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王宮内での紛争とその終焉

王城地下、『特務研究区画』を中心に広がる広大な石造りの地下回廊。

 滅菌されていたはずの空気は、血と泥、そして肉が焦げる異臭に完全に汚染されていた。


「第二小隊、右翼の防衛線を維持しろ! 結界の綻びを絶対に突かれるな!」

「魔導士団、一斉掃射!!」


 教団のスパイが内部から結界を破壊したことを合図に、地下区画の各所に空間の歪み(転移門)が発生。そこから、幹部クラスの濃密な瘴気を纏った狂信者たちと、鎖を解かれた灰の魔獣が次々と雪崩れ込んできたのだ。

 局地的な暗殺部隊の襲撃は、またたく間に地下区画全体を巻き込む『全面戦争』へと拡大していた。


 東回廊の防衛線。

「――『氷絶の城壁アイス・ウォール』!!」

 アイリスは、所属する宮廷魔導士団の陣形の中央で、銀の杖を床に強く突き立てていた。

 彼女の放つ絶対零度の防壁が、押し寄せる魔獣の突進を物理的に食い止める。先輩の宮廷魔導士たちがその上から炎や雷の魔法を掃射し、敵を粉砕していく。

「素晴らしい反応速度だ、クライン嬢! だが気を抜くな、次が来るぞ!」

「はいっ……!」

 アイリスは、額に滲む汗を拭う暇もなく、次々と結界の修復に魔力を注ぎ込んでいた。魔力枯渇による頭痛がガンガンと脳を揺らす。それでも彼女は、決して弱音を吐かなかった。背後にある研究区画には、あの臆病で優しいセドリックがいるのだ。彼に指一本触れさせるわけにはいかない。


 一方、西側の換気通路から続く暗がり。

「……そこだッ!」

 アイクは、近衛騎士団の『隠密特務部隊』の大人たちと共に、完全に気配を殺して漆黒の闇の中を駆け抜けていた。

 彼の展開する極めて精巧な『幻影』が教団員たちの視界と認識を狂わせ、生じた一瞬の死角を、隠密部隊の歴戦の騎士たちが音もなく刈り取っていく。

「良い目眩ましだ、小僧。だが左が甘い、血の匂いで気づかれるぞ」

「っ、すんません教官……!」

 アイクは、肩に受けた裂傷から流れる血を乱暴に拭いながら、短剣を構え直した。肺が焼け切れるほど息が上がり、肋骨が悲鳴を上げている。だが、その金色の瞳に恐怖はない。(……死んでたまるか。春になったら、またあいつらと串焼き食うって決めてんだ)


 彼らはそれぞれの所属する部隊で、一人の戦士として死闘を繰り広げていた。


***

王宮研究室では。 セドリックの目の前に暗殺者の刃が迫ってきていた。


「そのガキの頭ごと、解呪データを灰にしろ」


 スパイの男が冷酷に命じ、暗殺者の黒い刃がセドリックの首筋へと振り下ろされた。

 セドリックがギュッと目を瞑り、解析データの羊皮紙だけを胸に抱え込んだ――その瞬間。


 ザシュッ、という、肉を深く断ち切る鈍い音が響いた。


 しかし、セドリックの首に痛みは走らなかった。代わりに、ドサリと重い何かが彼の上に覆い被さり、生温かい液体が頬に飛び散る。


「……え?」

 恐る恐る目を開けたセドリックの視界を埋め尽くしたのは、真っ赤に染まった白衣だった。


「ひっ、ハス、トラル研究員……っ!?」


 セドリックを庇い、暗殺者の黒い刃をその背中と肩口に深く受けていたのは、王宮の筆頭研究員である初老の男だった。つい先日、セドリックの才能を「この国の至宝となる頭脳だ」と手放しで褒め称え、共に徹夜でフラスコをかき混ぜてくれたあの温厚な恩師が、血の海に沈んでいる。


