やっと本当の意味で心が通い合ったのだと信じていたのに。
(――貴女の存在は、間違いなく彼を狙う者たちにとって最高の『的』になる。貴女が傍にいるだけで、彼が足をすくわれる弱点になり得るのです)
ふいに、薔薇のサロンで聞いたミーシア様のあの冷酷な言葉が、脳裏に蘇る。
あの時、私は「絶対に嫌だ、私が一番うるさくて図太い盾になってやる」と言い返した。エラルドも、それをごまかすように笑ってくれた。
だけど。
(もしかして……エラルドも、そう思ってるの?)
(私が無鉄砲に突っ込んでいくから。私がただの平民の特待生だから……これ以上、私のせいで自分が『弱点』を抱えないように、離れようとしてるの……?)
ギュッと、毛布を握りしめる。
私の右腕には、あの日の死闘で負った火傷の痕がまだ微かに残っている。彼を守るために振るった拳が、彼を苦しめる原因になっているのだとしたら。
それは、私の存在そのものが、彼の完璧な未来を傷つける邪魔者だと言われているのと同じだ。
「……そんなの、嫌だ」
暗い部屋の中に、私の弱々しい声が吸い込まれていく。
彼がまた一人で、暗闇の中に閉じこもってしまうなんて。
あの冷たい氷の仮面の裏で、誰にも言えない重荷を抱えて、孤独に震えているなんて。
考えれば考えるほど、胃の奥に鉛のような重い塊が沈んでいくのを感じる。
明日もまた、彼があの作り物の笑顔で私を通り過ぎていくのかと思うと、息が詰まりそうだった。
* * *
「……マリー? おい、マリーってば!」
ハッと顔を上げると、アイクの金色の瞳が私の顔を至近距離で覗き込んでいた。
昼休みの大食堂。周囲は生徒たちの楽しげな喧騒で満ちているというのに、私の耳にはどこか遠くの出来事のようにしか聞こえていなかった。
「お前、どうしたんだよ。今日の日替わりランチ、お前が大好きな『特大ハンバーグのチーズ乗せ』だぞ? なのに、さっきから一口も食べてねえじゃないか」
アイクが、信じられないものを見るような目で私のトレイを指差した。
こんがりと焼けたハンバーグからは、肉汁と溶けたチーズが美味しそうな匂いを立てている。いつもなら三秒で胃袋に吸い込んでいるはずのご馳走が、今日の私にはどうしても喉を通らなかったのだ。
「……え? あ、ほんとだ。ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
私が無理に笑ってフォークを手に取ろうとした瞬間、パシッ、と横から伸びてきた手が私の手首を掴んだ。
アイリスだった。彼女の青い瞳は、私の下手くそな作り笑いを真っ向から射抜くように、鋭く、そしてひどく心配そうに揺れていた。
「マリー。隠したって無駄よ。食欲の権化みたいなあなたがご飯を残すなんて、天地がひっくり返るのと同じくらいの大事件なんだから」
「アイリスの言う通りです。マリーさん、ここ数日ずっと顔色が悪いですよ。……もしかして、どこかお加減が悪いんじゃ……」
セドリックが、分厚い眼鏡の奥の瞳をオロオロと潤ませながら、自分の鞄から何種類ものポーションや胃薬を取り出そうとしている。
私を囲む、三人の親友たち。
その真っ直ぐで温かい気遣いに触れた瞬間。私がここ数日、胸の奥で必死に抑え込んでいた「寂しさ」の糸が、プツンと切れてしまった。
「……っ」
私はフォークを皿に置き、両手で顔を覆った。
「わかんない……私、わかんないよ」
絞り出すような私の声に、三人は息を呑んで静まり返った。
「最近……エラルドが、私を避けてるの。目が合っても、他人に笑うみたいに綺麗な顔して、すぐにどこかに行っちゃう。公爵邸に行っても、全然会えなくて……」
「エラルド様が……?」
「やっと、あいつの隣に立てるようになったって思ってたのに。一緒に戦って、二人で一つになれたって……そう信じてたのに。また、昔みたいに、私の手の届かない遠くに行っちゃったみたいで……っ」
鼻の奥がツンと熱くなり、視界が滲む。
こんな弱音を吐くなんて、私らしくない。でも、ミーシア様に突きつけられた「身分の壁」という事実が、真綿で首を絞めるように私の自信を奪っていくのだ。
「私……あいつの隣にいる資格、ないのかな。私がいると、あいつの邪魔になっちゃうのかな……」
ポツリとこぼれ落ちたその言葉に。
ダンッ!! と、アイクがテーブルを強く叩いて立ち上がった。
「馬鹿野郎!!」
周囲の生徒がビクッと振り返るほどの、腹の底からの怒声。
私が驚いて顔を上げると、アイクは燃えるような赤髪をガシガシと乱暴に掻き毟り、金色の瞳をギラギラと怒りに燃やしていた。
