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ミーシア襲来 エラルドの違和感

1組と3組の合同実技演習から、一週間が経った頃。

ミリス魔法学園は、吹き抜ける春の風と共に穏やかな活気に包まれていた。


魔法によってその日の空模様がそのまま映し出される大食堂のアーチ状の天井には、雲一つない抜けるような青空が広がっている。

お昼休みを知らせる鐘が鳴り終わると同時に、大食堂は腹を空かせた数百人の生徒たちの喧騒と、厨房の妖精たちが次々とテーブルへ出現させる料理の芳醇な香りで満たされた。


「んーっ! 今日の日替わりランチ、特大オーク肉の香草焼きだって! 最高!」


いつものように長テーブルの一角を陣取った私たち「あぶれ者同盟」の定位置。

私は、自分の顔よりも大きいこんがり焼けたオーク肉の塊と、山盛りのパン、さらに野菜たっぷりのスープが乗った銀のトレイを前に、目を輝かせていた。


「お前なぁ……さっき三時限目の後に、購買でメロンパン三つ平らげてただろ。その底なしの胃袋、本当にどういう魔法構造してんだよ」


向かいの席にドカッと腰を下ろしたアイクが、自分のトレイに乗った普通サイズのランチプレートと私のお皿を見比べながら、呆れたように肩をすくめた。

燃えるような赤髪を揺らす彼は、フォークで器用にプチトマトを転がしている。


「だって、メロンパンは空気みたいなもんだもん! お腹にたまらないし。それに、頭と体を使ったらしっかり栄養補給しないと!」

「いや、お前のそれは補給ってレベルじゃねえだろ。なぁ、アイリス?」

「私に振らないでちょうだい。マリーの食欲に常識を当てはめるだけ無駄よ」


私の隣に座るアイリスは、完璧な淑女の所作で優雅に紅茶を啜りながら、溜息をついた。

彼女の前には、彩り豊かな少量のサラダと白身魚のソテーが美しく並んでいる。アイリスはナイフとフォークを上品に操りながら、アイクのプレートをジロリと睨んだ。


「それよりアイク、貴方また野菜を残そうとしているわね? 侯爵家の次期当主がそんな偏食でどうするの。……ほら、私のも少し分けてあげるから、ちゃんと食べなさい」

「げっ!? おい待て、勝手に俺の皿にピーマン乗せんなって! 俺は肉が食いてぇの!」

「駄目よ。ほら、あーんしてあげるから」

「……っ! ば、馬鹿、お前こんな人の多いところで何言って――っ、んぐっ!?」


顔を真っ赤にして慌てるアイクの口に、アイリスが容赦なくピーマンを放り込む。むせるアイクを見て、アイリスが「ふふっ」と満足げに笑った。

王宮での祝賀会を機に付き合い始めた二人。本人たちは隠しているつもり(?)なのかもしれないけれど、こういう無意識のやり取りの端々から砂糖を煮詰めたような甘い空気が漏れ出していて、見ているこっちが恥ずかしくなってくる。


「……マリーさんの胃袋は、摂取したカロリーを即座に魔力や生命力に変換・燃焼させているんでしょうね。一種のブラックホールというか……実に興味深い生態です」


アイクたちの痴話喧嘩をBGMに、セドリックが苦笑しながら分厚い魔導書のページをめくっていた。

王宮の特務区画で本物の研究員たちと肩を並べていた彼は、最近さらに知識欲に磨きがかかっており、食事中もこうして難解な古代の錬金術書を読み込んでいることが多い。


「ちょっとセドリック、生態って言わないでよー。私、これでも一応女の子なんですけど!」

「あはは、すみません。でも、マリーさんが美味しそうにご飯を食べているのを見ると、なんだか本当に平和になったんだなって、安心するんです」

「……うん。そうだね」


セドリックの言葉に、私はナイフとフォークを握ったまま、少しだけ目を細めた。

教団の化け物や、暗闇の中で怯えていた冬の夜。それが嘘のように、今の私たちの周りには底抜けに明るく、騒がしい日常が広がっている。

少し離れた席では、フェリクスが「今日一日は特に問題なく進行しているぞ!」とクラスメイトと笑い合いながら食事をしているのが見えた。


(よかった。この平和な時間を、みんなで守れたんだ)


胸の奥が温かくなるのを感じながら、私は「よし!」と気合を入れ直し、香ばしく焼き上がったオーク肉にナイフを突き立てようとした。

――まさに、その時だった。



 

