凱旋と平和の訪れ
***
地下廃坑から地上へと続く、長く険しい石段。
その最上段を抜け、吹き飛ばされた岩穴の入り口をくぐり抜けた瞬間――私たちの目に飛び込んできたのは、世界を黄金色に染め上げる、息を呑むほどに美しい『夜明け』だった。
「……出てきたぞ! アルバーン公爵令息と、特待生のマリー殿だ!!」
「教団の瘴気が……消えた! 本拠地の奥底から感じていたあの禍々しい気配が、完全に消滅しているぞ!!」
私とエラルドが身を寄せ合うようにして光の中へ歩み出た途端、外で待機していた、そして廃坑から次々と脱出してきた王宮近衛騎士団や宮廷魔導士たちから、地鳴りのような歓声が巻き起こった。
冷たい冬の空気を震わせる、数千の兵士たちの雄叫び。
張り詰めていた死の恐怖から解放され、その場に泣き崩れて抱き合う大人たちの姿が、朝焼けの光の中に無数に浮かび上がっている。
「マリーッ!! エラルドォォッ!!」
歓喜の輪を掻き分けて、二つの影が弾丸のように私たちへ飛び込んできた。
隠密部隊の黒い訓練着をボロボロにし、赤い髪を煤で汚したアイクと、宮廷魔導士のローブを泥だらけにしたアイリスだ。
「ちょっとアイク、痛い痛い! 肋骨折れるってば!」
「うるせぇ! 無事でよかった……っ、本当に、無事でよかった……っ!」
アイクが、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔のまま、私とエラルドをまとめて力一杯抱きしめる。
「息苦しいわよ、アイク! ……でも、本当に……っ、お疲れ様、二人とも……っ」
アイリスも、いつもの毅然とした態度はどこへやら、ドレスの裾を強く握りしめ、青い瞳からポロポロと大粒の涙をこぼしながら私の背中に抱きついてきた。
彼らもまた、最前線で地獄のような死闘を繰り広げてきたのだ。
宮廷魔導士団の中で氷の盾となり、大人たちの命を繋ぎ止めたアイリス。精鋭隠密部隊の中で幻影の刃を振るい、敵の指揮系統を刈り取ったアイク。あの冬の初め、ここで震えていた彼らはもういない。国を背負う立派な戦士として、彼らもまた自らの戦場で勝利をもぎ取ってきたのだ。
「アイクも、アイリスも、すごくかっこよかったよ。……一緒に戦ってくれて、ありがとう」
私が二人の背中をバンバンと叩くと、エラルドも、疲れ切った顔に極上の柔らかい笑みを浮かべて頷いた。
「ああ。君たちの防衛線がなければ、僕たちは最深部へ辿り着けなかった。……立派な、王国の盾と剣だったよ」
「……やり遂げたな、我が王国の若き獅子たちよ」
私たちの輪の前に、真紅の外套を羽織ったレオンハルト殿下が、堂々たる足取りで歩み寄ってきた。
その獰猛な金色の瞳には、王都の闇を払い除けた為政者としての深い安堵と、私たち全員への最大限の敬意が込められていた。
「ギデオンは討ち果たしました、殿下。……これで、十年来の禍根は断たれました」
エラルドが、青白い顔のまま、それでも完璧な臣下の礼をとって静かに報告する。
「ああ。セドリック卿ら王宮の部隊からも、学園地下の『灰の種』の解呪が完全に完了したと通信が入っている。我々の、完全なる勝利だ」
レオンハルト殿下が、愛用の大剣を天高く掲げた。
「皆の者、勝鬨を上げよ!! 忌まわしき灰の教団は、今この刻をもって我が国から完全に消滅した!! 王国に、春が来るぞ!!」
『おおおおおぉぉぉぉぉッ!!!!』
山肌を震わせるほどの絶叫と、打ち鳴らされる剣と盾の音。
私は、その光景を眩しそうに見つめながら、大きく、深く深呼吸をした。
肺に入ってくる空気が、もうちっとも痛くない。血の匂いも、カビの匂いもない、冬の終わりと新しい季節の始まりを告げる、清々しくて冷たい朝の空気だ。
