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セドリック アイク アイリス それぞれの日々

凍てつくような北風が白亜の学舎を吹き抜け、ミリス魔法学園は静かな冬の長期休みへと突入した。

 大半の生徒たちが実家や領地へと帰省し、学園の喧騒が嘘のように引いていく中。私たち「あぶれ者同盟」の四人は、春の破滅を防ぐため、レオンハルト殿下の手引きによってそれぞれの過酷な『戦場』へと身を投じていた。


 王城・地下特務研究区画。

 王国の最高機密を扱うその場所は、セドリック・フォスターがこれまで生きてきたどの場所よりも、冷たく、無機質で、そして息の詰まるような『白亜の迷宮』だった。


 塵一つない磨き上げられた大理石の床。規則正しい魔力灯の青白い光。部屋の壁際から中央に至るまで、国中から集められた最高級の魔導実験器具や、巨大な蒸留器が冷たい銀色の光を放って並んでいる。

 実家が遠方であるため普段は学園の寮で生活しているセドリックだったが、この冬の間は、特務機関の研究員として王宮の一室を与えられ、ここに滞在することになっていた。


「……セドリック卿。先ほど君が提出した、旧廃坑の土壌成分から逆算した『瘴気中和剤』の術式だが。……信じられん、王宮の錬金術師が束になっても解けなかった毒の魔力結合を、たった一晩で解き明かしたというのか」


 白衣を纏った初老の筆頭研究員が、セドリックの書き上げた羊皮紙の束を震える手で持ちながら、信じられないものを見るような目で彼を見下ろした。


「い、いえ……! 僕はただ、古代の文献の記述と、実際の瘴気の反応を照らし合わせただけで……。あの、第四工程の冷却の際に『双葉草』の根を一つまみ加えるのがコツでして……」


 セドリックは、丸眼鏡を中指で押し上げながら、肩をすくめてオドオドと答えた。

 入室当初は「なぜ男爵家の、しかも三男坊の学生ごときが特務区画に」と冷ややかな目を向けていた王宮のトップエリートたちも、今や彼の異常なまでの知識量と分析力を前に、完全に畏敬の念を抱くようになっている。


「素晴らしい。君は間違いなく、この国の至宝となる頭脳だ。すぐにこの調合で、騎士団用の量産化ラインの構築に入る!」

「あ、ありがとうございます……」


 筆頭研究員が足早に部屋を出て行き、一人残された静かな実験室で。

 セドリックはふぅっと深く、ひどく疲れたような息を吐き出して、冷たい銀の作業台に手をついた。


(……トマスさんの薬局とは、全然違うな)


 滅菌された冷たい空気の匂いを嗅ぐと、ふと、あの雑多で温かい場所の記憶が脳裏をよぎる。

 天井から吊るされた乾燥ハーブの青臭い匂い。トマスおじさんと「この薬草の効能は」と語り合いながらフラスコをかき混ぜ、隣ではマリーが「お腹すいたー!」と山盛りの串焼きを頬張っている。アイクとアイリスが他愛のない痴話喧嘩を繰り広げ、笑い声が絶えなかった、あのトマス薬局のリビング。

 冬休みの間も入り浸る気満々だったが、王宮での機密任務に就く以上、当然ながら外出は厳しく制限されている。トマス宛には「王立研究所の特別合宿に選ばれた」という誤魔化しの手紙を送ったきりだ。


(……マリーさん。トマスさん。……会いたいな)


 ぽつりと胸の奥に灯った寂しさに、セドリックは自嘲気味に笑い、ギュッと両手を握りしめた。

 寂しいからといって、泣き言を言っている場合ではないのだ。

 アイリスもアイクも、今この瞬間、同じ王城の別の施設で、血を吐くような過酷な訓練に身を投じているはずだ。そしてマリーは、一人で暗闇を抱え込んでいたエラルドの隣に立ち、特異体質を活かして最も危険な前線で戦う準備をしている。


(マリーさんは、魔法が使えなくても……あの小さな体で、いつも僕たちの前に立って、恐ろしい魔法を全部殴り飛ばしてくれた。……でも、彼女のその拳は、その度に焼けて、傷ついていくんだ)


