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放課後の優しいひととき

放課後の鐘が鳴り響いた瞬間、私はアイリスに「ごめん、先行く!」とだけ言い残し、教室を弾丸のように飛び出した…が、魔法薬学のフィリップ先生に放課後残って、先週の宿題の出し忘れをすることを忘れていたことに気づいた。



先生の元へ辿り着いたが最後、結局その作業はカラスがカーカーと鳴く夕暮れまで続いてしまった。






 疲れたーーと身体を引きずりながら目指すは王都の中心、一等地。  王城のすぐ隣に広大な敷地を構える、ミリス筆頭公爵邸である。  白亜の城壁のような外壁と、精緻な透かし彫りが施された巨大な黒鉄の門。普通なら、平民が近づくことすら躊躇われるほどの圧倒的な威圧感を放つ場所だ。


 しかし、門番の屈強な騎士たちは、息を切らして走ってきた私の顔を見るなり「お疲れ様です、マリー様」と、何の手続きもなくあっさりと重い扉を開けてくれた。


 美しく手入れされた前庭を抜け、大理石が敷き詰められたエントランスホールに足を踏み入れる。吹き抜けの天井からは豪華な魔力水晶のシャンデリアが下がり、壁には歴史を感じさせる絵画や、磨き上げられた甲冑が並んでいる。


「マリー様、お待ちしておりました」

 出迎えてくれたのは、ピシッと背筋を伸ばした初老のメイド長・ベアトリスだった。  


彼女は公爵邸のすべての使用人を束ねる厳格な女性で、少しでも掃除の行き届かない場所があれば、その鋭い視線一つで新人のメイドを泣き出させてしまうほど恐ろしい人だ。

しかし、その見るものに威圧感を与える厳しい顔は私を見るその目尻は、まるで孫娘を見るようにふにゃりと優しく下がっている。


「ベアトリスさん、こんにちは! だから『様』はつけなくていいってばー。私、ただの平民なんだから」

「何を仰いますやら。マリー様は、我が公爵家にとって太陽のようなお方ですから

エラルド様はご両親を亡くされてから、マリー様やトマス様をご自身の本当の家族のように慕っておられます。今日もお待ちかねですよ」

 ベアトリスがクスッと上品に口元を隠して微笑んだ。



私は足取りも軽く邸宅の奥へと進んでいく。  すれ違う使用人たちも、皆一様に「マリー様、こんにちは」と温かく微笑みかけてくれる。この場所にはいつも温かい空気が通っている。


 平民のただの娘が、王族に次ぐ権力を持つ筆頭公爵家で、これほどまでに歓迎され、完全に馴染みきっている、

客観的に見れば異常としか言いようのない光景だが、私にとっては四歳の頃から続く『当たり前の日常』だった。それほどまでに、過去のあの事件で心を閉ざしかけていたエラルドを外へ連れ出した私の存在は、この公爵家(そしてエラルド本人)にとって、絶対的で特別なものとなっていたのだ。  


ここは私にとって、学園よりもずっと息のしやすい、もう一つの家のような場所だった。



 * * *

 邸宅の西棟にある『大図書室』。  二階分をぶち抜いた高い天井まで、マホガニーの重厚な本棚が壁一面にびっしりと並んでいる。王立図書館にも引けを取らないほどの蔵書数を誇るこの部屋は、エラルドの私室の次に彼が長く過ごす場所だ。  少しだけ重いオーク材の扉を押し開けると、古い紙とインクの匂いがふわりと鼻をかすめた。


「エラルドー、助けてー!」


 西日が差し込む大きな窓際。  一人掛けの革張りのソファに深く腰掛け、分厚い魔導書に目を通していたプラチナブロンドの青年が、パタンと本を閉じて顔を上げた。


「――遅いよ、マリー」

 そう言って苦笑する彼の顔には、学園で見せていた『爽やかな完璧な王子様』っぽさは微塵もない。  制服のネクタイは少し緩められ、気怠げで、けれど、私を見た瞬間にだけふわりと解ける、甘くて無防備な『ただの幼馴染』の顔がそこにあった。


西日が差し込む大きな窓際には、一人掛けの革張りのソファと、アンティークの大きな木製テーブルが置かれている。  現在、そのテーブルの上は、分厚い魔導書と白紙の原稿用紙によって完全に占拠されていた。


「…………うぅ、もう手が痛い。羽ペンが折れそう」


 私は三十枚目の原稿用紙に突っ伏し、恨めしげな声で呻いた。  指先はインクで汚れ、頭の中は先ほどから『オイラーの魔力定数』やら『マナの収束点』やらという呪文のような単語でパンク寸前だ。


「ペンが折れる前に、君の集中力が折れてるよ、マリー。ほら、そこの三行目。同じ接続詞を二回繰り返して文字数を稼ごうとしているね?」


 向かいの席から、呆れたような、けれどどこか楽しげな声が降ってくる。  顔を上げると、プラチナブロンドの髪を夕日に透かしたエラルドが、私の書き殴った羊皮紙を優雅な手つきで添削していた。  


