王宮での回想とセドリック襲撃前
白亜の王城、その中枢に位置する『玉座の間』。
王国の絶対的な権力の象徴であるその部屋は、分厚い絨毯が足音を吸い込み、冬の冷気よりもさらに冷たく、張り詰めた静寂に支配されていた。
「……陛下。旧市街の地下水脈に仕掛けられていた『灰の種』は、昨夜すべて撤去いたしました。また、特務研究区画への暗殺部隊の襲撃も退け、種の『解呪術式』を完全に確保しております」
玉座の前に片膝をつき、レオンハルト殿下が低く通る声で報告する。
その背後で、エラルドは一歩下がり、完璧な臣下の礼をとったまま静かに伏目をしていた。
「……大儀であった、レオンハルト。そして、若き公爵よ」
玉座から見下ろすのは、ミリス王国を統べる現国王。
十年前、絶対君主制から専制政治へと強引な移行を推し進め、血筋よりも魔力と実力を重んじる『特待生制度』を断行した冷徹なる覇王だ。その瞳は、実の息子であるレオンハルトに向ける時でさえ、一切の甘さを孕んでいない。
「軍の上層部や王宮の中枢にまで、教団のネズミが深く巣食っていたか。……軍の総力を挙げて学園を警護させれば、パニックに乗じて内部崩壊を招くのは火を見るより明らか。ゆえに、学園の自治組織たる『生徒会』に裏の防衛の全権を委ねた私の判断は、間違っていなかったようだな」
「はっ。我々生徒会が、王都の心臓部たる学園を必ず死守いたします」
レオンハルトが力強く頷く。
軍の精鋭を国境と地方の霊脈防衛に縛り付け、あえて王都の中心部――学園の防衛を学生である彼らに丸投げしているのには、明確な理由があった。
一つは、特待生制度の象徴である学園を、旧来の貴族派閥の影響が残る軍から切り離すため。
そしてもう一つは。十年前の『あの事件』で王家が震え上がった、エラルド・フォン・アルバーンの規格外の魔力を、最も信頼する第三王子の監視下に置くためだった。
「……お前には苦労をかけるな、レオンハルト。十年前の暴動で、特権階級の甘い汁に群がり、過激派貴族に担ぎ上げられて廃嫡された愚かな第一王子。そして、教団の暗殺の刃に斃れた哀れな第二王子。……二人の兄の屍を越え、お前はよくぞここまで育ってくれた」
「勿体なきお言葉に存じます」
第一王子は政治の駒として幽閉され、第二王子は教団の毒牙にかかりすでにこの世にない。
だからこそ、残された第三王子のレオンハルトが、王国の未来を背負う実質的な後継者として、自ら泥を被って戦場に立ち続けているのだ。
「春の雪解けまで、あと少し。教団の根を完全に焼き尽くせ」
「御意」
玉座の間を後にしたレオンハルトとエラルドは、冷たい王城の廊下を並んで歩き出した。
規則正しい二人の足音だけが、高く、硬く響き渡る。
「……王家の人間は、相変わらず冷酷ですね」
エラルドが、前を歩くレオンハルトの背中に向けて、感情の読めない声でぽつりと呟いた。
「十年前の暴動。あの公爵邸の警備の空白は、王家が意図的に黙認したのではないか……僕は今でも、そう疑っていますよ」
レオンハルトの足が、ピタリと止まる。
「……父上は、国を護るためならいかなる犠牲も厭わん。それは事実だ」
十年前。
特待生制度に反発した高位貴族たちの暴動が王城周辺で激化し、大結界の要であったエラルドの父(当時の筆頭公爵)が事態収拾のために王城へ駆り出された。公爵邸の近衛騎士たちもごっそりと引き抜かれ、警備に数時間の『空白』が生まれた。
エラルドのサファイアの瞳の奥で、決して忘れることのできない血塗られた記憶が、ドス黒く渦を巻く。
(あの暴動は、灰の教団が仕組んだ巧妙な罠だった)
王城から戻ろうとしていた両親の馬車は、教団の闇魔法で爆撃され、跡形もなく吹き飛んだ。