ふわり、と。

 喧騒と料理の匂いが入り混じる大食堂の空気に、不似合いなほど気高い『白百合の香り』が混じった。


「え……?」

「おい、嘘だろ……」


誰かが息を呑む音が聞こえたのを皮切りに。

 数百人の生徒でごった返していた大食堂のざわめきが、波が引くようにしてスッと消え去った。

 カチャリ、と銀のフォークが皿に当たる音さえ響かない、異様な静寂。

 全員の視線が、食堂の入り口に向けられている。


そこに立っていたのは、波打つような美しい銀糸の髪を春の光に透かせた、一人の令嬢だった。

 公爵令嬢、ミーシア・フォン・アルバーン。


(ミーシア様……? どうして、大食堂に?)


私は目を丸くした。

 王族や高位貴族のエリートが集う1組の生徒たちは、基本的に専用の特別サロンで専属シェフの料理を口にすることが多い。彼女のような学園の頂点に立つ令嬢が、平民や下位貴族がひしめくこの大衆食堂に姿を現すことなど、ほぼないのだ。

 今年彼女がここに足を踏み入れたのは、秋の魔法祭の直前、エラルドを舞踏会のパートナーに誘うために現れたあの一度きりのはずだった。


コツン、コツン。

 ヒールの音が静まり返った食堂に響く。

 ミーシアは、周囲の好奇と畏敬の視線を一切気に留めることなく、迷いのない足取りで真っ直ぐに――私たちのテーブルへと歩み寄ってきた。


「ごきげんよう、皆様」


彼女が立ち止まり、涼やかな声で挨拶をする。

 その圧倒的な気品に呑まれ、アイクとセドリックが弾かれたように立ち上がり、アイリスも緊張した面持ちで背筋をピンと伸ばした。


「お食事中にお邪魔をしてごめんなさいね。……マリー・トマスさん、少しだけよろしいかしら?」

「へっ? あ、はい! もぐもぐ……ご、ごっきげんよう?」


不意に名前を呼ばれ、口にオーク肉を含みかけていた私が慌ててモゴモゴと返事をする。

 アイリスがテーブルの下で私の足を『バシッ』と蹴り飛ばしたが、ミーシアは午前中でついた私の泥臭い野戦マントの汚れや、テーブルに積まれたお皿の山を見ても眉一つ動かすことなく、淑女の完璧な微笑みを浮かべていた。


「ふふっ。先日の合同実技演習では、ゆっくりとお話しする時間がありませんでしたから。ご挨拶に伺いましたの」

「あ……あの時は、魔法を無理やり壊しちゃってごめんなさい! 別に恨みがあったとかじゃなくて、その……っ」

「謝る必要はありませんわ。むしろ、称賛すべきです。私の紫電の網を、あのような物理的な力で正面から打ち破るだなんて……貴女のその規格外の突破力、本当に見事でしたわ」


ミーシアが、すっと目を細めて私を見る。

 純粋に、私の力への興味と評価が混じったような、静かな視線だった。


「えへへ、そんなことないですよ。ミーシア様の魔法、すっごくビリビリしてて、あそこを抜けるの結構必死だったんですから!」

「……っ、おいマリー、口調……っ」


私のあっけらかんとした返しに、隣でアイクが冷や汗を流しながら小声でツッコミを入れる。よく知りもしない公爵令嬢に対する態度としては軽すぎるのだ。

 だが、ミーシアは気を悪くした様子もなく、ふわりと優雅に扇子を広げた。


「謙遜なさらないで。……実は、あのような戦い方をする貴女という人に、以前から少し興味を抱いておりましたの」

「私に、ですか?」

「ええ。ですが、このような立ち話もなんですから……放課後、もしお時間がよろしければ、東棟の『薔薇のサロン』へいらしていただけないかしら? 貴女とゆっくり、お茶をご一緒したいのです」