* * *
その日の昼下がり。
王都ミリスの大通りは、建国祭すら凌ぐほどの凄まじい熱気と歓喜の渦に包まれていた。
『号外! 号外だ!! 王国を脅かしていた灰の教団、完全壊滅!!』
『レオンハルト殿下と若き英雄たちが、教団の本拠地を制圧! 学園地下の脅威も去ったぞ!』
王城へと続く白亜の大通り。その両脇を埋め尽くす何万という市民たちが、凱旋する私たちの馬車に向けて、色とりどりの花びらと紙吹雪を嵐のように降らせていた。
屋根の上からも、窓からも、身を乗り出した人々が口々に感謝と祝福の言葉を叫んでいる。
「エラルド様ーっ!! ああ、なんて神々しいお姿……!」
「レオンハルト殿下、万歳!! ミリス王国、万歳!!」
「そこの平民の子たちも! 貴族の令嬢も! よくやったね、ありがとう!!」
幌を開け放った馬車の上で、私は少し照れくさそうに頭を掻きながら、民衆に向かって大きく手を振り返した。
「おいアイリス、お前も手ぇ振れよ! 俺たち、完全に英雄扱いだぜ!」
「わ、分かってるわよ! 押さないでちょうだい、ドレスが乱れるわ!」
アイクが身を乗り出して調子良く手を振り、アイリスが顔を赤くしながらも誇らしげに微笑んでいる。
隣に座るエラルドは、いつもの完璧な氷の貴公子の微笑みを絶やさず、優雅に手を振っている。ただ、その手首から先が魔力枯渇の影響で小刻みに震えているのを、私は隣でこっそりと支えてあげていた。
「すごいね……王都の人たち、みんな笑ってる」
「君たちが護った笑顔だよ、マリー。君のその真っ直ぐな拳と、皆の勇気が、この国の厚い雲をすべて殴り飛ばしてくれたんだ」
エラルドが、私だけに見える優しい瞳で囁く。
長く、過酷だった冬。
ルカくんの死に涙し、理不尽なテロに震え、誰もが疑心暗鬼に陥っていたあの暗闇はもうない。
沿道の屋根に積もっていた分厚い雪は、春の暖かな陽射しを浴びてキラキラと溶け出し、希望の雫となって石畳を濡らしている。世界が、確かな『生』の喜びで満ち溢れていた。
* * *
その日の夜。
王城の最も奥に位置する『太陽の間』。
普段は建国記念祭や他国の王族を招く際にしか開かれないその大広間は、今夜、ミリス王国が長きにわたる冬の暗闘に完全勝利したことを祝う、歴史的な大祝賀会の会場となっていた。
天井を覆い尽くすほどの巨大な琥珀色のシャンデリアが、広間全体を真昼のように眩く照らし出している。
壁際をぐるりと囲むように配置された長テーブルには、純白のシルクのテーブルクロスが掛けられ、王宮専属のシェフたちが腕によりをかけた芸術品のような料理が、隙間もないほどに並べられていた。
香草をたっぷりと擦り込んで焼き上げられた仔羊のロースト。宝石のようにキラキラと輝く色とりどりの果実のゼリー。サクサクのパイ生地から濃厚な湯気を立ち昇らせる海鮮のクリーム包み。そして、勝利の美酒が注がれたクリスタルのグラスタワー。
鼻腔をくすぐるのは、芳醇なワインの香りと、春の訪れを告げるような甘い花の匂いだ。数時間前まで私たちの肺を焼いていた、凄惨な光景などどこにもない。
「んーっ! この仔羊、お肉が口の中で溶けるっ! こっちのパイもすっごく美味しい!」
私は、両手に持った皿にこれでもかとご馳走を積み上げ、次から次へと胃袋に収めながら至福の溜息を吐いていた。
広間の中央では、宮廷楽団が奏でる優雅なワルツの調べに乗せて、美しく着飾った貴族たちが安堵と歓喜の笑顔でダンスを楽しんでいる。
死の恐怖から解放された王宮は、どこを見渡しても確かな『生』のエネルギーで満ち溢れていた。
(セドリックは……あ、あそこにいた)