「お前があいつの邪魔になる!? ふざけんじゃねえ! 冬の間の死闘、誰が一番あいつの傍で戦い抜いたと思ってんだ! お前があいつの心を救ったんだろうが!」
「アイクの言う通りです、マリーさん!」
セドリックが、身を乗り出して私を真っ直ぐに見つめた。気弱な彼らしからぬ、強い口調だった。
「ミーシア様に何を言われたかは知りませんが、あの氷の貴公子が、マリーさんを『邪魔だ』なんて思うはずがありません。僕たちの知るエラルド様は、そんな薄情な人じゃない。……もし彼が距離を置いているなら、それは絶対に、教団の時と同じように『何かを一人で抱え込んでいる』証拠です!」
セドリックの言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
「エラルドが、何かを抱え込んでる……?」
「ええ、そうよ。教団の残党か、貴族の暗闘か……あるいは、彼自身の体に何か問題が起きているのかは分からないわ」
アイリスが、私の手首を掴んでいた手をそっと滑らせて、私の泥だらけの右手を両手でしっかりと、温かく包み込んでくれた。
「でもね、マリー。あなたがミーシア様に宣言した言葉を忘れたの? 『彼が壁を作るなら、私が一番うるさくて図太い盾になってやる』……そう言ったんでしょう?」
「アイリス……」
「彼が勝手に氷の壁を作って遠ざかろうとしているなら……あなたがそれを、物理でぶち壊しに行けばいいじゃない。いつもの、あなたの真っ直ぐな拳でね」
アイリスが、氷の令嬢らしからぬ、最高に勝気で美しい笑みを浮かべた。
アイクがニカッと笑って私の背中をバンッ! と叩き、セドリックが「僕たちも、全力でサポートしますから」と力強く頷く。
三人の言葉と体温が、私の胸に溜まっていた冷たい不安を、あっという間に溶かして吹き飛ばしてくれた。
(……そうだ。私、何いじけてたんだろ)
彼が何かを隠して一人で苦しんでいるなら。私が無理やりにでも首根っこを掴んで、明るい場所に引きずり出してやればいいだけじゃないか。
「……うんっ! そうだね。私、あいつの顔見て直接文句言ってやる! 『勝手に逃げんな!』って!」
私が両手でバシッ! と自分の頬を叩いて気合を入れると、三人はホッとしたように顔を見合わせて笑った。
「よし、そうと決まれば腹ごしらえだ! マリー、さっさとそのハンバーグ食っちまえ!」
「うん! いただきまーす!!」
私はフォークを握り直し、冷めかけていた特大ハンバーグを豪快に口に放り込んだ。
肉汁の味が、ようやくしっかりと胃袋に染み渡っていく。
待ってろ、エラルド。あんたがどれだけ完璧な氷の仮面を被って逃げようとしても、私が絶対に見つけ出して、その仮面を木っ端微塵にぶっ壊してやるんだから!
* * *
その日の放課後、静寂に包まれた中央尖塔の最上階。
分厚いマホガニーの扉が開き、セドリックがおずおずと生徒会室へ足を踏み入れた。
「――お呼びでしょうか、エラルド様」
室内にはレオンハルト殿下たちの姿はなく、巨大な円卓の上座で、エラルドが一人静かに窓の外を見つめていた。
西の空を染め上げる茜色の夕日が、ステンドグラス越しに彼を照らしている。そのプラチナブロンドの髪は美しく透き通っていたが、セドリックは部屋に入った瞬間、肌を刺すような『異常な冷気』に思わず身を震わせた。
「すまないね、セドリック。研究区画での仕事で疲れているところを呼び立ててしまって」
エラルドが振り返り、いつもの完璧で涼やかな微笑みを浮かべる。
その笑顔を見た瞬間、部屋に充満していた冷気が嘘のようにスッと和らいだ。
セドリックが3人と別れた、その日の夕方突然普段お呼びがかかることもない、エラルドからの呼び出しの電報を受け取り、突如として呼び出されたのだ。
「いえ、大丈夫です。それで……僕にしか頼めない、極秘の用件とは?」
セドリックが分厚い丸眼鏡を押し上げながら尋ねると、エラルドは机の引き出しから、厳重に魔力封印の施された一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上へ滑らせた。
「実は、王都の地下霊脈を最終点検している最中、奇妙な呪術式の『残骸』を見つけてね。教団が遺したもののようだが、僕の知識でも構造が完全に読み解けなかった。……君の頭脳で、これが何の呪いなのか、そして解呪の理論を導き出せないかと思ってね」
事も無げに語るエラルド。
だが、その実態は「残骸」などではない。昨夜、エラルドが自らの心臓で暴れ狂う呪いの波長を、どうにか理性の糸で繋ぎ止めながら書き写した『自身の精神呪詛の魔力構造図』だった。