 廃坑の十字路で、彼らを庇って漆黒の津波に立ち向かった彼女の、焼け焦げた右腕と、苦痛に歪んだ横顔が鮮明に蘇る。


(もう、マリーさんだけに痛い思いはさせない。……僕には戦う力はないけれど、この知識で、絶対に彼女たちを守る『最強の盾』を作ってみせる)


 セドリックは、作業台の端に置かれた小瓶――あの旧廃坑から持ち帰った、教団の『灰の種』の欠片が入った密閉容器――を、鋭い決意の眼差しで睨み据えた。

 春の雪解けまでに、この種の構造を完全に解析し、教団の瘴気を無効化する完璧な兵器くすりを完成させなければならない。

 

 彼は丸眼鏡の奥の瞳に知的な炎を静かに燃え上がらせると、再び分厚い魔導書と、無機質なフラスコの海へと向かい合った。

 暗い書庫の隅で膝を抱えていた気弱な少年はもういない。そこにあったのは、大切な人たちの日常を守り抜くために、自らの武器である『知識』を極限まで研ぎ澄ます、一人の立派な戦士の背中だった。





* * * 





凍てつくような冬の冷気が、肺の奥まで鋭い刃となって突き刺さる。

 王城の裏手、一般の立ち入りが厳しく制限された切り立った絶壁の底。陽の光すらろくに届かない灰色の空間――『近衛騎士団・隠密特務修練場』の硬い石畳に、ドガァッ! という鈍い音と共に、一つの身体が容赦なく叩きつけられた。


「……がはっ……!」


 肺から空気が弾き出され、アイク・フォン・ランバートは激しい咳込みと共に石畳の上を無様に転がった。

 全身を打撲の痛みが駆け巡り、口の中には生暖かい鉄の血の味が広がる。受け身を取ることすら許されない、圧倒的な速度と暴力の差。


「……呆れたな。侯爵家のご嫡男様が、一体何の遊びのつもりでこんな泥臭い特務の訓練場に来た?」


 アイクを見下ろすのは、王国の暗部を担う隠密部隊の歴戦の教官だった。

 その目には、明確な侮蔑と呆れの色が浮かんでいる。王宮の最高機密であるこの場所に、レオンハルト殿下の特命とはいえ、一介の温室育ちの学生が送り込まれてきたのだ。実戦経験も殺し合いの覚悟もない貴族の坊ちゃんなど、彼らからすればただの邪魔な異物でしかない。


「学生のお遊びなら、温かい屋敷に帰ってやっていただきたい。君の小賢しい幻影魔法など、本物の『殺気』の前では紙切れ同然だ」


 教官の冷酷な言葉が、凍った石畳の底に響く。

 痛む身体を引きずりながら、アイクはうつ伏せのまま、ギリッと奥歯を噛み締めた。


(……いつもの俺なら。ここでヘラヘラ笑って、「いやー、おっさん強すぎ!」とか言って、誤魔化してただろうな)


 侯爵家の跡取りという重い肩書き。群がってくるのは、家柄や金を目当てにした薄っぺらい人間ばかり。それにウンザリしていたアイクは、いつしか『お調子者でガサツな男』という分厚い仮面を被り、誰とも本気でぶつかることを避けて、適当に笑ってやり過ごす術を身につけていた。


 ――でも、もう、そんな仮面は必要ない。

 この長期休みの間、あのヘラヘラとした自分は、完全に殺して消し去ると決めたのだ。


 アイクの脳裏に焼き付いているのは、あの旧時代の地下廃坑で味わった、本物の『地獄』の光景だった。

 仮面の男が放った、漆黒の津波。自分の展開した幻影の防壁が、まるで水をかけられた火のように一瞬で溶け落ちた、あの絶望的な無力感。

 マリーは自分の右腕を焼いてまで盾になり、セドリックは恐怖で泣きそうになりながらも切り札を投げた。

 そして。


『足手まといになったら、承知しないわよ』


 暗い地下道で、震える体を必死に奮い立たせながら、それでも自分の手を強く握り返してくれた、アイリスの華奢で冷たい手。

 あの時、「お前には指一本触れさせない」と誓った。一番後ろで、絶対に彼女を守り抜く盾になると宣言したのだ。


(それなのに、俺の魔法が一番中途半端で、一番何の役にも立たなかった……っ!)