口の周りについたソースをナプキンで拭いながら視線を巡らせると、広間の少し隅の方にある、魔法陣のタペストリーが飾られた静かな一角に、彼の姿を見つけた。
セドリックは、あの丸い分厚い眼鏡の奥の瞳をキラキラと輝かせながら、身振り手振りを交えて何事かを熱心に語っている。彼を囲んでいるのは、包帯姿の筆頭研究員をはじめとする、王宮の特務研究区画の大人たちだ。
彼らは皆、セドリックの言葉に深く頷き、時には感嘆の声を上げながら、手にしたワイングラスを傾けている。
『――ですから、あの灰の種の魔力回路は、逆位相の中和波長を流し込むタイミングがコンマ一秒でもズレれば……』
『なるほど! いやはや、君のその若さでそこまでの演算をやってのけるとは。君は間違いなく、我が国の魔法研究の未来を担う至宝だよ、セドリック卿!』
『えへへ……そんな、僕なんてまだまだ……っ』
照れくさそうに頭を掻きながらも、その顔は自信と誇りに満ちていた。
臆病で、いつも私たちの背中に隠れていた気弱な少年はもういない。彼は自らの知恵と勇気で王都の危機を救い、王国の最高峰の頭脳たちに認められた立派な『研究者』として、確かな自分の居場所を見つけていたのだ。
(よかった。……セドリック、すっごく楽しそう)
親友の晴れ姿に胸が温かくなり、私はもう一皿、美味しそうなローストビーフを取りに行こうと踵を返した。
その時だ。
「……おい、お前。そのドレス……」
「な、なんですの。変ですの? 慣れないものを着せられたから、歩きにくいったらありゃしませんわ……」
広間の巨大な飾り柱の陰で、もじもじと落ち着かない様子で立っている二人の姿が目に入った。
アイクとアイリスだ。
アイリスは、いつも学園で着ている制服とは全く違う、彼女の青い瞳によく似合うペールブルーの美しいイブニングドレスを身に纏っていた。フリルやレースがふんだんにあしらわれたそのドレスは、彼女の凛とした美しさを際立たせ、本物の『高位の令嬢』と見紛うほどの気品を放っている。
対するアイクは、彼にしては珍しく、漆黒のシックなフォーマルスーツをカッチリと着込んでいた。燃えるような赤髪は少しだけ整えられているものの、やはり首元のタイが苦しいのか、指で何度も緩めようと引っ張っている。
「……いや。変じゃ、ない」
アイクが、そっぽを向きながら、ボソッと呟いた。
「……お前、黙ってドレス着てると、一丁前にすげえ綺麗な令嬢に見えるな、って……その、思っただけだ」
「なっ……! い、一丁前とはなんなの! 私は元から立派な男爵令嬢よ!」
アイリスはカッと顔を赤くして怒ったように言い返したが、その声はいつもよりずっと小さく、震えていた。
彼女はギュッとドレスの裾を握りしめると、少しだけ上目遣いで、照れ隠しのようにそっぽを向いているアイクの横顔を見つめた。
「……でも。その……貴方も。今日は少しだけ、王宮の騎士らしく、見えるわよ。……少しだけ、だけれど」
「お、おう……サンキュ。……お前も、その……似合ってる」
アイクも耳まで真っ赤にして、二人はそれ以上言葉を続けることができず、ただぎこちない沈黙の中で、お互いのグラスをカチンと軽く打ち合わせた。
その周囲だけ、春の陽射しが降り注いでいるかのように、甘くて温かい空気がふんわりと漂っている。
(……うわぁ。これは、私が割って入っちゃ駄目なやつだ)
私はニシシと口元を押さえて笑うと、足音を忍ばせてそっとその場を離れた。
命懸けの死闘を一緒に乗り越え、背中を預け合った二人だ。その絆が、ただの『喧嘩仲間』から別の何かへと変わっていくのは、とても自然で、最高に素敵なことだと思った。
パァァァンッ!!