流れるような、あまりにも自然で優雅なお誘い。

 だが、その言葉にアイリスたちがピクリと肩を震わせた。東棟の薔薇のサロンといえば、高位貴族の限られた生徒しか立ち入れない、ある意味で1組の聖域のような場所だ。


「お茶会……ですか? 私なんかが行ってもいいんですか? あと、その……美味しいお菓子とか出たり……?」

「こらマリー! 貴女って子は……!」


卑しすぎる私の発言に、とうとうアイリスが頭を抱えた。

 しかし、ミーシアはくすりと上品に笑い、私に向けて極上の微笑みを向けてくれた。


「ええ、もちろん。王室御用達の素晴らしい茶葉と、最高級のマカロンをご用意してお待ちしておりますわ。貴女の胃袋を満たせるよう、たくさん焼かせておきますね」

「本当ですか!? 行きます! 絶対行きます!」

「ふふっ、嬉しいわ。それでは、放課後に」


それだけを告げると、ミーシアは優雅に踵を返し、再び静まり返った食堂を抜けて出て行った。

 彼女の姿が完全に見えなくなってから数秒後。

 堰を切ったように、大食堂全体が「公爵令嬢が平民を誘ったぞ!?」「あの合同演習での一件か!?」と爆発的なざわめきに包まれた。


「お、おいマリー!! お前、演習の時にミーシア様の魔法を粉砕しただけじゃなくて、何かとんでもない無礼でも働いたんじゃないだろうな!?」

「ひぃぃ……公爵家からの呼び出しなんて、僕なら胃に穴が開いて倒れますよ……っ」


アイクが血相を変えて私の肩を揺さぶり、セドリックが顔面を蒼白にして頭を抱える。


「ええっ、何もしてないよ!? それに、マカロンたくさん用意してくれるって言ってたし!」

「それが一番怖いのよ、この馬鹿! ああもう……粗相のないように、放課後までに私が最低限の礼儀作法を叩き込んであげるから!」


アイリスが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえている。

 私は、目前の香草焼きの匂いを嗅ぎながらも、急に肉の味が分からなくなってしまったように、小さく首を傾げた。

 最高級のマカロンは楽しみだけれど。ミーシア様のあの澄んだ紫の瞳の奥に、ただのお茶会のお誘いではない、何かひどく真剣で、重たい決意のようなものが潜んでいたような気がしたからだ。


 * * *




(……初めてお見かけしたあの日から、私の心はずっと、あの方の冷たい氷の奥に囚われたままですわ)


 

――あの方の瞳は、いつも極寒の氷河のように透き通っていて。そして、決して本当の私を映すことはない。


放課後の東棟。選び抜かれた高位貴族のみが立ち入りを許される『薔薇のサロン』のテラス席で、ミーシアは一人、春の風に揺れる新緑の葉擦れの音を聞きながら、静かに伏し目がちに息を吐いた。

 テーブルには、王室御用達の最高級のダージリンが黄金色の湯気を立てている。


(……初めてお見かけしたあの日から、私の心はずっと、あの方の冷たい氷の奥に囚われたままですわ)


ミーシアの脳裏に蘇るのは、学園に入学するずっと前――まだ十歳になるかならないかの頃に招かれた、アルバーン公爵邸での夜会の記憶だ。


当時、両親を亡くした若きエラルドに代わり、公爵家は王家から送り込まれた強欲な後見人・シルバーンが我が物顔で仕切っていた。王家の操り人形であるその男は、エラルドから当主としての実権を奪い、傲慢な態度で幼い彼を監視し、事あるごとに嫌がらせを行っていた。


その夜も、身の丈に合わない豪奢な服を着たシルバーンが、下品な笑い声を上げて大人たちと談笑していた。公爵邸を土足で踏み荒らすようなその光景は、幼いミーシアの目から見ても不快極まりないものだった。

 だが。その屈辱的な空間の中心に立たされていたエラルドは、誰よりも圧倒的な光を放っていた。


十歳そこそことは思えないほど洗練された身のこなし。シャンデリアの光を弾くプラチナブロンドの髪と、極寒の氷河のように澄んだサファイアの瞳。

 きらびやかなドレスを着た同年代の令嬢たちに何重にも囲まれ、羨望と熱を帯びた視線を一身に浴びながらも、彼は一切の隙を見せなかった。

 幼いながらもシルバーンからの嫌味な当てこすりにも眉一つ動かさず、周囲の令嬢たちには完璧で優美な微笑みを返している。その神々しいまでの冷たい美しさと気高さに、幼いミーシアは一瞬で心を奪われたのだ。


だが、ミーシアは見てしまったのだ。

 夜会の最中、ふと窓辺に立ったエラルドのサファイアの瞳が、庭園の暗がりにいた一人の少女を捉えたことを。

 公爵邸の敷地内に住まう薬局の娘――平民の小さな女の子が、厨房からくすねてきたらしい特大の骨付き肉を片手に、エラルドに向かって無邪気に手を振っていたのだ。

 彼女と目が合った瞬間。エラルドの貴公子面とした笑顔が、音を立てて溶け落ちた。


ほんの一瞬だけ浮かべた、年相応の柔らかくて、少しだけ呆れたような、心底愛おしそうなあの微笑み。


(私には、あんな顔、一度も向けてくださらないのに)