エラルドは、この数日間、夜な夜な王都の地下に潜り、教団の残党を狩り出しては氷の尋問にかけて解呪法を探っていた。だが、ギデオンが己の命と引き換えに放った禁忌の呪いの解き方など、下っ端の狂信者たちが知るはずもなかった。
焦燥と、限界が近づく理性の軋み。
もう、裏社会の血生臭い泥を被りたくはなかったが、この呪いを解かない限り、二度と彼女の隣を歩くことは許されないのだ。
「もちろん、これは生徒会だけの極秘事項だ。……マリーたちには、無用な心配をかけたくないからね」
「なるほど、分かりました。拝見します」
セドリックは羊皮紙を手に取り、複雑に絡み合った術式の上を猛スピードで視線を走らせた。
数秒後。セドリックの眉間が、微かにピクリと動いた。
(……なんだ、この術式は)
王宮の特務区画で数え切れないほどの呪いを見てきたセドリックの脳内に、冷たい警鐘が鳴り響く。
これはただの「残骸」ではない。術式の構造を見る限り、明らかに『現在進行形で、特定の宿主の魔力と生命力を養分にして成長している』生きた呪詛だ。
しかも、対象の精神……特に「愛情」を養分とし、それを「執着」や「独占欲」といった醜悪な感情へと悪意を持って反転・増幅させる、極めて凶悪でタチの悪い代物。
セドリックは、羊皮紙からゆっくりと視線を上げ、目の前で優雅に紅茶のカップを傾けるエラルドを見た。
シダーウッドの上品な香り。完璧な微笑み。
だが、セドリックの研ぎ澄まされた感覚は、その分厚い氷の仮面の奥にある『異常』を確かに捉えていた。
エラルドがティーカップの取っ手を握る指先が、白く鬱血するほどに異常な力がこもっている。
そして、彼が呼吸をするたびに、室内の温度が不自然に下がり、窓ガラスの端にうっすらと霜が張り付いているのだ。まるで、内側から溢れ出そうになる凄まじい熱(呪い)を、彼自身が氷の魔力で無理やり冷却し、必死に封じ込めているかのように。
それに、シダーウッドの香りに混じって、ごく僅かに……鉄が錆びたような、血の匂いがする。
(……間違いない。この呪いは、エラルド様ご自身の体内に巣食っているんだ)
セドリックの背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。
この数日、マリーが「エラルドに避けられている」と悲しそうに笑っていた理由が、すべて一本の線で繋がった。
彼は、マリーを邪魔者扱いしたわけでも、見限ったわけでもない。自分の内に巣食うこの恐ろしい呪いから彼女を遠ざけ、傷つけないために、たった一人でこの狂気と戦い、裏社会を這いずり回っていたのだ。
「……エラルド様」
「ん? どうしたんだい、セドリック」
エラルドが小首を傾げる。
その完璧な笑顔の裏で、彼がどれほどの痛みを一人で抱え込んでいるのか。想像するだけで、セドリックは胸が締め付けられるようだった。
今ここで「貴方自身の呪いですね」と指摘することは簡単だ。だが、誇り高く自己犠牲の強い彼が、それを素直に認めるとは思えない。逆に、完全に心を閉ざして失踪してしまう危険すらある。
セドリックは、震えそうになる声帯をグッと引き締め、あえて何も気づいていない「優秀な学者」の顔を作った。
「……いえ。かなり複雑な術式ですが、僕なら解けます。
……安全な解呪理論の構築には、五日。五日だけ、時間をください。必ず、僕が答えを出してみせます」
「そうか。助かるよ。流石は王国の至宝だ」
エラルドの目元が、心底ホッとしたように僅かに緩んだ。
セドリックは、羊皮紙を大切に鞄にしまうと、深く一礼して生徒会室を後にした。
分厚いマホガニーの扉が閉まり、廊下に出た瞬間。
セドリックは、壁に背中を預け、荒い息を吐き出した。
(五日……いや、もしかしたら三日も保たないかもしれない)
そして
(……なんて悪辣な術式なんだ。エラルド様の光の魔力は、外部からの呪いはすべて浄化してしまう。だからギデオンは、エラルド様自身の『愛情』を触媒にして、この呪いを内側から根付かせたんだ。……自分の感情の一部だから、光の魔力でも浄化できない。ギデオンは、エラルド様のその高潔な心を、一番醜悪な形に捻じ曲げて壊すつもりだ……!)
エラルドの身に巣食う、愛情を反転させ独占欲と執着へと変える最悪の『精神呪詛』。
あの時、エラルドがティーカップを握る指先は鬱血し、室内の温度は異常なまでに低下していた。彼は今、自らの内に暴れ狂う醜悪な感情を、強靭な理性の氷で力ずくで封じ込めている状態だ。その氷が砕けるのは、時間の問題だった。
(急がなきゃ……僕の頭脳で、エラルド様を、そしてマリーさんを救うんだ!)