それと同時に、元学園教師であった教団幹部ギデオン率いる集団が、警備の手薄な公爵邸の裏庭を襲撃したのだ。狙いは、当時六歳だったエラルドの持つ『規格外の純粋な光の魔力』を闇の器として利用し、大結界を内部から破壊すること。
『――あははっ! さあ、その美しい光を絶望で染め上げ、我らが灰の器となれ!』
狂気に満ちたギデオンが、幼いエラルドに向けて致死の闇魔法を放った、その瞬間。
『エラルドをいじめるなァァァッ!!』
隣の薬局から駆けつけてきた、当時七歳の小さなマリーが。
何の魔法も持たないただの平民の女の子が、迷うことなくエラルドの前に立ち塞がり、その背中に呪いの一撃を真正面から受けたのだ。
(……本来なら、即死だった)
エラルドの足元で、マリーが血の海に倒れ伏す。
その光景を見た瞬間、幼いエラルドの感情は完全に決壊し、自らの光の魔力を抑えきれずに大暴走させた。
圧倒的な光の奔流。周囲の教団員は一瞬で消し飛び、ギデオンは片腕を失い悲鳴を上げて逃亡した。世界を焼き尽くさんばかりのエラルドの暴走を止めたのは、命懸けで彼に『魔力封じの劇薬』を飲ませたマリーの父・トマスと……血まみれになりながらも彼に伸ばされた、マリーの小さな手の温もりだった。
彼女の野性的な生命力と特異な星の巡りが奇跡を起こし、マリーの命は繋ぎ止められた。しかし、闇の呪いが魔力器官と複雑に癒着し、彼女は『外部からの魔力を物理で殴り、無差別に吸収して霧散させる(呪い喰い)』という特異体質になってしまった。
魔法を砕くたびに背中の傷が熱を発し、彼女を苦しめる。その十字架を背負わせたのは、他でもない自分自身の弱さなのだ。
「表向き、あの事件は過激派貴族の反乱として処理され、王家は反対派を粛清し専制政治を確固たるものにした。……そして、僕の強大すぎる魔力を恐れ、強欲な後見人を送り込んできた」
エラルドの拳が、白くなるほど強く握り込まれる。
両親の死。王家からの監視。
すべてが絶望に染まる中、彼の心が壊れなかったのは、マリーやトマス一家、そしてメイド長のベアトリスたちという『温かい大人たち』の無償の愛があったからだ。
(自分が弱かったから、大切な人が傷ついた)
だから彼は誓ったのだ。
誰もがひれ伏す圧倒的な魔力と権力を手に入れ、周囲に一切警戒させない『完璧な優等生の仮面』を被り続けることを。
裏で血を吐くような努力を重ね、強欲な後見人を排除し、公爵家の全実権を掌握したのも。すべては、あの太陽のように笑う幼馴染が拳を振るう前に、すべての脅威を終わらせるため。
「……過去は変えられない、エラルド。だが、未来は我々の手で護れる」
レオンハルトが、振り返らずに静かに言った。
「ええ。分かっています」
エラルドは、サファイアの瞳から過去の影を振り払い、いつもの完璧で冷たい『氷の貴公子』の顔へと戻った。
(君に二度と、あんな思いはさせない。……春の雪解けと共に、教団のすべてを僕がこの手で灰に帰す)
冬の終わりの冷たい風が、ステンドグラスの窓を揺らす。
過酷な宿命を背負う若き二人の獅子は、決して振り返ることなく、春の最終決戦へと向けて、王城の深い影の中を真っ直ぐに歩み去っていったのだった。
* * *
分厚い雪雲が僅かに千切れ、王都ミリスの尖塔からポツリ、ポツリと雪解けの水滴が落ち始めた頃。
白亜の王城の最上階に位置する、第三王子専用の執務室。その巨大な窓辺に立ち、眼下に広がる白銀の王都を見下ろす大柄な影があった。
「……長きにわたる泥の中の冬ごもりも、ようやく終わりが見えてきたか」
エラルドとともに国王へ謁見したあの時を思い出しながら燃えるような紅蓮の髪を無造作に掻き上げ、独りごちたのは、レオンハルト・フォン・ミリス。