その時。広間の喧騒を切り裂くように、バルコニーの上段から高く澄んだファンファーレが鳴り響いた。
楽団の演奏がピタリと止まり、数千人の貴族たちが一斉にグラスを置いて、広間の最奥に設けられた玉座へと静かに頭を垂れる。
「――国王陛下、ならびにレオンハルト殿下の御成り!!」
重厚な扉が開き、真紅の絨毯の上を、二人の人物がゆっくりと歩みを進めてきた。
一人は、真紅の外套を翻し、次期国王としての堂々たる覇気を纏ったレオンハルト殿下。
そしてもう一人は、他国との苛烈な外交交渉から帰還したばかりのミリス王国現国王、ジェラルド・ミリスその人であった。
他国外交で疲弊しているという噂など、彼が放つ圧倒的な威圧感の前では一瞬で消し飛んだ。その立ち居振る舞いに一切の隙はなく、広間を見下ろす眼光は獲物を値踏みする鷹のように冷酷だ。彼こそが、十年前の公爵邸襲撃事件すらも利用して政敵を粛清し、王家に絶対的な権力を集中させた『冷徹なる覇王』。
国王は玉座の前に立つと、冷ややかに、しかし腹の底に響く威厳に満ちた声で口を開いた。
「我がミリスの臣民よ。十年にわたり王都の暗がりに巣食っていたドブネズミ共は、本日をもって完全に駆逐された」
広間が、水を打ったように静まり返る。
「国家の繁栄は、血筋の古さや、無能な特権階級の驕りによってもたらされるのではない。実質的な『力』と『才能』によってのみ成される。……身分を問わず、真に実力ある者が国を護る。今回の特待生や若き獅子たちの活躍が、私の推し進めた実力主義が正しかったことを、完全に証明した」
国王は、隣に立つレオンハルト殿下へ鋭い視線を向けた。その目に、親としての甘さは微塵もない。
「レオンハルト。前へ出よ」
殿下が静かに進み出て、片膝をつく。
「暴動に踊らされ廃嫡された第一王子、そして教団の牙に倒れた第二王子……彼ら無力な者たちとは違い、お前はいかなる犠牲を払ってでも死地を生き抜き、次期国王としての冷徹な器を証明した。よくぞここまで育った。私の代行として、見事な采配だった」
「勿体なきお言葉に存じます、父上。すべては、王国の盤石なる未来のために」
息子の非情な覚悟を確認し、国王は短く頷いた。
そして次なる視線を、貴族たちの最前列に跪くプラチナブロンドの青年へと向けた。その瞳の奥に、誰よりも深い『警戒』と『計算』の色を忍ばせて。
「そして……エラルド・フォン・アルバーン。面を上げよ」
国王の声に、エラルドが静かに顔を上げる。
「十年前。お前のその規格外で制御不能な光は、王国への脅威であった。ゆえに私はお前を監視下に置き、公爵家の牙を抜くための鎖を与えた。……だが、お前はあの絶望を乗り越え、自らの強大すぎる力を『王国のための剣』として見事に飼い慣らしてみせた」
「……」
「お前の光は、この国にとって極めて有益な力だ。これからもレオンハルトの監視……いや、レオンハルトの『右腕』として、その力を我がミリスのために振るい続けよ」
それは賞賛の形をとった、絶対的な服従の強要だった。お前はただの強力な兵器であり、決して王家の枠を越えることは許さないという冷酷な念押し。
「……勿体なきお言葉。私の光はすべて、陛下の治めるこの美しき王国のために」
エラルドは、サファイアの瞳に一切の感情を浮かべることなく、完璧な臣下の礼をとって涼やかに答えた。
国王の力強い宣言により、祝賀会は最高潮に達し、楽団が一段と華やかなワルツを奏で始めた。
