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現れた本懐 決戦の時

ガイル先輩とアーサー先輩が命懸けで切り開いてくれた、光の道。

その背中を後にして、私とエラルドは、冷たく湿った風が吹き抜ける大階段を一気に駆け下りていた。


一段踏み込むごとに、カビと古い石の匂いが濃くなり、同時に肌を刺すような『死の魔力』の気配が重さを増していく。肺に吸い込む空気が、まるで細かいガラス片でも混じっているかのようにチリチリと痛い。


(……いよいよだ)


私は、走りながらギュッと右拳を握りしめた。

包帯の下にある火傷の痕と、背中に刻まれた十年前の『呪い』が、これから対峙する元凶の気配に反応し、ジリジリと嫌な熱を発している。

十年前のあの日。私はただ無我夢中で、泣き叫ぶ幼いエラルドの前に飛び出すことしかできなかった。魔法なんて欠片も持たないただの平民の私が、圧倒的な闇魔法の前に肉の盾となる以外、彼を護る術なんてなかったからだ。


けれど、今は違う。

私はもう、庇われるだけの無力な子供じゃない。あらゆる呪いを物理で粉砕する『特異点』の拳を持ち、何より――この十年間、誰よりも努力して最強の魔法使いになったエラルドが、すぐ隣を走ってくれている。


「エラルド」


私が短く呼ぶと、彼も走りながら私へ視線を向けた。

そのサファイアの瞳は、極北の氷河のように冷たく澄み切っているけれど、私の声に応える一瞬だけ、微かに柔らかな光を帯びる。


「……大丈夫だ、マリー。僕の魔力は、絶対に暴走しない」

「うん。知ってる」


たったそれだけの言葉で、十分だった。

彼がどれほどの罪悪感と孤独を抱え、今日という日を迎えたのか。自分の規格外の光の魔力を「化け物の力」と恐れ、氷の魔法で無理やり蓋をしてきた彼が、今どれほどの覚悟でその封印を解こうとしているのか。

彼が背負い続けてきた十年来の重い鎖を、今日、私と一緒に完全に断ち切るのだ。


大階段の果て。

重苦しい暗闇を抜けた先に広がっていたのは、赤黒く濁った水が広がる巨大な地底湖だった。

天井からは禍々しく変色した鍾乳石が牙のように垂れ下がり、教団の怨念を吸い込んだ青紫色の魔法鉱石が、心臓の鼓動のように不気味な明滅を繰り返している。


そして。地底湖の中央に浮かぶ、灰色の岩で組まれた広大な祭壇。

その最奥に鎮座する、ドス黒い瘴気で編み込まれた玉座に、十年前の公爵邸襲撃の首謀者であり、この王都にすべての災厄をもたらした男――ギデオンが、片腕のまま深く腰掛けていた。


『……よくぞここまで辿り着いたな、若き公爵と、忌まわしき平民の小娘よ』


ギデオンが、ゆっくりと立ち上がる。

彼が動いただけで、空間そのものがギリギリと悲鳴を上げるほどの、圧倒的で濃密な『死の魔力』が大空洞を支配した。

ただそこに立っているだけで、周囲の岩肌から生命力や微量な魔力がパサパサと音を立てて『灰』となって崩れ落ちていく。


だが、私たちの前に立ち塞がったのは、ギデオンだけではなかった。

祭壇へと続く一本の石橋の上。そこには、灰の教団の最精鋭とも言うべき異形の騎士たち――『灰の衛兵』が十数体、ズラリと立ち並んでいた。

彼らはもはや人間ではない。教団の狂信者たちが、自らの肉体に極限まで瘴気を注ぎ込み、自我を完全に喪失して殺戮機械ゴーレムと化した姿だ。全身を覆う漆黒の甲冑の隙間からは、赤黒い泥のような魔力がとめどなく溢れ出し、手に持つ巨大な戦斧や大剣は、触れるだけで魂を腐らせるほどの呪詛を纏っている。