 圧倒的な実力不足。

 あんな化け物たちから彼女を守るには、人を化かすだけの小賢しい手品(幻影)では駄目だ。敵の死角を完全に突き、気配を殺し、相手の命を的確に刈り取る本物の『影の技術』が必要なのだ。


「……ぜぇっ……はぁっ……」


 アイクは、震える両腕に無理やり力を込め、ふらつく足でゆっくりと立ち上がった。

 乱れた赤い髪の間から覗く彼の顔には、いつものおどけた笑みは一ミリも残っていなかった。

 額から流れる血を手の甲で乱暴に拭い去り、燃えるような金色の瞳で、真っ直ぐに教官を睨み据える。


「……遊びじゃねえよ。俺は、守らなきゃならねえ奴らがいるんだ」


 ドス黒い殺気を放つ教官を前にしても、アイクの眼光は決して揺るがなかった。

 侯爵家という肩書きも、学生という言い訳もすべて脱ぎ捨てた、ただ一人の男としてのむき出しの覚悟。


「俺の幻影が紙切れなら……鋼鉄になるまで叩き直してくれ。……もう一回。お願いします」


 アイクは、再び両手を構え、低く身を沈めた。

 その瞳の奥に宿る、底知れない執念と静かな狂熱を見た教官は、微かに目を見張り……やがて、フッと小さく口角を上げた。


「……ふん。口の減らない小僧だ。骨が折れるまで付き合ってやる」


 教官の姿が、陽炎のようにブレて掻き消える。

 アイクは血の味を飲み込み、自らもまた、死の気配が渦巻く極寒の修練場へと、幻影を纏って真っ向から飛び込んでいった。

 大切な親友たちを、そして何より――自分が心から惹かれた、あの不器用で真っ直ぐな氷の令嬢を守り抜く、絶対に砕けない『最強の盾』となるために。



* * *



王城・魔導士団専用の大演習場。

 普段は宮廷魔導士たちが優雅に魔法の腕を競い合うその広大なドーム型の空間は、今や、絶え間ない爆音と魔力の閃光が飛び交う『戦場』と化していた。


「遅い! 結界の密度が均一ではない! 敵の瘴気は、ほんの僅かな魔力の綻びからでも侵入してくるぞ!!」

「っ……! ――『氷絶の城壁アイス・ウォール』!!」


 上級魔導士たちが容赦なく放つ炎と雷の魔力弾の雨。

 その猛烈な弾幕の中央で、アイリス・フォン・クラインは、自らの背丈の何十倍もある巨大な半球状の『氷の広域結界』を必死に維持し続けていた。

 絶え間ない衝撃で、分厚い氷の壁にピキピキと亀裂が走る。アイリスはその亀裂を見逃すことなく、銀の杖から極北の冷気を送り込み、瞬時に凍結させて修復していく。


 それは、想像を絶する集中力と魔力の消耗を強いる地獄の訓練だった。

 少しでも気を抜けば、修復が追いつかずに結界は砕け散り、シミュレーションとはいえ致死量の魔法を直接浴びることになる。


「はぁっ、はあっ……、くっ……!」


 アイリスの透き通るような白い肌は汗に塗れ、乱れた金糸の髪が頬にへばりついている。

 魔力枯渇による頭痛がガンガンと脳を揺らし、杖を握る両手は極度の冷気と疲労で完全に感覚を失っていた。


(……ああ、本当に。私、一体何をやっているのかしら)


 痛む腕を震わせながら、アイリスは自嘲気味に内心で毒づいた。

 クライン男爵家の令嬢として、不自由なく、美しく着飾って生きてきた。魔法の腕には自信があったが、それはあくまで『学生レベルの優秀さ』であって、本物の殺し合いを想定したものではない。

 冬休みの間、温かい屋敷の暖炉の前で紅茶を飲んで過ごすはずだったのに。今や彼女は、泥と汗にまみれながら、王宮の精鋭たちから怒号を浴びせられ、極限の訓練に身を投じている。


(でも……あの時の絶望に比べたら、こんなの、遊びみたいなものよ)