冷徹なる国王の宣言によって祝賀会が最高潮に達し、宮廷楽団が一段と華やかで優雅なワルツを奏で始めた直後。
大広間の中心は、またたく間に一人の青年を取り囲む熱狂の渦と化していた。
「エラルド様! 此度の見事なるご活躍、我が侯爵家からも心よりお祝い申し上げます!」
「陛下の御前で見せられたあの堂々たるお姿、まさに王国の光! ……ところでエラルド様、我が娘も今年で学園の三年生になりましてな。ぜひ一度、お茶会へ……」
「エラルド様、こちらの令嬢ともぜひご歓談を……!」
国王によってその『規格外の力』を公式に認められ、次期国王の右腕としての地位を盤石にしたアルバーン公爵家の若き獅子。
ミッドナイトブルーの最高級の夜会服を隙なく着こなしたエラルドの姿は、天井の琥珀色のシャンデリアの光を一身に集めているかのように、広間の中で誰よりも圧倒的な輝きを放っていた。
月光を思わせるサラサラのプラチナブロンド。彫刻のように整った顔立ち。そして、極寒の氷河のように冷たく、けれどどこまでも澄み切ったサファイアの瞳。
彼が軽く微笑み、グラスを傾けるだけで、周囲を取り囲む令嬢たちから「ひっ……」「ああ……っ」と熱に浮かされたような嬌声と溜息が漏れる。
「皆様、温かいお言葉に感謝いたします。ですが、此度の勝利は決して私一人の力ではなく、殿下と、勇敢なる騎士団、そして学園の仲間たちの絆がもたらしたものです。私など、その一端を担ったに過ぎません」
エラルドは、押し寄せる貴族たちの欲に塗れた賞賛と露骨な縁談の誘いを、完璧な『氷の貴公子』の笑みで柔らかく、かつ一切の隙もなく躱し続けていた。
表面上は、誰から見ても非の打ち所のない完璧な次期公爵。
だが、彼の胸の内は、ひどく退屈で冷ややかな感情に支配されていた。
(……ああ。煩わしい)
相槌を打ちながらも、彼のサファイアの瞳は、分厚い人垣の向こう側――広間のどこかにいるはずの、たった一人の少女の姿をずっと探し求めていた。
教団の襲撃によってめちゃくちゃにされてしまった、学園の大舞踏会。
あの夜、彼は生徒会としての責務と教団への警戒に追われ、結局マリーとまともに踊ることも、彼女がせっかく着飾ったドレス姿をじっくりと目に焼き付けることもできなかったのだ。
(あんな命懸けの戦いを終わらせたんだ。……今夜くらい、僕の我が儘を許してくれてもいいだろう)
エラルドは、ある一点を見つけると、ふっと目元を和らげた。
「申し訳ありません、皆様。王家の名代として、どうしても直接労いの言葉をかけねばならない者がおりますので。……失礼」
彼が優雅に一礼して歩み出すと、貴族たちはその圧倒的な気品に呑まれ、まるでモーセの海割れのように自然と道を空けた。
エラルドが真っ直ぐに向かった先。
広間の少し外れにある、色とりどりの料理が山のように積まれたビュッフェテーブルの最前列。
そこには、両頬をリスのように限界まで膨らませ、両手に持ったお皿の上の仔羊のローストを幸せそうに頬張っている、茶色の髪の少女がいた。
「んーっ! このお肉、噛まなくても溶ける! さすが王宮のシェフ、天才だね!」
マリーは、周囲の貴族たちが優雅に談笑しているのなどお構いなしに、次から次へと極上の料理を胃袋に収めている。
その飾らない、生命力に溢れた食べっぷりを見るだけで、エラルドの胸の奥にあった政治的な疲れや苛立ちが、春の雪のように溶けて消えていくのが分かった。