『狂信の犬どもも、所詮は時間稼ぎ。だが、この灰の衛兵たちは、我が教団が長年かけて作り上げた最高傑作だ。……貴様らのその薄っぺらい正義が、どこまで通用するか見せてもらおう』


ギデオンの声が、水面を震わせて大空洞に響き渡る。


「……正義、だと?」


エラルドが、私の前に一歩進み出た。

彼の足元から、極寒の冷気が放射状に広がり、地底湖の濁った水面がピキピキと音を立てて凍りついていく。


「君の語る正義など、反吐が出る。十年前、僕の家族を奪い、マリーの背中に消えない傷を刻んだ。そして今また、無辜の生徒たちを魔獣に変えて王都を滅ぼそうとした。……君の狂気に、大義など一つもない」

『大義だと? ククク……ハハハハハッ!!』


ギデオンが、顔の半分を覆う灰色の仮面の奥で、狂ったように哄笑した。


『この腐り切った世界に、大義など初めから存在しないのだよ、エラルド・フォン・アルバーン!』


男の叫びには、腹の底を抉るような、深くて暗い絶望がこびりついていた。

『魔力という生まれ持った不条理な階級。知識を奪い、弱者の命を虫ケラのように消費して肥え太る貴族ども。そして、その貴族が投げる小銭に群がり、肉親の命すら喜んで売り飛ばす平民ども……! 貴様は、この世界の真の姿を知らんのだ。人間は皆、等しく醜悪な化け物だ!』


ギデオンの残された左手が、天高く掲げられる。

『だからこそ、私がすべてを灰に帰す! 身分も、富も、魔力も……すべてが等しく燃え尽きた『虚無』の世界にこそ、真の平等と救済があるのだ!!』


「……狂人が」

エラルドのサファイアの瞳が、氷の刃のように冷酷に細められた。


「君がどれほど世界に絶望しようと、知ったことか。……君が壊そうとしたこの世界には、僕が愛した日常があり、僕が何に代えても護り抜きたい笑顔がある。それを脅かす君の存在を、僕は今日、ここで完全に終わらせる」


エラルドの言葉と同時に、橋の上に立ち塞がっていた灰の衛兵たちが、地を揺らすような低い咆哮を上げて一斉に襲いかかってきた。

巨躯から放たれる圧倒的な質量と、触れれば即死の呪詛を纏った武器の連撃。

並の騎士団であれば、一瞬で肉片と灰に変えられてしまうであろう絶望的な暴力の波。


だが。

「行くぞ、マリー!」

「応ッ!!」


エラルドの背中から、純白の光と極北の冷気が爆発的に立ち昇った。

「――『氷絶のコキュートス・エッジ』」

彼が空を薙ぐように右腕を振るうと、大気中の水分が一瞬にして凍結し、無数の鋭利な氷の刃となって灰の衛兵たちへと降り注ぐ。

衛兵たちが振り回す呪詛の戦斧が氷刃を迎え撃とうとするが、エラルドの氷はただの氷ではない。その内側に圧倒的な『光の魔力』を秘めた、呪いを根底から浄化する破邪の刃だ。

ガァァァァンッ!! という甲高い金属音と共に、衛兵たちの武器が次々と弾き飛ばされ、彼らの漆黒の甲冑に分厚い霜が張り付いて動きが鈍る。


「そこだッ!!」

私は、エラルドの魔法が作った一瞬の隙を見逃さず、地を蹴った。

氷の足場をスケートのように滑りながら、先頭の衛兵の懐へと一気に潜り込む。

見上げるほど巨大な甲冑の胴体に向け、全身の捻りを利用した渾身の右アッパーを叩き込んだ。


メシャァァァァァァァッ!!