胸の奥が、冷たい針でチクリと刺されたように痛む。

 エラルドは、婚約者候補である自分を常に「完璧な令嬢」として扱い、優しくエスコートしてくれる。だが、そこに彼の本当の心はない。分厚い氷の壁を隔てた向こう側から、ただ礼儀として微笑みかけているだけなのだ。


数日前、実家であるアルバーン公爵家の分家当主――彼女の父に呼び出された夜の記憶が、紅茶の香りと共に蘇る。

 葉巻とインクの匂いが染み付いた重苦しい執務室で、父は冷徹な目でミーシアに告げた。


『ミーシアよ。次期当主であるエラルド様の魔力は、あまりにも強大すぎる。王家すら恐れるあの力を公爵家の管理下に繋ぎ止めるためにも、分家の筆頭であるお前が彼の正妻となり、盤石な地盤を築かねばならん』

『……分かっておりますわ、お父様』

『だが、あの平民の小娘……マリー・トマスという特待生。あれは、完璧であるべきエラルド様の「きず」だ。いずれ公爵となる方に、平民の幼馴染などという甘い鎖は必要ない。あのシルバーンのような輩や彼の政敵たちが、必ずあの娘を政治的な標的として狙うだろう』


父の言葉は絶対だった。

 アルバーン家の血を守り、エラルドの未来を確固たるものにする。それが、公爵令嬢として生まれたミーシアの使命であり、存在意義だ。


(……ええ、そうですわ。これは公爵家の人間として。そして何より、彼を慕う一人の女として、お伝えしなければならないこと)


 

ミーシアが紫の瞳に気高い決意の光を宿した、その時だった。


「あ、あの……失礼します」


サロンの入り口から、制服のシワを必死に伸ばしながらマリーがオドオドと足を踏み入れた。豪華な調度品に完全に気圧されているが、テーブルの上の色とりどりのマカロンを見た瞬間、彼女の瑠璃色の瞳がピカンッ! と輝いたのをミーシアは見逃さなかった。


「よくいらしてくださったわ。さあ、かけて頂戴。遠慮なく召し上がって」

「ほ、本当ですか!? ありがとうございます! いただきます!」


マリーはアンティークチェアに座るなり、宝石のようなマカロンをパクリと一口で放り込んだ。

「んーっ! サクサクしてて、中のクリームがとろけるーっ! 美味しい!!」

 リスのように両頬を膨らませて満面の笑みを浮かべる彼女に、ミーシアは思わず毒気を抜かれそうになり、小さく咳払いをした。


「……お口に合って何よりですわ。ですが、今日貴女をお呼びしたのは、少し真面目なお話があるからですの」

「真面目な話? 私、テストの赤点くらいしか思い当たらないんだけど……」

「単刀直入に伺いますわ。貴女は、エラルド様のことを、どう思っていらっしゃいますの?」


不意を突かれたような質問に、マリーはマカロンを咀嚼する手を止め、不思議そうに小首を傾げた。


「エラルドのこと? うーん、昔からずっと一緒にいる、大事な家族みたいなものかな。頭が良くて頼りになるけど、私がいないとすぐご飯食べるの忘れちゃうし、小言の多い過保護な弟分って感じ!」


そのあまりにも無自覚で、色気の欠片もない言葉に、ミーシアはふっと自嘲気味に息を吐き、扇子を広げて口元を隠した。


「……家族、ですか。随分と傲慢な言葉ですのね。貴女がそう思っていても、周囲はそうは思いませんわ」

「えっ?」

「彼はいずれ、アルバーン公爵家を背負い、王国の中心に立つお方。当然、その隣に立つ妻には、それ相応の覚悟と、彼を政治的な悪意から守る『社交の盾』となる責任が伴いますのよ」


ミーシアの声が、一段と冷たく、重い響きを帯びる。


「貴女とエラルド様が親しくされるのを、快く思わない貴族はたくさんおります。平民である貴女の存在は、間違いなく彼を狙う者たちにとって最高の『的』になる。貴女が彼の傍にいるだけで、彼が足をすくわれる弱点になり得るのです」