セドリックは、決意を胸に王立図書館の最深部へと駆け出していった。
* * *
そして、約束の三日間のタイムリミットが静かに回り始めた。
エラルドが私をあからさまに避け始め、私が大食堂で「あいつに直接文句を言ってやる!」と息巻いた2日後のことだ。
春の陽気が心地よい、午後の魔法薬学の授業。
いつもなら、ぽかぽかとした窓際の席で容赦ない睡魔に襲われ、よだれを垂らして舟を漕いでいるはずの私だが、今日も全く眠気がやってこなかった。
なぜなら、エラルドに引き続き、私の斜め前の席に座るセドリックの様子が、昨日から明らかにおかしかったからだ。
「……ブツブツ……ここで術式を逆位相に反転させれば、いや、触媒となる感情の波長が干渉して……」
老教授が黒板に基礎的な薬草の調合式を書いているというのに、セドリックの視線は黒板には全く向いていなかった。
彼の机の上に広げられているのは、授業で使う指定教科書ではなく、王立図書館の禁書指定区画から持ち出してきたような、古く禍々しい装丁の分厚い魔導書だった。
彼は分厚い丸眼鏡の奥に血走った目をひん剥き、羽ペンを異常な速度で羊皮紙に走らせている。時折、自分の書いた数式を見ては「違う、これじゃ間に合わない!」と頭を抱え、ガリガリと羽ペンの先を噛み潰すように焦燥しているのだ。
(セドリック……どうしたんだろ。あの冬の特訓の時みたいに、思い詰めた顔してる)
王宮の特務区画で『灰の種』の解呪に没頭していた時と同じ、いや、それ以上に切羽詰まったような、異様なオーラ。
私は心配になり、隣の席のアイクをツンツンと突いた。
アイクも、腕組みをしながら前の席のセドリックを鋭い金色の瞳で観察していた。私と目が合うと、彼は無言のまま「後でな」と顎で合図をした。
やがて、待ちに待った昼休みを告げる鐘が学園中に鳴り響いた。
生徒たちが一斉に大食堂へと向かう中、セドリックは誰よりも早く席を立ち、机の上の魔導書と大量の羊皮紙を乱暴に鞄に詰め込み始めた。
「おい、セドリック」
アイクが背後から声をかけると、セドリックはビクッと肩を跳ねさせ、ひどく挙動不審な動きで振り返った。
その目の下には、隈がくっきりと刻まれている。肌は青白く、唇はカサカサに乾燥していた。
「あ、アイク君……マリーさんに、アイリスも」
「お前、昨日から様子がおかしいぞ。授業中もずっと上の空で、気味の悪い魔導書ばっかり読んで。……今日も、一緒に昼飯食うんだろ? 今日の日替わりは白身魚の香草フライだぜ」
アイクが努めて明るい声で誘うが、セドリックは鞄をギュッと胸に抱え込み、目を泳がせた。
「あ、ご、ごめんなさい! 僕、今日はお昼ごはんは遠慮しておきます。……その、王宮の特務研究区画の方から、少し急ぎのデータ解析の依頼が入ってしまって。図書館の奥で、調べ物をしなくちゃいけないんです」
「王宮からの依頼?」
「は、はいっ! だから、先に行ってますね!」
セドリックは早口でそれだけをまくし立てると、私たちの返事も待たずに、逃げるようにして教室を飛び出していってしまった。
残された私たちは、パタンと閉まった教室の扉を無言で見つめた。
「……王宮からの依頼、ね」
アイリスが、腕を組んで冷たい溜息を吐いた。
「下手くそな嘘。……彼は焦ると、右手の親指で丸眼鏡のブリッジを三回押し上げる癖があるのよ。さっきも、見事に三回押し上げていたわ」
「ああ。それに、あいつの鞄からは、王宮の滅菌された空気の匂いじゃなくて、地下の古い書庫にこもった埃とカビの匂いがした。あいつ、昨日からずっと王立図書館の『禁書区画』に引きこもってやがるな」
アイクが、隠密部隊で鍛え上げられた鋭い観察眼で断言する。
セドリックは、私たちに嘘をついている。
王宮の依頼なんかじゃない。彼は今、私たちには絶対に言えない「何か」を一人で抱え込み、解決しようと必死に足掻いているのだ。
「……行こう」
私は、ギュッと拳を握りしめて二人に振り返った。
「セドリックは、教団の時も『灰の種』の解呪を背負って、死にかけたんだよ。……三人で、吐かせに行くよ!」
私の真っ直ぐな言葉に、アイクが獰猛な笑みを浮かべて指の関節をポキポキと鳴らし、アイリスが「ええ、少しお灸を据えてやらなきゃいけないわね」と銀の杖を軽く床に突いた。
私たちは、大食堂から漂ってくる美味しそうなフライの匂いに後ろ髪を引かれつつも、足並みを揃えて王立図書館へと向かった。
* * *
ミリス魔法学園が誇る、巨大な王立図書館。
一般の図書区間にセドリックの姿が見えなかったので、そのさらに地下深く。一般の生徒は立ち入りを禁じられている『特別禁書区画』の薄暗い通路を、私たちは音もなく進んでいた。