「がはっ……、にげ、ろ……セドリック、……」

「どうして! 僕なんかのために……っ!」

「君の、ような……若者こそが、この国の宝だ。……これからの時代を切り開くための、希望なのだ、から……っ」


 血を吐きながらも、筆頭研究員は震える腕でセドリックと羊皮紙を庇うように抱きしめた。その腕の温かさと、むせ返るような血の匂いが、セドリックの心を激しく揺さぶる。


「……くだらん。老いぼれが、無駄な真似を」

 スパイの男が鼻で笑い、暗殺者が刃を引き抜いて、今度こそ二人ごと串刺しにしようと凶器を振り上げた。


 ――その時だった。


「ここだ! 研究室ラボに賊が侵入したぞ!!」

「構わん、扉を破壊しろ!!」


 バンッ!! と、研究室の分厚い鋼鉄の扉が、凄まじい物理衝撃で外側から蹴り破られた。

 雪崩れ込んできたのは、特務区画の周辺を警備していた王宮騎士団の小隊だった。異常な魔力反応と結界の消失に気づき、決死の覚悟で駆けつけてくれたのだ。


「研究員たちを護れ! 賊を一人残らず包囲しろ!!」

 小隊長が剣を抜き放ち、十数人の騎士たちが盾を構えて暗殺部隊とセドリックたちの間に立ち塞がる。


「ハッ。ただの警備兵が束になったところで、教団の聖なる灰を止められるとでも?」

 スパイの男が嘲笑うと、暗殺部隊が纏う漆黒の瘴気が、まるで意志を持った蛇のように騎士たちへ襲いかかった。


「ぐああああっ!?」

「怯むな! 盾を構え続けろ! ここを突破されれば、王国の未来が終わるぞ!!」


 それは、あまりにも絶望的な防衛戦だった。

 騎士たちの分厚い鋼の鎧や盾は、暗殺者の濃密な瘴気に触れた端からドロドロに腐食し、魔力防壁すらも数秒と保たずに砕け散っていく。圧倒的な実力差。彼らの命は、ただ『時間稼ぎの砂』として無残に削り落とされていく。


(ああ……僕のせいで。研究所が、こんな知識に辿り着いてしまったから……っ!)