「だってしょうがないじゃん! 五十枚なんて、普通の人間が一日で書ける量じゃないよ! あのひげモジャ教授、絶対に悪魔と契約してる!」

「君が授業中にいびきをかいて熟睡していなければ、こんなことにはならなかったはずだけど?」

「ぐっ……そ、それは……お昼ご飯のシチューが美味しすぎたのがいけないんだよ。不可抗力!」


 私が苦し紛れの言い訳を叫ぶと、エラルドは「はいはい」と優しく微笑み、立ち上がって私の隣の椅子へと移動してきた。


「貸してごらん。ここの魔術陣の構造論だけど、君の書き方だと第二階梯の精霊魔法の定義から外れてしまう。基点となるルーンの角度が違うんだ」

 エラルドは私の手から羽ペンをそっと抜き取ると、余白にスラスラと美しい幾何学模様を描き始めた。  ふわりと、彼がいつもまとっている上質な香水の香りが鼻をくすぐる。  静かな図書室に、カリカリとペンが走る音だけが心地よく響いた。


「……マリー? 聞いてる?」

 不意に名前を呼ばれ、私はハッと我に返った。  すぐ隣で数式を書き連ねるエラルドの横顔を、無意識のうちにじっと見つめてしまっていたのだ。


 長いまつ毛が白い頬に影を落とし、宝石のようなサファイアの瞳が知的な光を帯びている。  スッと通った鼻筋も、ペンを握る骨張った大きな手も、厚みのある広い肩幅も。  つい数時間前、授業中の夢の中で見た『泣き虫でちっちゃなお人形さん』の面影は、もうどこを探しても見当たらない。


(……本当に、大きくなったなぁ)


 同じ歳のはずなのに、彼はすっかり『大人』になってしまった。あんなに余裕たっぷりで、落ち着いていて。いつもドタバタと走り回ってばかりの私から見ると、その完成された落ち着きが、少しだけ羨ましくて、ほんの少しだけ悔しい。


「マリー?」

「えっ、あ、うん! 聞いてる! ルーンの角度でしょ、ばっちり!」


 誤魔化すように慌てて答えると、エラルドは少しだけ目を細め、ペンを置いて私の方へと身体を向けた。

「嘘だ。君、今僕の顔をぼーっと見てただけだよね」

「み、見てないよ! ただ、エラルドもすっかり大きくなったなーって、ちょっと感心してただけ! 昔は雷が鳴るたびにビービー泣いてたくせにさ」


 照れ隠しで昔話を持ち出すと、エラルドは困ったようにふっと息を吐いた。


「またその話? もう十年前のことだよ」 「私にとっては昨日のことのようですー。ほら、あの時は私が手を繋いであげないと、お庭も歩けなかったじゃない」


 私が笑いながら自分の手を彼の方へ差し出してみせると、エラルドは少しだけ目を丸くした後、柔らかく、ひどく優しい顔で微笑んだ。  そして、私のその手を、彼自身の大きな手でそっと包み込むように握ったのだ。


「えっ」 「確かに、昔は君の背中に隠れてばかりの泣き虫だった」

 すっぽりと覆われた私の手は、すっかり彼の手の中に隠れてしまった。  あの頃の氷のような冷たさはない。大人の男の人特有の、少し骨張った、熱いくらいに温かい手のひら。  至近距離でサファイアの瞳に見つめられ、私は不覚にも心臓がドクリと大きな音を立てるのを感じた。


「でも、いつまでも君に手を引かれるだけの、か弱い弟分じゃないよ」


 静かで、耳の奥がくすぐったくなるような低い声。  それは、大食堂で他の令嬢たちに向けていた『完璧な王子様』の顔とは全く違う。  ただ真っ直ぐに私だけを見つめる、穏やかで、けれどどこか熱を帯びた、深い海のような眼差しだった。


「……っ! ち、近い近い! はい、昔話はおしまい! レポート終わんなくなっちゃう!」


 私は真っ赤になった顔を誤魔化すように、慌てて彼の手を振り払い、残りの原稿用紙を自分の方へと引き寄せた。  なんて落ち着きっぷりだろう。本当に、中身まで完璧な大人になっちゃって。それに比べて私は、こんなちょっとしたことで動揺して、相変わらず子どもみたいだ。


「……ふふっ、そうだね。じゃあ、残りの二十枚も手伝おうか」

 エラルドは爽やかに笑って、素直に身を引いてくれた。  その横顔は、どこまでも落ち着いていて穏やかだった。



 ――エラルドにとって、この図書室でマリーと共に過ごす時間は、何よりも得難い宝物だ。  外の世界では、次期公爵としての重圧や、己の命と魔力を狙う闇の気配に常に神経を尖らせている。しかし、彼女が隣でインクにまみれて笑っている時だけは、そのすべてのしがらみから解放されるのだ。  彼女の笑顔と、その温かな尊厳を一生かけて守り抜く。  彼が胸の奥底に秘めているのは、見返りなど一切求めない、ひどく純粋で神聖な祈りだった。


「ほらマリー、ペンが止まってるよ。夕食の時間までに終わらせて、一緒にアップルパイを食べよう」

「うわーん、鬼! 悪魔! エラルド先生のスパルター!」


 泣き言を叫びながらも再び羽ペンを握り直すマリーを、エラルドはただ優しく、愛おしそうに見守っていた。

 窓の外では、王都を覆う大結界が夕日に照らされ、淡い虹色の輝きを放っている。  二人の不器用で温かな『いつもの時間』は、静かに、そして確かに深まっていた。


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