アイクの展開する『認識阻害の幻影』のおかげで、司書の目も、警備の魔法陣も完全にすり抜けることができる。また生徒会にバレたら、今度こそ本当に大目玉を喰らいそうだ。 前回は、灰の組織につながる重要な手がかりを発見したとのことでその校則違反は不問となっていた。
カビと古い羊皮紙、そして何百年も前に編み込まれた呪術の残滓が入り混じる、息の詰まるような空気。
その最奥にある、隔離された閲覧室。
分厚いオーク材の扉の隙間から、青白い魔力灯の光が漏れていた。
「……くそっ、これじゃない。この術式アプローチだと、宿主の魔力回路ごと焼き切ってしまう……! 別の、もっと深層の精神に干渉しない解呪法を……っ」
扉の向こうから、髪を掻き毟るような音と共に、セドリックの悲痛な独り言が聞こえてくる。
「……突入するぞ」
アイクの合図で、私は一切の躊躇なく、その分厚い扉をバーン! と勢いよく開け放った。
「なっ!?」
閲覧室の中は、凄まじい有様だった。
床には何百枚という書き損じの羊皮紙が散乱し、机の上には何十冊もの禁書が塔のように積み上げられている。その中心で、インクで顔や手を黒く汚したセドリックが、幽霊でも見たかのような顔でこちらを振り返った。
「マ、マリーさん!? アイク君に、アイリスまで……! ど、どうしてここに……ここは関係者以外立ち入り禁止で……っ」
「嘘をつくからよ、セドリック」
アイリスが、コツン、コツンとヒールの音を響かせて部屋に足を踏み入れた。その青い瞳は、逃げ場を塞ぐように冷たく彼を射抜いている。
「王宮からの依頼だなんて、真っ赤な嘘じゃない。あなた、昨日からずっとここに引きこもって、何を調べているの?」
「そ、それは……っ、個人の、ちょっとした研究課題で……」
「まだ誤魔化す気かよ、学者先生。お前のその目の下のクマ、ただの課題でできるもんじゃねえだろ。……それに」
アイクが、机の上に広げられていた一枚の羊皮紙をサッと抜き取った。
「お前、さっきから『宿主の魔力回路を焼き切ってしまう』だの『精神に干渉する解呪法』だの、物騒なことばっかり呟いてたよな。……おい、誰が呪われてるんだ?」
「あっ、返してください! それは……っ!」
セドリックが血相を変えて羊皮紙を奪い返そうとするが、アイクはひょいと腕を高く上げてそれを躱した。
私は、机の前に立ち尽くすセドリックの前に進み出た。
彼の肩は小刻みに震え、分厚い眼鏡の奥の瞳は、恐怖と焦燥で激しく揺れ動いている。
「セドリック」
私が低く、真剣な声で名前を呼ぶと、彼はビクッと体を強張らせた。
「……私たち、『あぶれ者同盟』だよね」
「……え?」
「誰も見向きもしないような地下廃坑に四人で突っ込んで、化け物の群れから背中を預け合って生きて帰ってきた、最高の仲間だよね」
私の言葉に、セドリックの瞳が大きく見開かれる。
「だったら、どうして隠すの!あんたがこんなにボロボロになるまで一人で抱え込んでる問題が、私たちに関係ないわけないじゃん。……水臭いよ、セドリック」
責めているわけじゃない。ただ、彼が何かに苦しんでいることが、無性に悔しくて、悲しかった。
私の真っ直ぐな視線と、アイクとアイリスの「逃がさない」という強い意志に囲まれ、セドリックはギュッと唇を噛み締めた。
彼は、賢い。この三人を前にして、これ以上下手な嘘を突き通すことが不可能であることは、彼自身が一番よく分かっていた。
「……ごめんなさい。でも、これは……マリーさんには、絶対に知られたくなかったんです」
「私に?」
「彼が……彼が、マリーさんをこれ以上傷つけないために、たった一人で戦っていることだから……っ」
セドリックの声が、悲痛にひび割れた。
彼は、力なくその場に膝をつき、インクで汚れた両手で顔を覆った。
「……白状、します。実は……エラルド様から、奇妙で凶悪な『精神呪詛』の解析を極秘で頼まれているんです」
「エラルドが!?」
私の口から、素頓狂な声が漏れた。
エラルドの名前が出た瞬間、私の胸の奥で、ここ数日の彼の不自然な態度――私を避けるような冷たい微笑み、公爵邸に帰ってこない夜、そして私に何も言わずに避けて続けていること、バラバラのパズルピースのように不気味な音を立てて繋がり始めた。
「待てよ。エラルドが、呪いの解析を? 誰が呪われてるって言うんだ。あいつの光の魔力なら、どんな呪いでも浄化できるはずだろ?」
アイクが、手の中の羊皮紙を睨みつけながら鋭く問いただす。
セドリックは、震える手で眼鏡を外し、絶望に満ちた目で私たちを見上げた。
「……浄化できないんです。なぜならその呪いは、外からの攻撃じゃない。……エラルド様ご自身の『心』に根を張り、彼の感情を養分にして成長しているから」
「エラルド自身の、心……?」
「はい。……あの羊皮紙に書かれているのは、他でもない、エラルド様ご自身の体内に巣食っている精神呪詛の構造式です。……おそらく、地下廃坑でギデオンを討ち果たしたあの一瞬の隙に、最悪の置き土産として植え付けられたんだと思います」