特異点の拳が直撃した瞬間、衛兵の纏っていた濃密な瘴気の鎧がガラス細工のように粉砕され、分厚い鋼の甲冑がひしゃげて紙屑のように後方へと吹き飛んだ。

「次ぃッ!!」

私は立ち止まらない。後続の衛兵が振り下ろしてきた大剣を、左腕のガントレットで強引に弾き流し、ガラ空きになった顔面へと右ストレートを突き刺す。呪いが砕け散る破砕音と共に、二体目、三体目の衛兵が次々と湖の底へと沈んでいく。


『小賢しい真似を……!』

ギデオンが舌打ちをし、祭壇から直接、怨念を込めた漆黒の槍を何十本も射出してきた。

私を串刺しにしようと迫る死の槍の群れ。

しかし、それが私に届くことは決してない。


「――『破邪の光盾イージス』」


凛としたエラルドの声と共に、私の背後に幾何学模様を描く絶対防衛の光盾が展開され、漆黒の槍をことごとく相殺して蒸発させる。

「助かる、エラルド!」

「前だけを見ていろ、マリー! 側面と背後は僕がすべて塞ぐ!」


私たちは、互いの呼吸を完全に読み合い、一切の無駄のない連携で石橋を駆け抜けていく。

私が前方の敵の呪いを物理で殴り壊し、エラルドが私の死角を光と氷の魔法で完璧にカバーする。かつてのように、彼が私を庇って無理をする必要はない。私が彼を庇って無茶をする必要もない。

私たちは二人で一つの、最強にして絶対の戦力なのだ。


パァァァァンッ!!

最後の灰の衛兵が私の拳によって粉砕され、祭壇の階段を転がり落ちた。

かくして、私たちとギデオンを隔てる障害は完全に消え去った。


「……これで、チェックメイトだ、ギデオン」

エラルドが祭壇の最上段へと足を踏み入れ、自身の魔力で作り上げた氷の魔剣の切っ先をギデオンの喉元へと突きつける。


だが、教団トップの男は、全く焦る様子を見せなかった。

むしろ、その灰色の仮面の奥の瞳は、これまでの冷酷さから一転し、どす黒い狂喜に満ちて爛々と輝き始めた。


『……素晴らしい。まさか我が教団の最高傑作を、これほど容易く打ち破るとはな。賞賛してやろう、若き公爵と……忌まわしき平民の小娘よ』


ギデオンの足元から、これまで見てきたどの狂信者とも次元の違う、底なしの沼のように濃密な『死の瘴気』が溢れ出す。

大空洞の空気が一瞬にして凍りつき、呼吸をするだけで肺の奥がチリチリと焼け焦げるような錯覚に陥った。ただそこに在るだけで、生物の根源的な恐怖を呼び覚ます圧倒的な魔力密度。


『だが、所詮はお前たちも、この腐った世界にすがる哀れな人形に過ぎん。十年前、私の右腕と教団の悲願を奪った貴様のその光……今日こそ、絶望という名の泥で黒く染め上げてくれる!!』


ギデオンが絶叫と共に、残された左腕を激しく振り下ろした。

瞬間。

地底湖の濁水と、周囲の岩肌にこびりついていた数十年に及ぶ教団の怨念、そして先ほど倒された灰の衛兵たちの残骸から立ち昇る瘴気がすべて結合し、巨大な『漆黒の津波』となって大空洞の天井まで迫り上がった。


それは、ギデオンが自身の命すらも削って放つ、教団の教義の体現――すべてを灰に帰す、最大級の致死の呪詛。

ただの防御魔法では、触れた瞬間に術式ごと喰い破られてしまう。回避する空間など、この大空洞には存在しない。


(……来る!)

私が身構えたその時、エラルドが私の肩をそっと叩いた。


「マリー。……あの呪いの壁は、僕の光でも相殺しきれないほどに重くて、分厚い」

「うん、見てりゃ分かる。バカみたいにデカいもん」

「だから……君が、僕の道を作ってくれないか」


エラルドの言葉に、私はニカッと笑って振り返った。

彼の顔には、もうかつてのような「自分の強大すぎる魔力を恐れる孤独な少年」の面影はなかった。私という矛を完全に信頼しきった、最高の相棒の顔だ。彼が全魔力を解放するための起点を、私がこの拳で作る。