 セドリックは、床にへたり込んだまま、震える手で血塗れの羊皮紙を抱きしめた。

 腕の中で微弱になっていく筆頭研究員の呼吸。次々と盾ごと溶かされていく、見ず知らずの騎士たちの悲鳴。

 彼らは皆、セドリックの持つ『解呪の希望』を未来へ繋ぐためだけに、己の命を投げ打って死の壁となってくれているのだ。


「……さが、れ。セドリック……奥の、隠し通路へ……」

「駄目です、そんなことできません! 僕だけ逃げるなんて……っ!」


 2ヶ月とはいう短い時間だったとはいえ、さまざまな思い出ができたこの場所で、絶え間なく続く剣戟と、肉の焦げる異臭。

 他の研究員たちが、泣きながらセドリックの両脇を抱えて後方へ引きずろうとするが、セドリックの足は恐怖と絶望で完全に縫い止められていた。


 ジリジリと、しかし確実に、暗殺部隊の黒い影が騎士たちの防衛線を食い破り、彼らへと迫り来る。

 冷たい王城の地下深く。

 圧倒的な死の蹂躙を前に、非力な学者の少年と傷だらけの大人たちの命の灯火が、今まさに吹き消されようとしていた――。

 しかし。戦局の要である『中央研究室』――セドリックのいる最奥の部屋の前に、それらをさらに上回る絶対的な「理不尽」が降り立った。


 ズンッ。

 戦場の喧騒を完全に塗り潰すほどの、異常な重圧プレッシャー

 王城の堅牢な石の壁が、ドクン、と不気味に脈打つような錯覚。呼吸の仕方を忘れるほどの、濃密な『死の気配』が研究室の前に立ち込めた。


「……な、なんだあの化け物は」

 研究室を護衛していた王宮騎士たちが、絶望に足を引きずって後退する。


 ゆらり、と。陽炎のように歪んだ空間から歩み出てきたのは、仕立ての良い漆黒の外套を羽織った長身の男。

 顔の半分を『灰色の仮面』で隠したその姿――旧廃坑でマリーたちを全滅一歩手前まで追い詰めた、教団の最高幹部だった。


『……随分と小賢しい真似をしてくれたな。我が教団の崇高なる呪式を、ただの計算式で解き明かそうなどと』

 鼓膜に直接ねっとりとへばりつくような、ひどく湿った声。

 仮面の男が指先を軽く振るうと、彼の足元から『漆黒の津波』が爆発的に膨れ上がった。


「防壁陣形!! 絶対に中へ通すな!!」

 合流して部屋に雪崩れ込んできた近衛の小隊長が絶叫し、騎士たちが一斉に大盾を構え、光の防御魔法を展開する。

 しかし。

『無駄だ。泥に還れ』

 純粋な死の呪詛の津波が触れた瞬間、王宮の精鋭たちが展開した光の盾は、まるで濡れた薄紙のようにドロドロと溶け落ちた。

「ぎゃああああっ!!」

「退け! 呪いに触れるな!!」

 最前線にいた騎士たちが、鎧ごと悲鳴を上げて崩れ落ちていく。王国の誇る盾が、たった一人の最高幹部の前に、紙屑のように薙ぎ払われていく。


 扉の吹き飛んだ研究室の奥。

「……いや、だ……」

 セドリックは、解呪術式が書かれた羊皮紙の束を胸に抱き抱えたまま、ガタガタと震え、血の気を失った顔で後ずさった。

 圧倒的な、死の権化。

 仮面の男の冷酷な視線が、無防備なセドリックたち研究員を真っ直ぐに捉えた。男の手に、周囲の光をすべて吸い込むような、極度に圧縮された『巨大な灰燼の槍』が形成される。あんなものを撃ち込まれれば、部屋ごと完全に消し飛ぶ。



王城の地下深く、『特務研究区画』を中心に広がる広大な石造りの地下回廊。

 かつては王国の最高峰の頭脳が集い、チリ一つないほどに滅菌されていたはずのその場所は、今や見る影もなく破壊され尽くしていた。

 ひび割れた大理石の床には赤黒い血だまりが広がり、壁面には何かが爆発したような煤の跡がこびりついている。肺を満たすのは、生臭い血の匂いと、ドブ泥のような腐臭、そして肉が焦げる悍ましい異臭だ。



 彼の胸に抱かれた羊皮紙の束には、教団の野望を打ち砕く唯一の希望、『灰の種の解呪術式』が記されている。だが、その希望を守るために、どれだけの命が目の前で散っていっただろうか。

 決死の覚悟で飛び込んできた王宮警備隊の騎士たちは、ただの「時間稼ぎの砂」として、教団の暗殺部隊が放つ濃密な瘴気の前に次々と肉体を腐らせ、悲鳴と共に崩れ落ちていった。


 そして今、セドリックの目の前に立っているのは、暗殺部隊などとは次元の違う『純粋な死の権化』だった。


 ゆらり、と。扉の吹き飛んだ入り口から歩み出てきたその男は、仕立ての良い漆黒の外套を羽織り、顔の半分を『灰色の仮面』で隠していた。

 彼の足元から広がる瘴気は、ただそこに在るだけで王城の堅牢な石壁を不気味に脈打たせ、空間の温度を奪っていく。呼吸の仕方を忘れるほどの、濃密な死の気配。

 間違いない。舞踏会の夜に大結界をすり抜け、旧時代の地下廃坑でマリーの右腕を黒焦げにし、彼らを全滅一歩手前まで追い詰めた、教団の最高幹部だ。


『……下等なネズミどもが、随分と小賢しい真似をしてくれたな。我が教団の崇高なる呪式を、ただの計算式で解き明かそうなどと』


 鼓膜に直接ねっとりとへばりつくような、ひどく湿った声が響く。

 最高幹部の蛇のような冷酷な視線が、血の海の中で震えるセドリックを真っ直ぐに捉えた。

 男の手に、周囲の光をすべて吸い込むような、極度に圧縮された『巨大な灰燼の槍』が形成される。空間がギリギリと悲鳴を上げるほどの呪詛の塊。あんなものを撃ち込まれれば、セドリックの細い体はおろか、この研究室ごと完全に消し飛んでしまう。