閲覧室の空気が、一瞬にして絶対零度に凍りついた。
アイリスが息を呑み、アイクが羊皮紙を握る手をワナワナと震わせる。
「精神呪詛って……具体的に、エラルドの体に何をしてるの? あいつ、死んじゃうの!?」
私が慌ててセドリックの肩を掴むと、彼は首を横に振った。
「物理的な殺傷力はありません。……ですが、この呪いはもっと悪辣です。宿主の精神に干渉し、理性を内側から破壊するんです」
セドリックはそこで一度言葉を区切り、苦しげに視線を伏せた。ギュッと拳を握り込むその姿には、エラルドの尊厳とプライバシーを必死に守ろうとする葛藤が見え隠れしていた。
「……この呪いは、宿主が特定の相手に抱く『強い信頼』や『親愛の情』を触媒にして、それを強制的に……凶暴で、破壊的な衝動へと反転させてしまう。エラルド様は今、ご自身の内に湧き上がるその異常な衝動を、必死に理性で封じ込めている状態なんです」
セドリックの言葉が、冷たい泥水のように私の脳髄に流れ込んでくる。
「親愛の情を、反転……? じゃあ、私が近くにいると……」
「……はい。彼にとって最も身近で大切な存在であるマリーさんに会ってしまえば、その呪いが一気に暴走する危険性が高い。彼がどんなに抑え込もうとしても、呪いが彼の体を乗っ取って……自分の手で、マリーさんを無茶苦茶に傷つけてしまうかもしれない」
「……っ」
「だから、彼はマリーさんを避けていたんです。……自分の心が完全に呪いに喰い破られる前に。マリーさんに、決して恐ろしい思いをさせないために……彼自身の手で、マリーさんを遠ざけるしかなかった。たった一人で、この狂気と戦うために」
視界が、ぐらりと揺れた。
(――君のその直情的なところは、本当に隙だらけだね、マリー)
合同演習の時、彼が私を氷で弾き飛ばした時の、あの涼やかな声。
廊下ですれ違った時の、私を一切見ようとしない冷たい微笑み。
あれは、私を「弱点」として切り捨てたからじゃなかった。
ミーシア様が言ったような、身分の壁でも、政治的な思惑でもなかった。
エラルドは。
あいつは、またしても。
私のことを傷つけないために、私をあの醜い呪いから守るために、たった一人で……誰にも助けを求めず、自分の心をギリギリまで削りながら、孤独な暗闇の中で戦っていたのだ。
「……なんて、ひどい術式なの。あの化け物、死してなおエラルド様を苦しめるというの……!?」
アイリスが、ギリッと奥歯を噛み締め、銀の杖を床に強く打ち付けた。
「でも、セドリック。お前なら、その呪いを解けるんだろ? だからエラルドも、お前に極秘で頼んだはずだ!」
アイクのすがるような言葉に、セドリックはひどく悔しそうに顔を歪めた。
「……理論上は、解呪可能です。でも、この術式はあまりにも複雑にエラルド様の魔力回路と癒着しすぎている。安全に解呪するための中和薬を調合し、術式を逆算するには……どうしても、あと三日はかかるんです」
「三日……」
「ですが、エラルド様の魔力の乱れ方を見る限り、彼の理性はもう限界寸前です。今日か、明日か……いつ呪いが完全に暴走して、彼の心が崩壊してもおかしくない」
セドリックの言葉が、死刑宣告のように重く響く。
三日。その間にエラルドの理性が決壊すれば、彼は完全に呪いに飲まれ、彼自身の最も恐れる『醜悪な化け物』に成り果ててしまう。
「……今日、エラルドが学園を休んだのは、そういうことか」
ふいに、壁際で腕を組んでいたアイクが重々しい声で呟いた。
「え……?」
「今朝の廊下で女子生徒達の話が聞こえてきたんだ。エラルド様が『急性の魔力酔いによる高熱』で欠席しているってな」
「……!」
アイクの言葉に、私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
エラルドは、どんなに体調が悪くても、決して表には出さずに完璧な生徒会長として振る舞う男だ。その彼が、学園を休んで公爵邸の自室に引きこもるなんて。
「……もう、学園の結界や人目がある場所で、自身を保つことすら限界なのかも……」
アイリスが、血の気の引いた顔で呟いた。
夜な夜な教団の残党を狩り出し、一睡もせずに呪いと戦い続けた結果。彼の心と体は限界を迎え、今は公爵邸の私室――誰の目にも触れない安全な殻の中で、一人きりで暴れ狂う呪いの熱に耐えているのだ。
静まり返った禁書区画の閲覧室。
絶望的な沈黙が降り下りる中。
「……馬鹿野郎」
私の口から、低く、震える声が漏れた。
「マリー……?」
「エラルドの、大馬鹿野郎!!」
私は、限界まで引き絞った右拳を、横にあった分厚いオーク材の机に思い切り叩きつけた。
メシャァァァンッ!!