ミリス魔法学園の生徒会長にして、この国の次期国王と目される若き獅子である。
彼の身を包む純白と金の豪奢な執務服は、王者のごとき堂々としたカリスマ性を完璧に引き立てていた。しかし、その内側に秘められた力は、決して飾り物などではない。
彼がただそこに立っているだけで、大気は重く圧迫され、静電気のようなピリピリとした痛みを伴う『魔力の波動』が室内に満ちている。下位貴族や並の平民であれば、その威圧感をまともに浴びただけで膝から崩れ落ち、呼吸すら浅くなるほどの圧倒的な覇気。
この二ヶ月間。レオンハルトは、外交交渉で国を空けがちな忙しい父王に代わり、実質的な国の最高権力者として王宮の軍を動かし、不眠不休で教団との暗闘を指揮し続けてきた。
華やかな学園のトップという表の顔を脱ぎ捨て、泥と血にまみれた為政者として過ごした過酷な日々。彼の獲物を品定めするような肉食獣の金色の瞳には、重い疲労の色と共に、決して消えることのない『怒りの炎』が静かに燻り続けていた。
(……自国の民が暗殺された挙句、その死の尊厳や理由すらも、我々の手でこうして塗り替えねばならんとは。……為政者として反吐が出るな)
窓枠に置かれた彼の手が、ギリッと音を立てて分厚い木枠をきしませる。
脳裏に蘇るのは、冬休みに入る前――教団の内通者として利用され、無惨に殺された下級生、ルカ・モレッティの死を『馬車事故』として隠蔽した日のことだ。
いや、ルカだけではない。
この過酷な冬の二ヶ月間。人知れず王都の地下や地方の霊脈で教団と死闘を繰り広げ、命を落としていった王宮の精鋭騎士や宮廷魔導士たち。彼らの沈黙の帰還もまた、遺族には『訓練中の不慮の事故』や『流行り病』として通達されている。
真実を公表すれば、学園はおろか王都中がパニックに陥り、教団の思う壺となる。王国の平和を根底から支えるためには、命を懸けて国を護った忠臣たちの名誉すらも、冷酷な計算式に組み込んで偽りの羊皮紙に王印を押さねばならない。それが、王冠を戴く者の背負う呪いだった。
レオンハルトの鋭く細めた金色の瞳の奥に、十年前の記憶がフラッシュバックする。
十年前。特待生制度を巡る過激派貴族の暴動と、その混乱に乗じて王都を火の海にした、灰の教団の襲撃。
燃え盛る王城の裏門で、まだ幼かったレオンハルトの盾となり、教団の凶刃に喉笛を裂かれて倒れた一人の少年の姿。彼と文字通り同じ乳を飲んで育ち、兄のように慕い、誰よりも側で笑い合っていた乳母兄弟の、血の気のない冷たい横顔。
あの時も王家は、パニックを防ぐために教団のテロという真実を伏せ、すべての責任を「暴動を起こした貴族たち」に擦り付けて粛清の口実とした。乳母兄弟の死は、「暴徒による不遇の事故」として歴史の闇に無惨に黙殺されたのだ。
(……理不尽に奪われ、名誉すら残らない。そんなふざけた暗闇は、俺の代で完全に焼き尽くす)
あの大舞踏会の夜もそうだ。
友好国の王女をエスコートし、力強いステップでファーストダンスを披露して完璧な外交をこなしていた最中、突如として教団の魔獣がフロアに乱入してきた。
悲鳴を上げて逃げ惑おうとする数千の貴族たち。あの時、レオンハルトは一切の動揺を見せず、腹の底から響く王者の覇気で空間を制圧したのだ。
『――皆の者、狼狽えるな!!』
その一喝でパニックを物理的に封じ込め、近衛騎士団に的確な指示を飛ばすと同時に、竦み上がっていたオーケストラを睨みつけ、「演奏を続けろ」と命じた。
血飛沫と剣戟の音を、優雅なワルツの調べで強引に塗りつぶす。死と隣り合わせの惨劇すらも、自らのカリスマで『余興』へと変えて事態を収拾した見事な手腕。