 アイリスの脳裏に焼き付いているのは、旧廃坑の暗闇で直面した、教団幹部の圧倒的な『死の力』だ。

 自分の誇っていた氷の壁が、泥水のように一瞬で溶かされたあの無力感。

 後ろで震える自分を庇うために、マリーは自身の右腕を黒焦げにしてまで、あの恐ろしい瘴気の津波を殴り飛ばした。


『俺がついてる。お前には指一本、灰の欠片一つ触れさせねえ』


 そして。凍てつくような死地の中で、自分の手を包み込んでくれた、アイクの不器用で温かい手のひら。

 ヘラヘラと笑ってばかりの彼が、死の恐怖に震えながらも、一番後ろで自分を守る盾になると誓ってくれたのだ。


(あの大馬鹿者たち。……私の親友は、自分の身を削ってでも全部を助けようとするし。あの男は、足がすくんでいるくせに、格好つけて私を庇おうとする)


 結界を維持しながら、アイリスの青い瞳に、静かで、けれど決して折れない強靭な光が灯った。


(私は、守られるだけの可憐なお姫様でいるつもりはないわ。……マリーが前衛で敵を砕き、アイクが遊撃として動くなら。私が、あの子たちの帰る場所を……全員の命を絶対に守り抜く『完璧な城』になってみせる!)


「……まだです! 私の氷は、こんなものでは砕けませんわ!!」


 アイリスは、血の滲むような声で叫ぶと、残された最後の魔力をすべて銀の杖へと注ぎ込んだ。

 瞬間。

 ひび割れかけていた氷の結界が、眩いほどの青白い光を放ち、分厚く、そして限りなく透明な『絶対零度の城壁』へと変貌を遂げた。

 宮廷魔導士たちの放った上級魔法が結界に激突するが、今度は傷一つ、亀裂一つ入ることなく、無力な火の粉となって虚空へ散っていく。


「……ほう。この土壇場で、結界の強度と純度を底上げしたか」

 厳しい顔つきで攻撃を指揮していた魔導士が、感嘆の息を漏らして魔法の放射を止めた。


 ガクン、と。

 攻撃が止んだ瞬間、アイリスの膝から力が抜け、冷たい石畳の上へと崩れ落ちる。

 限界だった。呼吸は乱れ、指先一つ動かす力も残っていない。

 けれど、荒い息を吐きながら見上げたその結界は、王宮の大演習場の光を反射して、まるでダイヤモンドのように美しく、気高く輝いていた。


(待っていなさい、灰の教団。……春の雪解けと共に、あなたたちの狂気を、この手で完全に凍てつかせてあげるから)


 冷たい床に這いつくばりながらも、氷の令嬢の口元には、凄絶なまでの美しさを湛えた不屈の笑みが浮かんでいた。

 王国の片隅、それぞれが隔離された過酷な戦場で。

 あぶれ者同盟の四人は、決して切れない絆と誓いを胸に、来るべき春の最終決戦に向けて、己の牙と盾を極限まで研ぎ澄ませていくのだった。



* * *




王城の地下深く。特務機関の研究区画と、近衛騎士団の修練場を微かに繋ぐ、冷たく薄暗い石造りの連絡通路。

 換気口から吹き込む冬の隙間風が、壁に掛けられた松明の炎を頼りなく揺らし、長く伸びた影を石畳の上で踊らせている。


 セドリック・フォスターは、両腕に抱えきれないほどの分厚い魔導書と、補充用の『双葉草』の束を抱え、ふらつく足取りで歩いていた。

 三日三晩、まともな睡眠をとっていない。白衣の下の身体は鉛のように重く、瞬きをするたびに視界の端で火花が散るような疲労感があった。


(……急がないと。第三工程の熱処理中に、瘴気の波長が変異する可能性がある。少しでも早く研究室に戻って、術式を書き換えないと)


 頭の中は、教団の毒を中和するための化学式と魔力構造で完全に埋め尽くされている。彼を突き動かしているのは、使命感というよりも、もはや狂気に近い執念だった。

 足早に通路の角を曲がろうとした、その時。


 ふと、滅菌された地下の空気に、むせ返るような『鉄の匂い』が混じった。

 濃密な血と汗、そして泥の匂い。


「……っ」


 セドリックは思わず足を止め、丸眼鏡を押し上げた。

 薄暗い通路の先。冷たい石壁に背を預け、ずるずると滑り落ちるようにして座り込んでいる、赤い髪の影があった。

 ボロボロに引き裂かれた訓練着。包帯が巻かれた腕からは真新しい血が滲み、全身の至る所にどす黒い打撲痕が浮かんでいる。手負いの獣のように荒い息を吐きながら、暗闇の中で微かに目を閉じているその男は――。


