家での一コマ、全面戦争への準備
深い泥のような微睡みの中。私の意識は、高熱と薬の冷たさの間を揺れ動いていた。
リビングでは、私の治療を終えた父さんが、疲れ切った顔で深く息を吐き出していた。
その傍らで、アイリス、アイク、セドリックの三人は、泥だらけの服のまま、糸が切れた操り人形のように項垂れている。
深夜の無断外出。ましてや、学園の寮や厳格な屋敷を抜け出してきたのだ。朝までに戻らなければ、彼らは間違いなく厳しい処罰を受ける。
「……おじ様。マリーの熱も少し落ち着いたようですし、私たちはこれで……」
「馬鹿を言うな、アイリスお嬢様。こんな吹雪の夜道に、生徒たちだけで帰せるわけがないだろう」
立ち上がろうとしたアイリスを、父さんが静かに、けれど強い声で制した。
「親御さんや寮監には、アルバーン公爵家の名を使って、私からうまく使いを出しておく。『特待生の急病に際し、優秀な彼らに徹夜で薬の調合を手伝ってもらっている』とでも言えば、角は立たない。……今日はもう、奥の空き部屋で休んでいきなさい」
「……おじさん。ありがとう……ございます」
「……すみません」
アイクとセドリックが、絞り出すような声で頭を下げる。
彼らもまた、心身ともに限界だった。恐ろしい死地を潜り抜け、親友の死に直面しかけたのだ。張り詰めていた緊張が解け、三人は泥のように重い疲労に押し潰されそうになっていた。
――その時だった。
バンッ!!!!
薬局の入り口の扉が、蝶番を引きちぎらんばかりの勢いで乱暴に開け放たれた。
吹き込む猛吹雪と共に、室内の暖かな空気が一瞬にして絶対零度へと凍りつく。
「……エラルド、様」
アイリスが息を呑む。
そこに立っていたのは、公爵邸の本館から吹雪の中を文字通り「飛んで」きたエラルドだった。
パジャマ代わりの薄いシャツの上に、黒いコートを無造作に羽織っただけの姿。プラチナブロンドの髪は雪に濡れて乱れ、いつもは完璧に整えられているその顔には、血の気が一滴もなかった。
彼は、敷地内に張り巡らされた結界から、マリーの『呪いの暴走』の気配を察知したのだ。
「……マリーは。マリーは、どこだ」
肺の奥から絞り出したような、ひどく掠れた、震える声。
エラルドのサファイアの瞳が、リビングのソファで包帯を巻かれ、死人のように青白い顔で眠る私を捉えた。
「っ……!!」
エラルドは、弾かれたように私の傍へと駆け寄り、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
彼の震える大きな手が、私の焼け焦げた右腕の包帯と、熱に浮かされて苦しそうに上下する胸元を、触れることすら恐れるように宙を彷徨う。
(……ああ。なんで、君は)
エラルドの頭の中は、真っ白だった。
生徒会室で『私には関係ない』と言い放ち、冷たく突き放して喧嘩別れをしたのは、ほんの二日前のことだ。
彼女を危険な裏社会から遠ざけ、安全な箱庭に閉じ込めておくために。自分が嫌われ者になってでも、彼女の笑顔だけを守りたかったのに。たった二日で、彼女はこんなにもボロボロになって帰ってきた。
「……僕の、せいだ。僕が、中途半端に君を突き放したから……っ」
エラルドが、苦悶に満ちた声で呻き、私の冷たい手を両手で包み込んで、自身の額に強く押し当てた。
その痛々しい背中を、アイクたちが静かに見つめていた。
「……自分を責めるなよ、エラルド」
アイクが、重い足取りでエラルドの傍に歩み寄り、懐から青く光る『記録の水晶』を取り出した。
「マリーは、アンタに守られるだけの小鳥でいるのが嫌だったんだ。……俺たち四人で、北西の『旧廃坑』に潜ってきた。あいつは、そこで幹部の放った致死の瘴気から俺たちを庇って、その右腕を焼かれたんだ」
「……旧廃坑……? 幹部の瘴気だと……?」
アイクの言葉に、エラルドは信じられないものを見るように目を見開いた。
王宮の近衛騎士団や、アルバーン家の暗部が総力を挙げて王都中を何ヶ月も探し回っても、決して尻尾すら掴めなかった灰の教団の本拠地。