静かな薔薇のサロンに、ミーシアの毅然とした声が響く。


「合同演習でも証明されたように、貴女のその『物理』の力は戦場では強力でしょう。……ですが、貴族社会の暗闘において、拳は何の役にも立ちませんわ。彼を本当に大切に思うのなら、ご自分の立場と彼との『距離』というものを、今一度お考えになった方がよろしいのではなくて?」


ミーシアは、冷酷な現実を突きつけた。

 それを聞いたマリーは、膝の上でギュッと両手を握りしめ、少しの間うつむいた。


(……そっか。エラルドも、いずれ公爵として立派な女の人と結婚するんだ。ミーシア様みたいに綺麗で、頭のいい人が奥さんになるんだろうなぁ)

 マリーの脳内では、驚くべきことに一切の嫉妬も悲壮感も湧いていなかった。むしろ「あいつも大人になるんだなぁ」と、近所の親戚のおばちゃんのような呑気な感慨を抱いていたのだ。


(でも……だからって、私が『弱点』になるから離れろって言われるのは、絶対に違う)


数秒の沈黙の後。マリーはゆっくりと顔を上げ、ミーシアを真っ直ぐに見据えた。

 その瑠璃色の瞳に、絶望や諦めの色は微塵もなかった。あるのは、燃えるような反骨心と、揺るぎない信頼の光だ。


「……ミーシア様が、エラルドの将来をすごく大切に考えてくれてるのは分かりました」

「分かっていただけて――」

「でもね、ミーシア様。エラルドのこと、ちょっと過小評価してない?」


遮るように放たれた言葉に、ミーシアは目を丸くした。


「毒入りの紅茶なんて、あいつなら飲む前に見破るよ。夜会の嫌味だって、涼しい顔して全部凍らせて言い返せるくらい、あいつは強いもん」

「それは……ええ。彼ならそうでしょう。だからこそ、貴女のような隙のある平民が――」

「でも、あいつはそういう嫌なこと全部、一人で平気な顔して飲み込んじゃおうとするんだよ」


マリーの張りのある声が、春の風に乗って真っ直ぐに届く。


「昔からそう。痛くても苦しくても、完璧な顔して笑って我慢しちゃうの。だから、私が隣にいて『そんなの飲むな!』って言って、テーブルごとひっくり返さなきゃいけないんだ。夜会で嫌なことを言う奴がいたら、私が大きな声で笑い飛ばして空気を変えてやる」

「なっ、何を馬鹿なことを! 貴族の夜会でテーブルをひっくり返すなど、前代未聞の――」

「貴族のルールとか、社交界の暗闘とかはよく分かんない! でも、理不尽な悪意からは私が絶対にあいつを守る!」


マリーは立ち上がり、ドンッと自分の胸を叩いた。


「身分が違うからとか、私が的になるからって理由で、大事な幼馴染を一人ぼっちにするなんて絶対に嫌だ。私はこれからも、あいつの隣で一番うるさくて図太い幼馴染でいるよ!」


言い切ったマリーの瞳は、まるで真昼の太陽のように眩しく、一切の迷いがなかった。


「…………っ」


ミーシアは、息を呑んだ。

 自分が信じて疑わなかった、貴族としての誇りや常識。それを根底からぶち壊そうとする、あまりにも無鉄砲で、規格外の図太さと優しさ。

 この娘は、自分が『妻』になれないことなど気にも留めていない。ただ純粋に、エラルドの『心』を一人ぼっちにさせないためだけに、すべての理不尽と戦う覚悟を決めているのだ。


エラルドがなぜ、この少女にだけあの柔らかい微笑みを向けるのか。その理由を、ミーシアは骨の髄まで理解させられた。


(ああ……敵いませんわね。こんなにも眩しい光を前にしては、どんな緻密な政治の盾も、霞んで見えてしまう)