凄まじい破砕音と共に、分厚い机が真っ二つにへし折れ、木片が宙を舞う。
アイクたちが「ひっ!?」と悲鳴を上げて後ずさったが、私の怒りの炎はそんなことでは到底収まらなかった。
「また一人で抱え込んで! 私に隠し事して! 私を遠ざければ、それで私が安全で幸せだとでも思ってんの!? ふざけるな!!」
私は、弾かれたように踵を返し、閲覧室の扉へと向かって歩き出した。
午後からの授業なんて知ったことか。遅刻の便所掃除一週間なんて安いもんだ。
「ま、待ってマリーさん! どこへ行くんですか!」
「決まってるでしょ! 今すぐ公爵邸にカチコミに行って、勝手に一人で泥を被ってるあの分厚い氷の仮面を、粉々に叩き割りに行くの!!」
私が怒気を孕んだ声で言い放った瞬間。
「馬鹿っ、待てマリー!!」
アイクが血相を変えて飛び出し、私の腕を強引に掴んで引き留めた。
「今のあいつの所に無防備に突っ込んで、どうなるか分かってんのか!? 呪いで理性がぶっ飛んでるんだぞ! お前が何されるか……最悪、殺されるかもしれないんだぞ!」
「そうです、マリーさん! 物理で殴ってどうにかなる問題じゃないんです!」
セドリックも、顔を蒼白にして私の前に立ち塞がった。
「マリーさんが近づけば、呪いが完全に暴走して、エラルド様自身が抑えきれなくなって……彼が一番恐れている、マリーさんを傷つけるという結果を、彼に強制させてしまうかもしれないんです!」
「早まらないでマリー! 気持ちは痛いほど分かるわ。でも、ここはセドリックの解呪薬ができるまで、ぐっと堪えるべきよ!」
アイリスが、私の肩を必死に揺さぶる。
「今の彼は、あなたの知っているエラルド様じゃないかもしれないのよ!」
三人の必死の制止。それは、私の身を本気で案じてくれているからこその言葉だ。
呪いが暴走して、エラルドが私にどんな恐ろしいことをするのか。正直なところ、色々疎い私には、彼らが顔を青ざめさせるほどの「具体的な危険」まではピンと来ていないのかもしれない。
でも。
「……待てないよ」
私は、アイクの腕を強く振り払った。
「薬ができるまでの三日間。あいつに一人で、自分が化け物になる恐怖に耐えろって言うの? そんなの……絶対に嫌だ!」
私の叫びに、三人が息を呑む。
「私が怪我するくらい、教団の化け物と戦った時に比べたらなんてことない。あいつが私を傷つけて後悔するなら、後悔なんかする暇もないくらい、私が全部受け止めて、思いっきり殴り返してやる!」
私は、アイリスとセドリックの間を強引にすり抜けた。
「あいつがどんなに恐ろしい化け物になってても、私は絶対に逃げない! だから、行ってくる!!」
「あっ、おいマリー!!」
三人の制止の声を背中に受けながら、私は王立図書館の地下階段を猛スピードで駆け上がった。
振り返ることはしない。頭の中にあるのは、冷たい部屋で一人、熱にうなされているはずの幼馴染の顔だけだ。
* * *
「……くそっ、あいつ本当に突っ走りやがった!」
残された閲覧室で、アイクがギリッと奥歯を噛み締め、燃えるような赤髪をガシガシと乱暴に掻き毟った。マリーのあの真っ直ぐな瞳を見てしまっては、もう力ずくでも止められないと直感してしまったからだ。
「アイク、私たちも急いで追いかけるわよ! 万が一エラルド様が暴走したら、私たちが全力でマリーを引き剥がして抑え込むわ!」
「ああ! 行くぞ、セドリック!」
アイリスとアイクが弾かれたように閲覧室を飛び出そうとした、まさにその時だ。
「駄目ですッ!! 二人とも、行ってはいけない!!」
セドリックが、今までに出したこともないような大声で叫び、アイクの腕を背後から力いっぱい掴んで引き留めた。
「なんだよセドリック! 離せ! あいつが危ねえんだぞ!」
「行けば、死ぬのは僕たちの方です!!」
悲痛なセドリックの絶叫に、アイクとアイリスはハッと足を止めた。
セドリックは、蒼白な顔に冷や汗をダラダラと流しながら、震える手で丸眼鏡を押し上げた。
「……あの呪いは、純粋な愛情を『他を排してでも、自分だけの世界に縛り付けたい』という、暗く歪んだ衝動へと反転させるものです。今のエラルド様は、ご自身の部屋という『最も安全な縄張り』の中で、自身の感情と必死に戦っている状態なんです。……そこに、僕たちが踏み込んだらどうなるか、分かりますか?」
「縄張り……?」
「……まさか」
アイリスの顔色から、スッと血の気が引いた。