「……相変わらず、君は本当に美味しそうに食べるね」
背後から声をかけると、マリーは「んぐっ」と喉を鳴らして肉を飲み込み、勢いよく振り返った。
「エラルド! お疲れ様! やっとお偉いさんたちの包囲網から抜け出せたの?」
「ああ。君のその食べっぷりを見ていたら、僕も肩の力が抜けたよ。……それにしても」
エラルドは、彼女の全身をゆっくりと、そして熱を帯びた視線で見つめた。
今夜の彼女が身に纏っているのは、彼女の茶色髪と瑠璃色の元気な瞳によく似合う、淡いシャンパンゴールドのイブニングドレスだった。
華美な装飾は抑えられているが、上質なシルクが彼女のしなやかな体のラインを美しく引き立て、普段のガサツな特待生の面影を消し飛ばすほど、清らかで瑞々しい令嬢の輝きを放っている。
「……本当に、見違えたよ。今日の君は、この広間の誰よりも綺麗だ」
エラルドが、心からの本音を声に乗せて微笑む。
普通なら、ここで頬を染めて恥じらうのが令嬢というものだ。
しかし、マリーは「げっ」という顔をして、自分のドレスの脇腹のあたりを恨めしそうに引っ張った。
「綺麗とかそういう問題じゃないの! 聞いてよエラルド、地下から泥まみれで王宮に上がってきたと思ったら、いきなり見たこともない屈強なメイド長みたいな人に拉致されてさ! そのまま大浴場に放り込まれて、タワシみたいなので全身引っ剥がされる勢いで洗われたんだから!」
「た、タワシ……?」
「そう! で、息も絶え絶えのところにこのドレス着せられて、コルセットで内臓飛び出るかと思うくらいギュウギュウに締め上げられて! ……もう、息するだけで苦しいし、こんなんじゃ魔獣の攻撃も躱せないよ!」
一切のロマンチックな雰囲気を粉砕する、マリーの容赦ない愚痴。
自分を綺麗に見せることよりも、「いざという時に戦えるか」を基準にする彼女のブレなさ加減に、エラルドはたまらず吹き出した。
「くっ……ふふっ、あははははっ!」
「ちょっと、何笑ってんのさ! こっちは真剣に命の危機を感じてたのに!」
「ごめん、ごめん。……でも、君が僕の知っている君のままで、本当に安心した」
エラルドは、声を出して笑いながら、心底愛おしそうに彼女の茶色い髪にそっと手を伸ばした。
こんなにも美しいドレスを着ていても、彼女の中身はいつだって、彼の手を引いて泥だらけの道を走ってくれた『太陽』のままだ。
「ねえ、マリー」
エラルドは、笑みを収めると、一歩だけ彼女に歩み寄り、真っ白な手袋に包まれた右手を静かに差し出した。
「学園の舞踏会では、結局君と踊ることができなかった。……あの夜の埋め合わせを、今夜、僕にさせてくれないか」
「えっ」
周囲の貴族たちが、息を呑んでその光景を見つめているのが分かった。
完璧な次期公爵が、ただの平民の特待生に向かって、最も丁重な礼儀をもってダンスを申し込んでいるのだ。
「わ、私、ダンスなんてすっごく下手だよ?久しぶりで足、踏んじゃうかもしれないし……。というか、昨日今日に発揮した馬鹿力で踏んだら、エラルドの足の骨、粉々に砕け散るかも……」
「構わないよ。砕けたら、治癒魔法ですぐに治すから」
「いやそういう問題じゃなくて!」
慌てるマリーの手を、エラルドは強引に、けれど羽毛に触れるような優しさで掬い取った。
そのまま彼女の腰に手を添え、優雅な足取りでフロアの中心へとエスコートする。
ワルツの三拍子が、心地よく耳に響く。