(……マリーさん。アイク君。アイリス……ごめんなさい……っ)


 セドリックがギュッと目を瞑り、死を覚悟した――その、絶体絶命の瞬間だった。


「――『破邪の光盾イージス』」


 凛とした冷徹な声が、地下回廊の澱んだ空気を切り裂いた。

 セドリックの目の前に、幾何学模様を描く強靭な結界が何重にも展開される。淡い金色の光を放つその盾は、絶望の底に沈んでいたセドリックの視界を、一瞬にして眩く照らし出した。


 直後。

「邪魔だ、ドブネズミ共」


 暗闇を切り裂く白刃の閃き。目にも留まらぬ速度で駆け抜けた影が、二振りの魔法剣を舞うように振るい、最高幹部の周囲にいた暗殺部隊の首を瞬きする間に刈り取った。血飛沫が舞うよりも早く、その影は残心すら見せずに次の獲物へと刃を翻す。


「ガイル先輩! アーサー先輩!!」


 セドリックが、信じられないものを見たように叫ぶ。

「遅れてすまない。……よくぞ持ち堪えた、セドリック」


 銀縁眼鏡を光らせたガイルが、杖を突き出して強固な結界を維持し、血振るいをしたアーサーが静かに剣を構え、セドリックを守るように立ち塞がった。ミリス魔法学園の頂点に立つ、生徒会の精鋭たちだ。


『……生徒会の小童どもが。この程度の盾で、私の呪槍が防げると思うか!』


 最高幹部が嘲笑い、腕を鋭く振り下ろした。

 放たれた漆黒の槍が、空気を切り裂きながらガイルの光盾に激突する。

 ミシミシッ! と、強靭なはずの結界が悲鳴を上げた。圧倒的な呪詛の密度の前に、光の盾は数秒と保たずに耐えきれず砕け散る。そのままの勢いで、死の槍がセドリックたちを貫こうと牙を剥いた。


 しかし。

「――防ぐんじゃないよ。ぶっ壊すんだよ!!」


 大回廊に、一陣の春の烈風が吹き荒れた。

 王宮の制服のスカートを翻し、暗黒の瘴気の中へ一切の躊躇なく飛び込んできた、小さな影。


「マリーさんッ!!」


 私は、空中で身体を捻り、全身の筋力と体重を右拳に乗せて、迫り来る巨大な死の槍のど真ん中へと真っ直ぐに叩き込んだ。


 パァァァァァァァァァンッ!!!!


 世界が反転するような、甲高く、どこまでも美しいガラスの破砕音。

 私の身体に宿る『特異点』の拳――あらゆる魔力と呪いを喰らい尽くし、物理で粉砕するその力が直撃した瞬間。最高幹部が放った必殺の呪詛は、まるで薄い飴細工のように木っ端微塵に粉砕され、キラキラとした無害な光の粒子となって王城の冷たい石畳へと霧散していった。


『……なっ!? その異常な物理粉砕……まさか、旧廃坑の時の平民の小娘か!』


 仮面の奥の瞳が、驚愕と戦慄に大きく見開かれる。


「へへっ、お待たせ! ギリギリセーフだね!」

 私が石畳の上に軽やかに着地し、呪いを殴り飛ばした摩擦で少しだけ煙を上げている右腕を振って笑う。


「……まったく君は。本当に、心臓に悪い登場の仕方をする」


 ため息混じりの、けれどどうしようもなく甘い響きを持った声が降ってきた。

 私のすぐ隣の空間が、極北の冷気と共にピキピキと音を立てて凍りつく。そこから、プラチナブロンドの髪を静かに揺らし、サファイアの瞳に絶対的な零度の怒りを宿した、私の幼馴染が姿を現した。