ミーシアは、扇子を強く握りしめたまま、苦く、けれどどこか清々しい敗北感を噛み締めていた。

 マリー・トマスは、決して守られるだけの脆弱な弱点などではない。彼の心の暗闇を切り裂く、最も温かくて力強い太陽なのだと。



ミーシア様とのお茶会を終え、実家であるトマス薬局に帰り着いた頃には、すっかり夕日が王都の街並みを茜色に染め上げていた。


「お母さーん、ただいま! 甘いもの食べてきたけど、なんか頭使ったからしょっぱいもの食べたい!」

「はいはい、お帰りなさい。夕食のシチューができるまで、この焼き立てのクッキーでも齧ってなさいな」


お母さんが呆れたように笑いながら、バスケットいっぱいの香ばしいクッキーを渡してくれた。

 私はそれをひょいっと受け取ると、「ちょっとエラルドのところに行ってくる!」と告げて、すぐ隣にあるアルバーン公爵邸の裏口へと向かった。

 公爵邸の広大な敷地内にある我が家から、エラルドの住む本館までは目と鼻の先だ。


豪奢な大理石の廊下を歩いていると、前方のエントランスホールで、ピシッと背筋を伸ばした初老の女性が、数人の若いメイドたちを前に鋭い声を飛ばしているのが見えた。


「そこのあなた、大階段の手すりの拭き上げが甘いです。公爵邸の品位は、こうした細部にこそ宿るのですよ。やり直しなさい」

「ひっ……は、はいっ! 申し訳ありません、メイド長!」


新人メイドが涙目で駆け出していく。

 公爵邸のすべての使用人を束ねる、厳格にして有能なメイド長・ベアトリスだ。彼女のその隙のない仕事ぶりと威圧感は、邸内の誰もが恐れ慄くほどである。

 だが、私がのんきに「ベアトリスさーん!」と手を振ると、彼女の厳しい顔つきが、まるで別人のようにふにゃりと崩れた。


「あらあら、マリー様。学園からのお帰りですか」

「うん! 今日はうちのお母さんがチーズクッキー焼いたから、エラルドにもお裾分けしようと思って。エラルド、もう帰ってる?」

「ええ、もちろん。先ほどご帰還され、私室で書類に目を通しておいでです」


ベアトリスは、孫娘を見るような慈愛に満ちた目で私の頭を優しく撫でた。


「……マリー様。そしてトマス様とマーサ様にも、本当に感謝しております。教団の脅威が去り、エラルド様が毎日こうして、日付が変わる前に無事にお屋敷へお帰りになられる……。こんなに心安らかな春を迎えられる日が来るとは、夢にも思いませんでした」


彼女の目元に、うっすらと涙が浮かんでいた。

 十年前の事件で両親を亡くした幼いエラルドに、亡き奥様に代わって無償の愛情を注ぎ、身を粉にして彼を支え続けてきたベアトリス。私の両親と共に、あの孤独な彼を絶対に見捨てなかった温かい大人たちの一人だ。


「もう大丈夫だよ、ベアトリスさん。エラルドの背中は、私たちがずっと一緒に守るから!」

「ええ。貴女は昔から、我が公爵家にとって太陽のようなお方です。……さあ、クッキーが冷めないうちに、エラルド様のところへ行って差し上げてくださいな」


ベアトリスに優しく背中を押され、私は足取りも軽く、最上階にあるエラルドの私室へと向かった。


重厚なマホガニーの扉の前に立つ。

 公爵家の次期当主の部屋だというのに、私は昔からの癖でノックの返事も待たず、勢いよく扉をバーン! と開け放つ。


「エラルド、遊びに来たよーっ!」

「……マリー。せめて僕が『入っていいよ』と言うまで待つという選択肢はないのかい?」


部屋の奥、巨大なマホガニーの執務机で羽ペンを走らせていたエラルドが、またかと呆れたようにサファイアの瞳を向けてきた。

 上着を脱ぎ、タイを少し緩めた、学園では絶対に見せない気の抜けた格好をしているエラルドはいつも通りだ。


「だって、返事待ってたらクッキー冷めちゃうもん。お茶淹れて!」

「はいはい」


私は部屋に上がり込むなり、窮屈なローファーをぽーんと脱ぎ捨て、部屋の中央にある大きな革張りのソファにダイブした。ふかふかのクッションを抱きかかえ、仰向けに寝転がってゴロゴロとくつろぐ。