「任せな! 私がど真ん中をブチ開ける。あんたはそこに、有りっ丈の光を叩き込んで!!」


私は、地を蹴った。

迫り来る漆黒の津波に向かって、一切の躊躇なく一直線に駆け出す。

視界を完全に覆い尽くす死の壁。触れれば一瞬で灰と化すであろうその巨大な理不尽に対し、私は大きく右腕を引き絞った。


『……愚かな! 貴様のその異常な物理粉砕とて、この質量の呪いの前では無力だ! 塵一つ残らず消し飛べェ!!』

ギデオンの嘲笑が響く。


「……うるさいよ。私とエラルドの邪魔をすんなァァァッ!!」


私は、全身の筋肉のバネ、体重、そして十年分の想いのすべてを右拳に乗せ、迫り来る漆黒の津波のど真ん中へと、真っ直ぐに叩き込んだ。


パァァァァァァァァァンッ!!!!


世界が反転するような、甲高く、どこまでも美しいガラスの破砕音。

私の『特異点』の拳が激突した瞬間、絶対的な死の壁に巨大な亀裂が走り――次の瞬間、津波の中心が、まるでモーセの海割れのように円筒状にポッカリと吹き飛ばされた。

一瞬だけ開いた、呪いの存在しない純粋な空間のトンネル。


「いっけぇぇぇ、エラルドォォッ!!」


私が叫んだその時、私の背後から、大空洞を真昼の太陽のように照らし出す『純白の閃光』が迸った。


「――『極光の裁き』」


エラルドが、これまでの人生でずっと隠し、抑え込んできた規格外の『純粋な光の魔力』を、一滴の余力も残さずに全解放したのだ。

神々しいほどの光の奔流が、私がこじ開けた呪いのトンネルを一直線に駆け抜ける。

それは、周囲の漆黒の瘴気をジュワッと蒸発させながら、祭壇の上に立つギデオンの身体を真っ向から捉えた。


『な、なんだこの光は……!? ぎ、があああああああっ!!!』


光の濁流の中で、教団トップの絶叫が谺する。

何重もの呪詛の盾が紙切れのように溶け落ち、ギデオンの肉体が端からチリチリと灰に変わっていく。

圧倒的で、純粋すぎる暴力的なまでの光。私が道を切り開いたからこそ放てた、エラルドの命そのものを燃やした限界突破の一撃。


『私の……絶望が……教団の、悲願、がぁぁぁぁぁッ……!!』


眩い閃光が大空洞を完全に白く染め上げ――そして、爆発的な光の渦と共に、ギデオンの姿は祭壇ごと跡形もなく消滅した。


 * * *


「……はぁっ、はあっ……、はあっ……!」


極光が収束し、地下廃坑に、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。

エラルドは、ガクンと膝をつき、肩で激しく息をしていた。

サファイアの瞳は酷く虚ろで、全身が汗でびっしょりと濡れている。規格外の魔力を誇る彼が、一滴の余力すら残さず、完全に魔力を使い果たした抜け殻の状態だった。


極光が収束し、地下廃坑に、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。




(……やった。終わったんだ)


 荒い呼吸を繰り返しながら、エラルドは目の前で立ち尽くす小さな背中――マリーを見つめた。

 彼女の背中には、十年前、自分を庇って刻まれた痛々しい呪いの痕がある。その傷を見るたびに、彼の心は罪悪感で張り裂けそうになっていた。

 けれど今日、ようやくその因縁を断ち切ることができたのだ。



 エラルドが安堵にふっと氷の仮面を緩め、彼女に声をかけようとした――その、一瞬の隙だった。


『……ク、クハハハハハッ……』


 完全に消滅したはずの祭壇の跡地。その灰の中から、怨念の残り滓のような、ひどく掠れた笑い声が響いた。

 ビクッ、とエラルドの身体が強張る。


『……見事だ、若き公爵。だが……反吐が出るほど、美しすぎる』


 声は、物理的な音ではなく、直接エラルドの脳内にねっとりとへばりついてきた。


『彼女が幸せならばそれでいい? 自分が身を引いても構わないと? ……偽善め。貴様の心の奥底には、彼女に触れたい、誰にも渡したくないという「男としての嫉妬」が、ほんの一滴だけ混じっているではないか』