だが、その完璧な統治の裏で、彼は誰よりも自らの無力さと、王国の暗部に巣食う教団への殺意を滾らせていたのである。
(俺の手札は、決して多くはなかった。……エラルド・フォン・アルバーン。あいつの存在がなければ、この冬の掃討戦は成立しなかっただろう)
レオンハルトは、窓から視線を外し、王宮の執務机に積まれた報告書の束に目をやった。
そこには、昨夜も旧市街の地下で拠点を制圧してきたエラルドとマリーの報告が記されている。
エラルドの持つ、規格外の純粋な光と氷の魔力。レオンハルトは軽口を叩き合いながらも、彼の力を「化け物」と呼び、決して敵に回したくないと心の底から警戒し、同時に深く頼りにしていた。
だが、その強大すぎる力ゆえに、エラルドの心は常に過去の因縁と孤独な暗闇の中で凍りついていた。彼が危険な裏社会に一人で潜り込もうとするたび、レオンハルトは「あいつはいずれ、自らの力と孤独に押し潰されて壊れるのではないか」と、密かにその身を案じていたのだ。
――その、危うい均衡を保つ氷の彫刻を、見事に打ち砕いた『太陽』が現れるまでは。
「ふっ……。マリー・トマス、か」
レオンハルトの厳つい口元が、自然と緩み、年相応の悪戯っぽい少年の笑みを浮かべる。
平民の特待生。魔力など欠片も持たない、ただの小娘。
しかし彼女は、レオンハルトの放つ魔圧を真正面から浴びても顔色一つ変えず、あろうことか「ルカくんの仇を討つ」と、王族である自分に堂々と論理的に牙を剥いてみせたのだ。
さらには、張り詰めた生徒会の会議中に、立ったまま舟を漕いで居眠りしかけたことすらある。
『わはははっ! 貴様、俺の前で立ったまま寝るとは、本物の大物だな!』
あの時の腹を抱えて笑った記憶が蘇る。
恐れ知らずの図太さと、理不尽な悪意を決して許さない真っ直ぐな度胸。「見事な返しだ」「嫌いではないぞ」と、レオンハルトは彼女のその気骨を為政者として高く評価していた。
エラルドが彼女を過保護に守り、執着している理由も、今なら痛いほどによく分かる。彼女のその底抜けの明るさと、どんな呪いも物理で粉砕する『特異点』の拳こそが、エラルドの心を繋ぎ止める絶対的な楔となっているのだ。
(あいつらが前線で道を切り開いてくれているのだ。次期国王たる俺が、後れを取るわけにはいかんな)
レオンハルトが、執務机の横に立てかけてあった愛用の大剣を手に取った、その時だった。
「――殿下!! 緊急事態です!!」
バンッ! と扉が開き、血相を変えた近衛騎士が滑り込むようにして部屋に飛び込んできた。
「地下の『特務研究区画』との通信が途絶! 直前に、警報用の魔力炉が意図的にショートさせられた痕跡が確認されました! 何者かが、結界の内側から手引きをしたものと……ッ!」
「……教団のネズミか。セドリックたちが、灰の種の『解呪術式』に到達したと見て間違いないな」
レオンハルトの金色の瞳が、スッと極限まで細められた。
肉食獣が、ついに喉首を噛みちぎる獲物を定めた、残忍で冷酷な眼光。
「遠征から戻ったばかりの第一部隊を率いよ。……エラルドたちにも伝令を走らせろ」
「は、はっ! 殿下は如何なされますか!?」
「決まっているだろう。俺自らが出る」
レオンハルトは、真紅の外套を翻し、全身から燃え盛るような『炎の覇気』を爆発させた。
執務室の窓ガラスが、その高熱と魔圧に耐えきれずにピキピキと悲鳴を上げる。
「我が王城の地下深くに土足で踏み込んだ代償がどれほど高くつくか……その身を灰にして教えてやらねばならんからな」
冬の終わりを告げる、獅子の咆哮。
レオンハルトは、大剣を肩に担ぎ上げると、王宮の地下で絶体絶命の危機に陥っている仲間たちのもとへ向けて、一陣の烈風のごとく駆け出していったのだった。