「ほら、肩の力を抜いて。僕のステップに合わせて、一、二、三……」
エラルドのリードは、彼自身の魔法のように完璧で、滑らかだった。
エラルドにダンスレッスンをしてもらったことがあるとはいえ、あれからダンスなんて踊っていないからガチガチに緊張している。 しかし、エラルドはマリーがぎこちなく足を動かしても、彼が絶妙な力加減で腰を引き寄せ、まるで彼女が熟練のダンサーになったかのように、美しくフロアを旋回させてくれた。
「ひゃっ! ご、ごめん、今踏んだ!」
「大丈夫。痛くないよ」
「うう……これ、ガーゴイルの連続攻撃を躱すより数倍難しいんだけど……っ!」
必死に足元を睨みつけながら「一、二、三!」と呪文のように呟くマリー。
そんな彼女を腕の中に抱きながら、エラルドは圧倒的な幸福感に包まれていた。
周囲の貴族たちの好奇の視線など、今の彼にはどうでもよかった。
至近距離で感じる彼女の柔らかな体温。自分のステップに身を委ねてくれる、絶対的な信頼。甘い花の香水に混じって、先ほどまで彼女が食べていた仔羊のソースの匂いが微かに漂ってくるのすら、エラルドにとっては愛おしくてたまらなかった。
(……ああ。彼女がこんな風に笑ってくれるなら、僕の命など惜しくはない)
彼は、自らの腕の中で悪戦苦闘するマリーを見つめながら、心の中で静かに誓いを立てた。
彼女のこの無防備な愛らしさを、今、自分だけが独占している。
十年間、血を吐くような思いで手に入れた完璧な力と権力は、すべてこの瞬間のためにあったのだと。
――トクン。
その時。エラルドの胸の奥底で、何かが小さく、粘り気を帯びて脈打った。
それは、地下廃坑でギデオンが彼の中に滑り込ませた、何らかの呪い。
(この温もりを、誰の目にも触れさせたくない)
(ずっと、永遠に、僕の腕の中に閉じ込めてしまいたい)
ドス黒く、重い熱が、彼の純粋な愛情を養分にして、静かに根を伸ばしていく。
無意識のうちに、エラルドの腕に力がこもった。マリーの細い腰を、自分の体へ逃げ場のないほどピッタリと密着させるように引き寄せる。
「……っ、エ、エラルド? ちょっと、苦しい、かも……」
マリーが、急に距離が縮まったことに驚き、少しだけ顔を上げて彼を見た。
彼女の瞳には、ときめきやロマンチックな感情など微塵もない。「コルセットが限界突破して内臓が出る!」という切実な焦りだけが浮かんでいる。
そのマリーの全く色気のない表情に、エラルドの内側で膨らみかけていた仄暗い熱は、プツンと弾けて霧散した。
「……あははっ、ごめん。君があまりにも真剣な顔で足元を睨んでいるから、少し意地悪をしたくなったんだ」
「もう! 本当に息止まるかと思ったんだからね!」
「ふふっ。でも、コルセットのおかげで、いつもより少しだけレディに見えるよ」
「一言余計! 次踏んだら、マジで足の指粉砕するからね!」
エラルドは、腕の中で怒って頬を膨らませるマリーを見て、今度こそ心からの、愛に満ちた微笑みを浮かべた。
彼女は自分を、男としては見ていない。ただの気安い幼馴染として、全幅の信頼を寄せているだけだ。
今は、それでいい。この平和な日常を、彼女の隣で過ごせるのなら、それ以上の幸せはないのだから。
誰もが羨む、王都の光。平和な春の訪れを祝う、最高のハッピーエンドの夜。
二人の不器用で、ちっともロマンチックじゃない、けれど何よりも温かいワルツは、祝賀会が終わるまで絶えることなく続いた。