エラルドは苦笑しながら立ち上がり、手慣れた様子でティーセットを用意してくれた。

 淹れたての紅茶の良い香りが部屋に漂う。


「大広間での噂で、放課後東棟のサロンでミーシア嬢とお茶会をしていたと聞いたけれど。何か言われたんじゃないかい?」


私の横のシングルソファに腰を下ろし、お茶を注ぎながら彼が尋ねてきた。


「んー? ああ、ミーシア様に『あんたが傍にいるとエラルドの弱点になるから離れろ』って言われたよ」

「……なに?」


エラルドのティーカップを持つ手がピタリと止まり、その瞳にスッと冷たい光が走った気がした。


「で、でもね! 私、ちゃんと言い返したから! 身分が違うからって幼馴染を一人ぼっちにするなんて嫌だ、私が一番うるさくて図太い盾になってやるって!」

「…………」

「だからね、エラルド。これからもずっと、私の隣は覚悟しておいてよね!」


私がクッションを抱きしめながらニカッと笑うと、エラルドは少しの間目を丸くし……やがて、堪えきれないように吹き出した。


「ふふっ……あはははっ! ああ、そうだね。君のその規格外の図太さに比べたら、社交界の暗闘なんてちっぽけなものだ。……ありがとう、マリー」


彼は本当に嬉しそうに目元を和らげると、バスケットを広げた。

 たくさんのマーサお手製のクッキーが入っている中で、一際目を引くクッキーがあった。チーズが一番カリカリに焦げていて美味しそうなクッキーだ。


「あ、それ一番美味しそう!」


私は勢いよくソファから身を乗り出し、バスケットの中のクッキーを捕獲した。


「こら、マリー。行儀が悪いよ。それに、君の分はまだたくさんあるだろう?」

「だって、これが一番美味しそうに見えたんだもん!」


リスのように咀嚼する私を見て、エラルドは「君は昔から本当に変わらないね」と深い溜息をついた。

 そして、身を乗り出したせいでめくれ上がった私のスカートの上に、近くにあったウールの毛布をポンと被せる。


「はしたないから隠しなさい。それに……」


エラルドは私の顔にスッと顔を近づけると、長い指先で、私の口の端についたクッキーの欠片を優しく拭い取ってくれた。

 学園の令嬢たちが見たら卒倒しそうなほどの至近距離と甘い仕草だが、昔から彼に甲斐甲斐しく世話を焼かれている私にとっては、ただの「心配性な家族」の日常風景だ。


「ふぁぁ……なんか、お腹いっぱいになったら急に眠くなってきた。 夕飯までまだ時間あるよねー」

「ミーシア嬢相手に気でも張ったんだろう。少し寝るといい」


エラルドの優しい声を聞いた瞬間、私の睡魔は一気に限界を突破した。

 私はソファからむくりと起き上がると、部屋の奥にある、エラルドの巨大な天蓋付きベッドへとフラフラ歩き、そのままシーツの海へ躊躇なくダイブした。


「んんっ……エラルドのベッド、シダーウッドのいい匂いがして……落ち着く……」


ひんやりとしていて、でも安心する彼の体温の匂い。

 私は彼の羽毛布団にくるまりながら、あっという間に深い眠りの底へと落ちていった。


* * *


静かな寝息を立てて、自分のベッドで無防備に丸くなるマリー。

 エラルドは、その愛おしい寝顔をベッドの傍らからじっと見下ろしていた。


(……このまま、僕の腕の中に閉じ込めてしまいたい)



(ミーシア嬢に『離れろ』と言われた時、君は少しでも僕の手を離そうと考えたのか?)

(身分なんてどうでもいい。君のその真っ直ぐな瞳も、温かい体温も、すべて僕だけのものだ)


エラルドのサファイアの瞳から、涼やかな理性の光が完全に消え失せた。

 そこにあるのは、愛に狂った狂信者のような、醜悪で、底なしの独占欲。


彼は、音もなくベッドに膝をつくと、眠るマリーの上に覆い被さるようにして両腕を突いた。

 無自覚なまま自分の執着を煽り続ける、白く無防備な首筋。

 彼女から漂う温かい匂いが、エラルドの脳髄を甘く、ドロドロに溶かしていく。


「……マリー」


掠れた、余裕を失ったような甘い声。

 エラルドの冷たい指先が、眠るマリーの制服のブラウスの第一ボタンに、ゆっくりと掛けられた――。


その、指先が彼女の柔らかな肌に微かに触れた、瞬間だった。


「んん……エラル、ド……」


寝言で自分の名前を呼びながら、安心しきったように身じろぎをするマリー。

 その無防備すぎる体温と、全く疑いを持たない無垢な声が、エラルドの鼓膜を打った。


「――ッ!!」


バチッ! と、頭の芯で激しい火花が散った。

 エラルドは弾かれたようにベッドから飛び退き、壁際まで後ずさって、その場にガクンと膝をついた。


「はぁっ、はぁっ……っ、な、にを……!」


荒い呼吸を繰り返し、自身の震える両手を見つめる。

 サファイアの瞳に、極寒の理性の光が急速に引き戻されていく。


(今……僕は何を考えていた……!? どうして、あんなことを……っ)


