閑話休題 マリーと美味しいお菓子
朝の眩い陽光が、開け放たれた窓から容赦なく部屋へと降り注いでいた。
春の暖かな風がカーテンを揺らし、外からは長閑な小鳥のさえずりが聞こえてくる。あまりにも平和で、二度寝を誘うには完璧すぎる朝だった。
「んん〜……あと五分、むにゃむにゃ……」
ベッドの上で毛布にくるまり、芋虫のように蠢いていた私は、遠くで鳴り響く王都の鐘の音にぴたりと動きを止めた。
――カーン、カーン、カーン。
重厚な金属音が空気を震わせる。その数は、八つ。
「…………は、八の鐘!?」
ガバッと跳ね起き、枕元の時計を見上げた瞬間、私の息が止まった。
昨夜は祝勝会でしこたま食べて飲んで(果実水を)、家に帰ってベッドにダイブした記憶しかない。
「遅刻だああああああああああ!!」
血の気が引く。針は無情にも、登校のデッドラインまで残り十五分であることを示していた。
私はベッドから転げ落ちるように床へ着地すると、光の速さで制服に着替え、洗面所で顔をバシャバシャと洗い、寝癖を水で強引に撫でつけた。
一階の薬局に続く階段を駆け下りながら、厨房のテーブルに置いてあった焼き立てのクロワッサンを二つ鷲掴みにして口に咥える。
「いっぺきまーしゅ!(行ってきます!)」
「こらマリー! 喉に詰まらせるんじゃないわよ!」
お母さんの呆れ声を背中に浴びながら、私は春の王都の石畳を猛ダッシュで駆け抜けた。
教団の幹部や魔獣と死闘を繰り広げた日々から一転、今日の私の最大の敵は「学園の門限」だ。平和って素晴らしいけれど、遅刻のペナルティで便所掃除一週間を喰らうのは絶対に避けたい!
「セーフッ!!」
予鈴が鳴り終わるコンマ一秒前。私は3組の教室の扉をスライディング気味に開け放ち、そのまま自分の席へと滑り込んだ。
「……相変わらず、朝から騒々しいわね、マリー」
「よっ! 昨日はあんなに食ってたのによく走れるな。お前の胃袋と体力、マジでどうなってんだよ」
息を切らす私を見て、アイリスが呆れたようにため息をつき、隣の席のアイクがゲラゲラと笑う。前の席では、セドリックが「間に合ってよかったですね」と苦笑しながら丸眼鏡を押し上げていた。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思った。アイリス、どうして起こしてくれなかったのさ!」
「祝勝会の帰りに『明日は絶対起きられないから起こしてね』って言われたけど、私は今朝、図書委員の仕事があったのよ。自業自得ね」
アイリスにピシャリと言い返され、私はぐうの音も出ずに机に突っ伏した。
かくして、私の平和で騒がしい、三年生進級へ向けた春の学園生活がスタートしたのだった。
* * *
「んーっ! やっぱり学園のチーズオムレツは最高!」
昼休みの大食堂。私は山盛りのオムレツを口いっぱいに頬張りながら、幸せな溜息を吐いていた。
アイクやアイリスたちと談笑しながら食事をしていると、ふいに私たちのテーブルの横に、おずおずとした足取りで近づいてくる二人の女子生徒がいた。
「あ、あの……マリーさん。お食事中にごめんなさい」
「ん? あ、クロエちゃん!」
声をかけてきたのは、2組に在籍している平民特待生の女の子、クロエ・ロードだった。
プライドの高いジュリアンや貴族令嬢たちが多い2組の中で、私と同じ平民特待生という立場で肩身の狭い思いをしている彼女とは、廊下ですれ違うとよく励まし合う仲だ。
そして今日は、彼女の隣に、見慣れない亜麻色の髪をした女の子がモジモジと立っていた。
「クロエちゃん、その子は?」
「う、うん。今日から私のいる2組に編入してきた、フィオナちゃんだよ。隣の席になったんだけど……どうしてもマリーさんに会いたいって言うから、案内してきたの」
クロエが紹介すると、フィオナと呼ばれた女の子は、パァァッ! と顔を輝かせて私に一歩詰め寄ってきた。
「は、初めまして! 地方の男爵家から春編入してきました、フィオナ・ハミルトンです! あのっ、私、昨日の学園見学の時に、森の演習場でマリーさんの戦いを見てたんです!」
「えっ、昨日の演習を?」
「はい! 私、魔法のコントロールがすごく苦手で……でも、マリーさんが1組のエリートの方々の凄い魔法を、素手でバリーンッ! って叩き割って突撃していくのを見て、雷に打たれたみたいに感動しちゃって! 魔法が下手でも、あんな風に戦えるんだって……マリーさんは私の憧れです!」