 エラルド・フォン・アルバーン。


 彼がその場に立った瞬間、王城地下の大回廊の気温が急激に下がり、壁という壁に真っ白な霜が張り付き始めた。

 最高幹部の放っていた死のプレッシャーを完全に上書きし、空間そのものを自らの支配下に置くほどの、王者のごとき圧倒的な魔力の波動。


『……エラルド・フォン・アルバーン。忌まわしき光の公爵め。よくもノコノコと現れたな』

 仮面の男が、警戒を露わにして一歩後ずさる。


「舞踏会の夜はよくも僕を煽ってくれたね。それに、旧廃坑では僕の大切な人たちを随分と痛めつけてくれた」


 エラルドの言葉は、酷く静かだった。

 だが、その内側に秘められた怒りは、過去の暗闇に震え、自分の力を恐れていた孤独な少年のものではない。隣に立つ私という最強の矛への絶対的な信頼と、愛する仲間たちを何がなんでも護り抜くという、揺るぎない為政者としての覚悟に満ちていた。


「ガイル、アーサー。セドリックと研究員たちを護って、少し下がっていてくれ」

 エラルドは、視線を仮面の男から外さぬまま、背後の二人に静かに命じた。

「御意。……だが、油断するなよ」

「分かっている」


 そして、エラルドは私の肩にそっと触れ、柔らかな、けれど決意に満ちた瞳で私を見下ろした。

「マリー。君も、下がっていて」

「えっ? でも、あいつの呪い、私が殴らないと……」

「大丈夫だ」


 エラルドは、私の手を取り、その火傷の痕が残る右腕をそっと握りしめた。

「旧廃坑で君に痛い思いをさせたこと、僕はずっと後悔していた。……君はもう、僕を庇って盾になる必要はない。君の敵は、僕がすべて砕く。だから、僕を信じて見ていてほしい」


 そのサファイアの瞳には、一切の迷いがなかった。

 ただ、私への深く、静かな愛情と、強靭な意志が燃えている。

 私は、彼のその真っ直ぐな瞳を見て、自然と口角が上がるのを感じた。


「わかった。……でも、ヤバくなったら絶対に横からぶっ飛ばしに行くからね。あんたが一人で泥を被るなんて、私が許さないんだから」

「ふっ……ああ、頼りにしているよ」


 私が一歩下がると、エラルドは再び最高幹部へと向き直った。

 その瞬間、彼の纏う空気が、穏やかなそれから、すべてを凍てつかせる『氷の貴公子』の顔へと完全に切り替わった。


「さあ、旧廃坑の続きと、この馬鹿げた企みの精算をしようか」




 冷たい王城の地下深く。

 この機会はもう逃さない。因縁の最高幹部との、雌雄を決する一騎討ちの火蓋が、ついに切って落とされた。


『驕るなよ、小僧! 貴様の氷など、我が深淵の瘴気の前ではただの冷たい水に過ぎん!』


 仮面の男が両手を天に掲げると、大回廊の床を覆っていたおびただしい量の血と泥が、ボコボコと沸騰するように泡立ち始めた。

 周囲に散乱していた教団員たちの死体すらも触媒とし、極限まで濃縮された『漆黒の泥沼』が、エラルドを飲み込もうと四方八方から津波のように押し寄せる。

 それは、ただの闇魔法ではない。触れた端から魔力回路を腐らせ、肉体を灰へと変える本物の『死の呪い』の奔流だ。旧廃坑で私たちを絶望させた、あの理不尽なまでの暴力。


(……昔の僕なら、この泥の前に立ち竦むことしかできなかっただろう)


 エラルドは、迫り来る死の波を前にしても、一歩も引くことはなかった。

 彼自身の強大すぎる『純粋な光の魔力』は、一歩間違えればすべてを消し飛ばしてしまう。だからこそ、彼は冷たい氷の魔法で無理やり蓋をして、自分の力を恐れ隠し続けてきた。