「な……にを……っ」


『私は、その一滴の泥をこそ愛そう。……貴様のその高潔で美しい愛が、最も醜悪な執着へと裏返る瞬間を、地獄の底から楽しみにしているぞ』


 ギデオンの残骸から、目に見えないほど小さな、しかし極限まで呪詛を濃縮された『赤黒い種』がふわりと舞い上がった。

 それは、最悪の『遅効性の精神呪詛』。

 物理的な殺傷力はない。即効性もない。

 だが、限界突破の魔法を放ち終え、魔力回路が完全に空っぽの無防備な状態となっていたエラルドの胸の奥へと、その種は吸い込まれるようにして音もなく入り込んだ。


「ぐ、っ……!?」


 ポツン、と。

 冷たいインクが一滴、心臓に垂らされたような、ひどく奇妙で不快な感覚。

 エラルドは思わず胸を強く押さえ、石畳の上で短く呻いた。

 激痛はない。ただ、一瞬だけ目の前がぐらりと歪み、背筋に冷たい泥水を流し込まれたような悪寒が走った。


「エラルド!! 大丈夫!? エラルドッ!!」


 マリーが慌てて駆け寄り、床に崩れ落ちそうになった彼の肩を抱き起こした。

 泥と汗に塗れた、マリーの顔。背中が痛むだろうに、無防備に彼を覗き込む視線。彼を支えようと、力強く背中に回された彼女の温かい腕。


 その瞬間だった。

 エラルドの胸の奥で、彼女の体温と匂いが香った途端、先ほど植え付けられた何かが、トクン、と微かに脈打った。


(――ああ。このまま、彼女を僕の腕の中に閉じ込めてしまいたい)


 不意に。

 エラルドの脳裏を、これまでの彼なら絶対に抱くはずのない、暴力的なほどに重く、甘く、独りよがりな『熱』がよぎった。

 誰の目にも触れさせたくない。この無防備な優しさを、自分だけのものにしてしまいたい。彼女のすべてを、自分という存在で塗りつぶしたい――。


「……っ!?」


 エラルドは、自らの内に湧き上がったその異質な感情にハッとして、思わず息を呑んだ。

 慌てて、マリーを抱きしめ返そうとしていた自分の右手を、左手で強く握りしめて止める。


(……なんだ、今の感情は。僕は、何を考えて……)

「エラルド……? どうしたの、顔色がすごく悪いよ! どこか痛むの!?」

 マリーが心底心配そうに彼の顔を覗き込み、その冷たくなった頬に手を添える。


 その優しい手のひらの感触すらもが、今は恐ろしかった。触れられるたびに、胸の奥底に落とされた『何か』が、甘い疼きを伴って根を張っていくような、薄気味悪い違和感。


「……いや。……大丈夫、だ」


 エラルドは、荒くなった呼吸を必死に整え、小さくかぶりを振った。

 自分の心の中で起きた一瞬のバグ。それはきっと、魔力を限界まで使い果たしたことによる極度の疲労と、魔力酔いが見せた幻覚に違いない。そう、自分に強く言い聞かせる。


「ごめんね、マリー。最後に少し、魔力酔いをしてしまったみたいだ。……でも、終わったよ。僕たちの、完全な勝利だ」


 彼は、いつもの――マリーが安心するいつもの微笑みを、どうにか作り上げて私に向けた。


「よかったぁ……! ほんっとに、無茶ばっかりするんだから!」

 マリーが満面の笑みで安堵の息を吐き、もう一度彼の身体を強く抱きしめる。


 その温もりを背中に感じながら、エラルドはサファイアの瞳を静かに伏せた。

 教団の脅威は去った。因縁の男は消滅し、世界は護られた。

 愛する彼女は、こうして自分の腕の中で無邪気に笑ってくれている。

 すべては終わったはずなのに。


(……気のせい、だ。僕はただ、疲れているだけだ)


 エラルドはもう一度確かめるようにそう呟いた。

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