「……アイク、君?」

「…………あ?」


 セドリックの微かな声に、赤い髪の青年が、ひどくゆっくりと重い瞼を持ち上げた。


「……お、なんだ。セドリックか。奇遇だな、こんな地下の底で」


 アイク・フォン・ランバート。

 学園では常にヘラヘラと笑い、誰に対してもお調子者で通っていた侯爵家の嫡男。しかし、今の彼の顔に、あの薄っぺらい仮面のような愛想笑いは一ミリも張り付いていなかった。

 頬には生々しい裂傷があり、金色の瞳の奥には、血の味を覚えた肉食獣のような、鋭く、研ぎ澄まされた戦闘への眼差しがまだ色濃く残っている。


(……アイク君。君、本当に……)


 セドリックは、息を呑んだ。

 アイクの纏う空気が、あまりにも違いすぎた。貴族の温室で育った少年の面影は完全に削ぎ落とされ、そこにあるのは、自らの命を削ってでも敵の喉笛に食らいつこうとする、『戦士』の気迫だといえよう。

 どれほどの修羅場を潜り抜ければ、たった数日でここまで人の目を劇的に変えられるのだろうか。


「……ひどい怪我ですね。修練場から、医務室に向かう途中ですか」

「ん、まあな。……教官のジジイが容赦なさすぎてよ。俺の幻影なんて、息をするより簡単に叩き割られちまう。肋骨、何本かイッたかもしれねえ」


 アイクは痛む脇腹を押さえながら、ふっ、と自嘲気味に鼻で笑った。

 その言葉とは裏腹に、彼の瞳に「逃げたい」という弱音は微塵もない。


「そっちこそ。随分と立派な隈を作ってんじゃねえか、学者先生。……ちゃんと飯、食ってんのか?」

「……僕の仕事は、頭を動かすことですから。アイク君のように殴り合いをするわけじゃないので、怪我はありませんよ」


 セドリックは、抱えていた魔導書の束をギュッと抱き直した。

 アイクもまた、壁に寄りかかりながら、セドリックのその痛々しいほどの変化に気づいていた。

 少しでも大きな音が鳴ればビクついていた、気弱な男爵家の三男坊。そのオドオドとした態度はほぼ消え失せ、分厚いレンズの奥の瞳には、一切の妥協を許さない学者の炎が静かに燃えたぎっている。


(……なんだ。お互い、随分と可愛げがなくなっちまったな)


 アイクは、痛む唇の端を僅かに吊り上げた。

 言葉を交わさなくても、痛いほどに分かる。学園生活という明るく伸びやかな平和な世界から一転、それが仮初の世界であることに気づいた。彼らは同じ地獄の底を見て、同じ恐怖を味わった。そして今、王宮の別々の暗闇の中で、同じもの――太陽のように真っ直ぐなあの平民の少女と、気高く美しい氷の令嬢の背中――を守るために、自らの弱さを殺し続けているのだ。


「……これ、持っていってください」


 不意に、セドリックが白衣のポケットから小さなガラス瓶を取り出し、アイクの足元へと放った。

 コロン、と転がった瓶の中には、淡い緑色の液体が揺れている。


「筋肉の修復と、魔力回路の炎症を抑える急造のポーションです。……味は最悪ですが、医務室の気休めよりは効きますよ」

「……へっ。流石は天才錬金術師様だ。ありがたく使わせてもらうぜ」


 アイクは震える手で小瓶を拾い上げ、血の滲む拳でそれをギュッと握りしめた。


「アイク君。……死なないでくださいね」

「当たり前だ。……お前も、ぶっ倒れんじゃねえぞ。春になったら、またあの馬鹿みたいに美味い串焼き、四人で食うんだからな」


 交わした言葉は、それだけだった。

 セドリックが軽く顎を引き、再び足早に冷たい石造りの通路の奥へと歩き出す。アイクもまた、壁に手をついて痛む身体を無理やり引き起こし、医務室へと重い足を引きずり始めた。


 背中合わせに、別々の戦場へと戻っていく二人。

 冷たい地下の隙間風の中で、薬草の入り混じった匂いと、鉄の錆びた匂いが、一瞬だけ混ざり合い――そして、静かに溶けて消えていった。

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