目をキラキラさせて語るフィオナの熱量に、私は思わず「お、おう……」と気圧されてしまった。
隣でアイクが「素手で魔法ぶっ壊すのが憧れって、変わった新入生だな」と笑い、アイリスが「マリーの真似なんてしたら命がいくつあっても足りないわよ」と呆れている。
「それでね、フィオナちゃんが『マリーさんに特製の手作りケーキをプレゼントしたい』って言うから、さっき二人で家庭科室を借りて焼いてきたんだけど……」
クロエが苦笑いしながら、後ろに隠していた大きな鉄板を取り出した。
そこには、こんがりと美味しそうに焼き上がったパウンドケーキが乗っている。バターと砂糖の甘い匂いが鼻をくすぐり、私は途端に「美味しそう!」と身を乗り出した。
「本当に!? ありがとうフィオナちゃん! クロエちゃんも手伝ってくれたんだね!」
「へへっ、マリーさんに食べてもらうために、とっておきの隠し味を入れたんです! 実家から持ってきた、魔力で美味しくなる『ふくらむキノコ』の粉末を――」
「えっ?」
フィオナの言葉に、隣で紅茶を飲んでいたセドリックが「ブフォッ」と盛大に吹き出した。
「ふ、ふくらむキノコ!? フィオナさん、それは熱と魔力に反応して無限に膨張する錬金指定素材――」
ボコンッ。
セドリックが言い終わるより早く、鉄板の上のケーキが、不気味な音を立てて波打った。
次の瞬間。ボコボコボコボコッ!! と、パウンドケーキがまるで意志を持ったスライムのように異常増殖を始め、あっという間に天井まで届く『巨大なケーキの化け物』へと変貌したのだ。
「うわああああっ!? ケ、ケーキが立った!?」
「きゃあああっ! 甘い匂いのスライム!?」
巨大化したケーキの化け物は、ドスンドスンと大食堂を揺らしながら暴れ始めた。周囲の貴族令嬢たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
「ま、まずいぞ! あれが暴れたら大食堂がクリームとスポンジまみれになる!」
「止めなきゃ! アイリス、凍らせて!」
「無理よ、食品に直接魔法を当てたら魔力変異で毒素が出るかもしれないわ!」
パニックに陥る大食堂。
ちょうどそこへ、見回りをしていたレオンハルト殿下と、ガイル先輩、アーサー先輩の「現・生徒会役員」トリオが駆けつけてきた。
「……む? なんだあの甘ったるい匂いの巨大な泥は」
「殿下、お下がりを。私が斬り刻み……いや、斬ったら余計に増殖して散らばるか!?」
「ええい、面倒な! 俺が燃やして炭にしてやる!」
レオンハルト殿下が剣を構えようとした、その時だ。
「ストォォォォォップ!! 食べ物を粗末にするなぁぁぁッ!!」
私は、殿下の前にスライディングで飛び出すと、暴れ狂う巨大ケーキの真正面へと躍り出た。
相手は魔力で暴走しているだけの、純度100%の美味しい手作りケーキだ。燃やすなんてもったいない!
「マリーさん! 危ないです!」
「マリー!?」
私は大きく息を吸い込み、右拳を限界まで引き絞った。
魔力の暴走なら、私の『特異点の拳』で物理的に殴り飛ばして霧散させれば、ただの大きなケーキに戻るはずだ!
「いただき、まーーーすッ!!」
ドゴォォォォォンッ!!
私の渾身の右ストレートが、巨大ケーキのど真ん中に炸裂した。
パァァァンッ! という魔力が砕ける音と共に、ケーキの暴走状態が解除される。
しかし、巨大な質量のまま勢いを失ったケーキは、そのままドサァァァッ!! と私の全身を押し潰すようにして崩れ落ちた。
「マ、マリーッ!!」
クロエとフィオナが悲鳴を上げて駆け寄る。
だが。
「……んーっ! ふわっふわで美味しい!!」
スポンジとクリームの山の中から、私が幸せそうにケーキを頬張りながら顔を出したのを見て、食堂にいた全員がズコーッとずっこけた。
「……お前という奴は。本当に、底知れぬ胃袋だな」
「わははははっ! 傑作だ! あのマリー・トマスにかかれば、どんな暴走魔法もただの『おやつ』というわけか!」
ガイル先輩が呆れ果てて眼鏡を押し上げ、レオンハルト殿下が腹を抱えて大笑いする。
「マ、マリーさん……凄すぎます……!」
「ふふっ、本当にマリーさんには敵わないね」
クリームまみれになってケーキを食べる私を見て、フィオナが感極まったように両手を握りしめ、クロエが肩の力を抜いて心底楽しそうに笑っていた。
2組で孤立しがちだったクロエに、フィオナという明るい友達ができたことが、私は自分のことのように嬉しかった。