それを、一介の学生である彼らが……地下書庫に残された僅かな『違和感』だけを頼りに探し当て、あろうことか最高幹部と直接対峙し、生きて帰ってきたというのか。
それは、常識では到底考えられない、奇跡と呼ぶことすら生ぬるい偉業だった。
「……受け取ってくれ。マリーが、アンタをこれ以上一人で暗闇で泣かせないために、自分の身を削って持ち帰ってきた……最高のカードだ」
アイクが水晶を差し出すと、エラルドは震える手でそれを受け取った。
水晶の冷たい感触が、彼の掌に重くのしかかる。
この中には、教団の全貌と、彼らを壊滅させるための決定的な証拠が詰まっているのだ。
(どうして……どうして君は、いつもそんなに無茶をするんだ)
エラルドの胸の奥が、ギリギリと音を立てて軋んだ。
自分が突き放した理由が「彼女を守るための嘘」であることに、マリーは気づいていたのだ。気づいていたからこそ、「だったら私が、あんたの周りの暗闇を全部ぶっ壊してやる」と、迷うことなく死地の底へと飛び込んでいった。
自分を犠牲にしてまで、他人の重荷を背負い込もうとする、太陽のように眩しすぎる無鉄砲さ。
「……ありがとう、アイク。アイリス嬢、セドリック君も」
エラルドは立ち上がり、振り返って三人に深く、深く頭を下げた。
その声には、先ほどまでの動揺はもうなかった。
彼の中にあるのは、この手に握られた『彼女の命懸けの贈り物』を決して無駄にはしないという、静かで、冷たく、そしてどこまでも揺るぎない『絶対的な覚悟』だった。
「君たちの勇気と、彼女を守って生きて帰ってきてくれたことに、心から感謝する。……この水晶は、僕が生徒会へ持ち帰る」
エラルドは、水晶をコートのポケットにしまい込み、静かに三人を、そして眠る私を見下ろした。
「……だが、これで終わりじゃない。明日、放課後に君たち四人には生徒会室に来てもらう。この水晶に映っていない道中のこと、地下書庫の痕跡……色々と、聞きたいことがある」
エラルドは、水晶をコートのポケットにしまい込むと、最後に一度だけ、眠る私の頬にそっと、祈るように手を当てた。
(待っていて、マリー。君が切り開いてくれたこの道で……俺が必ず、君の日常を脅かす敵をすべて焼き尽くすから)
それは、彼女の温かい笑顔を取り戻すための、痛切な誓い。
吹雪の吹き荒れる夜。
教団との最終決戦への狼煙が上がると同時に、青年は自らの命を燃やし尽くすような静かな決意を胸に、再び冷たい冬の暗闇へと足を踏み出していったのだった。
* * *
冬の薄日が、トマス薬局の二階の窓から差し込む、翌日の朝。
「あー、よく寝た! お腹すいたー!」
リビングのソファから勢いよく跳ね起きた私の第一声に、毛布にくるまって仮眠をとっていたアイリスが、幽霊でも見たかのような顔で目を丸くした。
「……マリー。あなた、本当に人間なの?」
心底呆れたような、けれど確かな安堵の滲むため息。
無理もない。昨夜の私は、呪いの反動で全身が沸騰するような高熱を出し、生死の境を彷徨っていたのだから。だが、二回目だから身体が慣れたのか、あるいは私の野性的な回復力が限界を突破したのか。一晩泥のように眠り、父さんの苦い特効薬を飲んだ私の身体は、右腕の火傷こそズキズキと痛むものの、熱はすっかり下がりきっていた。
昨夜の死闘と、吹雪と共に嵐のように現れて去っていったエラルドの余韻。
父さんの機転と「アルバーン公爵家」の威光を借りた完璧な口裏合わせのおかげで、アイリスやアイク、セドリックの無断外泊は『特待生の急病に際した看病と薬の調合の手伝い』という美談にすり替わり、寮や実家からのお咎めは奇跡的に回避されていた。
そうして迎えた、学園での一日。
私たち四人は、まるで昨夜の地獄のような出来事が悪い夢だったかのように、いつも通りの平和で騒がしい授業を受けていた。窓の外では雪が静かに舞い、クラスメイトたちは他愛のない冗談で笑い合っている。
けれど、私たちの心の中だけは、冷たい緊張の糸がピンと張り詰めたままだった。