「そうです。理性が焼き切れる寸前のエラルド様の前に、マリーさんを連れ戻そうとする『第三者』が……特にアイク君のような、日頃から彼女と親しくしている男友達が踏み込めば。呪いは僕たちを『最愛の宝を奪いに来た外敵』と完全に誤認します」
セドリックの言葉に、アイクがゴクリと生唾を飲み込んだ。
「規格外の光の魔力を持った次期公爵が、一切の理性を失い、純粋な殺意と嫉妬だけで僕たちを排除しようとする。……アイリスの氷も、アイク君の幻影も通用しません。一瞬で、消し炭にされます」
「……ッ」
「そして、もし僕たちを殺してしまえば……正気を取り戻した時のエラルド様は、取り返しのつかない罪悪感で、今度こそ本当に心が壊れてしまう。……僕たちが乗り込むことは、彼を最悪の絶望に突き落とす引き金になりかねないんです」
しんと静まり返った閲覧室。
アイクは、ギリッと血が滲むほど唇を噛み締め、壁をドンッ! と強く殴りつけた。
「……じゃあ、どうするんだよ! このままマリーを、理性の吹っ飛んだあいつの部屋に一人で放り込むっていうのか!? あいつの呪いが、マリーをどうするつもりなのか分かってんのか!?」
「マリーは、何も分かっていないのよ! エラルド様が自分に向けている感情が、ただの家族愛じゃないってことすら……!」
アイリスが悲痛な声を上げる。
恋愛というものに一切の理解がないマリーは、エラルドが自分を「どういう目」で見ているのか、その根底にある男としての仄暗い熱情を全く知らない。だからこそ、何の警戒心もなく無防備に、彼のパーソナルスペースの最奥へと飛び込んでいってしまうのだ。
「……分かっています。最悪の事態になる危険性は、十分にあります」
セドリックは、ギュッと拳を握りしめて俯いた。
「でも……エラルド様が唯一、絶対に殺意を向けないのはマリーさんだけです。そして、彼女のあの規格外の物理耐性と図太さをもってしてなら……彼がどんなに恐ろしい激情をぶつけてきても、決して壊れることはない。……今は、彼女のその強さを信じるしかないんです」
「……くそっ!!」
アイクが、悔しそうに頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
アイリスも、祈るように両腕で胸に抱きしめ、目を閉じる。
「公爵邸のベアトリスさんたちも、マリーさんなら顔パスでエラルド様の私室まで通してしまいます。……もう、誰にも止められません」
セドリックは、散乱した机の上の羊皮紙を掻き集め、血走った目で呪いの術式を睨みつけた。
「僕たちが今、二人のためにできる唯一のことは……マリーさんがエラルド様の心を物理で繋ぎ止めてくれている間に、一秒でも早く、この解呪薬を完成させることだけです」
三人は、それぞれがギリギリの悔しさと無力感を噛み締めながら、ただ一人、王都を駆けていった規格外の少女の無事を祈るしかなかった。
* * *
――同じ頃。
春の風を切り裂いて、私はアルバーン公爵邸の正門を強行突破していた。
「ああっ、マリー様! 今日は学園では……」
「ごめん! ちょっとエラルド殴ってくる!」
「な、殴る!? ひぃぃ、マリーお嬢さんがお怒りですぞー!」
顔馴染みの門番たちの静止も、庭師たちの驚く声もすべて置き去りにして、私は豪奢な本館のエントランスへと飛び込んだ。
ちょうどそこへ、メイド長のベアトリスさんが大きな洗面器とタオルを抱えて、深刻な顔で通りかかったところだった。
「ベアトリスさん! エラルドは!?」
「マ、マリー様! いけません、エラルド様は今朝からひどい高熱と魔力の乱れで、ご自室に……どなたも中に入れるなと、厳命されております!」
「関係ない! 私があいつの熱、物理で下げてやるから!!」
私は、普段のベアトリスさんなら絶対に許さないであろう「泥だらけの靴のまま大階段を駆け上がる」という暴挙に出た。
でも、不思議なことに、ベアトリスさんは私を本気で止めようとはしなかった。むしろ、ホッとしたような、すがるような目で私の背中を見送ってくれた気がした。
最上階。一番奥にある、重厚なマホガニーの扉。
いつもなら、勢いよく開け放って「遊びに来たよ!」と笑いかけるその場所に。
今日ばかりは、怒りと、どうしようもないほどの胸の痛みを抱えて立っていた。
「……ふざけんな、エラルド」
私は、ドンッ! と両手で、その重い扉を力任せに押し開けたのだった。