 だが、今は違う。

 振り返れば、そこには自分を無条件に信じ、どんな理不尽な呪いも真っ直ぐな拳で叩き割ってくれる、太陽のように眩しい少女がいる。

 彼女が傍にいてくれるからこそ、自分の強大すぎる力は、決して世界を壊す呪いなどにはならない。彼女が受け止めてくれるという絶対の安心感が、彼に、己の真の力を解放する勇気を与えていた。


 エラルドが、静かにサファイアの瞳を細める。

 その瞳の奥が、一瞬、眩いほどの『純白の光』を帯びた。


「――『極光の氷界オーロラ・コフィン』」


 エラルドが、静かに紡ぐ。

 詠唱というにはあまりにも短い、ただの宣言。

 だが、その一言と共に彼の中から爆発的に溢れ出した魔力は、常軌を逸していた。


 ピキィィィィィィンッ!!!!


 王城の地下深く、陽の光など決して届かないはずのその大空間に、神々しいほどに美しい『オーロラ』が顕現した。

 それは、絶対零度の氷の魔力に、エラルドの本来の力である『純粋な光の魔力』を完全に融合させた、誰も見たことのない奇跡の魔法。


 淡い青、翠、そして透き通るような白。

 極彩色の光の帯が、エラルドを中心にして円を描くように広がり、大回廊を満たしていく。


『……な、なんだ、この光は……!? 私の呪詛が、凍るだと!?』


 仮面の男が驚愕に声を荒らげる。

 津波のように迫っていた漆黒の泥沼が、エラルドの数メートル手前で、まるで時間が停止したかのようにピタリと動きを止めていた。

 否、動きを止めたのではない。最高幹部の放つ濃密な呪詛そのものが、エラルドの魔力によって『分子レベルで完全に浄化・凍結』させられたのだ。


「言ったはずだ。君の呪いでは、もう僕たちを脅かすことはできないと」


 エラルドが指先を軽く弾くと、凍りついた漆黒の津波が、パァンッ! と甲高い音を立てて粉々に砕け散り、無害な氷の塵となって宙を舞った。

 圧倒的な、そして残酷なまでの制圧力。

 魔力の純度も、出力も、魔法を構成する緻密な術式構築の速度も、すべてにおいてエラルドが最高幹部を遥かに凌駕していた。


『くそっ……! 貴様、なぜそれほどの力を持ちながら……! ならば、その余裕の顔ごと絶望に沈めてやる!!』


 仮面の男の顔から余裕が完全に消え去った。

 彼は狂気に満ちた目を血走らせると、懐から赤黒く脈打つ特大の『灰の種』を取り出し、自らの心臓付近に強引に埋め込んだ。


「なっ……自らの肉体を触媒に、呪詛を暴走させる気か!?」

 背後でガイル先輩が息を呑む。


 ブシャァッ! と噴き出した男自身の鮮血が、空中でドス黒い灰へと変異していく。

 大回廊の天井が崩れ落ち、空間そのものが悲鳴を上げて歪む。男の背後に、怨念を纏った巨大な槍が、まるで地獄の門が開いたかのように全方位から顕現した。


『消え去れ!! ――「灰燼の厄災アッシュ・カラミティ」!!』


 最高幹部の絶叫と共に、視界を埋め尽くすほどの死の豪雨が、エラルドに向けて一斉に降り注いだ。

 旧廃坑で私たちを絶望させた魔法の、さらに巨大で凶悪な完成形。


(……エラルド!)

 私は思わず前に飛び出しそうになり、拳を握りしめた。

 だが、彼の広くて頼もしい背中が、私に「大丈夫だ」と語りかけているように見えて、私はその場に踏み止まった。


 エラルドは、全方位から迫り来る死の豪雨を前にして、両腕を大きく広げた。


「すべてを、浄化する」


 美しく乱舞していたオーロラの光の帯が、意思を持ったように激しく渦を巻き、死の豪雨を真っ向から迎え撃つ。

 ジュワッ、という音すら立てずに、呪いが根底から『消滅』していく。

 破壊ではない。相殺でもない。エラルドの純粋すぎる光と冷気が、教団のドス黒い憎悪と瘴気を、まるで春の陽射しが雪を溶かすように、優しく、けれど圧倒的な力で完全に消し去っていくのだ。