昨夜、エラルドが残していった言葉――『明日、放課後に君たち四人には生徒会室に来てもらう』。
あの絶対的な覚悟を孕んだ命令が、一日中、胃の奥に冷たい鉛のように居座り続けていたからだ。
放課後。
私たち四人が今立っている場所は、いつもの大食堂や中庭ではなく、重苦しい空気が澱む中央尖塔の最上階――『生徒会室』の重厚な扉の前だった。
「……行くよ。みんな、準備はいい?」
私が振り返ると、アイリスが少しだけ青ざめた顔で小さく息を吐いて頷き、セドリックが極度の緊張でカタカタと震えながら分厚い丸眼鏡を中指で押し上げた。
「おう。俺たちが命懸けで持ち帰った証拠だ、堂々と胸張っていこうぜ」
アイクが、私の左肩をポンと力強く叩いて、ニカッと笑いかける。強がってはいるが、その笑顔の奥には昨夜の死線を潜り抜けた者としての確かな覚悟が宿っていた。
彼のその手のひらの温かさが、私の胸の奥の強張りを少しだけ解してくれる。
私は大きく深呼吸をして、肺に冷たい空気をたっぷりと満たした。
大丈夫。私たちはもう、守られるだけの子供じゃない。
私は、前回のカチコミで私が蹴り飛ばした後に新しく直されたばかりのマホガニーの扉を、今度は蹴り破らずに、コンコンと二回、静かにノックして押し開けた。
分厚い遮音結界に守られた室内は、相変わらず息が詰まるほど重い威圧感に満ちていた。
円卓の上座に座るレオンハルト殿下。書類を手に冷徹な目を向けるガイル先輩とアーサー先輩。そして、窓際に立つエラルド。昨夜の疲労の色は微塵も見せず、一寸の隙もない完璧な『氷の貴公子』の顔で私たちを見据えている。
「……よく来たな、無謀なる小鳥ども」
レオンハルト殿下の、低く地を這うような声が室内を震わせた。
金色の猛禽のような瞳が、私たち四人を値踏みするように射抜く。
「エラルドから預かった水晶の映像は確認した。……よくぞあの地獄から生きて帰ってきたものだ。だが、王宮の精鋭ですら見つけられなかった旧廃坑のアジトを、お前たちがいかにして特定したのか。……事と次第によっては、お前たちを教団の内通者として地下牢に放り込む必要もある」
殿下の言葉に、セドリックがヒッと喉を鳴らした。
しかし、私たちはもう後戻りはしない。殿下のその氷のような言葉に、セドリックが「ヒッ」と短く喉を鳴らし、顔面を真っ白にして一歩後ずさった。無理もない。相手は次期国王であり、その瞳に宿る圧倒的な威圧感は、温室育ちの学生を簡単に押し潰せるほどの重さを持っていた。
しかし、私たちはもう後戻りなどしない。
「……脅かすのは勘弁していただきましょうか、殿下。俺たちは、首の皮一枚繋がりながら、この証拠を拾ってきたんですよ」
スッと私の前に進み出たのは、アイクだった。
普段のヘラヘラしたお調子者の顔は、そこには微塵もない。侯爵家の嫡男としての、そして死線を潜り抜けてきた一人の男としての、鋭く真剣な面持ちで王族の覇気を正面から受け止めていた。
「発端は、学園の地下書庫です。……俺の幻影魔法で潜り込んだ『第九甲種』の禁書区画。一見すると、本棚には何一つ荒らされた形跡はありませんでした。ですが……」
アイクは、後ろで震えているセドリックの背中を、ポンと力強く叩いた。
「彼の、異常なまでの知識と嗅覚が、その『完璧な偽装』を暴いたんです。……そうだろ、セドリック」
促されたセドリックは、ビクッと肩を跳ねさせた後、ギュッと両手を握りしめた。殿下の視線を一身に浴びて足はガクガクと震えていたが、彼は意を決したように顔を上げ、分厚い丸眼鏡の奥に知的な光を灯した。
「は、はい……っ! あ、あの棚には、古い羊皮紙が収められているはずなのに、インクと膠にかわの匂いが完全に消え失せていました……! 教団は、本から情報だけを吸い上げ、原本を灰に変えた上で、精巧な物理偽装の幻術を被せていたんです!」
「……灰の、偽装だと?」
アーサー先輩が、信じられないというように眉を顰める。
「ええ。そして……崩れ落ちたその灰の中に、本当に微小な『硝石』の匂いと、『月長石』の粉末が残っていました」