心臓が、早鐘のように打ち鳴らされている。冷や汗が全身から噴き出し、背筋を強烈な悪寒が駆け抜けた。

 愛する幼馴染が、自分を信頼しきって眠っているベッド。

 あろうことか、その彼女の服に手をかけ、自分の歪んだ欲求を満たすために力ずくで彼女を蹂躙しようとしたのだ。


「……っ、ふざけるな、僕は……彼女の笑顔を護るために、ここまで……っ」


自らの両腕を抱きしめ、爪が食い込むほどに強く掻き毟る。

 おかしい。絶対に、何かがおかしい。

 最近の自分が、明らかに『異常』だということに、エラルドはついに直面していた。


今まで考えたこともなかったような、ドロドロとした醜悪な感情。

 彼女の笑顔を他の男が見るだけで、猛烈な嫉妬が湧き上がる。彼女を邸宅の奥深くに閉じ込め、誰の目にも触れさせたくないという、おぞましい独占欲。

 それが、頭の奥から泥水のように突然湧き上がってきて、自分の思考を完全に塗りつぶしていく。


(頭では絶対に駄目だと分かっているのに……身体が、勝手に動こうとする。僕が十年間、血を吐くような思いで鍛え上げてきたはずの理性が、全く効かない……!)


こんなものは、僕の感情じゃない。

 エラルド・フォン・アルバーンという人間の根本的な倫理観を、内側から強引に書き換えようとする、暴力的なまでの『外からの力』だ。


「……まさ、か」


エラルドは、床に這いつくばりながら、一つの恐ろしい可能性に行き当たった。


教団のトップ、ギデオンを完全に消滅させたあの地下廃坑での瞬間。

 自らの規格外の光の魔力を一滴の余力すら残さず全解放し、魔力回路が完全に空っぽになった、あの絶対的な無防備状態。


――ポツン、と。

 冷たいインクが一滴、心臓に垂らされたような、あのひどく奇妙で不快な感覚。

 そして、ギデオンの怨念が残した、あの不気味な笑い声。


『貴様のその高潔で美しい愛が、最も醜悪な執着へと裏返る瞬間を、楽しみにしているぞ』


「……極度の疲労なんかじゃ、なかった。魔力酔いが見せた幻覚でもない……っ」


エラルドは、ギリッと唇から血が滲むほどに奥歯を噛み締めた。

 間違いない。あの一瞬の隙を突いて、ギデオンは自らの最も色濃い悪意――『遅効性の何らかの精神呪詛』を、僕の心臓の奥底に植え付けて散ったのだ。


僕が彼女に向ける愛が深く、純粋であればあるほど、それを養分にして『醜悪な執着』へと反転させて増幅する最悪の呪い。

 だから、彼女に触れようとするたびに、彼女の温もりを感じるたびに、理性が喰い破られそうになる。


「……マリー」


エラルドは、痛む胸を押さえながら、ベッドで幸せそうに眠る彼女の顔を静かに見上げた。


彼女は、ミーシア嬢に『弱点になるから離れろ』と突きつけられても、「絶対に嫌だ。私が一番うるさくて図太い盾になってやる」と笑ってくれた。

 どんな暗闘があっても、一緒に乗り越えられると、僕の心を心底信じてくれている。


(……でも、駄目だ。今の僕は、その君の信頼に応えられない)


胸の奥で、呪いの種が再び甘く脈打つのを感じる。

 今の自分は、時限爆弾のようなものだ。この精神呪詛の正体と、完全な解呪の方法を見つけ出さない限り、自分の意志とは無関係に、いつ理性のタガが外れてしまうか分からない。


もし、次に呪いが暴走した時。

 今回のように寸前で踏み止まれなかったら。

 その時は間違いなく、自分は彼女のその真っ直ぐな光を、自分の力で無茶苦茶に傷つけ、絶望させてしまうだろう。


「……ごめんね、マリー」


エラルドは、ベッドには近づかず、遠くから祈るように彼女の寝顔に向かって囁いた。


「この呪いを完全に解き明かすまで……僕は、君の傍にはいられない」


自らのすべてを懸けて護ると誓った太陽。

 その太陽から、自分自身の身勝手な闇を遠ざけるために。

 エラルドは、血の滲んだ唇で無理やり氷の貴公子としての笑みを作り上げると、彼女が目覚める前に、自らの部屋を逃げるようにして後にしたのだった。

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