『ば、馬鹿な……私の呪いが、こんな……こんな温かい光に……!』


 無数の呪いの槍をすべて浄化し尽くした光の奔流は、そのまま真っ直ぐに、仮面の男の身体へと押し寄せる。


『……エラルド・フォン……アルバーン……ッ!』


 最高幹部の断末魔は、光の濁流の中に静かに溶けていった。

 極光の冷気が男の体を包み込み、彼の肉体を、そして彼が身に纏っていた教団の邪悪な因縁のすべてを完全な氷の彫像へと変え――そして、パラパラと、砂が崩れるように細かな光の塵となって、虚空へと散らしていった。


 完全なる、消滅。


「……ふぅっ」


 美しく乱舞していたオーロラが静かに収束し、地下回廊に、耳が痛くなるほどの静寂が戻った。

 戦闘の余波で空気中に舞う氷の粒子が、非常用の魔力灯の光を反射して、まるでダイヤモンドの粉のようにキラキラと輝いている。


 圧倒的な力で旧廃坑の因縁に決着をつけたエラルドは、小さく息を吐き出すと、その手に宿していた光を完全に消し去った。

 少しだけ肩で息をしている彼のもとへ、私は迷うことなく駆け寄った。


「エラルド!!」

「……終わったよ、マリー」


 彼がゆっくりと振り返る。

 その顔には、いつもの完璧で冷たい氷の仮面はなかった。張り詰めていた糸が切れ、心底ホッとしたような、等身大の青年の柔らかい笑顔がそこにあった。


「すっごかった……! あんな魔法、今まで一回も見たことないよ! キラキラしてて、すっごく綺麗だった!」

 私が興奮気味に彼の背中をバンバンと叩くと、エラルドは「痛いよ、マリー」と苦笑いしながらも、そのサファイアの瞳を優しく細めた。


「君が傍にいてくれたからだよ。……君が僕の背中を預かってくれていると思えたから、僕は自分の力を、もう恐れずに振るうことができたんだ」

「へへっ、でしょ! 私の右腕にかかれば、どんな呪いも一発だからね!」


 私が得意げに火傷の痕の残る右腕を掲げると、エラルドはそれをそっと両手で包み込み、祈るように額を押し当てた。

 その温かな体温に、私は胸の奥がくすぐったくなるような、不思議な安心感に包まれるのを感じた。


「……エラルド様、マリーさん。素晴らしい戦いでした」

 背後から、ガイル先輩が結界を解き、セドリックを支えながら歩み寄ってくる。アーサー先輩も、静かに剣を鞘に収めていた。


「セドリック! 大丈夫だった!?」

「はい……っ。筆頭研究員が、僕を庇って……でも、ガイル先輩たちの応急処置で、一命は取り留めました。……そして、このデータも、無事です!」


 セドリックが、血に染まった白衣の胸元から、くしゃくしゃになった羊皮紙の束――『灰の種の解呪術式』を、涙と泥で汚れた顔をほころばせて高く掲げた。


「よくやった、セドリック。君のその知識が、王国の未来を救う最強の盾になる」

 エラルドが、心からの敬意を込めてセドリックに頷きかける。


 旧廃坑の因縁であった教団の最高幹部を討ち果たし、解呪の希望を完全に護り抜いた。

 地下回廊の崩落の向こう側から、王宮の騎士団の増援の足音が幾重にも響いてくるのが聞こえる。

 長く、過酷だった冬の暗闘は、こうして若き獅子たちの手によって完全に打ち砕かれたのだ。


「さあ、地上へ戻ろう。……春の雪解けは、もうすぐそこだ」


 エラルドが、私の手をしっかりと握り直して歩き出す。

 その手はもう、決して凍えることのない確かな温もりを宿していた。

 私たちは、血と泥にまみれながらも、確かな希望と絆を胸に抱き、教団への最終的な反撃の狼煙を上げるべく、王城の深い影の底から光の射す地上へと、力強い足取りで進んでいったのだった。

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