セドリックは、言葉を紡ぐごとに少しずつ声に確かな芯を取り戻していく。それは、暗い書庫の隅で誰にも認められなかった彼の知識が、学園のトップ層の前で明確な『刃』として機能した瞬間だった。
「王都の周辺で、その二つの成分が同時に産出され、かつ強力な闇の魔力を隠蔽できるだけの地下水脈がある場所。……それは、北西の『旧時代の地下廃坑』しかあり得ないと、そう結論づけたんです」
「……なるほど。知識の簒奪と、物理偽装の幻術か」
説明を聞き終えたガイル先輩が、銀縁眼鏡を押し上げながら低く唸った。
「教団は、学園の結界の構造式を盗み出し、完璧に痕跡を消したつもりだった。それを、この男爵令息の異常なまでの嗅覚と知識が見破ったというわけですか。……驚異的ですね」
「ふっ、面白い。お前たちのその無鉄砲さと悪運、嫌いではないぞ」
レオンハルト殿下が、フッと口角を上げて笑う。
張り詰めていた空気が少しだけ緩み、私はホッと安堵の息を吐きかけた。……が、殿下の次の言葉が、私の心臓を鷲掴みにした。
「だが。……お前たちはなぜ、あの地下書庫へ向かった? 水晶には、お前たちが『ルカくんの仇』と叫ぶ声が記録されていたが……なぜ、ルカ・モレッティが教団に殺されたと思ったのだ?」
ピタリ、と。
生徒会室の空気が、一瞬にして絶対零度に凍りついた。
「え……? だって、ルカくんは……」
「公式の発表では、彼は『帰省中の馬車の転落事故』で亡くなったはずだ。それをなぜ、教団の仕業だと断定した?」
殿下の鋭い眼光に、私は言葉を詰まらせた。
(……エラルドがボロボロになってたから。それを隠してる生徒会が怪しいと思ったから……なんて、言えるわけがない)
「……それは」
私が口ごもっていると、窓際に立っていたエラルドが、静かに、けれど氷のように冷たい声で口を開いた。
「もういいでしょう、殿下。……彼女たちは、そこまで愚かではない。あの旧廃坑の狂気を見てもなお、僕たちの前に立っている。……なら、隠し立てするのは無意味です」
エラルドは私たちの方へとゆっくり歩み寄り、そのサファイアの瞳で私を真っ直ぐに見据えた。
その目には、いつもの甘やかすような優しさは微塵もない。あるのは、冷酷な現実を突きつける、大人の男としての凄みだった。
「……マリー。君たちは、教団を『理不尽に後輩の命を奪った悪魔』だと思っているね。ルカの無念を晴らしたいと」
「……当たり前でしょ! あんな冷たい地下で、一人で殺されたんだよ!」
「違う」
エラルドの言葉が、私の怒りを冷水でぶち壊すように遮った。
「ルカ・モレッティは、被害者じゃない。……彼は、学園の結界の構造を調べ、大舞踏会で教団の魔獣を引き入れた『内通者』だ」
「…………え?」
頭の芯が、ガンッと殴られたように白く飛んだ。
アイリスも、アイクも、セドリックも、全員が言葉を失い、完全に硬直している。
「彼が殺されたのは、地下書庫じゃない。……我々生徒会が彼の正体に気づき、泳がせていた矢先。教団の幹部によって、口封じのために『旧温室』で灰にされたんだ。あの馬車事故は、学園のパニックを防ぐために、僕たちが流した偽報だよ」
「う、そ……」
震える声が漏れた。
あの、目をキラキラさせて私の串焼きを褒めてくれた、人懐っこい後輩が。
教団の手先で、私たちを裏切っていた?
「……これが、君たちが踏み込んだ裏社会の真実だ、マリー」
エラルドは、信じられないという顔で立ち尽くす私を見下ろし、残酷なまでに静かな声で告げた。
「悪意は、外からやってくるだけじゃない。君が優しく接した人間が、君の背中を刺す刃を隠し持っている。……君のその真っ直ぐな正義感だけでは、この暗闇は照らせないんだ」
(だから、私を遠ざけようとしたの……?)
彼の言葉が、重い鉛のように私の胃の腑に落ちていく。
自分の信じていた世界が、足元からガラガラと崩れ落ちていくような感覚。
私は、震える右手をギュッと握りしめ、ただ黙ってうつむくことしかできなかったのだった。




